第3話 ようやく見つけた
噴水の水音だけが、やけに大きく聞こえた。
私は長椅子から立ち上がり、オスカー様を見上げた。
「……理由を、うかがってもよろしいですか」
「理由? 白々しいことを」
オスカー様は鼻で笑い、腕の中のコレットを見下ろした。
「お前は実の妹のコレットを、長年にわたって虐げてきたそうじゃないか。ドレスを切り裂き、階段から突き落とそうとしたこともあると聞いた」
「そんなこと、していません」
声を出すと、思っていたよりもずっと小さかった。
「嘘をつくな! コレットが泣きながら打ち明けてくれたんだ」
「お姉様……ごめんなさい。でも、もう黙っていられなかったの」
コレットは目に涙をためて、オスカー様の胸に顔をうずめた。
けれど、ほんの一瞬だけ、その顔がこちらを向いた。
涙に濡れた空色の瞳の奥にあったのは、怯えでも、悲しみでもなかった。
――お姉様のものは、もう全部私のもの。
声に出さなくても、そう言われた気がした。
(コレットは、最初からこうするつもりだったのね)
私のドレスを、わざわざ今夜着ていることも。
広間で、私に見せつけるように踊っていたことも。
すべては、このための準備だったのだ。
「お父様、お母様」
縋るような気持ちで振り返ると、父が一歩前に出た。
「ブランデル侯爵家とは、すでに話がついている。オスカー殿の婚約者は、今後コレットとする。借金のことも、コレットが嫁げば問題はない」
父の声は、少しも揺れていなかった。
その隣で、母はハンカチで目元を押さえている。けれど、泣いているのは私のためではないと、すぐに分かった。
「マルグリット、あなたが妹にあんなひどいことをしていたなんて……母として恥ずかしいわ」
「明日にでも、修道院へ行く手はずを整える。しばらく頭を冷やしなさい」
修道院。
その言葉に、目の前が暗くなった。
(借金がなくなるのなら、ローエン家はもう困らない。私がいなくても、何も変わらないのね)
代わりは、いくらでもいる。
その代わりが、コレットだったというだけのこと。
泣いてはいけない。取り乱してはいけない。
そう言い聞かせてきたせいだろうか。
こんなときでさえ、涙は一滴も出てこなかった。
「何か言ったらどうだ。……ああ、そうか。お前は泣くことすらできないんだったな」
オスカー様が、私の顔を覗きこんで笑った。
「前にも言っただろう。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだよ。冷たい手をした、笑いもしない女のことなんて、誰も――」
そのときだった。
中庭の空気が、ふいに熱を帯びた。
肌がちりちりと焼けるような、真夏の陽射しを浴びたような熱さ。
噴水の水面から、白い湯気がゆらりと立ちのぼった。
「――その娘から、離れろ」
低く、地の底から響くような声だった。
植え込みの陰から、紅の髪の男性が姿を現した。
カイゼル・グラナート公爵。
金色の瞳が、炎のように揺らめいていた。
「りゅ、竜人公爵閣下……!」
父が、ひっくり返った声を上げた。
オスカー様もコレットも、凍りついたように立ち尽くしている。
公爵は誰にも目もくれず、まっすぐ私の前まで歩いてきた。
そして――私の前に、片膝をついた。
竜人国の公爵が、人間の子爵令嬢に膝をついている。
信じられない光景に、誰もが言葉を失っていた。
公爵は、震える私の右手をそっと取った。
大きな手は、驚くほど熱かった。
「ようやく見つけた」
かすれた声だった。
まるで長い旅の果てに、ようやく水を見つけた人のような。
「我が番」
番。
本で読んだことのある言葉だった。
竜人が、一生にたったひとりだけ見つけるという、魂の伴侶。
(そんな……何かの間違いよ)
私は、代わりはいくらでもいると言われ続けてきた人間なのに。
「お、お待ちください、閣下」
最初に口を開いたのは、オスカー様だった。
引きつった笑みを浮かべている。
「何かのお間違いでしょう。その女は、たった今俺が捨てたばかりの――」
言葉が、途中で途切れた。
公爵が、ゆっくりと振り返ったからだ。
その金色の瞳に見すえられた瞬間、オスカー様の顔から血の気が引いていった。
ぴしり、と乾いた音がした。
噴水の縁の石に、細いひびが走っていた。
「……全部、聞いていた」
静かな声だった。
けれどその静けさが、どんな怒鳴り声よりも恐ろしかった。
「香りを追ってここへ来た。ようやく見つけたと思ったら、我が番が寄ってたかって罵られていた。……俺がどれほどの思いで、そこに立っていたか分かるか」
オスカー様は口をぱくぱくさせたまま、一歩、二歩と後ずさる。
その腕にしがみついていたコレットも、真っ青になって震えていた。
「閣下、どちらに――」
中庭の入口から、銀の髪をした年配の竜人が駆けてきた。
使節団の一人だろう。その人は状況をひと目見て、すべてを察したように顔をこわばらせた。
公爵は振り返らずに言った。
「ベルン。この者たちの名を、ひとり残らず覚えておけ」
「……承知いたしました」
ベルンと呼ばれた竜人は、オスカー様と両親を静かに見すえた。
「ご存じないようですので、申し上げておきましょう。我ら竜人にとって、番とは命よりも重きもの。番への侮辱は、竜人国そのものへの侮辱と受け止めます」
父の顔から、さっと血の気が引いた。
「そ、そんな……我々は何も知らず……」
公爵はもう、両親のほうを見ていなかった。
もう一度私に向き直ると、少しだけ声をやわらげた。
「先ほど、聞こえた。君の家は、侯爵家に借りがあるそうだな」
「は、はい……」
公爵は懐から何かを取り出すと、オスカー様の足もとへ放った。
石畳の上で転がったそれは、拳ほどもある深紅の宝石だった。
月の光を受けて、燃えるように輝いている。
「グラナートの名を持つ柘榴石だ。借りとやらには、十分すぎるだろう。釣りは要らん。侯爵に渡しておけ」
オスカー様は宝石を拾い上げようとして、その手をがたがたと震わせた。
あの宝石ひとつで、小さな領地がまるごと買えてしまうかもしれない。
「これで、君を縛るものは何もない」
公爵は、私の手を握ったまま言った。
「マルグリット。……そう呼んでも、構わないだろうか」
「……はい」
「俺と一緒に、来てくれないか」
私は、目をまたたいた。
来てくれないか。
それは、命令ではなく、問いかけだった。
(私に……聞いてくださるの?)
これまで、誰も私に聞いてくれたことなどなかった。
婚約も、帳簿のことも、ドレスのことも。
すべては決められたことで、私は頷くことしか許されなかった。
けれど、この人は――私が選ぶのを、待ってくれている。
振り返ると、父と母は青ざめた顔で立ち尽くしていた。
引き止める言葉は、ひとつもなかった。
(ここに、私の居場所はもうないのね)
不思議と、悲しくはなかった。
私は公爵に向き直り、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「……はい。参ります」
その瞬間、公爵の金色の瞳が、ほんのわずかに揺れた気がした。
公爵は立ち上がると、私を軽々と抱き上げた。
「きゃっ……!」
「しっかりつかまっていろ」
去り際に、公爵はオスカー様たちのほうを一度だけ振り返った。
「我が番を辱めた者のことは、決して忘れない。竜は、執念深い生き物だ」
次の瞬間、私を抱く腕から、まばゆい紅の光があふれ出した。
視界がぐんと高くなる。
気づけば私は、巨大な紅い竜の手のひらに、そっと包まれていた。
鱗の一枚一枚が、炎のように輝いている。
足もとで、コレットの悲鳴が聞こえた。
竜は大きく翼を広げると、王宮の屋根を越えて、夜空へ力強く羽ばたいた。
大広間の窓という窓に、驚いた人々の顔が押しつけられているのが見えた。




