第9話 二百年と、あの夜(カイゼル視点)
番の香りを初めて感じたのは、一年ほど前のことだった。
ドラヴェールの交易局から上がってくる書類に、いつものように目を通していたときだ。
リンデン王国のブランデル侯爵家から届いた、竜鉱石の取引明細。
その紙から、ふわりと、かすかな香りが立ちのぼった。
雪解けの水のような、澄んだ冷たい香り。
その瞬間、体の奥に眠っていた火が、二百年ぶりに大きく揺れた。
(……番だ)
信じられなかった。
二百年。
成竜になってから、番を探し続けて二百年が経っていた。
同じ年に生まれた竜たちは、次々と番を見つけていった。見つけられないまま、静かに山の奥へ消えていった者もいた。
俺もいずれそうなるのだと、いつからか諦めていた。
番を探すことをやめ、ただ公爵としての務めを果たすだけの日々。
誰にも心を動かされず、誰にも触れさせず。
城の者たちが俺を恐れるのも、当然のことだった。
それなのに、一枚の紙切れが、すべてを変えた。
ブランデル家から届く書類を、すべて取り寄せた。
香りがするのは、決まって同じ筆跡で書かれたものだった。
細く、几帳面で、少しも乱れのない文字。
数字の一つひとつまで丁寧に書かれた帳簿を見ているうちに、この文字を書いた人の姿が、少しずつ浮かんでくるような気がした。
けれど、ブランデル家に問い合わせても、返ってくるのは「当家の者が書いております」という答えだけだった。
だから、使節団の長を自ら引き受けた。
リンデン王国へ行けば、必ず見つかると信じて。
あの夜会のことは、今でもはっきりと覚えている。
大広間に足を踏み入れた瞬間、香りが一気に濃くなった。
すぐ近くにいる。
だが、人が多すぎた。香水や酒の匂いに紛れて、どこにいるのかが分からない。
国王との退屈な挨拶をこなしながら、俺は広間じゅうに目を走らせていた。
壁際に、紺色のドレスを着た娘が立っていた。
一瞬だけ、目が合った気がした。
娘はすぐにうつむいてしまい、そのあとは人の波に隠れて見えなくなった。
やがて、広間の中央で、男と女が踊り始めた。
周囲の貴族たちが、ひそひそと何かを噂している。
「姉のほう」「捨てられた」「氷の手の令嬢」。
耳障りな言葉ばかりだった。
そして気づいたときには、香りが広間から遠ざかっていた。
俺は宴の途中で席を立ち、香りを追った。
廊下を抜け、中庭に続く扉の前まで来たとき、話し声が聞こえてきた。
『お前との婚約は、今夜をもって破棄する』
植え込みの陰から見えたのは、噴水のそばに立つ紺色のドレスの娘だった。
その前に、男が一人、女が一人、そして年配の夫婦が並んでいた。
男が、娘を罵っていた。
妹だという女が、涙を浮かべながら嘲笑っていた。
父親と母親が、娘を見捨てていた。
娘は、泣きもせず、怒りもせず、ただ静かに頭を下げていた。
その姿を見た瞬間、全身の血が沸騰するかと思った。
あれが、俺の番だ。
二百年探し続けた、たったひとりの番だ。
その番が、目の前で、まるで価値のないもののように扱われている。
喉の奥から、炎がせり上がってきた。
中庭ごと、あの者たちを焼き尽くしてやりたかった。
(……だめだ)
かろうじて踏みとどまったのは、娘の顔を見たからだった。
あの娘は、誰かが焼かれることを望むような顔をしていなかった。
ただ、悲しみに慣れすぎてしまった顔をしていた。
だから、炎を飲みこんだ。
そして男が「お前の代わりなんて、いくらでもいる」と言った瞬間、もう黙っていることはできなかった。
「閣下」
執務室の扉が叩かれ、ベルンが入ってきた。
「リンデン王国より、国王の親書が届きました」
俺は親書を受け取り、目を通した。
長々とした謝罪の言葉が並んでいた。
だが、その中身は結局のところ、責任をすべてブランデル侯爵家とローエン子爵家に押しつけ、竜鉱石の輸出と航路の護衛を再開してほしいと願うものだった。
「……話にならんな」
「いかがなさいますか」
「輸出の停止も、護衛の停止も続けろ。リンデン王家がどこまで本気で責任を取るか、見極めてからだ」
「承知いたしました」
ベルンは一礼してから、少しためらうように口を開いた。
「閣下。長老会での件ですが……マルグリット様に、番の契りのことをお話しにならないのですか」
俺は、窓の外に目をやった。
城の中庭で、マルグリットがルシエラと並んで本を読んでいるのが見えた。
ルシエラが何か言ったのだろう。マルグリットが、口元を押さえて小さく笑っている。
城に来たばかりのころは、笑うことさえ知らないような顔をしていたのに。
「……まだだ」
「ですが」
「番の契りを結べば、マルグリットは人間ではなくなる。竜の寿命を生き、竜とともに死ぬ。二度と、人の世界には戻れない」
俺は、拳を握りしめた。
「あの娘は、ようやく自分で何かを欲しがることを覚えたばかりだ。本が欲しいと、たった一言言うのに、どれほど震えていたか」
ベルンは、黙って聞いていた。
「そんな娘に、契りの話をすればどうなる。俺が望んでいると知れば、あの娘はきっと、自分の気持ちなど考えずに頷くだろう。……それでは、あの家にいたころと何も変わらない」
番を失うことは、恐ろしい。
だが、番に何かを強いることのほうが、俺にはずっと恐ろしかった。
「マルグリットが、自分で選べるようになるまで待つ。何年でも、何十年でも」
「……承知いたしました」
ベルンは深く頭を下げ、部屋を出ていった。
俺はもう一度、窓の外を見た。
冷たい手をした、俺の番。
あの手が、誰かに強いられるのではなく、自分の意思で俺の手を取ってくれる日が来るまで。
そして――あの夜、番を辱めた者たちのことは、決して忘れない。
竜は、執念深い生き物なのだから。




