4
10
この建物は、細長いビルが三つ繋がってる形。途中で引き返したし、本当はもっと繋がってるかもしれないけど。九が持ってた懐中電灯のおかげでずいぶん移動が楽になった。なんで隠してたんだろ。考えてもきっと無駄だろけど。屋上からじゃそんな分からなかったけど、きっと方角が悪かっただけだろ。
僕らは階段の前にいる。食糧と水を探し始めてからほとんど無言だ。気まずい。長方形は隣の長方形と頂点同士細い渡り廊下で繋がってる。長方形といっても辺が湾曲してたり角が掛けたりしてると思うけど。それで廊下を抜けると階段がある。もう新たに二つ階段を見つけた。ここは川面の三階上。さっきの増水で変わってるかもしれないけど。手すりの上から目の横に懐中電灯を持ってきて覗き込むと、何階下かわからない階段の踏板が、手すりの上下の隙間からかいま見える。水は見当たらない。まだ大丈夫。
「ね、終わらないでしょ」
水を探しながら僕は言う。
「これ絶対頭よくないって」
ずいぶん歩いた。
九はだいぶ前からへばってる。
そっちに顔を向けると、暗闇の先で壁の色が一瞬だけ浮かび上がって、また溶けて見えなくなる。
「でも確実だよ」
食糧もこの一階だけでこれだけ集まったわけだし。そう肩にかけてる手提げ袋を揺らしてみせる。結構重い。根気強く探せばあるものだ。何日分くらいあるんだろ。あとでちゃんとパッケージ見とこ。
「途中である程度の量見つかった時点で次の階に行くでいいじゃん。そんなに粘らなくても」
確かに僕らの最初にいた棟の、その隣の棟にはやたら食糧がたくさん残ってた。
「思ったよりも、心配しなくてよかった?」
僕は言う。
「だね」
そう口にしたとたん、急に眠くなってくる。脳の裏から次々と機能を閉じてく。
これでやっと戻れる。
一つ上に階に行くんじゃないの?
もういいよ。
僕は階段の先を見る。外は暗闇。
さっきまで、すごく気が立ってたんだな。目をこする。
でもまだラジオも、電池の残ってるケータイも、見つけられてない。
外の情報がそんなに必要?
必要だよ。
僕は今どこにいることになってるんだろ。
もうずいぶん長い間この階にいる気がする。今は何時?
時計を見て、まったく関係ないことを思い出す。
「ねえ、九」
「ねえ、」
聞けてなかったことを聞かなきゃ。
九はぼうっとしてて、頷いてるのか、舟をこいでるのか。聞こえてる?
「九、さっき僕を探してたって言ってたけど、僕ら知り合いなの?」
こんな知り合いはいない、はず。
「うん。知り合い」
そっけなく言う。
昇る。一つ上の階へ。見慣れた九の背中。追いかけてく。撒いた紙が目に付く場所にあってどきり、とする。
「ごめん、僕、覚えてない。いつ会ったっけ?」
九は歩くのが遅かった。追い抜く。紙切れに気付いたのかな、ってひやり。
「覚えてないのもしょうがないよ」
うつむいたまま言う。
それは教えてやらないってこと?
遠くから話す九の声が反射して回折して、僕の耳に届く。声に追いかけられてるみたい。
「……ぇ…、」
震えてる声。僕は前を向いたまま、階段を昇り切る。一階上。
「……り、……ぇ」
廊下を歩き出す。
「……ぇ。ねえ。かえり」
なに? 足を止める。振り返ると九がいない。あれ。
「かえり、」
聞いて? 話したいことがある。
声。どこ? 階段、もっと下? 僕を呼んでる。
その言葉だけが建物の中、なんども繰り返されてて、なんだかこそばゆい。
これは、この言葉は僕のこと。
あ、九を見つけに行かないと。紙切れに気付いたのかな。
降りる。いた。踊り場で立ち止まってる。
「やっと来た」
「どうしたの、九」
特段おかしい所は見当たらない。怪我をしてるとかそういう感じには見えない。立ち止まらなきゃいけない事情があるようには思えなかった。
九が顔を上げて、僕の目を見つめる。
そのまま九は固まる。
僕の話を聞いてね?
うるんだ目。沈黙が長くて、僕は目を逸らしたくなる。
九がやっと口を開く。
「よく聞いて。さっきの話。僕が誰かって。それは思い出しちゃいけない記憶なんだ。僕が口を滑らせただけ。忘れて。僕が誰かなんて、以前僕と会ったことがあるかどうかなんて記憶を調べて確かめちゃいけない。そこをわざわざ漁らなくても、見なくても、僕はここにいる。今の僕がここに。だから安心して。忘れたままで。大丈夫だから」
やっぱり僕は九と知り合いらしい。いつ。思い出そうと記憶を漁る手を、無理やり挟み込んで蓋をする。忘れろ。そんなことをしたら九の世界に飲み込まれる。失くした記憶があるなんて忘れろ。目の前の九とは初対面だ。九の言葉は嘘だ。目の前にいる九だけ見ろ。
「分かった?」
九が、僕の目を見つめて、聞く。
僕は、頷く。
「それならいいの」
九は顔を動かさずに、そのまま口にする。
慈愛に満ちた目。僕を、かえりを守らなきゃって決意と愛情と執着がないまぜになった表情。きっとこの子は、簡単には離れてくれない。
僕はそんな愛にまったく覚えがなくて、どう受け取ったものか悩む。
最初からこんな子だったっけ。絶対に違う。もっと怖い子だった。危ない子だった。いつこんな子になった。僕がなにかしたんだろか。
「行かなきゃ。次の階探さないと」
忘れよう。今は生き残ることが大事。なにもかも作業をしてごまかすの。
「続けるの?」
九が言う。
「続けないつもりだったの」
僕もさっきまでは捜索をやるつもりなかったけど。
「疲れたし。こんだけ食糧が集まったんだから、今日無理して探さなくても大丈夫だって」
でも、明日はたき火をするつもりじゃないの? って言葉を飲み込む。たき火はしたくない。今屋上にある申し訳程度の救助信号で十分だよ。
「そうかもね」
たき火がつぶれるなら、それでいいよ。
「どこで寝るの?」
「どこで寝てたの? 昨日までは」
「かえりは?」
「僕は、一昨日来たばっかで」
「へえ」
九はなにか言いかけて口をつぐむよに相槌を打つ。
「九は?」
「部屋は用意してたんだけど。最初に会ったときの階に。多分もう沈んじゃった」
「そう。僕のところで、じゃあ眠る? ソファがいっぱいある所。スニーカー見つけた所」
「どこか分かる?」
「分かんないの?」
「もう沈んじゃった、って可能性は」
「さっき上で見かけたから、それはないよ」
「本当? 屋上から何階分降りてきたか覚えてる?」
覚えてない。
九が口を開く。あ、やめて。いやな予感がする。
そのまま九はいやな台詞を吐く。
「十三とか、そのくらいだよ」
11
ストーブの部屋は見つからない。あそこから十八階昇って屋上に着いたはず。
じゃあ衣装部屋のドアが開いてたのはなに。その二階上にあるはずだったのだ。でも昇ってその場所へと行ってみてもなにもなかった。そもそもソファが一脚たりともない。部屋の中は空っぽだ。誰だろ。ドアを開けたのは風だろか。あの部屋に窓なんてないのに。
僕はその部屋の中で静かに混乱する。
「これ以上探すのは時間の無駄だって。そんなに寒くないし」
隣で九が言う。
「それは九だけ」
ここに来るまでのあいだ、どんどんと空気が冷え込んでくのに九は平気そうな顔のままだった。息が白くなったのは勘違いじゃあ絶対になかったって、僕は確信してる。
「もうストーブはあきらめて、寝床の場所決めちゃおよ」
部屋の中でまた九が躍り出す。タップ音が響いて響いて途切れなく聞こえる。不思議な踊りはどんどんとスピードを上げてく。
違う、ストーブがどうとかいう問題じゃない。僕が取り乱してるのはそんな事情じゃない。あれは、衣装部屋の扉は、誰が開けたんだろ。
「ね、かえり。上の倉庫に毛布がいっぱい置いてあったはずだからそれ使って、布団作ろ」
そう言って九は部屋を出てく。どこ行くの? 追いかける。九は廊下をふらふらと進んでく。すぐこっちを向いて、「ここでいい?」と声を掛けて、九は近場にあったドアを開ける。開けるだけで中に入らなくて、僕は急かされてる。
中に入る。甘い紅茶とレモンの匂い。こじゃれた部屋。はっきり残ってる。
それなりに大きい部屋だ。三人くらいなら、寝床が別にあれば不自由なく暮らしていけそうな空間。窓が小さく一つしかないのが難点だけど。
窓に近付く。アーチ型の小窓。白い窓枠。中はそこまで散らかってない。床にごみが散らかってないのは珍しい気がする。窓のそばまで来る。白い窓枠は木で出来てるらしくて、木目がペンキの向こうに見える。窓に触らず、外を覗く。ベランダは付いてない。金具がついてるのに気付く。両開きの窓の間で、開かないよに押さえてる。窓枠とくっついてる部分が腐食してる。毎晩冷えて、水がつくのだろか。試しに金具へ触れると音もなく外れて、窓がきい、と外側に開く。
外の風が吹き込んで、紅茶の匂いを薄める。僕は風に流されるよに部屋の中を見る。
九は部屋の中、ひょこ、ひょこと動いてあちこち観察してる。なにか探してるのかな。部屋には机が三つ。一つは膝下あたりまでの机で、見るからにふかふかの椅子が三脚、その周りに向かい合って置いてある。わりあい広くて、ティーカップとソーサーを三つずつ、それにティーポットと砂糖の壺にミルクの小瓶を並べても、まだずいぶんスペースが余ると思う。紅茶をここで楽しんでたんだろ。残りの二つは壁際に寄せてある書き物しそうな机。片方に分厚い本と端のくしゃくしゃになった紙が積まれてて、もう一つの上はまっさら。それ以外には、椅子が何脚かぽつんと置いてある。
窓の外に目線を戻す。首を突き出して、外を見る。水面が遥か下にある。特に代わり映えしない、もう見慣れた光景。舟を探さなきゃ。
腰のあたりが痛む。あわてて体勢を戻す。ふぅぅ。
腰をいたわって落ち着かせて、それから窓を閉めて、僕も部屋の中を漁る。
低い机をしゃがんで撫ぜるとほこりが指に付く。あ。でもどうせあとでどこかで拭けばいいか。
棚が壁際に寄せてある机の反対側、低い机と同じ側に並んで二つあった。どちらも壁に埋め込まれてる。
僕は肩に掛けてた荷物を下ろす。九は両手に抱えてた天然水の入った段ボールをどかっと置く。
「その天然水いつから持ってた?」
僕は聞く。どこで拾ったの。
「え、さっき。九がなんか正気じゃなさそうだったときに」
全然気付かなかった。
「ここにするの?」
そう聞く。
「問題ある?」
僕は部屋の中歩きだす。
紅茶と砂糖とレモンの匂いが鼻の前を通る。最初よりはだいぶ弱まってる。
どこから漂ってるんだろ。
僕は立ち止まり、探る。
「じゃあ毛布取りに行こ?」
そう言って九は部屋を小走りで出てく。一人ぼっち。部屋の中に沈黙が広がる。
僕はあわてて追いかける。
廊下に出ると、九は階段の方に走ってた。
九がどんどん小さくなる。
僕を置いて廊下をまっすぐ進んで、曲がり角でやっと振り返る。
「ね、早く」
僕はゆっくり歩いてる。速すぎなの、君が。
階段を昇り、前に歩いた道を逆にたどる。右に曲がり、ごちゃごちゃとした道を進んでカーブする廊下を通ったらすぐに左へと曲がって、見えてくる観音開きのドアを開け、らせん階段を危なっかしく昇り、小部屋に入り、ドアを開け、ついに倉庫に着く。
「毛布ってどのあたり、」
だっけ。
「こっち」
九が前に出て、棚のあいだ流れるよに進む。僕はついてく。
また適当にしゃべりつつ進む。
広い空間に、僕の昔ばなしだけが霧散してく。
「着いたよ」
すぐに着く。青い毛布が棚の一番下ぎゅうぎゅうに詰められてる。
「何枚くらい持ってく?」
「四」
「そんなにいる?」
「いる」
そのくらいないと布団にならないじゃん。
「一枚で十分だと思うけど」
九は毛布を広げる。毛布はやっぱりビニールで密閉され包装されてる。
九が退いて、僕はその場所まで行って毛布を四枚引き出す。
「持てるの」
「持てるよ?」
「ならいいけど」
九は両肩に毛布を掛けて引きずりながら、すたすた行ってしまう。
「なら早く来て」
こっちを見もせずに九がそう言う。
「待って」
四枚をそのまま丸める。長い。真ん中あたりを目算で肩に乗せる。わ、かなり重い。けど持てなくはない。
両手で重心のあたりをもって身体の前で横に持つ。歩くたび太ももに当たりそうだけど、しょうがない。
九はまだ見える所にいる。小さくなった背中を追いかける。
ドアの前に来た。
九がその前で立ち止まってる。
ピンクのMに囲われた、銀色のドアとモッズコート着た男の子。写真展にありそうな絵。九は横顔をこっちに向けて、全然関係ない方を向いてる。
「どうしたの?」
話しかける。
振り返る。
「それ、持ったまま降りるの、階段?」
いきなりそう言う。
「降りるつもりだけど」
「危ないと思うけど」
「そう?」
歩きづらいだけで、危なくはないと思うけど。
「まあいいか」
九はうやうやしくドアを開けて、足で押さえて片手でドアの先を示す。どうぞ、って。毛布を首のあたりで掴んでるもう一歩の片手はそのまま。
「ありがと」
突然どうしたんだろ。半笑いで体を横に向けて、横歩きでドアを抜ける。
中は暗い。陽がもう沈んだのだった。光はもうない。
こわごわ進むとすぐに毛布が突っかかる。部屋が狭すぎて進めない。
どう持ち替えてみても、腕の負担が大きくなるばかりで、柵の周りを回れない。
立てようとすると、天井につかえる。
どうしよう。
「穴の中に投げ込めばいいんじゃない? 下、誰もいないし」
九が言う。
「それも難しいよ」
「いや、出来ると思うよ。一回こっち側に戻ってくれば」
いぶかしみながら倉庫へ戻る。九の目を見る。
僕は一度毛布を床に置く。伸びをして体をほぐす。
「毛布をさっきみたく真っ直ぐ持って。それで柵の上に乗っけて。だからちょっと高く持った方がいいかも」
九の言うことを聞いた方がきっと正解なのだ。真意は分からないけど従う。
「肩に乗せるってこと?」
「出来れば脇に抱えるくらいがいいけど、まあそれでも平気」
言われた通り一度地面に下ろし、肩に乗せ直す。
九が手で進めって合図して、僕は進んで柵の手前まで来る。
「でその毛布水平のまま、そ、しゃがんで」
九が部屋の中を覗き込んで話すから声が反響してうるさい。
「そんな大声じゃなくてもいいじゃん」
指示にかぶせてそう言いつつ、やりたいことが分かって先読みして動く。
「で、立ち上がって滑らす」
うん。ほぼ同時に動く。手を放す。
毛布が柵の向こうに消える。
すぐ柵に駆け寄る。下を覗く。
毛布はらせん階段にぶつかり丸めてた形が崩れて、一つ一つばらばらの毛布になってふわり落ちてった。
「ね?」
「すごいね」
どんなもんだい、って顔が、そう褒めると照れで塗りつぶされる。
肩をすくめて首をその間に埋めようとする。
意外に、可愛い生き物だ。
「早いとこ取りにいかないと」
「あわてる必要ないでしょ」
僕は言う。九が前に割り込んで、階段を降り出す。
ホールは外からの青い明かりで満たされてる。月明かり? なにもかもが映えて見える。床には、青い毛布が四枚、折り重なるように広がってる。かすかな明かりでそれが分かる。
それをぼうっと見つめると、前を行く九の、引きずる毛布を踏みそうになってあわてて離れる。
「どうしたの、かえり」
九が止まる。
それでまた踏みそうになって、後ずさりする。
「それ、危なくないの?」
毛布を指さす。
「うん、踏まないでね」
僕は距離を取る。九がホールの一番下に降り立つ。
僕も遅れてホールに降り立って、落とした毛布を適当にかき集めてまた丸める。
九はその間へ扉に近付く。
僕が毛布を肩に乗せて立ち上がると、九が扉を開ける。
僕は青く弱い光の中、九の方へ進む。らせん階段の横をすり抜ける。
「きれいだね」
九が言う。
「うん、そうだろね」
僕は答える。
ドアの前に着いてそのまま通り抜ける。すぐ前で立ち止まって九を待つ。
そのまま九の背にくっ付いて、右に曲がり、カーブする廊下を進み、ごちゃごちゃした道をさらに進んでって最後に左へと曲がり、階段を降りて、歩いて部屋に戻る。
「倉庫、知ってたけど、遠い」
着いた瞬間に九が呟く。
「九はどうやって寝るの?」
「む。その椅子に座って」
「大丈夫なの、それ?」
「なにが?」
「そんなので眠れるの」
「普通に平気だけど。そっちこそ枕とかどうするの」
「僕、枕使わないよ」
「そうなの」
12
九はずいぶんと前にトイレに立った。一緒にトイレ行こうと誘われたけど、断った。
どういうつもりだったんだろ。僕は毛布に手を掛ける。部屋には明かりがなくて、懐中電灯を床に置いて照明の代わりにしてる。外の方がいくらか明るいけど大した差じゃない。ビニール袋には切れ目が見つからない。結局もったいないけどビニール袋を破く。いろんな所で使えそうだったのに。四枚分を全部破いて、出して広げる。ちょっと怖気つくぐらい大きい。広げて床に敷いたら、二人は余裕で寝転がれるくらい。かなりでっかい布団が出来てしまいそうだ。とりあえず、重ねてみる。やっぱり大きい。毛布の間に入り込めばそれなりに暖かいはずだ。
部屋のドアが開く。九がやっと戻ってきた。振り向く。
九はドアから顔を出す。いつもの、はっきりしすぎてる目元。
どうしたの。ずいぶん長いあいだ、帰ってこなかったよね。聞きはしないけど。
「かえり。僕いい感じのソファを別の部屋に見つけたから、そっちで眠る」
九は早口でそう言う。
そんなことしてたの。
「だからこっち移動してきて」
「いやだ」
いろいろあるけど、まずこの毛布を持ってくのにかなり骨が折れる。
「そう?」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
九が出てった。
部屋はまた廊下からの光が消えて暗くなる。明かりは窓からだけになった。
外に目を向ける。窓ガラスに雨の跡だろうか、白く丸い汚れが飛んでる。近付いてみると、いくつかは外で光る星らしい。窓を開けようとして、やめる。
こんなことじゃなくて、他のことが。なにかしなきゃいけないことが。
部屋に視線を戻す。
外の明かりでほんのり部屋の中が見える。これってやっぱり月明かりなのかな。
バッグが目に映る。やっとさっき身体から引き離した所。
拾い上げる。
バッグの中身を確認しないと。なんで。九はきっとなにも取ってない。でも、不安じゃない。九の前に誰かがなにかくすねてるかもしれない。ここには他に誰かいるかもしれない。中を開く。よく見えない。
部屋が暗い。一度閉める。なにか灯り、懐中電灯を。
置いてある机に近付き、椅子を引いて座って、バッグを机の上に置く。ふう。
机の上にある懐中電灯を逆手につかみ、机の上のバッグに向ける。ワインの空き瓶、薄汚れた天井、九が積んでった椅子なんかを懐中電灯の光が順番に照らして、最後にバッグを明るくする。ボタンを外し、中を覗き込む。ぱっと見た限り変なものは入ってない。ただ中はぐしゃぐしゃ。財布の中身もぶちまけられてるし。とりあえず小銭やカードとかを取り除こうか。目に付くものをまっさらな机の上につまみ上げる。一つずつ出していこ。懐中電灯を一度置く。部屋が暗くなる。迷わず手を突っ込む。コンパクトが手の甲に当たる。外に出す。肌触りのいいハンカチが触れる。丁寧に引き上げる。もうどんなことをしても中身の悲惨さはこれ以上上がらない。指の先の感触だけが五感から浮かび上がってる。触っただけでなにか大体わかる。その指先になにか固いものが当たる。なに? 平たい板。知らないもの。撫でると手のひらに吸い付く。革が張ってある。掴んで取り出す。本だ。見慣れないもの。僕のじゃない。ぱらぱらと大雑把に開く。なにが書いてあるか暗くて分からない。中身を触る。紙質が手帳だ。誰、入れたの。閉じて、片手に持ったまま、懐中電灯に手を伸ばす。照らす。外側に黒い革が張ってある。手帳で合ってた。サイズは文庫本より少し大きいくらい。片手で持てるギリギリのサイズ。誰のだろ。僕は、こんなの持ってた記憶ない。
「九が、入れたの?」
懐中電灯を握りしめたまま、片手で開く。真ん中あたりのページ。中にはほとんどなにも書かれてない。各ページの一番上に日付が茶色くあった。その下に、どこで始まってどこで途切れたのか、分かりづらい文章が並んでる。日記帳なのかな。書かれてる文字はつぶれかけてるけど、かろうじて読める。
『六月十八日』
『手元にあるストックがもう乾パンだけ。量も少ない。探しに行こうか。しけんたんすいというのはいつ始まるのだろう。まだか。』
「九のじゃない?」
誰の、この手帳。男か女かもよく分からない。ページをぱらぱらぱらとめくり、止める。一応、どのページにも書き込みはある。
『七月五日』
『また、九が来た。声をかけられたけど、それでも唐突でびっくりした。「ここ気に入っちゃってさ、またふらっと来ていい?」だと。私はなにもしてあげてないのに。懐かれたのかもしれない。こそばゆい。』
この人、九を知ってる。誰だろ。女? まためくる。
『七月十九日』
このページだけ開き癖がついてる。
『試験湛水は八月中には始まるらしい。九に教えてもらった。「聞いたら教えてくれたよ?」このせいで職員に目を付けられてないといいけど。』
試験湛水ってなんだろ。ページを繰り戻す。この人が九に会ったのはいつ。
ぱららら、ら。ずいぶんめくり戻ると目的のページにたどり着いた。
『六月二十九日』
『男の子が来た。いきなり現れたから心臓止まるかと思った。せめて一声かけろ。上から水が降ってきたのを不思議に思ったらしい。見られてるのか。』
水が降ってくる。なにしてたんだろ。
というかこの子は誰だろ。なんでこんなものがここに入ってるの。手帳のいろんな所を開いて名前がないか調べたけど、どこにも書いてない。
やっぱり九が入れたのかな。じゃあこの日記を書いた人は誰? なんでそれを九が持ってるの。
でもまだこのビルの中で九以外の人と会ってないし、他の人物が入れたとも考えづらい。九自身もこの建物に僕以外の人はいないって言ってたし。
九だとしたら、理由が分からない。
ばっと顔を上げる。物音が聞こえたよな。
部屋を見渡す。誰も、なにも、いない。窓が目に入る。近付くけどやっぱりなにもいない。外に水面が見える。
舟を探さなきゃ。忘れてた。早く。出来ればエンジン付きの。倉庫にあるかな。
日記はあとからでも読める。それよりも、先に舟を。
荷物をほっぽる。音を立てるものは持って行かない方がいいよ。倉庫へ。らせん階段の先。あそこにならきっとあるはず。
立ち上がる。ドアをほんの少し開ける。明るくて目が慣れるまで待つ。九に舟を探してることはばれたくない。見つかるのは避けたい。
左右に伸びる廊下に目を凝らす。うん。九はどこにもいない。
廊下に出る。階段はどっちだっけ。道順を思い出しながら進む。まずは右?
13
倉庫に入る。照明がこうこうとついてる。本当に電気は来てないのだろか。廊下の灯りはもっと明るくならないのだろか。新しく毛布を敷いたねどこからここに来るまで、廊下は闇で満ちてた。やっぱり夜には出歩きたくない。
九はどこにいるんだろ。歩き出す。舟を探そ。適当に探すのはきっと無駄が増える。九はそれで見つけられてたけど、あれは九だからだよ。僕は目の前の通路から向こうの壁まで行って、その一つ右の通路に入ってこっちの壁まで戻って、またその右の通路に入って、それを繰り返して右側を順々に見てこう。
進む。舟。舟。棚に入ってるものを注意深く見てく。木箱の中にはサイズ的に入らないだろから、見れば舟だと分かるはず。木箱は無視。首を下に下げ、だんだん上に上げてく。一番下に最初来たときにも見た、太く長い機械が置いてある。改めて見ると大砲みたいだ。次の棚は空で、次も空。
一歩進むと、ぺた、と足が鳴る。
次も空で、その上に木箱がぽつんとある。その一つ上、一番上は、よく見えないけど多分そこにも何もない。上の方を見るのは照明に慣れてなくてまだ苦手だ。反対側に視線を移して、今度は上から下へ。その間にちょこっとずつ歩いて、また次の棚をそうやって繰り返す。
本当に無視でいいの、木箱。
うん。中に例え入ってたとしても、その大きさじゃあ小さくて困るだろし。
舟を見つけて、それでどうしよう。探しながら考える。下ろすんだったら脚立がいる。でもきっと重たいだろし僕には下ろせないよ。じゃあ棚の下の方に置いてあるのかな。それなら下の方だけ探そうか。でも見逃したら後悔しきれないよ。
ねえ。あんな所に置くわけないじゃん。ここにフォークリフトはないんだよ?
そう言い聞かせて、一番下だけに視線を固定して進む。一気にはかどる。
そもそもここにあるのかな、舟。そういうのはもっと下の方に置くものなんじゃないの。例えばもっと下の方にある倉庫なんかにでも入れておくとか。もし下の倉庫が満杯でしょうがなくこっちの倉庫に置いてたとしても、それならこんなにこっちの倉庫がほとんど空っぽになってるはずないよ。
壁に着く。Mの文字が一面に張り付けられてる。こっちは外に繋がってる方。階段が壁を横切ってる。戻ろ。
ぺた、ぺた、ぺた。足音がまた鳴る。僕は足取りを大きくして、反転し隣の鼠色の棚と棚の間に入る。ぺた、ぺた。これはいろんなことをまぎらわすための音。誰も僕の隣にいないことだったり、九がそうじゃなかったり、今僕が一人なことだったり。僕は立ち止まる。交互につま先を上げ、下ろす。ぺたぺたぺたぺた。ずっと続ける。紛らわすため。これじゃつまらないけど。九のあの不思議なリズムはどうやってるんだろ。たったたたった、だっけ? 再現しようかって一瞬考えるけど、足をくじきそうだからやめる。早く探すのに戻らなきゃ。
舟は多分ここにはないよ。探すだけ無駄。すぐにその結論を思い出す。
じゃあどこにあるの。探しながら考えてる。
ぺたっ、ぺたっ。足音をわざと大きく立てて進む。
空、機械、空、空、木箱。一方の棚の一番下だけを見ながら足早に進む。どれも違う。反対側はずっとどこまでも毛布が詰まっててさっきから目に入れてない。
どこにあるかなんて分からないけど、下の倉庫にあるならもう沈んじゃってるだろし。誰かが住んでたような普通の部屋にはまずないだろし。それならもう見つからないんじゃない?
じゃあどうやってここから脱出するの。救助してもらうしかないのかな。その方法は出来れば選びたくない。救助されたら僕の名前が出てしまう。そういうのは避けなければ。せっかく逃げ切れそうなんだ。舟を。舟を探さなきゃ。
歩く。毛布の並んでる通りが終わってしばらく空の棚が続く。進んでく。木箱、しばらく空。先の方にまた木箱。ぱっと見てこの通路に舟はないって分かる。向こうまでさっさと歩いて、次の通路に行こ。速度を速める。
足音大きいまま走ろうとして、丸めた爪先で地面を蹴っちゃって転びはしなかったけど座り込む。痛い。しばらく膝を抱えて左足の指先を両手で温める。じくっ、じくっと痛むけど、歩けないほどじゃない。立ち上がる。
すぐに向かいの壁に着く。戻ってきた。通路を左右に首を振って眺める。誰もいない。ドアは僕が最後に触ったときのまま、しっかり閉まってる。さあ、次へ。どのみちこんなにすぐ帰るわけにはいかないし。もうちょっと時間をかけないと来た意味がない。
ターンする。通路に入る。この辺りは木箱が密集しててわりあい混雑してる。
「かえり」
大声。九。
呼ばれる。
振り返るとドアが動いてる。声がびぃぃ、って響く。来る。なんで。珍しく並んでる木箱の陰に隠れる。まだ見られてないはず。なんでここが分かったんだろ。
ドアが乱暴に閉められる。
「ねえ、なんでここまで来たの?」
さっきより声が大きく聞こえる。舟を探しに来たの。って心の中で答える。
僕は木箱と棚板の隙間から向こうをうかがう。なんで僕がここにいるって、分かったんだろ。
「ねえ、いるでしょ?」
足音がかん、かんと、遅れて大きく聞こえる。九の膝が木箱の前を通過する。
「そこだよね」
かん。
ゆっくり歩いて通路に入ってくる。
かん。
棚に潜る。物音をたてないよに気を付ける。木箱を陰にしてれば逃げれるはず。九は鎌をかけてるだけだよ。ばれてるはずない。まだばれてないはず。なんで怒ってるんだろ九は。知らないよ。
かん。
声だけじゃ分からなかったけど、今、多分九は怖い子。
逃げなきゃ。棚から静かに出る。九の一つ隣の廊下。そのまま走ってドアに滑り込んで帰ろ。トイレに行ってたの、って言ってとぼければきっとなにも言われない。棚からそろりそろりと出る。
かん。
ドアの方を見る。開いてる。あそこまで音を立てずに。
走り出そうとして、
「いた」
九がその方向に現れる。ふわっと。いつそこまで動いた。
こっちに歩いてくる。いつそんなに動いた? さっきまでそこにいたよね。
僕と目が合う。怖い九。
「そんな怖い顔しないで、落ち着いて」
困惑する。どういうつもり?
九は立ち止まる。
「まだ待ってよ。まだ行っちゃ駄目」
この子は。なにを言ってるんだろ。
なにもしないの?
「ね、戻ろう?」
銃を向けてこないの?
「戻るよ」
14
九は僕を部屋まで丁重に送って、「もう出ないでね」と言ってまたどこかに消えた。なんで僕があそこにいるって分かったんだろ。
することがなくて、毛布のあいだに潜り込む。
天井は白と黒の格子。
紅茶の匂いはもうしない。
あの日記は誰のなんだろ。多分九が入れたんだよね、まだ誰とも会ってないし。じゃあ、日記を書いたのは誰。ぼけっと天井を見つめる。と、ドアが開く。首だけ反らしてそっちを見る。毛布を肩に掛け引きずって九が戻ってきてた。
「こっちで眠る」
「そうするの」
「かえり、ほっといたら変な所行っちゃうんだもん、やっぱり」
やっぱり?
「どうしたの、かえり」
「なんでもないよ、九」
「そう。おやすみ」
僕は返事をしなかった。
九が僕の横を堂々と通ってって、首から毛布を外して椅子を引き、それに座って毛布を首まで掛ける。顔をこっちに向けて目を閉じる。寝づらくない?
目が合うのが気まずくて目を閉じる。コートも脱がず毛布のあいだに入り込んでるっていうのに、全然暖かくなくて、僕は身を震わせる。
なにかに僕は追われてる。水、津波? とにかく、僕は街の中を走ってる。周りは高層ビルだらけだ。誰もいない。車も走ってない。静かだ。それに、どのビルも僕を大映し。あれはスクリーンなの? 僕は車道を必死で走ってる。逃げて。逃げて。後ろから大きな波が来てる。前を向いて一心不乱に走ってるはずなのに、その映像が見える。高層ビルをも崩しそうな勢い。ものすごい速さ。影が僕の足元に追いつく。まだあんなに遠いのに。飲まれる。あっという間に影は僕を追い越す。道路があっという間に暗闇に落ちる。僕は足を止める。駄目だ。振り返って、水に、
起きても、九は部屋にいなかった。あれ。毛布だけ取り残されてる。
部屋が明るくなってる。窓の外が明るい。カーテン引こうなんて一度も思わなかった。
立ち上がる。身体がばきばき。
毛布を丸めようとする。しゃがむだけで背中の筋肉がぴくっと痙攣する。
これはまともに動けないかも。ふらふら歩く。
空気がこもってる。窓へ近付く。
窓を開ける。風が冷たくてすぐ閉める。窓を閉めて外を見る。
九はどこに行ったんだろ。昨日、九の部屋を聞かなかったのはまずかったかな。
ぼうっと九を待つことにした。髪がべたつく。ああ、お風呂、それは無理だったんだ、せめて顔洗いたい。歯を磨きたい。無理なら口だけでもゆすがせてほしい。トイレに行きたい。天然水の2Lペットボトルどこにやったっけ。
部屋をしばらく漁り、見つける。まだここにほとんどいないのに、なんでもうこんなに汚れてるんだろ。僕はなにもしてない。頭がぼうっとして、上手く考えられない。あ、顔を洗うのはいいけど、なにで拭くの。清潔なタオルなんてどこにもないだろし、毛布は水を吸わないし。
そこまで考えて顔を洗うのはあきらめて、天然水と昨日見つけたウェットティッシュのボトルを抱えてトイレに行く。用を足す。
帰ってきて、毛布の上にしゃがんで考える。いくら待っても九は来ないのかな。むー、屋上かな。行ってみようか。
いや、しばらくしたら戻ってくるはず。待つことにした。
毛布に倒れ込む。ぼふっ。うつ伏せのまま、窓から外を眺める。雲が流れてく。時が流れてくのを、ただ待つ。
九はどこにいるんだろ。
もう先に作業始めちゃってるのかな。いや、あれだけ手分けするのを嫌がってた。理由は分からないけど。じゃあ下見に行ったとか? 九は倉庫を探したがってた。かえりはもっと遅くまで寝てるはず、みたいなこと考えて。
じゃあ、それならやっぱり待ってれば九は戻ってくるんだ。
また外を見る。厚い雲が流れてきて、陽射しが遮断される。窓辺からの景色は変わり映えのしないものになる。
ふと疑問を覚える。
こんなことを考えている場合ではなかったはず。
「…なにかしなきゃいけなかったはず」
なんだっけ。
舟、かな。それはもう昨日やった。他に倉庫が見つかってない以上、やらきゃいけないことはそれじゃない。あ、九に舟を探してることはばれてないんだろか。
何時間くらい僕は寝てたんだろ。時計を見ると、八時間くらい。寝すぎ? どんなときでも眠れるのはいいことだよ。言い聞かせる。
昨日やったこと。今日続きをしなきゃいけないこと。なにかなかったっけ。
突然思い出して僕は立ちあがる。
メモ帳。水位。測ってるの忘れてた。あれを撒いたのはいつだっけ。
下に降りなきゃ。
15
窓ガラスが割れてる。吹き込む風が音を立てる。風に当たるととさすがに少し寒い。下を覗く。九がいる。手すりの間から見える。階段にしゃがみ込んでぼけっと。裸足? 丸まってる背中に縦の細い皺がいくつも出来てる。ここにいたの。
「おはよ」
一階上から手すりのすき間を通して声を掛ける。
九がこっちを見る。さっきまでの背中の位置に顔が来る。
視線を外す。一つ下の廊下を見ると、ドアが開いてる。衣装部屋。あわてて中を覗く。スカートとハンガーが散乱してる。知ってる所だ。本物。九は嘘を吐いてた。十三なんかじゃない。僕のねぐらは沈んでない。ストーブはまだ生きてる。
それから落ち着き払って九のもとへゆっくり向かう。水面のきらめきが見える。ここが一番下。あと回収できてないメモ帳の切れ端は一枚だけ。
「もう起きたんだ。すぐ戻るつもりだったのに」
九が言う。どれだけ人のことを遅起きだと思ってるの。僕はすぐ上の踊り場に最後の切れ端を見つける。ふうん、夜の間水は動かないのか。
「なんでまたここいるの」
廊下は水に浸かってるのか。だから仕方なく階段に腰掛けてる。
「なんか好き」
九は水面を見つめたまま答える。いろんなごみが水面にぷかぷか浮いてるけどそれが珍しいのかな。
「それ、いきなり水面が上がってくるんだよ」
階段を下りてく。踏み外さないように、慎重に。
「知ってる」
「危ないよ」
ここは水の近く。転んではいけない。転んでは。
「知ってるよ。でもごくたまにだし」
「上戻ろうよ」
僕は前かがみになりながら手すりに捕まって声を掛ける。
「そうしようか」
九がそう言う。立ち上がり、九が階段を昇ってくる。手を振って「戻るよ」ってジェスチャーする。僕は息を吐き姿勢を正して、それから上へと戻ろうとする。
と、九の肩越しにゴミに紛れて揺れる小舟を見つける。言葉を失う。
なんで。なんでここに。思うけど、まとまらない。
「今まで、どこ、行ってたの」
なんとかその単語だけを絞り出す。
いやそんなことは分かってる。あの女の子の部屋だ。
「どこって」
「それ、なに」
右手で九の背後、波打つ水面を指さす。腕が震える。
女の子がいる。僕がコートをもらった女の子。仰向け。ちっさな舟の上。無理やり積んでるせいで首がのけぞって顔が見える。
「これ? 見つけたの」
「生きてるの?」
死んでるんだよね?
死んでたよね?
「うん、死んでるよ」
九はあっけらかんと、死体拾った、って口にする。
ぎゅぅぅぅ、とどこからか音。耳の奥。耳鳴り? 同時に耳と頬のあたりが熱くなってくる。
「なんで?」
「あ、そうだ。かえり、靴なくて困ってたじゃん、この人からもらったら?」
「ねえ、なんで?」
「む、なに?」
「なんで拾ってきたの」
「え、なんとなく」
なら放っておいてよ!
「捨ててきて」
舟が揺れてる。女の子がこっちを見てる。
「え?」
「捨ててきて」
「やだ」
なんでよ!
「このまま川に飲み込まれるのはかわいそう。助かるつもりでしょ僕ら」
捨ててきて、って言葉を飲み込む。
感情的に話しても仕方がないよ。
「うん。助かるつもり」
そう答える。
「なら、ついででいいからきれいに弔ってあげよ? お魚に喰わせるとかじゃなくて」
弔う?
窓ガラスに当たる風がひゅおぉぉ、と音を立てた。
僕は九とも一度目を合わせる。
「でもこの子の家はここなんじゃない?」
一緒に沈めてあげたほうが優しさじゃない?
おこがましい気がするよ。
「他の家族は逃げれてるはずだから。その人たちに任せれば」
「そうか。そうだよね」
僕ならこんな汚くなってまで家に帰りたくないけど。
女の子と目が合う。ごめんね。せめてちゃんと届けるから許して。
「でもこの人、このままだと腐っちゃうよ?」
「氷とか?」
九の言ったことが理解できない。
「えっと」
「氷に漬けとく?」
「ああ。けどどこにあるの、氷」
さすがに水道は止まってるだろし氷が見つかるとは思えない。
「ああそうか。ないか」
「冷蔵庫の中ならまだ冷たかったけど」
「入る?」
入らないよ。
「それは無理」
いくらこの子が小さくても厨房の冷蔵庫の一スペースには入らない。あとは膝上くらいのサイズのちっさい冷蔵庫しか見かけてないし。
「けど、冷蔵庫に入ってる保冷剤とかかき集めれば冷やせなくはないと思って」
水面が前触れもなく揺れる。九の腕を掴んで駆け上がろうとして、気のせいだって気付く。
「なんでもない、気のせい」
「入ってたの?」
九はそのまま続ける。
「保冷剤? 入ってるんじゃないの?」
九はその言葉に目を丸くする。
会話が途切れる。九は目を丸くしたまま僕の顔を見つめてる。
「今そんな段階で本当に集まる?」
九が探るような、一つ一つ確かめるような言い方で言う。
「集まらないね」
僕は即答する。
むむ、どうしようか。
九は階段の上り下りを始める。動きが目に邪魔。視線を反対にやる。
水面が揺れる。その先で舟が揺れる。女の子。
ぎゅぅぅぅ。また耳鳴り。
「ね、九」
僕は振り返らず口を開く。
「どうしたの」
「なんで今、ここにいるの」
「む? ここで水面見てるのが好きだから」
「じゃあなんで女の子と舟を探し当ててるの」
僕は舟を見つめたまま聞く。ならそこでじいっとしてればいいのに。女の子の部屋はそう遠くないけど、ふらっと行ける距離じゃない。九、嘘吐いてるよね?
「なにか問題あった?」
九は悪びれず言う。きっとなにかが悪かったのか気付いてない。
ねえ、本当のことを言って?
振り返る。階段の上で九が僕の気配をうかがってる。
「靴脱いで歩き回っちゃ駄目だった?」
そう探るよに口にする。
九が裸足だったことを思い出す。
水面がちゃぷん、と音を立てて僕はそっちの方を見る。
かすかに波紋が広がる。ごみや舟にすぐ当たって、散乱して、見えなくなる。
「そもそもこの舟どこから調達したの?」
「普通にそこらへんの部屋の中の目立つ所に立てかけてあったよ」
九はそっけなく言う。
飾ってあったの。
「で、これは使えそう一回上に戻ったら取りに来ようなんて思いながら次のドア開けたら中にこの人が転がってるから」
「それは上の階で見つけたの」
「そう」
一つ上の階ストーブ見つけるとき結構探したのに、そんな部屋気付かなかった。
「その部屋からここまで引きずってきたの」
九が頷く。
「重たくなかった?」
「重たかったよ」
僕は頑張ったって達成感が顔に出る。
この子で持てるってことは僕にも可能ってこと、だよね。
「それで、どこに持ってくの、九、この人」
「どこって、なんの話?」
「この人をどこというか、どうやって水面から離そうと思ってる。ね、なんで水面の上なんかに持ってきたの」
「水面の上だとまずかった?」
水面が上がってくるの見たことないのか。
「絶対転覆するよ、このままじゃ」
「そうなの?」
「そうなの」
九がくしゃっ、ってなる。
「どうしよう」
うるんでる目が一層涙をたたえる。
「どういう計画で上まで運ぶつもりだったの」
あわてて質問をする。優しく、優しく。泣かれる前に、出来るだけ多く情報を。
九は表情を無理やり戻す。
「えと、紐を階段に沿って上まで張っておけば、水面が上がってもその紐を辿って上がってくるかなって」
まだ作り始めてないの。
「そんな生やさしいものじゃない」
洪水とか鉄砲水とかって言った方が適切。それじゃ上手く行くはずない。せっかく見つかった舟。みすみす沈ませるわけにはいかないよ。
九の計画通りに従って紐だけ付けとけば、沈んでもあとで回収できない?
どこかに引っ掛かっちゃったらどうするの。九の蛮行はだから止めるべき。
でもこれは好都合だよ。舟が向こうからやってきた。これでいつでもここから逃げ出せる。
今すぐ舟を強奪して、逃げ出さないの。
この子は怖い子。
いいけど、
まだ食糧が集まってない。水も十分じゃない。たくさん集まってはいるけど、まだ十分じゃない。早くそれらを。
ねえ、逃げたあと九はどうなるの。
泳いで逃げるんじゃない? 屋上の木を燃やしてから。
自分の心配が先だよ。
「じゃあ九はどうしたらいいと思う」
水を向けられる。回収しやすい、それでいて転覆しない場所へ。食糧よりも水よりも、まずは舟を安全な場所へ。
「む、舟をどうにかして建物の外に出して、で屋上とその舟を縛っておけば、絶対流れてかないし転覆もしない」
とりあえず思ったことを口に出す。早くしなきゃ。
「外なら転覆しないの?」
む。
「水の勢いがすごいのは、建物に入ってくるときの水の穴が小さいからなはず」
「じゃあ、窓ガラスとか全部割っちゃえばいいんじゃない」
九が涼しい顔で言う。
「それやるならもっと大きな穴開けなきゃ駄目じゃない?」
「そう?」
「それに外に出しちゃう方がそういうことするより多分簡単」
陽の光がばあ、って急に窓から強く差し込む。雲が切れたのだ。
そう、まだ朝だよ。僕は思い出す。それを見て、ひらめく。
「ねえ、あの子って水に浮くの?」
「知らないけど。多分浮かない」
「そう」
浮かなくても出来なくはないか。
「なにするつもりだったの」
「えっと、九にあの子を抱えて一階上に行ってもらって、僕も舟を持って同じよに昇って。どこか適当な部屋の窓から九に川面に飛び込んでもらって、僕がそのあとで舟を投げ込むからそれにあの子を乗せる。あれ、これじゃ駄目か」
屋上に紐が繋がらない。
「なんで僕?」
「問題ある?」
やっぱり駄目?
「屋上から舟投げればいいんじゃないの?」
九が背負い投げみたいな動きをする。
「衝撃で壊れちゃうよ」
陽が弱まる。また暗くなる。
いい考えだと思ったんだけど。
「ね、九。あの舟って重たかった?」
そう一応聞いてみる。
「重いよ」
九は、また階段の上り下りを再開する。
「じゃあ、やっぱり駄目か」
舟をくくりつけたあと、僕が紐を引っ張りつつゆっくり水面を下ろしてくのも。
「やっぱり窓ガラス全部割るの効果あるんじゃない」
タップ音に混じって九がしゃべる。
「あるかもしれないけど」
あ。
「ねえ、九」
「なに」
九が止まる。階段は静まり返る。風も水面も凪いでる。
「そんなことしなくても紐、屋上から垂らして下で舟と結べばよくない?」
なんですぐ思いつかなかったんだろ。
九は首を傾げる。
「だから舟落とす前に上行って手すりに紐結ばないとね」
そう続ける。
分からないよ、って目でアピールしてくる九を無視して水面に目を落とす。女の子。あとで体勢を直してあげないと。九に弔う気持ちはあるんだろか。ただ詰め込んでるだけにしか見えない。死体を手に入れてみたかったから、以上の感情がそこから見抜けない。これも嘘じゃないんだろか。死体はどういう風に置かれてたっけ。九が惹かれる要素がなにかなかった。部屋の様子を思い出そうとする。
また風がびびゅう、と鳴る。上の割れた窓。あれ。
なにかおかしくない?
「ねえ、窓を割ったのは誰?」
びびゅうぅぅ。
風がひときわ大きく。僕の言葉を覆い隠すよに。
「最初から割れてたよ」
おかしい。
「本当? 九ここに来たことない?」
僕が最初ここを通ったときは割れてなかったはずだ。死体を最初に見たとき。
九と一緒にこの階段を通ったときも割れてる窓はなかった。九もここは知ってるはずだよ。
「どこも一緒に見えるから分かんないよ」
「食糧探して下まで降りたとき、割れてる窓なんて見かけた?」
「覚えてないよ、どうでもいいこと」
そうだろか。
記憶をも一度洗い直す。割れてなかった、はず。
「かえり、本当にそうなの?」
「なにが?」
九が突然話しかけてくる。
「いや、さっき水が、がーって上がってくるって言ってたじゃん。勢いよく」
「うん? うん」
なんの話だろ。
九は窓のすぐ下で踊るよに動き続ける。
「それって川面自体がものすごい勢いで上がってるからとは考えられない? ビルの中に水が入るのが遅いからじゃなくて」
腰の後ろで手を組んで、前かがみになったまま左右へ歩を進める。顔はこちらに向けたまま。うん、そうかもしれない。
「じゃあ、やっぱり外に置いておいても転覆しかねないから、僕らがこの人担いで上まで行かないといけないんじゃないの」
「大丈夫だよ」
多分。
「なにが」
九が体を起こす。後ろで組んでた腕を離し、少しだけ両側へと広げる。
「階段の所で無理矢理水がねじ曲げられちゃってる所に巻き込まれたらひっくり返っちゃうけど、ただ水位が上がるだけなら、大丈夫なはず」
僕は窓の外がまぶしくて目を逸らす。しゃべりながら水面へ振り返る。
まだ凪いでる。その上に舟が浮いてる。へりに開いた穴から伸びた紐が九の手元まで伸びてる。動きがあったらすぐ上へ逃げるよ。
「だからむしろ問題なのはこのまま外に出しちゃって、腐らないかどうかだよ。太陽に当たったらまずそうじゃん」
温まっちゃったらすぐ腐りそうだ。
僕も踊り場へと上がる。これ以上踊られるのは話すときに邪魔だよ。
「じゃあ日差しが当たんないようにすればいいんじゃないの」
九は僕を迷惑そうに一瞥して、それから答える。
「木の板とか、できるだけ温まりにくそうな分厚いもので」
そう続ける。
僕が黙ると、半分になったスペースでそれでも踊ろうとする。近付いて、僕へ背を向けたとき肩に手をやり止める。
「やめて」
「む」
九は動きを止める。
あとは。
「汚さないように出来ないかな」
「なにを?」
「舟」
「なんで?」
「できるだけ綺麗な状態を保っておきたいじゃん。虫とか湧いちゃったら、後々使いたいときに大変だし」
死体と一緒にボートの旅、っていうのは避けたい。
「じゃあ、ビニール袋で覆う?」
九が舟を指さしながら言う。また階段を降りてくつもりみたい。
ビニールで包んでるなら、まあ、一緒に舟に乗ってもある程度は大丈夫、だよね? 死体に触れなくてもなんとか乗れるスペースは取れそうだ。
「ビニール袋はそこらへんに落ちてるから大丈夫だし、木の板も多分どこかにはある」
そう続ける。板なんてどこにあるの。
「僕が舟を一緒に水面に落ちて、それでそこでかえりに色々渡してもらいつつ作業すればいいよね」
それでいいの?
「平気だよ。変な顔しなくても大丈夫だから」
九が僕の顔を見て言う。そんな変な表情してた? って僕は今さら顔を隠す。
「それならいいんだけど」
「最初にかえりが言い出したんじゃん」
「そうだったね、ごめん、ありがと」
「これで問題はないのかな?」
九は言う。僕はしなきゃいけないことを頭の中に列挙する。
どう探そう。
「上の倉庫にあるかな?」
あるとは思えないけど。木箱の中? あの中にはなにが入ってるんだろ。
「どうだろ」
とりあえず行ってみるか。
陽がまた差し込んで、水面が光る。
ここに舟を残していくの?
「かえり、」
九に呼ばれて振り向く。
「なに」
「倉庫の場所、他に心当たりある」
今さら?
「本当?」
冷やかに、それでも一応反応する。
どこにあるって言うつもりだろ。
「こっち」
九は階段を昇ってく。
どこへ。水面が光ってまた光が目に刺さる。置いてくの?
「どこ行くの?」
「ついてきて」
九が一度戻ってきて、僕の手を掴み引っ張る。
何度なにを聞いても「ついてきて」としか答えなくて僕はふてくされる。
「九、そこにあるって確信があるの?」
階段の上で僕はそう答える。九に腕を引っ張られて歩きづらい。太陽はまた雲の中に隠れてしまったみたいで僕らはうす暗い中を進む。
「なにが?」
九が聞き返してくる。こういういちいちに少しだけいら立つ。声に出すまではないけど、ほんの少しだけ、九が許せなくなる。なんとなく仲良くなれた気がしてるけど、怖い九だったり、こういう所だけは、やっぱりまだ無理だよ。
黙って、質問に答えてくれるのを待つ。
「探してるいろいろ」
負けて、僕は仕方なく答える。だいぶぶっきらぼうな言い方になって言葉を掴んで握りつぶしてやり直したいな、って考えるけど、でも納得してないって九の前では全面に出しとかないとろくなことがないよ、って僕は自分を言いくるめる。
「多分」
また多分。
いらだってる理由が理不尽じゃない?
腹が立つんだからしょうがないじゃん。
「食糧残ってるかは怪しいけど、その他の物は多分手に入る」
九がそう言って、また静かになる。僕は九に引きずられて進む。前かがみにならないと歩きづらくて戸を振りほどこうとするけど、九はまた離してくれない。
「どこにあるの、そんな所」
僕は聞く。
「物置だから。普通の部屋にそういうの集めてるの」
「誰が?」
九が黙る。あれ。僕は顔を上げる。九の顔を後ろから見つめる。頬に皺が寄って何やら悩んでるような表情。どうしたんだろ。
「あの子が。集めてた、が正しいか」
九がやっと答える。
「あの子?」
「そう。下で水の上に浮いてるあの子」
九が言葉を口にして、立ち止まって、下をちらりと一瞥する。
やっぱり知り合いか。




