第7話 冷たい手と逆鱗
その日、カイゼル様は夕方になっても部屋に来なかった。
城に来てから、初めてのことだった。
(お忙しいのかしら)
本を読もうとしても、なぜか文字が頭に入ってこない。
落ち着かずに廊下をうろうろしていると、テアさんが小走りにやってきた。
「マルグリット様、少しよろしいですか」
「どうかなさったのですか」
「閣下が、熱を出して寝こんでおられるのです」
「熱を……」
テアさんの話によると、竜人は体の内に火を抱えて生きているのだという。
怒りや強い感情を無理に抑えこむと、行き場を失った火が体の中にこもり、ひどい熱になることがあるらしい。
「あの夜会の日から、閣下はずっと怒りを抑えていらしたのだと思います。マルグリット様の前では、決してお見せにならなかったけれど」
あの夜。
中庭で、カイゼル様は誰のことも傷つけなかった。
噴水の石にひびが入るほどの怒りを、ずっと抑えてくれていたのだ。
(私のせいで……)
胸が、きゅうっと痛んだ。
「お見舞いに、行ってもいいでしょうか」
「ええ、ぜひ。閣下も、きっとお喜びになりますわ」
カイゼル様の部屋は、廊下の突き当たりにあった。
扉を開けた瞬間、むっとするような熱気が押し寄せてくる。
暖炉には火が入っていないのに、真夏のような暑さだった。
大きな寝台の上で、カイゼル様は苦しそうに目を閉じていた。
額には汗がにじみ、首筋の紅い鱗が、熾火のようにちらちらと光っている。
「カイゼル様」
そっと呼びかけると、金色の瞳がうっすらと開いた。
「……マルグリット? 来るな。部屋が熱いだろう」
「平気です」
私は寝台のそばに膝をつき、少しだけためらってから、カイゼル様の額に手を当てた。
燃えるように熱かった。
「……っ」
カイゼル様が、小さく息をのんだ。
そして、張りつめていた顔から、ふっと力が抜けていった。
「……冷たい」
「ごめんなさい、嫌でしたか」
「いや。……楽になる」
私はもう片方の手も、カイゼル様の頬に当てた。
ブランデル家で「死人みたいだ」と言われた手。
社交界で「氷の手」と笑われた手。
その手が、今、誰かを楽にしている。
しばらくそうしていると、部屋の熱気が少しずつ和らいでいくのが分かった。
カイゼル様の呼吸も、だんだんと穏やかになっていく。
(……でも)
ふと、ずっと胸の奥にあった不安が、顔を出した。
(カイゼル様が私を番に選んだのは、この手が冷たいからなのかしら)
熱を抱えて生きる竜にとって、冷たい手はきっと心地いい。
だとしたら、私でなくても、冷たい手をした人なら誰でもよかったのではないだろうか。
代わりは、いくらでもいる。
その言葉が、また頭の中で響いた。
「……何を考えている」
いつの間にか、カイゼル様が私を見ていた。
「顔が曇っている」
「……いいえ、何も」
「嘘だな。俺に隠しごとは向いていないぞ、君は」
私は、少しだけ迷ってから、小さな声で尋ねた。
「カイゼル様が私を番だと思ったのは……この手が、冷たいからですか」
カイゼル様は、しばらく黙っていた。
それから、私の手を額から外して、自分の両手でしっかりと包みこんだ。
「番は、手の温度で選ぶものではない」
「でも……」
「たとえ君の手が、俺と同じくらい熱かったとしても。俺は、あの中庭で君の前に膝をついていた」
熱にかすれた声なのに、一言一言が、まっすぐ胸に届いた。
「冷たい手は、君の一部だ。だから愛しい。それだけのことだ」
そう言うと、カイゼル様はゆっくりと体を起こした。
そして、首もとの襟を少しだけくつろげた。
喉のすぐ下に、ほかの鱗とは逆向きに生えた、ひときわ鮮やかな紅い鱗が一枚あった。
「……逆鱗」
「ルシエラから聞いたのか」
「はい。番以外に触られたら、我を忘れるほど怒る場所だと」
「そうだ」
カイゼル様は、私の手を取って、その紅い鱗のすぐそばまで導いた。
「触れてくれ」
「で、でも……」
「君にだけは、触れてほしい」
私は、おそるおそる指先を伸ばした。
紅い鱗は、ほかのどの場所よりも熱く、そしてかすかに震えていた。
指先が触れた瞬間、カイゼル様が目を閉じた。
長い長いため息のような息が、その唇からこぼれた。
「……二百年、誰にも触れさせなかった」
かすかな声だった。
「ようやく、預ける相手ができた」
命を預ける。
ルシエラ様の言葉が、頭の中によみがえった。
私の指先の下で、竜の心臓が、とくとくと脈打っているのが分かった。
(この方は、私に命を預けてくださったのね)
代わりがいる相手に、そんなことをするはずがない。
胸の奥で、何かがほどけていくのを感じた。
私はもう片方の手を、カイゼル様の手にそっと重ねた。
「……私の手でよければ、いつでもお使いください」
「使う、ではない」
カイゼル様は、少しだけ笑った。
「そばに、いてくれ」
その夜、カイゼル様の熱はすっかり下がった。
私は寝台のそばで、手を握ったまま眠ってしまったらしい。
朝、テアさんが部屋に入ってきたとき、カイゼル様は私の手を握ったまま、ひと晩じゅう起きていたのだという。




