5
16
「ここ」
「ここ?」
階段を数階分昇った階。だいぶ歩いて奥まった所の、なんの変哲もないドア。
「どうやって分かったの」
階数の表示なんてないのに。
「よく来たよ? ここには」
「そうなの」
前からよく来てたなら別に普通か。なにかが引っ掛かる。よく来たよ。
「あの子はいつもここにいた」
「知り合いだったの」
確認する。
「友達、な、はず」
九が真上を向いて、かみしめるよに口にする。
あの日記の人ってあの子のことなのかな、ってなんとなく思う。じゃあなんで僕にその子の日記を見せるのかも、それを大っぴろげに口にしないのも謎だけど。
九がドアを開ける。中に入ってく。あれ。
また紅茶と砂糖とレモンの匂い。あの子の匂い? でも僕が見つけた部屋の中はそんなことなかったよ。
僕は九の背中の上から部屋を覗く。
僕らの寝床くらいの奥行きと広さ。
明かり取りの丸窓が天井近くに開いてるけど、磨りガラスだから外の様子はうかがい知れない。陽が差し込んでほこりが目に付く。大きめの布が天井近くの棒に吊るされて何枚もかかってる。赤いプラスチックの大きな破片。ベビーカー。木のフレームがいくつも。真ん中にはもともと絵が張ってあったみたいだけど剥ぎ取られてる。長く、長いレース。木造の階段の、一段分とその手すり。床はただそんな雑多なもので満たされてる。一度は掃除したらしくて、部屋の中央に大きく荷物が大きく積まれて山が出来てた。それが部屋を手前と奥に二分してる。奥には棚があってまだ整理出来てるようだ。確かになんでも揃いそう。
けど、なにここ。
「最初からこっちに来ればよかったのに、なんで」
「ここは、最後でいいかな、って」
なんだそれ。
九が横に避けて、僕はその隙間から一歩部屋に入る。
すぐ振り返ると、背の高い木材が何十本とこっちの壁に立てかけてある。
「あの子は絶対ここにいるって思ってた」
九はさっきからぽつりぽつりとしかしゃべらない。
まだ部屋の外でうじうじとしてる。
明かり取りのおかげで部屋の中は明るい。
「じゃあなんで僕が来るまで水際にいたの」
そのうち僕が来たりするかもって思わなかったんだろか。
「離れにくかったんだよ」
嘘だ。なにか隠してる。
九の顔を見て僕はそう直感する。
そうじゃないでしょ、九。
「それは本当だよ、かえり」
九が含めるよに言って、僕はぞっとする。なにもしゃべってない。
心の内を読まれた。
「そう。ならいいや、探そ。ええと、」
なんでもない振りをする。そんなにわかりやすい表情してただろか。
「板と紐」
九に身振りで促されて荷物の山を避けつつ部屋の奥へ向かう。残りの面は全部棚が占拠してて、その上にみちみちと小物が並べられてる。指輪だったり、ふくろうのストラップだったり、指人形だったり、それに似合いそうなブーツの置物だったり。少しだけ気色が悪い。僕は視線を下げて床に落ちてるものを観察し出す。と、ふと部屋の向こうでなにか動く。顔を上げると、九が壁に立てかけてあった角材を掴んで持ち上げてる。なにしてるんだろ。
探すのに戻る。床には段ボールがいくつか置いてある。一つだけ丸窓の真下にあって、淡い橙の色に染まってる。
あの子の死因はなんなんだろ。外から見ただけじゃよく分からなかったけど。
九なら知ってるんだろか。
僕は反転して部屋の真ん中の荷物の山に目を付ける。
「あった」
その上を探すとすぐ紐が見つかる。細い麻で出来てる。巻いてまとめてある。
僕はそれを掴む。
「ねえ、九、これで十分だよね」
九の方に見せる。
「細くない?」
「他にある?」
「見つけてないけど」
「じゃあこれ一応取っておこ?」
僕は九へ届くよに紐を投げる。
九は片手でそれを受ける。
「板は見つかった?」
話しかけてくる。
「まだ」
僕は荷物の方へ、目を戻す。
しゃがみ、段ボールを開ける。小物がぎっしり剥き身で入ってる。棚の上に飾るスペースがなかったのかな。立ち上がり、他のダンボールを漁るけど、なにも出てこない。
顔を上げる。部屋の中の匂いはまた消えてる。鼻が慣れてるだけ?
九はどうなんだろ。
「なにか見つかった?」
山の向こうを覗く。
床を這いつくばるよになにか探してた九が立ちあがる。
「薄い板ならあったけど」
壁に立てかけてる大きい板を目で示す。高さも幅も九より確実にある。
「どこにあった?の
「その辺の壁に立てかけてあったけど」
「それでよくない?」
「風とかで飛びそうじゃない?」
「上におもし乗っけとけば」
僕は深く考えずそう口にする。
「そうかな」
「それで十分だよ」
九の後ろで、板の隣に立てかけてあった角材が、壁をなぞってゆっくり床へと倒れる。乗せに行こ?
部屋を出る。九が階段の方へ歩いていって、僕は立ち止まる。
「九」
「どうしたの」
九が振り返る。後ろ歩きでそのまま遠ざかる。
「屋上に行って、先に紐を垂らそうよ」
急かされて僕はそう言う。
「長さ測った?」
九が立ち止まる。
「ううん」
大分距離が合って、表情がよく見えない。暗いせい?
「こっから上まで何階あったかって覚えてる?」
僕は質問しながら、きっとそうだ、って考える。そう、暗いせいなの。
「この前十三だったから、それよりは少ないんじゃない?」
「それ、絶対数え間違いだよ」
「なんで」
「さっき降りてくるときストーブの部屋見かけたよ?」
「本当?」
「あそこまでは十八階あるはず」
九が頷く。
「ね、紐を垂らしに行こうよ」
「一旦下まで戻って、荷物置いて、からの方がいいと思うけど」
「なんで?」
「水面から屋上までの長さ測るでしょ?」
「測る必要なんてある?」
九が一度止めてた足を動かし始める。九が廊下の中、小さくなってく。
「ねえ」
僕は半ば叫んで九を呼ぶ。
「概算ぐらいはしといていいと思うけど」
そう言って九は反転して、階段の方へ小走りする。
僕はしょうがなく追いかける。少し階段の上り下りが増えるだけだから。
追いついて僕はまたしゃべり出す。さっきの続き。僕の過去の話。遠いこと。記憶がおぼろげな所。九に聞かせる。
ここには誰もいない。ここだけは別世界だよ。
水面の所へ戻る。ゴミの中に浮かぶ舟。女の子。余計な混じり気。僕は九の袖を掴んで上へと戻ろうかって手を伸ばして、そうする理由がないことに気付く。さすがに勝手が過ぎるよ。今へと引き戻される。まずは舟を引き上げないと。
「九、頼んだ」
後ろに一歩下がって、そう言葉を放る。
「なにを」
廊下。九はこっちを向いてまぶしそうだ。
「舟。引き上げて」
赤い絨毯の太くて長い毛並が光で目立つ。
「それはかえりの仕事」
九はぼそっと口にして、こっちを向いて近付く。
目。オレンジの光。絨毯。怖い。
九。それはずるいよ。待って。
「僕は部屋を探してくる」
目の前まで来て、僕は肩をすくみ上げたまま。
そのまま僕の横を抜けて一つ上の階へ上がってく。僕は目で追う。だけ。
ずるい。
怖いのはずるい。力でねじ伏せるのは卑怯だ。九が消える。
静か。
僕は一人。
振り返る。陽のオレンジと女の子の死体。上に引き上げなきゃ。
階段を降りて、手を伸ばす。紐を引っ張り、階段近くまで寄せる。女の子の溶けかけてる目が、肌が近づいてくる。目を合わせてはいけない。
俯いたまま、手探りで舟の舳先に手を当てる。紐から手を離して、両手で持ち替える。力を一気に。一度息を吐く。
思い切り引き上げる。階段へ。舟が傾いて、女の子がこぼれかける。ふにゃり。舳先に真下へ体重をかけて押しとどめる。ぎぎぎ、って舟がこすれる。そのまままた引っ張って踊り場まで持ち上げる。ふう。
息を吐き、床にお尻をつける。赤い絨毯の毛は滑らかに指に吸い付いて、触ると気持ちいい。えっと、ここから。息を整える。どうすればいいんだろ。
「ここのー」
僕は呼ぶ。階段の上へ視線を。
踊り場まで上げたよ?
どこに行ったんだろ。部屋を探しに行ったんだっけ。
まずは舟を九の所まで持って行かなきゃ。
舟を置きざりにして階段を半階分上がる。九を探す。どの部屋に行ったんだろ。
「ここのー?」
廊下を踊り場に立ったまま覗く。ドアが開きっぱなしになってる部屋が左にいくつか。あれ。
そっちに向かって歩く。廊下は奥へとすぼまるよに光が失せてる。その中へ僕は吸い寄せられるよに歩いてく。身体が次々闇に飲まれてく。
「ねえ」
開いてるドアは全部で三つだ。二つが手前に近くてあって、遠くにぽつんと一つ。きっとあんな遠い所まで行ったんだろ。
ひとまず一番近い部屋まで着く。ドアノブに手を伸ばして、「ここのー」って声を掛ける。重たそうなドアがききっ、と回転して、部屋の中から光。
「あ、九」
ドアを開けると九が立ってる。部屋の真ん中。光が背中の後ろから。室内はこじんまりとしてる。机が一つ。なにも置かれてない無骨な棚が一つ。おしまい。
「あれ」
なんで九がここに。
「ドアなんで開けっ放しにしてるの」
光が窓から差し込んでる。
「そっちの方が分かりやすかったでしょ?」
「そうじゃなくてなんで何個も開けっ放しにしてるの」
「そうだった?」
「隣と、向こうの遠くのドア」
九が固まる。
「向こうの?」
そのまま首を傾ける。僕の目を見つめる。
「ううん、なんでもない」
「そう?」
あわてて誤魔化して、九は深く追及してこない。
その代わり、窓ガラスに近付く。
手にいつの間にか角材が握られてて、それをゆるりと振りかざす。
「なに?」
僕の視線に気付く。
物置にあった角材だ。
「なにするの」
「窓ガラスを割る?」
「割る前に一言掛けて」
びっくりするよ。
「じゃあ割るよ、ほい」
振り下ろす。がしゃん、と意外に小さく鳴る。破片が飛び散る。
「で、そっち行った方がいい?」
「その前にどうするつもり」
なんで棒で叩き壊したの。
「ここから下に投げ入れればよくない?」
「そんなので通れる?」
割れたのはほんの一部分だ。真ん中ちょっと左。角材が刺さったままだし。
九は回れ右で棒を掴んで、引っこ抜こうともがく。
「他の棒持ってないの」
「取ってくれば?」
む。
そう九は棒を握って肩を揺らしながら言う。僕の方をまったく見ない。
「ね、九、その前に女の子をここまで持ってこよ?」
水に飲まれたら今までのいろいろが無駄だよ。
「む」
九が静かに手を離して、振り返る。僕の目を睨む。そのまま、また僕から目を外して、乱暴に避けて、部屋の外へ出てく。
部屋がまた静かになって、それがすごく居心地悪くて、追いかける。
九はもう廊下にはいない。階段の所まで行くと、舟の横で九がビニール袋を広げる。ずいぶんと大きいビニール袋。物置できっと拾ったんだろ。商業用? 死体を丸ごと入れるのに、一袋で足りるかも。
「早く包んじゃおよ」
九が唐突に顔を上げて、僕を見て言う。
僕は階段を急いで降りる。
とりあえず舟から下ろして、そっから?
舟の横に立って、遠い方のへりに手を掛ける。ひっくり返して、死体を舟からはがそう。近い方のへりに足を乗せて、足を蹴って同時に手で引っ張る。足にぐにゃりと柔らかいなにか。きっと女の子。微妙に湿ってる。足をどけて、さらに力を込めると、赤い絨毯の上で簡単に舟は転覆する。
舟の腹を眺めて、これをどう動かそうか思案する。色素の薄い木材にニスを一度塗っただけ、みたいな色合い。装飾はどこにも施されてない。素朴、って褒め言葉になるんだろか。女の子、どこかつぶれてないかな、って少しだけ考える。死体は受け身を取らないの。傷は入りやすいはずだよ。
僕は遠くのへりをまた掴んで、近くのへりを足で押さえる。またひっくり返す。
それでうつ伏せに転がった女の子が現れる。
「これで、えっと」
九がそう言いつつビニール袋を渡してくる。足を片方掴んで中に差し入れる。
「ね、かえり」
「なに」
「頭から入れた方が後で調節効きやすいと思うけど」
女の子の顔へ無意識に視線が行きかけて、こらえる。大丈夫。目さえ合わせなければ、そこまで気持ち悪くならない。
目をつぶって女の子の頭を下から、首のあたりに手を差し込む。髪が当たってそのたびいちいち腕がぴくっ、って反射で反応しちゃう。
やっと差し込めて、持ち上げるけど、頭ががくっと傾いて首がぐにゃり。首の肉の間に指が飲み込まれる。汚い。気持ちが悪い。手を離しそうになって、踏ん張って、半ば投げ入れるよに広げといたビニール袋の中へ。
ずっと目を閉じて作業してるから、上手く行ってるか自信ないよ。
「僕持つ」
九が突然声を掛ける。近い。目を開ける。左。そばにしゃがんでる。
すぐ横に顔。
びくっ、って跳ねあがってしゃがんだまま距離を取る。
「どうしたの」
「いきなりそんな所にいないで」
九は無視して、死体に近付く。僕は目を閉じる。なにをしてるかは分からないけどビニール袋に触れたみたいで、しゃらしゃら、と擦れる音だけは聞こえる。
「目、つぶってるの」
「うん」
さすがにまじまじ見る根性と心の強さはないよ。
「えっと。いま僕、背中あたりで女の子持ってるから、ビニール袋探り当てて中に差し入れて?」
九がそう指示する。
「こっちで合ってる?」
僕はかえりの反対側に移動する。死体を挟んで向かい合ってるはず。
「合ってるよ」
顔を下に向けて目を開けてビニールを手に取る。目を閉じて、
死体の肩を中に入れる。
「九、腕邪魔」
温度のある肌が手の甲に当たる。
九は無言で曲げる。
「ありがと」
そのまま胴を通していくと、つっかえる。あれ。
「ああ、もうそれで十分。手を離して」
目を開けて確認する前に九が優しく言う。
「やっぱり二袋必要だった、かえり、目閉じたまま?」
「うん、」
「あとやっとく」
む。傲慢さが際立ってて少し気持ちが泡立つ。
「そんなに死体嫌なんじゃしょうがないよ」
九がそう続ける。
「なんで平気なの」
「別に平気じゃないけど」
九が心外だ、って表情をする。
「ま、ありがと」
取り繕う。
「ちょっとそっち向いてて」
九は作業に取り掛かるようだ。
おとなしく死体に背を向ける。僕の目は階段の絨毯だけに向けられる。
絨毯には途切れ目がない。ひとつながりの絨毯を階段に張り付けてるようだ。それとも上手く隠れてるだけで一つ一つはばらばらなの。顔を近付ける。踏板の付け根に指を押し込んで、かき出そうとする。そうやって絨毯の端を探す。
背中の向こうで、がさごそ、となにか動かす音がその間ずっと。気にしない。
「うん。もう大丈夫。これ運んでくれる?」
そうやって意識を逸らしてると、九が話しかけてくる。
振り向く。舟と板と紐と九、だけ。
「あ、れ」
死体。女の子。どこにも見当たらない。混乱する。
「大丈夫だから、これ持ってって」
九が落ち着き払った声で舟を指さす。
僕は、とりあえず頷く。ちゃんとあったよね?
「ねえ、九、」
変なことは言いたくない。刺激したくない。
「なに?」
「ちゃんと目張りした?」
そうぼかして聞く。
九は一瞬ぽかんとして、添えからやっと理解した、って顔で答える。
「あ、うん。ちゃんとビニールの間テープで隙間なく埋めたから」
言い忘れてた。そう付け加えたげな表情に変わる。
「そう」
僕は小さく息を吐く。
「よかった」
死体は見えないだけでちゃんとあるのだ。
「あ、あと靴ちゃんと別にしといた」
九が舟の中に隠してた靴を僕の前に差し出す。
「残りの荷物は?」
「ああ、僕が持ってく」
そう。僕はまた舳先を掴む。九十度回転させて、階段へと向ける。
さっきと一緒。ちょっと距離が長いだけ。腰を落とす。力を一気に、だよ。一度息を吐く。イメージを整理する。距離はさっきの二倍。途中で休むときは舳先を押さえつける。さっきはそれで上手く行ってるんだからきっと今回も。も一度息を吐き、
思い切り引く。階段へ。引っ張り上げて階段に乗せる。スピードで押し切る。
腕が熱い。重い。首だけ動かして振り返って、階段を踏み外さないよに足を送る。まだ。踊り場はまだ。狭い視界にその小さい踏板しか見えない。早く。
踏板が広く平たい場所へ変わる。もう踊り場。息を一気に吐く。最後の力。引っ張り上げる。舟は少しだけ浮いて、赤い絨毯の上、叩き付けられる。ごぉぉ…ん。はあ、はあ。どうだ。
九の方へ目線を送る。きっとしたり顔。それでいいのよ。
九は下で拍手してる。
一人で叩いてるのに皮肉に聞こえないのはすごいな、って僕はそれだけ思う。
「九でも出来るでしょ?」
腕が痺れてる。腕の付け根を掴んで腕を振って、休める。
九は「どうだろ」とあいまいにぼかして、木の板だったり紐だったりを拾い上げてく。
「先に行っといて。すぐ追いつく」
九が言う。ぼくはそのまま反対もやって伸びをする。
九はすぐ拾いあげ終わって、昇ってくる。
そのまま僕を避けて左に曲がる。さっきの部屋の方へ。
僕はやっと腰を屈める。感覚で楽な位置を探り、引きずり始める。ずずずず。腰が痛くなるけど、しょうがない。
ときどき、かすかにぺり、と音がする。絨毯の毛は張り付いて、それのせいかなのか舟はずいぶん重かった。
部屋の前まで来る。顔を上げる。こじんまりとしてる部屋。窓ガラスが割れてて、風を感じる。外は海。荒んでる。とてもよく、荒んでる。ここはきっと隠れ家だよ。部屋の中に入る。九はもう荷物を広げ終わってて、僕は少しだけそれをどかさん伽いけない。
「あとは、水の中に飛び込んで全部を舟に乗せるだけ」
そうしてると、九が突然話しかけてくる。
「舟に紐は?」
ぼくは聞く。言い忘れただけだと思うけど。
「忘れてた」
九が悪びれなく言う。言っといてよかった。僕は九の拡げた荷物から紐を手に取る。
「上行くよ、九」
反転して先に外へ出る。
九は走って追い抜いて、またいつもの通り僕の前を陣取る。
「どうせだし階数数えていこうよ」
それから振り向いてそう言う。この慌ただしいのにももう慣れた。
「一階当たりって三メートルくらいだったっけ」
「測れるよ」
「どうやって」
「紐解いて」
そのまま黙る。九がいらついてる仕草で僕の手を指さす。紐をその手は持ってる。命令されたんだ、って気付いてあわてて持ち上げる。解かなきゃ。きれいに巻かれてた紐の束の、蝶々結びをほどいて壊す。紐の端から手を離すと、それに引っ張られて紐で出来た円の柱が崩れて、小山が手の平の上に出来る。端だけが手の平からこぼれて床へと落ちてく。しゅるるるるる。
九が屈んでそれを捕まえて、僕に顔を向ける。「ちょっと待っててね」って言って九は上へと駆け上がる。僕は崩れ落ちてこんがらがらないよに真ん中に腕を通して、
「かえりは階段少しだけ降りて。ちょうど僕らの差が一階分くらいになるよに」
遠くから声。九の。どこから話してるの、って僕は手すりのすぐ上に頭を持ってって上を覗き込む。
一階上の、踊り場に至るちょっと手前、くらいだろか。多分そうだよ。
「これで合ってる?」
「そうそう。そこ」
九が返事をする。
「で、今手すりの位置に端を合わせてるから、手すりの位置の所の印を入れて」
「印つけられるよなもの持ってないよ」
爪とか? 僕はコートのポケットを叩く。両手でなにかないかって探す。
「はいこれ」
青いボールペンが落ちてくる。器用に九が僕の目の前に落としたみたい。どう狙ったんだろ。きっとこれは最初の部屋の。これも拾ってたんだ。僕はそれで印を入れる。でも目立つか怪しいし、印の場所から手を離さよにするのは忘れない。
「出来たよー」
「じゃ昇ってきて」
紐が落ちてくる。九は手を放したみたいだ。
それを引きずって、僕は昇り出す。
追いかける。九は一歩も動かずそのまま立ってる。
「九、行かないの?」
待ってる感じにあまりにも遠い。廊下の先を見つめてる。僕は下の踊り場に着いて初めて九をまともに見て、そう聞く。なにか考えてるよな、その裏に思案が満ち満ちてるよな雰囲気。
「なに?」
九は滑らかに僕へと目線を移す。
「ここが一だよね」
僕は安心して、質問を繰り出す。
「何の話?」
「階数」
そう口にして九を追い抜き、手すりを掴んで階段を昇ってく。
九が追いかけてくる。反転。すぐに追い抜かれる。次が、二。階段を昇る。反転。反転。次が、三。
「九、あの子とはどういう知り合い?」
もう僕の思い出話はネタ切れで、いくら記憶を漁ってもどうでもいい話は出てこなくて、だから僕は我慢出来なくてそう口にする。
「どういうって?」
「九、ここに住んでたの?」
「住んでないよ」
廊下が現れる。数を一つ数える。忘れない。
ずうっと同じような場所の繰り返しで、僕はわざと落し物がしたくなる。
「じゃあなんであの子と知り合いなの」
「同じビルに住んでないと友達になれないの?」
九は振り返らず答える。言葉にはっきり分かる色はないけど、なんとなく怒ってるのかな。
「む、どうやって知り合ったの」
だから僕は聞き直す。
「だから探検してるときたまたま会ったって」
「へえ」
そんなこと言ってたっけ?
「でもそのあと、あの子は逃げなかったんだね」
「自殺?」
ゆるやかではあるけど。
ここに残るってことはそういう面がある。僕は違うけど。ねえ、九は。九はなぜここにいるんだろ、って疑問がむくり、と。
「分かんない、見分けられないし」
九のことは口に出してはいけないこと。危ないだけだよ。忘れよ。
今は、死体のことだ。目立った傷はなかったよね? 痣があったこと以外は。
「九、あの子ってそのとき顔に痣あった?」
「なかったはず」
踊り場に着いて、九がターンする。
「じゃああの子の顔に飛んでるのなに」
僕もそれに続く。
「僕と別れたあと付いたのかもね」
「首の痣もそう?」
僕は、それも別れたあとに付いたんだろね、って返答してもらうためにそう言う。九はすぐにはなにも答えず、しばらくして、首をひねってちらり、と僕を見る。あれ。雲行きが怪しい。
「そんな所に痣あった?」
「あったよ、首の右側、全部痣だったじゃん」
「そんなのはなかった、と思う、けど。少なくとも僕といたときは」
九は記憶を掘り起しながらしゃべる。僕は内心ひやひやしながら見守る。
「まあなんでもよくない?」
九があっけらかんとそう口にする。。これまた大丈夫な部分なのだろか。
「じゃあ、名前は聞いた?」
あの女の子の名前。
「…忘れちゃった」
階段が途切れた。
「十五」
九が言う。階数のこと?
「さっき印つけた所までの長さを九往復出来たら大丈夫」
そう続ける。
倉庫へ向かって歩き出す。まずは階段を降りる。
観音扉と真っ赤なホールの方へ。真っ直ぐ廊下を進む。
「八で十分じゃない?」
僕はそう聞く。十五の半分あればいいんだから。
「倉庫の分あるから九往復欲しいよ」
右に曲がる。
「か」
引きずってた紐をたぐり寄せて指でつまむ。同じ指で青い印の部分もつまんでぶら下げて中心を出す。同じことをも一度やって四分割する。その長さを基準に折り返して、端の所でまた折り返す。往復する数を数えてく。九の背中を視界の端で捉えて、ただそれに追従する。
「あ、そうだ、たき火しないと」
九が振り返って、唐突に言い出す。
「九が一人でやってね」
僕は立ち止まって、手元に集中する。十八。ちょうど折り返しぐらいだ。ずいぶんな数字まで来た。
「駄目。ついてきてよ」
九がずい、と近寄ってくる。顔を上げる。僕の目を見てる。
ここは厨房の中だ。なんでこんな所で九は立ち止まったんだろ。
「なんで、そんなに僕と別行動したがらないの」
僕はたじろぎながら聞く。一歩後ずさる。
「九、いなくなるじゃん」
「もうやらないよ」
「それでもやっぱり駄目。心配だからついてきて」
「外寒くない?」
一応考えてみる。
「暖かくしてけば平気」
九は満足したようでそう言って歩き出す。僕はまた数え出す。
「暖かくするって?」
「着込めばいいんじゃない?」
「服どこにあるの」
「そこらへんにあるでしょ」
厨房を抜けて普段よく歩く廊下に出る。地面の色が変わる。でもカーブしてるのは珍しいか。
「部屋ってどっち側だったか覚えてる?」
なんとはなしに聞いてみる。
「なんで」
「じゃないと屋上行ってもどの手すりに結んだらいいか分からない」
「階段の隣の隣だから、」
あ。
「倉庫じゃなくてその反対側?」
金網の道と、らせん階段の所だ。戻らなきゃ。
僕は踵を返す。九が「どうしたの」って立ち止まって、声を掛けてくる。
17
掃除道具入れのようなドアを少し手の平で押し開けると、ばびゅんっ、と風が鳴ってドアが風で勢いよく開く。がぎぃぃん、とかすかに鳴った音はドアノブと手すりがぶつかったから。風の音にかき消されてほとんど聞こえない。拭いてたのは突風だったようで、すぐに収まる。僕は一歩踏み出す。
二度目だけど、やっぱり足がすくむ。水面が遠く揺れる。というか、こんなに怖かったっけ。紐で片手がふさがってるせい?
「早く行こうよ」
後ろから圧力。道が細くて途中で追い抜けないからってそこまでむき出しにしないで。最初から自分でドアを開けて最初にくぐりなよ。
「うん」
だっさいらせん階段まで歩いて、棒で囲まれた中に入る。階段に座る。ここなら足元は透けてるけどまだ怖くない。
九が遅れて、後ろからついてくる。僕はらせん階段の裏、底に張られてる小さい穴が無数に開けられた円板と踏板のすき間に避けて、九を通す。しゃがみ込む。
あ、落ち着く。
膝を畳んで抱える。お尻の皮膚と布が、金属板に開いた無数の穴にそれぞれ吸い込まれてく感覚。
なぜだろう。
九はそのまま階段を昇ってく。上を向くとちょうど僕の頭上を通り過ぎる。
「九、どこに結ぶ? 紐」
九は僕の声で立ち止まる。
「む、えっと、結んでる所が一ヶ所だけだと不安だし、上のフェンスとこのらせん階段にそれぞれ結べば?」
踏板の間から、僕を見下ろしてそうしゃべる。
「どうやるの、それ」
そう言うと、九がたたたん、と戻ってくる。その衝撃で踏板の裏にたまった雫だったり砂だったりが落ちてきて気分が悪い。
「こう。貸して」
九が階段を一番下まで降りてきてて、僕の目の前に立つ。僕に向かって手を伸ばす。
「なに」
「なんでそんな所いるの」
僕は言葉に詰まる。えっと、狭い所が好き、じゃ絶対にない。それだけはやめて。僕を閉じ込めないで。周りが閉ざされてないのがいいの? 考えたくない。
固まってると、腕を掴まれて引きずり出される。階段を何段か昇らされて、それから脇に抱えてた紐をひったくるよに取られる。
「フェンスまで紐の長さをこれくらい見てっと」
九は紐のまとまりを一本にしながら歌うよに言う。
「このあたりに結び目を作るから、この棒に、上へ向かうよに巻き付けて、それから今巻き付けた所より下に片手を置いて、その手ごと棒にいつも通り下へ向かうよに巻き付けて、最後、手と棒の隙間に紐を通す。これで出来上がり」
そう言いながら九はあっという間に、らせん階段を囲む支柱の一本に魔術的な動きで紐をくくりつける。
「あとは上だけ」
行ってきて? 九が一歩下に降りて紐を投げよこす。紐が直線になって先が僕の正面。風に曲げられて、下に逸れる。僕には当たらない。
紐の先を目で追うと、踏板に当たって、そのままの勢いで階段を辿って下に落ち、らせん階段の最下部、円板の上に落ち着く。ぴぃぃ、って高い音が鳴ってるのに気付く。風がらせん階段に当たる音。
「そんな高度な結び方知らないよ」
僕は視線を戻し、そう返す。
「別に高度じゃないよ」
今の見て分からないの? そんな表情。九はさっき紐を結んだ棒に手を掛け、紐を手に取り、ゆっくりたぐり寄せて僕に渡しそこなった紐を回収する。
「僕、肩結びと蝶々結びぐらいしか知らないんだけど」
「呼び方は僕も知らない」
「ねえ、九、上の方もやってくれない?」
フェンスの方に目をやる。それでさっき九が作った紐の結び目を見る。複雑に紐が絡み合ってる。僕に任せても無駄なだけだよ。
「同じようにすればいいだけだよ?」
「分かんなかった」
九が視線をずらす。雲間から太陽が一瞬だけ出て、それできらっ、とらせん階段を囲む棒が一斉に輝く。
「む。じゃあこれ持ってて」
九が目線を戻して階段を降りて近付いて、僕は紐のかたまりを押し付けられる。
それから紐の端だけ持って、上の方にまた駆け戻ってく。僕はつっ立ったまま。
「投げといていいー?」
その背中に声を掛ける。
「下に垂らすの? いいよー」
九はこっちを見ることもなく答える。
僕は下を覗き込む。本当にこの下は女の子のいた所? 水面が上がってるかよく見えない。死体が飲み込まれてたら、僕らのやってることは全部無駄になるよ。
風が急に吹く。らせん階段を囲う棒がぴぃぃぃ、って高い音で鳴る。コートの胸元から冷たい空気が吹き込んで、寒くて片手で胸元を絞る。一度、紐のかたまりを踏板の上に置いて、胸の前に両手を集め、肩を丸めて息を吐きかける。ほのかに手にぬくもりを感じるけど、すぐ吹き飛ばされる。
僕はコートの背筋を伸ばして、しゃがんで紐のかたまりを拾い上げて、それを支柱の間通して外に出す。
下に目線を戻す。足がすくむ。早い所投げよ?
風がまた強く吹く。僕はあおられる。身を固め、耐える。どこにも捕まってなくてすごく不安。
やっと弱まって、僕はコートから手を離す。顎を目いっぱい引いて掴んでた所を見ると、皺が寄っちゃってる。
僕はそのあと、紐を拾い上げるときのことを考える。それで一度腕を引っこ抜く。出来るだけ建物の近くの方がいいよね。川の中をそんなに泳がせるわけにはいかないよ。僕は少し階段を降りて、建物の外壁と差し向いになる場所を選んで、紐を持った腕をまた棒の間差し込む。その隣にもう片方の腕を通してらせん階段の外に出す。両手で紐のかたまりを掴む。出来るだけ近くへ。放ればきっと届く。
僕は胸に出来るだけ引きつける。風のぴぃぃ、って音がまた鳴り出す。一度気になると、もう無視できなくなる。僕は意識を逸らして、真下を見て、水面と壁の交わる所を狙う。お腹の下あたりがぞっとする。早く。急いで一気に壁へ向かって、ぱっ、と投げる。
先を目で追う。紐はかたまりで落ち、途中で、ばっ、と広がる。
紐が遠景へと吹き飛んで、ごみの川へ落ちてく。
僕は、今、清められてる。
結び目から真下へとまっすぐ垂れる紐が、ゆったりと左右に揺れる。
その向こうに川。
風が吹く。ぴぃぃぃ。
「結び終わったよ、かえり」
九がいつの間にか僕の真後ろにいて、肩に手を置いてくる。
「戻ろ?」
そう続けて言う。
金網の道をまたおっかなびっくり戻る。垂れ下がってる紐がまっすぐ川面まで伸びてて、その先はゴミの海に紛れて消える。
「このあとどうするの」
後ろから九が声を飛ばす。
「とりあえず、紐を舟にくくりつけちゃお」
「そのあとは、僕が水の中に入って、かえりに諸々を渡してもらいながら水の上に舟を浮かべるつもりだけど、それでいい?」
やたらやりたがるね、九。別行動になるのに。
「拭くもの用意してる?」
「してない」
「寒くて死んじゃうよ」
「じゃあなにか適当なもの探しといて」
九と僕は階段を降りてく。ここを使うのは何度目だろ。屋上から水面へ。
身体を拭くものは衣装部屋の服なんかで問題ないだろか。
ああ、朝、顔洗うときもそれ使えばよかった。今さらだけど。
「ねえ、九」
「なに」
歩みをゆるめずに九が返す。
階段は、外から漏れ込む陽の光がごくたまに変化するだけで、ほとんど変わり映えしなくて、同じ所をただぐるぐる回ってるだけのよな錯覚に陥る。しゃべるのを少しでもやめたら、その幻覚に飲み込まれる気がして、僕はすぐ口を開く。
「やりたがるのはなんで?」
九は答えない。また静まる。ねえ、お願い、しゃべって。
突然、踊り場で九が立ち止まる。
僕の方を見る。手すりを握った手が骨ばってる。肩が少しだけ震える。
僕は口をつぐんで見守る。
「悪い?」
それだけ言ってまた進み出す。
静かになる。
「水の中入らなくてありがたいけど」
あわてて言う。
「本当に危ないのは僕担当なの」
九がぼそり、と口にする。
どういうこと?
「二人一緒でもいいけど」
九はそう茶化すよに言う。
「それはやめて」
そう言ったとき、ちょうど元の階に戻る。水面の一つ上。手すりの間からきらめく水面が覗いて気付く。
「行ってて、先」
僕はかえりにそう声を掛けて、先に歩き出す。拭くものを取りに行かなきゃ。
「じゃ中で着替えとく」
手を振って別れる。僕は衣装部屋のドアにそのまま手を掛ける。
九はどうやって舟を水面に浮かべるつもりなんだろ。
部屋に入る。
すっぱい匂いがまた目の前に広がる。開けっ放しにしておいたし、少しはましになってると思ったけど。
床には変わらずスカートとハンガーが散らかってる。あとで片付けておこか。
「これ何枚か持ってけばいいか」
ラックからワンピースを五着ほど手に取る。外に出て、階段の前に出るから廊下へ。九のいる部屋に。今はぴったりドアが閉まってる。近付いて、こんこん、とノックする。
「もう大丈夫?」
「かえり?」
「そうだよ」
誰だと思ったんだろ。
「入るよ」
「あと十秒待って」
中であわてたよに衣擦れの音? がさごそとなにやら音がする。
「む」
僕はいいことを思いつく。
心の中で一息に一から十まで数え上げてすぐにドアを開ける。体感二秒。
「あれ?」
部屋に誰もいない。
「あれ、」
九はいなくなった。
「ここのー?」
どこ。部屋を見渡す。
紅茶。優雅な香り。また強くなってる。脱ぎ捨てられた服も見当たらない。どこ。九? 窓に刺さってた角材が抜かれてる。外かな。荷物は全部残されてる。なにもかも。一ヶ所に固まってる。舟と紐とビニールに詰めた死体。隠れ家のような雰囲気が一層増してた。
なにか聞こえる。声だ。なんども同じフレーズを叫んでる。九の声? 聞こえる。かえりー。
「ここのー、いるのー?」
どこー?
ここだよー、したー。かすかに返事がある。
窓に近付いて、下を覗く。風が強い。ガラスは端のあたりが軒並み残ってて、顔を外に出して覗き込んだり出来ない。
下では九が手を振ってる。肩の肌が見える。
「ここだよー、下ー。あ、かえりだ」
風の音でよく聞こえない。ぶびゅううぅぅ。
「なんでもう飛び込んでるの?」
「紐はここで合ってたよー」
完全に聞こえてないみたいで僕の言葉にかぶせて九は叫ぶ。
「なんでー、もう飛び込んでるのー?」
大きく叫ぶぐらいのボリュームで言う。
九は思ったよりも下にいる。いろんなゴミが九の周りに浮いてた。どうやってこの窓から飛び込んだんだろ。ガラスに開いた穴は最初にかえりが割ったままの大きさで、人がくぐり抜けれるよには見えない。血は付いてないから無傷なんだろけど。
そこから僕の助けなしで戻ってこれるの。
「かえりでもそれは出来るでしょー」
「なにがー?」
「僕に渡すの、いろいろー」
そういうことじゃないんだけど。いちいち叫ぶのがおっくうになってくる。
「順番に投げ込んでー」
「危ないよ?」
「じゃあ、手渡しでー」
「無理じゃない?」
かなりの落差があるよ。窓もぎざぎざだし。
「大丈夫だよ」
なんで九が分かるの。
風が静まって、建物の外壁に水が当たる音だけ静かに聞こえてくる。
「九、水冷たくないの」
「冷たいから早く上がらせて」
九の声は震えてる。僕は、初めて大声を出さずに話が通じて、もう声を張らなくても大丈夫だって安心する。
「急ぐよ」
僕は生返事でそう口にする。部屋に戻ろうとして、疑問がぽっと口をつく。
「ガラスの破片、そのあたりに散っちゃってるんじゃないの?」
「平気だよ?」
九が首を傾げる。
「思ったより流れ速いのかな」
「そんなこともないと思うけど」
「それ足どっかに付いてるわけじゃないんだよね」
「うん。泳いでるよ」
じゃあ沈んだだけかも。
そう考えて僕は部屋の中に目を戻す。
「それでなに渡せばいい?」
そのまま部屋の中に向かって声を出す。
「とりあえず舟から。引きずれるとは思うから、頑張って」
九が返事をする。そこでも聞こえるの。
「ついでに女の子もいる?」
固めて置いてある荷物の山を見ながら九に聞く。
「いらない」
「分かった」
僕は舟に手を掛ける。窓の前まで引きずる。
「九、危ないから真下にはいないでね」
下へと声を掛ける。
「舟に傷は入れないでよ」
「無茶じゃない?」
「ガラスのぎざぎざしてる所なにかでくるめば穴開いたりはしないよ」
じゃあ紙の束でも噛ませようか。
「やってみる」
確か、女の子の部屋には本と紙がかなりあった。
急いで行って、適当な薄い雑誌を何冊かもらって、すぐに帰ってくる。
ガラスの下の方に当てて、サメの歯みたいなガラスはだいぶ目立たなくなる。これならちょっとした傷で済むはず。
舳先を掴んで窓ガラスの上に乗せようとする。雑誌を当て込んではいるけどさすがに危ない気がして、舟を窓の前からもとに戻してどかす。窓ガラスまでの傾斜をそのあたりのごみで埋めて、軽く持ち上げながら窓ガラスへ近付ける。腕をサメで言うと上の歯に当てかけて、あわてて引っ込めて舟を窓ガラスの上に落としちゃう。ざっ、と鈍い音がする。僕は九の方を見る。気付かれた? 聞こえた? 九はどこか別の方を見てる。水面の上に視線が行ってる。九がまだかな、って顔を上げかけて、僕はあわてて隠れる。窓から急いで離れる。
それで舟の様子をうかがう。背伸びをして、舟の中を覗き込んで、なにか船底から飛び出してないか見るけど、ガラスが透明だからか、よく分からない。九にばれたらまずい。ひとまず刺さったのは絶対。持ち上げて場所を変えないと、そのまま滑らせて下に落とすなんて絶対無理。その前に雑誌を張り直さなきゃ。一回舟を戻さなきゃ。そうしたら気付かれない? 気付かれるよ絶対。ああ。頭が混乱してる。まともに志向が働かない。そのことに感づく。だから、もういいよ。
「行くよ」
そこに立ったまま、そう叫ぶ。ひとまず押してみれば分かること。
「待って」
待って? 窓から下を見る。九が遠ざかってってる。僕に背を向けてる。
九が一度振り返って、
「もうちょっとだけ待ってー」
そう叫ぶ。それで水面の上で反転してひどく緩慢に動いて、どこかへと向かってる。チャンス。僕は舟を慎重に急いで持ち上げて元に戻す。九が振り向く前に。立って下を覗くと外では九はまだ泳いで遠くへ。ガラスの先から雑誌を引き抜く。
細く、長い傷が何本も。相当深く刺さったみたい。刺さる場所を変えて、ついでに少しだけ雑誌を増量して再び目立たなくして、僕は舟をまた持ち上げ、今度はゆっくり乗せる。急ぐけど、あわてない。
ばっ、と視線を上げる。九はまだ泳いでる。僕は息を吐く。よかった。間に合った。しばらくそのまま見つめてると、やっと九は遠ざかるのをやめる。そのまま九は、また百八十度くるりと回って、両手を口の左右に持ってって「いいよー」って叫ぶ。
僕はそれを合図に腰を落として舟を外へと押し込む。
舟は動いて、動いて雑誌を巻き込んで落下する。落ちてく直前、舟をガラスの三角形が、ぎぎぎ、っと削って僕はまた冷や汗を浮かべるけど、そのまま重力に引かれて視界から消える。
かえりが非難を込めた声でなにか言う。
なにか悪かったかな、って水面を見ると九が潜ってく所。舟はどこにも見当たらない。あれ。
すぐ九が浮いてきて、
「なんも見えないよ!」
とまた同じトーンで叫ぶ。濡れた髪をかき上げる。
「かえり!」
「大丈夫だよね、木って水に浮くし」
勢い余って舟が沈んじゃったみたいだ。
「そういう問題じゃないでしょもっと丁寧に」
「こんな危ない所からどうやって」
サメの口の中へ、歯に当たらないよに舟を突っ込むなんて出来るわけないんだって。
「なんとかするの」
「待ってれば浮いてくるよ」
そう誤魔化してると、ゴミをかき分けてなんの装飾もされてない地味な舟の腹が水面の外に出る。
「ほら、大丈夫」
僕はかえりの横に浮いてきたそれを指さす。それで手が窓の外に出て風を感じる。九はこの外にいる。
「だからそういうことじゃないって。舟なんだからさ」
怒ってる。
「使えるでしょ?」
この距離なら恐くない。それに僕にこれ以上のことは出来ないよ。
「使えるけど、多分」
穴が開いたらもう駄目なんだよ?
九はもう一度水の中に入って、舟をひっくり返す。
「もう、かえり」
「中の水どうやって抜こ」
舟の底にたまった水が外の泥水と一緒にきらきら光る。かなりの量。
「それ、傾けたら外に出せたりしない」
僕はそう口に出す。
「そういう意味じゃない」
九はまた非難めいた声を上げる。窓ガラスがなかったら僕だってもうちょっとまともに出来てるよ。
「これなんとかならない?」
僕はすぐ目の前のガラスに手を触れる。
「これって?」
九が顔を上げる。僕の手をちらりと見て、すぐ僕に目を合わせる。
僕らはそのまま見つめあう。風がびびゅう、と吹いて水面を揺らし、波が出来る。九が震えて肩あたりまで沈む。
「九、こっからどうやって飛び込んだの」
僕は口を開く。
「普通に」
「いや、無理だよ」
「意外と行けるもんだよ」
得意げに九が言う。ガラスの向こう側。僕は部屋の中にいる。
「今、僕、無理だったじゃない」
「うまくやりなよ」
「じゃあこの人も適当に投げ込んでいい?」
死体を指さす。
「適当に、はよくないけど、その前に紐」
九はまたひどくゆっくりと動いて泳いでく。宙から真下に一直線に降りてきてる紐が目に入って、僕は初めて気付く。やっぱりこの上がらせん階段だったんだ。
繋がってるんだ。
波の上でごみが揺れ、引き戻る。九がその中、一人だけ揺らずに遠ざかってる。
そのまま九は垂れてた紐の所まで泳ぎ切って、紐の端をたぐり寄せる。顔を上げたままで水面を滑るよに戻ってきて、その紐を舟のへりに開いた穴に通してくくりつける。
「ちょっと待って」
それから九は一旦窓の下から後ずさりで引く。僕はそれをずっと見てる。
「いいよー」
九がまた両手をメガホンみたいにして叫ぶ。
僕は女の子に近付く。手を触れる。どうしよう。とりあえず両手をそれぞれ脇の下に入れる。全然持ち上がらない。運べたりしない。こんな状態でどうやったら窓ガラスの穴通せるんだろ。じゃあ、と、しゃがみ、女の子の胸の下あたりに腕を巻き付けて、そのまま持ち上げて肩の上に乗せてみようとする。駄目。持ち上がらない。手が滑って擦れたビニール袋がしゃりりり、と鳴って、絨毯の上にべちょっ、と打ち付けられる。運ぶのすらままならない。サメの口の中へ、なんて絶対に無理。
「ね、九、部屋変えていい?」
運ぶだけならまだなんとかなる気がする。ひとまずそう口にする。もっとやりやすい所がこの近くにあるはず。
「いいけど」
「嵌め殺しじゃなくて普通に窓が開く感じの」
そこから見たら分かるよね?
「隣の隣かな、がそうだけど、ベランダだよ?」
九がそう返す。
「そっちの方がまし」
ここ以上に劣悪な環境なんてないよ。
部屋に視線を戻す。
机、空の棚、九が持ち込んだ荷物は舟がなくなると一気に寂しくなる。
女の子を、なんとかして隣の隣の部屋まで持って行かなきゃ。どうしよう。
引きずる? さっきと同じく脇の下に手を差し込んで、隣の隣くらいの距離なら、きっと。どうだろ。あわてないで。顔を背けて、死体の脇の下に指を当てる。
ビニールがかなり伸びちゃってる。さっき初めて女の子を抱えようとしたとき、ほとんど持ってなかったのにもうこんなに。指の場所を変えて運べばいいんだけど、その部屋まで引っ張るうちに破けたりしないかな。
どうしよう。早くしないと九が凍えちゃう。
足をつかんで引きずろうか。頭が何度もつかえて運びづらいだろけど。ねえ、だからってあわてないで。女の子の寒そうな足を睨んで考えてる。僕は目を閉じて、一度息を吐く。ふう。
よし。またにらみだす。外から九の声がかすかに聞こえてくるけど、僕はそのまま続ける。駄目だよさすがに、足を持って引きずるのは。やっぱり脇の下に指を引っ掛けて運ぶのが一番いい気がする。破けたら手が汚れるかもだけど、拭けばいいし。そのときは上からもう一枚ビニールでくるめばいいだけだし。
死体は仰向けに転がってる。頭の方に回って、背中の下から両の脇に手を入れる。持ち上げて、重いよ、ドアの方へ引きずる。いきなり腕が震える。早く行こ。
進むと女の子は絨毯と擦れて痛そう。踵とか特に。ドアの前まで小走りで行く。
一度下ろして、ドアを開ける。そのまま廊下に出る。ついでにあっちの部屋のドアも開けとこ。最初に全部開けとけばあそこで止まる必要なかったのに。
隣の、隣。ここか。ドアを開ける。
顔に風を受ける。腕を上げて、目を守る。なに。少しだけずらして、部屋を覗く。さっきと同じ部屋の広さ。でも広い窓の向こうにベランダがある。よかった。これでまだまし。白いカーテンが風に巻き込まれて、部屋の中に舞い上がってる。
僕は部屋の中に一歩入る。ベランダには、違う高さに三本、細い針金が張られてるだけの手すり。窓が全開。山と空と川面の見慣れた光景がそのさらに向こうで広がる。
窓が開いてるなんて初めて。カーテンが僕の目の上あたりまで上がって、失速してゆらゆら落ちて、また上がって、って不規則に繰り返してる。
「ここのー」
外に声を掛ける。
床にはいろいろ落ちてる。やかんがたくさん書かれた茶色い紙。足袋、模様がきれいで、灰色の地に細く黒いラインが何本も平行に引かれてる、アクセントに小さく花弁があしらわれてる。青い毛布。鐘のよな形をしたプラスチック、これは上に金属の突起が飛び出てる。人みたいな猫の置物、足を組んでる、もともとは椅子の上に座ってたみたいだ。
そのちょっと間の抜けた表情がかわいい。足元だけ見て避けつつ慎重に進む。
窓の前には、もともとベランダに置いてあったらしき花が、黒いポリポットの中、たくさん植えられてた。倒れないよにって茶色いトレーの中に収まってて、行儀よく並んでる。舞うカーテンに時々撫でられて迷惑そうだ。
窓の方へ近づく。ベランダの床にはコンクリートが吹き付けてある。その上から茶色の塗料でなにか模様を描いてあったようだけど、今はほとんどはがれかけててなにがあったかなんて分からない。
「ここのー、ここで合ってる?」
スカートを申し訳程度に押さえる。手で舞ってるカーテンを掴んでどかし、トレーを踊るよな足取りで避けながら、裸足のままベランダへ。もう今さらだよ、って思って足を踏み出すけど、その一歩目の足に塗料が柔らかく刺さって後悔。
足を振って落とそうとするけど、剥がれない。しょうがない。その片足だけベランダに突っ込んだ姿勢のままで下を覗くと、ちゃんと九はまだそこにいる。
「そう、そこー」
九は僕に気付いて、大声で呼ぶ。手を大きく振る。それ、本当に泳いでるの?
「よかった、もうちょっと待っててね」
「そっちの方移動しとくー」
視線を部屋に戻す。右の壁一面に棚。置物がたくさんその上に飾られてる。どれも陶器の固そうな質感で光ってるけど、見た目はいろいろあって、モアイみたいなものから本物の子どもかと思うものまで。これ人形じゃなくて置物だよね?
床にも結構な数の置物が落ちてた。一番上に置いてたのが全部落ちちゃったのか。さっき部屋に入って窓の所に来るまでで見たのはだいぶ飛んできたやつだよ。割れてるものはない。でもどれにも目がついてて、それがこっちを見てるよな気がして、ちょっとだけ気味が悪い。
反対側を見る。左の壁は特になにもなくて壁紙の色が目立つ。椅子が二脚だけ、その壁に寄せて部屋の隅に置いてある。足も背もたれも、色の抜けた麻を編み込んで作ってあるようだ。
僕は窓へ視線を戻して、カーテンを縛ってはためかないよにして、トレーを丁重にベランダーへ出して女の子の通る道を作って、それから女の子のもとへ。廊下を戻ってく。静か。暗闇が侵食してる。赤い絨毯と黒い壁紙とその両側に張り付く茶色のドア。一つだけ開けっ放しで僕はそれを目指す。光が階段の方から差してる。廊下の先を直視すると目が痛い。
ドアの前まで歩いて中へ入る。女の子が仰向けに倒れててビニールの中。腰を屈める。指を当てる。まだビニールは大丈夫。思ったより破れにくいのかもしれない。そのまま手を差し入れて持ち上げる。一気に後ろ向きに走る。いきなり女の子の足がドアの縁に当たる。しゅりりりっ、と激しくこすれる。破けたかも。確認したくなる心を引き留めて、力いっぱい引きずり続ける。
廊下に出て、開けっ放しのドアに滑り込む。風。息をしなきゃ。そのままさっき作った道を進む。まだよ。ベランダの所まで持っていければ。棚の上から床の上から、たくさんの目が僕を見る。身体が重い。息をしなきゃ。そのままベランダの前まで引きずって、そこで力尽きる。
「はあっ、はっ」
その場にしゃがんで、心臓がばくばくいってるのを聞く。
下を向いて、息を吸う。
「疲れたあ」
腕を振る。筋肉が全部じんじんする。
片手を振りながら、部屋の外を眺める。風が吹いてきて、目をつむると、僕の背後でなにかが、ぱたぱたぱた、と鳴る。毛布?陽が差し込んでる。ここはすがすがしい場所。肺が痛い。このままここに寝転がって、肩まで毛布を掛けて日向ぼっこしていいならら、気持ちがいいのだろな。僕は目をつむったまま、もう一方でビニールを触って確認する。伸びきってるけど、なんとか耐えてくれた。
立ち上がる。死体を片手にベランダに片足だけ出して、九に手を振る。
「ここのー、持ってきたよー」
あれ、またいない。手すりのすき間から見える外は海にはごみがたくさん浮いてるだけ。
「早い所下ろして」
声が聞こえる。不機嫌。
「どこ?」
僕は目線を上げて、声だけ張り上げる。
山が近い。外を見るたび距離感が消えて、今はもう一足飛びで行けるよな気がしてる。とっても危ないこと。自覚はしてるの。
「多分かえりの真下」
声が返ってくる。
「寒い?」
声に不満がにじみ出すぎてない、九。
「当たり前」
「一回上がったらよかったんじゃない?」
「今さら?」
気に入らなかったみたいで、言葉にだいぶとげがある。そこまで激しく言われる理由が分からなくて、僕は戸惑う。
こっちの山肌には道が斜めに線を引いてる。そこだけ粘土色の土がむき出しになってて目立つ。でもその上にも人はいない。
「それにまた入るときすごく嫌な気分になるよ」
「そう?」
「絶対」
「そうかな」
僕は適当に返事を返す。道の上に目を凝らす。なにか見えない?
「いいから早く下ろして」
九が言う。え? ベランダに目を戻す。目の前に手すり。振り返る。視線を部屋の中へ。女の子。
あれを越えられるの? 風が吹いて、毛布がぱたぱた揺れる。九、なんで下にいるの。あれを越えなきゃ。太陽が肌を焼いてく。持ち上げるのは無理だよ。手すりを曲げる? 一番の下の針金を上に広げればすぐ通りそうだけど。
「ちょっと、待ってて」
九に声を掛けてから、しゃがんで、手すりに両手を掛ける。
九はベランダの真下から顔を出して、
「どうしたの」
って聞いてくる。僕は視線が痛い。目を合わせないでせめて気まずさを減らす。
僕は腕に力を込める。立ち上がるときの勢いで、曲げるイメージ。
「ふんっ」
ぎぃぃ、ぃ、ぃ、ぃ。無理。曲がらない。
「なにしてるの」
九がまたそう口にして、僕はいよいよ無視出来なくなる。
「気にしないで」
そうあわてて口にする。
「はーやーく」
九が子供みたいにごねる。凄みはあるけど、おもちゃ屋の前でひっくり返って、買ってぇ! って泣きわめいてる男の子みたいで、僕は噴き出しそうになる。
九がそれを見てにらんでくる。すぐ取り繕う。
どうしよう。そう。どうやって下に降ろそう。
「やっぱ無理だった?」
九が聞いてくる。
「かも」
「なんとかしてね」
つっけんどんな口調。
また僕の真下に潜り込んで、九は視線を切る。
僕は一人。川の水の上を風が通り抜けて、僕はそれに乗ればどこか行けるよな、そんな気がする。「ここのー」って小さく呼ぶけど、返事はない。
僕は同じボリュームで聞こえないよに息を吐き出す。はああ。
なんとか、ね。どうしよう。部屋の中へ戻る。ビニール詰めの女の子が迎える。
「使えそうなもの、は、」
見渡しても、置物と椅子と、重そうな棚。それしかない。椅子はなにか使えそうだけど、無理させたらすぐ折れたり曲がったりしてしまいそうだし。
持ち上げるしかないね?
そうなんだけど。
「ねー?」
九が外でそう叫ぶ。風がそよそよ吹いてる。急がなきゃ。
仕方がないよ。持ち上げないと。
死体をうつ伏せに転がす。またいで、脇下に両手を入れて、ベランダまで引きずる。丁重に置く。前のめりにこけた人に見えるって、ふふ、って笑う。今はビニールに包まれてるし、見間違えることは絶対にないけど。中途半端な所で引っ張るのをやめたせいで腰までまだ部屋の中に残ったまんま。手すりの一番高い所は、僕のお腹のあたりの高さだ。
肘の裏をどっちも掴む。持ち上げて一番上の手すりに掛ける。死体はその姿勢で安定する。首が傾いでる。しなだれかかってる人みたいだけど、今度はあまり面白くない。
む、ここまでは楽。次はどこだろ。
首と脇の下? 引っかかるかな。脇の下にまた手を差し入れて、ふうぅ、って声を上げて、持ち上げる。
死体の足がほんの少しだけ浮くけど、それだけ。鼻の頭が手すりの一番上に当たってる。そう少しなんだけど。僕はベランダとその子の浮いた膝のすき間に足の先を差し入れて、一度力をゆるめる。
腕マッサージして、また手を掛ける。今度は肘を内側に入れて高く持ち上げやすくして、腰を屈める。これで上がるはず。また腕に力を込めて、ふうぅ、って死体を上げる。
かなりの高さまで上がる。胸元までもう少しのあたり。僕はゆったり下ろしてく。顎が手すりに乗るように。腕が震えて、顎が揺れてなかなか上手く行かない。やっと、出来てゆっくり下ろす。置いた途端首ががくっと音を立てて、顎が手すりから外れあわてて頭を押さえつけて止める。顎で手すりを噛ませて、押さえつけたまま考える。次は、お腹のあたり。そこまで行けばあとは足を持ち上げるだけで下へ落ちてくよ。片手で頭を押さえたまま、片手で太ももを掴んで持ち上げようとして上手く行かない。重いよ。両手使わないと無理だよ。
むー。頭から手を放して素早く太もも掴んで持ち上げるのが正解? そうしてみようか。頭から、ぱっ、と手を放してすばやく死体の下へ潜り込む。ぐにゃりとしたお腹の肉を押しのけ、押しのけて真下を確保する。出来た?分からない。視線を元に戻すと、手すりのその向こうに、川。僕も手すりに顔をこすりつけてるよに見えるんだろ。指で首の後ろあたりを探って女の子の太ももを当てる。その間に指を引っ掛けて、腰の位置をずらして重心を合わせて、それから立ち上がる。そのたびビニールが伸びる感覚。持ち上がった。かすかに重力を感じて、手を放すと死体は不意に消える。あれ。遅れて、ぼ、しゃんっ、と音。
目線を落とす。水面を見つめる。九はいない。
また? 潜ってるだけ、だよね?
「重たいー」
すぐに上がってくる。陽の光で九の身体がきらめく。死体を川の中で持ってるからか、九は左に大きく傾いてる。
「待っててね」
九はそのまま反転し、さっきよりさらにゆったりと鈍い動きで舟へと水面の上進んでく。
ああ。意外に上手く行くものだ。九が帰ってくるまで時間がある。僕は山の方を向いて、どこを目指せばいいか考え始める。道はどこで途切れるんだろか。ベランダに出てその左ぎりぎりまで寄って、その向こうを見る。道は川に近付いて、近付いて川面の周りを縁取ってる土と交わって消えてる。あそこまで船で行けば、そこからの道は楽そうだ。山の中を踏み分け、踏み分けは怖くて出来ない。あそこだと見つからない? 監視されてると思うけど。
「次、板落としてー」
声がして、僕は目を戻す。
九は乗せ終わったみたいで僕の下に戻ってきてる。いつの間に。
「あ、待ってて」
僕は窓の割れた部屋に戻る。廊下を掛けて部屋へ入る。九が持ち込んだ荷物はだいぶ減ってしまった。もう隠れ家のような、懐かしい秘密基地のような気配はなくて、ただ寒くてなにもない寂しい空間にここはなり下がってる。そこから板だけつかんですぐベランダの部屋へと戻る。軽くて、かさばるのを考えなきゃ片手でも振り回せるよ。
ドアを開けると左の壁から視線を感じる。置物の目と目と目たちが迎える。
僕はにらみ返すけど相手は無反応で、暗い影をその顔に落としたまま。九の声が外でした気がして、視線を切ってベランダに出る。
「ここのー」
海の上に浮いてた九が顔を上げて、こっちを見る。
「落とすよー?」
「上手く落としてね、僕の身体の横とかに」
さっそく九が注文を付ける。
顔をしかめた九に僕は上からなにか、底に置いてある置物でも落としたくなるけど、さすがに危ないし、やっぱりやらない。
「頭に直撃とかやめてねー?」
九は僕にそう釘をさす。こうるさくなる前に掴んでた板を手すりの間を通して下へ落とす。手から離すだけだし落下点の狂いようなんてないよ。九のすぐ横、手を伸ばせば当たるくらい近くに。板は水面と面をぶつけるよに落ちてく。板が大きく見えて九に当たらないかって、手を離してから不安になる。ま、たぶん大丈夫。九は一度顔をこわばらせるけど、当たらないと、見切ったようですぐ力を抜く。九の目の前に板が着水して、大きな水しぶきを上げる。九がもろに浴びる。あの重さからはちょっと予想外。板は、ごぼぼ、とそのまま泡を引きながら川の下へ消えてく。
水面がゆらゆら揺れてる。まだいくつか残ってるごみもそれで右に左に。
九はまだ顔を覆ってる。
「あ、あ、ごめん」
僕は言う。
九が僕を呼ぶ。低く濁った声。
「ごめんって」
思わぬ怖さ。あわててそう重ねる。
こっちをぎろっとにらんで、それから水の中潜ってく。
僕は顔を上げる。天井と空を両方視界に入れる。これでおしまい。もう舟の設置なんてしなくてもいいの。ねえ、九をどうするつもりなの? まだ先のことじゃん。でも救助が来るよ、そんなに余裕はないんじゃない? 救助を出したくないなんて、さすがに言えないよ。なら、早く脱出しないと。九を切り離さないと。
僕は忘れ物を思い出す。重し。板を押さえないと風で飛んじゃうよ。どこかにそれっぽいものないかな。僕は部屋の中見渡すけど、そんな大きいものない。
水面がも一度ぐわんと揺れて、九が顔を上げる。ぷはっ。
「ねえ、なんでそうなるの?」
板を水から外にあげて、僕に見せてから言う。
「ごめんね?」
僕は何度も謝る。声が怖いよ。
九は僕をにらんだまま固まる。僕は視線をずらせない。凪いでる。なに?
僕らはまた見つめあう。なにか意味があるのかな。
風が強く吹いて、九が身を水の中に縮めて、それで視線が切れる。
「ま、取れはしたからいいや」
あっけらかんと言う。それで九は、また舟までたらたら泳いでく。気付かないうちに水に流されてて、わりあい遠い。。
重しはいいの? その背中が堂々としすぎてて僕は聞いたものか悩む。
「ここのー」
僕は口に出す。あくまで遠まわしに。
「んー?」
九が振り返る。もうすっかり普通。
「その板だけでいいの?」
僕は聞く。少し遠ざかっただけで、僕らの声はまだ普通に聞こえる。
「どゆこと?」
「重しいるって話じゃなかったっけ?」
駄目だった。九は板を見て、舟の方を見て、風を顔に感じてしかめ面になって、それでやっと思い出したみたい。
「なににしよ」
そう口にする。
「今みたいに落として回収出来る?」
出来るとは思えないけど。
「んー」
九の返事はあいまい。
僕は部屋の中見渡す。この麻の椅子でいいか。手前の足を片手で掴んで持ち上げる。椅子は軽かったけど、さすがに片手で持つのは無理で、一度下ろして背もたれと座面に手を掛けて持ち上げる。
「ここのー? これ落としてみてもいい?」
ベランダに持ってく。九に見えにくいと悪いし、持ち上げたままで九がいるかも見ずに手すりに椅子をくっつける。
「いいよ、お願いー」
九がそう返事をして、僕は大きく一歩後ろに下がって、そのまま手すりの外へと投げる。椅子は足を手すりに激突させて回転しながら視界の外へと消える。
下を見るともう九はそれを回収してる。水に浮くんだ、それ。
舟の上に椅子を片手で引き上げて乗せて、九はこっちを向く。
「こんなのでいいの?」
椅子は水を吸ってて、木の板の上に染みが広がってく。
「駄目?」
「どうやって昇ろ」
九が小さくひとりごとめいた声を出して、僕は目ざとくそれを拾う。
「考えてなかったの」
なんで考えなしに飛び込んだのよ。
「むー」
九は水面の上でゆったり悩む。僕は、九の体力が続くのか心配になってくる。
「下の階の、窓開いてる所からお邪魔して階段駆け上がってきたら?」
僕は言う。見えないから本当に可能かどうかは九しか分からないけど。
「ああ、それ出来るかもしれない」
九が僕の足元、その下に消える。
ここでじっとしてよ。もうすぐ真っ裸の男の子が廊下を疾走してくるはずだ。僕はベランダの外に足を出したまま、部屋の中にお尻を付けて座る。敷居を足がまたいでる。
九の要望通り、死体を外に浮かべた。結局、水に入ってすること以外は全部僕の仕事だ。その前は屋上まで歩かされた。ドアもそうだ。なんで毎回僕が開けなきゃいけないの。それに勝手に人についてきて、突然、人のこと先導し出したりして。勝手なやつだ。フロア丸ごと家探しするのを手伝わせたりしたけど。でも。
むー。なんか、報われてない気がする。いいけど。周りをぐるりと見渡す。
たくさんの目に見つめられる。置物はなんだか不気味。どの目も、生きてないのに、主張ばかりが先立ってて、落ち着かなくなる。
九が水に飛び込まず残ってくれてた方が、そうじゃなくてもせめて女の子を抱いて飛び降りてくれてればここまで僕は大変じゃなかったのに。ますますなんで飛び込んだんだろ。
そのうち廊下をどたどた走る音が聞こえる。
「拭くものはそこに置いてあるワンピースね」
一応声を掛けておく。ドアをばたばた開閉する音。
しん、と静まる。床から、棚から、僕を見つめるたくさんの目に気付く。僕は棚の方へ近付いて、床に転がってたお王冠を頭に載せたひきがえるの置物をつまみ上げ、棚の一番上に置いてから話しかける。この一つだけが暗闇の中、ひょうきんな感じがする。きっと僕の言葉にも応えてくれる気がするの。
「ねえ、」
名前はなんて言うんだろ。カエルと呼ぶのはあまりに失礼だろし。
たくさんの目が僕に刺さってる。これは謁見かなにかだろか。
「君の持ち主はどこ行っちゃったんだろね?」
僕は口にする。カエルから目を逸らす。色は青めいた銀色で、王冠だけが金ぴかで覆われて燦然と輝いてる。
部屋はまだ明るいけど、それはこの何日かずっと暗い所が当たり前だったからだよ。ここには置物と僕しかいない。空気が冷たくて、窓を閉める。暗がりの中こそこそしたい気分で、僕はカーテンを引く。
戻って、カエルと目を合わせる。見つめあう。目から光が消えてる。どうしたの。少しだけ気になるけど、カエルは気にするな、って顔をしてるから、僕はなにを聞かず、話し出す。
「僕は今、九って子に付きまとわれててね、最初はね? 危ない人だ、逃げなきゃ、って考えて距離を置いてたんだけど、最近はそうでもないんだ」
誰か聞いて。
部屋の中はだいぶ薄暗い。九とは今近くにいない。ここには誰もいない。
「って言っても会ってから一日経ったか経ってないか、ってくらいなんだけど」
まだ二日も経ってないのに、なんでここまで距離が縮んでるんだろ。
「えっとね、慣れてきた、って意味じゃなくて、悪い人じゃない、ってそれだけは分かるんだ。銃だって結局一発たりとも撃ってこないし、別に距離感が近いだけで、早とちりをすることが多いってだけで、それが鬱陶しいって思う、ことはあるけど」
僕はそう口にする。それでも僕はもうしばらくは、この鬱陶しさを浴びていたいって、そう思ってる。
「僕は九とともに生きてってもいい気がする」
僕は口にする。九を選んでもいいかな。そう思う。そうだ、そうなのだ。僕は九といたいのだ。目を見開く。そうなのだ。棚に乗ったカエルの胴をぎゅっと掴んで目元に引き寄せる。カエルは黙りこくってる。睨みつけても変化はない。カエルの目玉は動かない。こっちを見てくれない。
ちぇ。僕はそれを元の棚に戻す。
「ねえ、それで合ってると思う?」
指でその王様っぽいカエルを弾くと、底をかたかたさせながら回る。ゆっくりと静まる。また、しん…。
「ここの、まだー?」
あまりにも静かで、心配になって聞く。
「もちろん、ここ風あって寒いよ」
隣の部屋からちゃんと反応がある。声はほとんどはっきり聞こえる。防音はほとんどされてないみたい。聞こえてたかな、さっきの。
「服着ちゃいなよ、早い所」
「服を探しに行かないと」
「もともと着てたのじゃ駄目なの?」
「別にいいんだけど」
「服ってワンピースとかしかないよ?」
スカートを穿いてる男、って言うのは気持ちが悪いよ。スウェーデン人にはなりたくない。
「これ?」
九が声を上げる。全く見えないけど、身体を拭くために使ったタイル柄のワンピースを持ち上げてるはず。
「それ」
九は黙りこくる。
「このままでいいや」
抜けるよな笑いと一緒に九はそう口にする。




