第10話 陰りはじめた王国
リンデン王国の王都では、少しずつ、けれど確実に何かが狂い始めていた。
最初に異変が起きたのは、港だった。
竜人国が南方航路の護衛から手を引いたという知らせが広まるやいなや、海賊たちが一斉に動き出したのだ。
これまでは、空から紅や青の竜が見張っていたおかげで、どんな海賊も航路に近づこうとはしなかった。
その護りが、消えた。
ひと月のあいだに、三隻の商船が襲われ、積み荷を奪われた。
南方の国々の商人たちは、リンデンの港に寄りつかなくなった。
次に、竜鉱石が届かなくなった。
竜鉱石は、王都の灯りにも、職人たちの炉にも、騎士団の武具にも欠かせないものだった。
蓄えはみるみる減っていき、値段は日ごとに跳ね上がった。
王都の商人たちは、口々にささやき合った。
「ブランデル侯爵家のせいらしいぞ」
「竜人公爵の番を、夜会の晩に辱めたんだとか」
「婚約者を捨てて、その妹に乗り換えたって話だ」
「その捨てた婚約者が、竜人公爵の番だったんだろう? とんでもないことをしてくれたもんだ」
噂は、またたく間に王都じゅうに広まった。
「どういうことだ、オスカー!」
ブランデル侯爵家の執務室に、侯爵の怒鳴り声が響いた。
机の上には、帳簿と請求書の山が積み上がっている。
「この二か月、帳簿がまるで合わん! 支払いは滞り、取引先からは苦情ばかりだ。お前は何をしていたんだ!」
「そ、そんなことを言われても……帳簿なんて、マルグリットがやっていたんですから」
オスカーは、ふてくされたように答えた。
マルグリットがいなくなってから、帳簿をつける者がいなくなった。
試しに雇った書記は、ブランデル家の複雑な取引を半月もしないうちに投げ出した。
調べてみれば、マルグリットはこの三年間、膨大な取引の一つひとつを細かく記録し、取引先とのやりとりも、竜人国への書状も、すべて一人でこなしていたのだという。
ブランデル家がこれまで大きな問題もなく交易を続けてこられたのは、マルグリットがいたからだった。
そのことに、侯爵もオスカーも、まったく気づいていなかった。
「だいたい、借金の返済なら、あの竜人がよこした宝石があるでしょう。あれを売れば――」
「売れるものなら、とっくに売っている!」
侯爵は、机の引き出しから深紅の宝石を取り出し、乱暴に机に置いた。
グラナートの名を持つ柘榴石。
あの夜、竜人公爵が投げてよこしたものだった。
「どこの宝石商も、これを買い取ろうとせん。『竜人公爵の家名がついた宝石など、手を出せば竜の怒りを買う』とな。王都じゅうの宝石商が、口をそろえて同じことを言うのだ!」
「そんな……」
小さな領地がまるごと買えるほどの宝石が、ただの石ころと変わらなかった。
さらに悪いことに、竜鉱石の取引が止まったせいで、ブランデル家の収入は半分以下に落ちこんでいた。
隠していた借財も、次々と表に出始めている。
「……それだけではない」
侯爵は、疲れ切ったように椅子に沈みこんだ。
「陛下から、呼び出しがかかった。明日、王宮へ参上せよとのことだ」
翌日、謁見の間に呼び出されたブランデル侯爵とオスカーを待っていたのは、怒りに顔を赤くした国王だった。
「そなたらのしでかしたことで、王国がどれほどの損害を被っているか分かっておるのか!」
玉座から投げつけられた声に、侯爵は床に額をこすりつけた。
「も、申し訳ございません、陛下。ですが、我々は竜人公爵の番だとは知らず……」
「知らなかったで済むと思うか! 竜人国からの返書には、こう書かれておった。『番を辱めた者たちが相応の報いを受けぬかぎり、交易の再開はない』とな」
国王は、苦々しげに玉座の肘掛けを叩いた。
「余は、竜人国にこれ以上の非礼を重ねるわけにはいかぬ。ブランデル侯爵家、ならびにローエン子爵家については、追って沙汰を下す。それまでに、己の不始末をどう償うのか、よく考えておくことだ」
謁見の間を出たあと、オスカーは震える声で父に詰め寄った。
「父上、どうするんですか。このままでは、ブランデル家は……」
「分かっておる」
侯爵は、しばらく黙りこんでいた。
やがて、何かを思いついたように顔を上げた。
「……マルグリットを、連れ戻せばいい」
「え?」
「あの娘さえ戻れば、帳簿は元通りになる。竜人公爵には、あの娘自身に詫びを入れさせ、もう一度婚約者として迎えると言えばよい。そうすれば、竜人国の怒りもおさまるはずだ」
オスカーは、一瞬ぽかんとした顔をした。
それから、ゆっくりと口元をゆがめた。
「なるほど。マルグリットなら、俺たちが頭を下げればすぐに戻ってきますよ。あいつは昔から、言われたことには逆らえない女ですから」
その言葉が、どれほど見当違いなものか。
このときのオスカーには、まだ分かっていなかった。




