第15話 番の契り
番の契りは、次の満月の夜に行われることになった。
その日までの十日間、城じゅうが慌ただしく動き回っていた。
「お義姉様、髪飾りはこっちとこっち、どっちがいいと思う?」
「ルシエラ様、それは儀式に使うものではなくて、ルシエラ様がつけたいだけでは……」
「だって、兄様の契りなんて、一生に一度しか見られないのよ! 私だって一番きれいな格好で見届けたいもの」
ルシエラ様は朝から晩まで私の部屋に入り浸り、テアさんは衣装の準備に追われていた。
ベルンさんは、儀式の段取りを長老会と何度も確かめていた。
誰もが、まるで自分のことのように喜んでくれていた。
(こんなふうに、誰かに祝ってもらえる日が来るなんて)
時々、ふと、夢を見ているのではないかと思うことがあった。
そのたびに、カイゼル様の手の温かさが、これは現実だと教えてくれた。
儀式の三日前、一通の手紙が届いた。
差出人の名前を見て、私は思わず声を上げた。
ニーナ。
ローエン家で、私の身の回りの世話をしてくれていた侍女だった。
手紙には、丁寧な文字でこう書かれていた。
ローエン家を辞めたこと。
王宮の役人に、コレットの嘘をすべて話したこと。
今は、王都の小さな仕立て屋で働いていること。
そして最後に、こう結ばれていた。
――お嬢様が幸せになられたと聞いて、本当に嬉しく思います。あの家で、お嬢様の味方でいられなくて、ずっと心残りでした。どうか、お元気で。
私は、その手紙を胸に抱きしめた。
あの家にも、私のことを見ていてくれた人がいたのだ。
手紙と一緒に、ベルンさんがリンデン王国の様子も教えてくれた。
オスカー様とコレットは、ガルム領で暮らし始めたものの、毎日のように言い争っているらしい。
雪に閉ざされた土地では、ドレスも宝石も役に立たない。
コレットは「こんなはずじゃなかった」と泣き暮らし、オスカー様は慣れない領地の仕事に追われているという。
ブランデル伯爵家は、残されたわずかな領地を守るのに精一杯で、かつての勢いは見る影もない。
両親は男爵家となり、社交界から完全に締め出されたそうだ。
話を聞いても、私の心はもう、それほど揺れなかった。
(あの人たちは、あの人たちの道を行くのね)
それだけを思って、私はそっと手紙を閉じた。
満月の夜。
儀式は、城のいちばん高い塔の頂で行われた。
雲ひとつない夜空に、大きな月が白く輝いている。
塔の頂には、古い石の祭壇があった。
竜人国が生まれるよりもずっと昔からそこにあるという、苔むした白い石。
その表面には、翼を広げた竜の姿が刻まれていた。
祭壇のまわりを、長老会の竜たちが静かに囲んでいる。
少し離れたところに、ルシエラ様とテアさん、ベルンさんの姿も見えた。
私は、テアさんが用意してくれた純白の衣装を着て、カイゼル様と並んで祭壇の前に立った。
紅の礼服をまとったカイゼル様の髪が、月の光を受けて静かに燃えているようだった。
「始祖の竜の御前にて、番の契りを執り行う」
グラウス様の厳かな声が、夜空に響いた。
「二人とも、祭壇に手を」
カイゼル様と私は、並んで祭壇の上に右手を置いた。
石は、夜の冷たさを吸いこんでひんやりとしていた。
カイゼル様が、先に口を開いた。
「始祖の竜に誓う」
低く、よく通る声だった。
「我、カイゼル・グラナートは、この命を二つに分かち、半分をマルグリットに捧げる。この先、どれほどの時が流れようと、番を守り、番を慈しみ、番とともに生き、番とともに眠ることを誓う」
カイゼル様の言葉が終わると、祭壇に刻まれた竜の紋様が、かすかに紅く光った。
まわりの竜たちが、息をのむ気配がした。
グラウス様が、私に目を向けた。
私は、祭壇に置いた手に、そっと力をこめた。
誓いの言葉は、あらかじめ教えてもらっていた。
けれど、いざ口を開こうとすると、教わった言葉よりも先に、胸の奥から別の言葉があふれてきた。
「始祖の竜に誓います」
声が、夜空に吸いこまれていく。
「私、マルグリット・ローエンは、人の世を離れ、竜の命を受けます。誰かに命じられたからではなく、私自身が望んで、この方の隣で生きることを選びます」
一度、息を吸った。
「この方が、もう二度とひとりにならないように。この方の命の半分を、大切にお預かりすることを誓います」
祭壇の紋様が、今度ははっきりと輝いた。
紅い光と、雪のように白い光が、竜の翼の上でひとつに溶け合っていく。
グラウス様が、深く頷いた。
「始祖の竜は、二人の誓いを聞き届けられた。……グラナート公、番に命を」
カイゼル様が、私のほうへ向き直った。
そして、礼服の襟をゆっくりとくつろげた。
月の光の下で、喉もとの紅い逆鱗が、ひときわ鮮やかに輝いている。
私は祭壇から手を離し、その逆鱗に、そっと指先を当てた。
あの熱の夜と同じように、鱗はかすかに震えていた。
カイゼル様が、私の手の上に自分の手を重ねる。
「マルグリット」
「はい」
「俺の命を、受け取ってくれ」
次の瞬間、指先から、熱いものが流れこんできた。
それは炎のようで、陽だまりのようで、とても優しかった。
熱は指先から手首へ、腕へ、胸へと広がっていき、やがて全身を満たした。
体の奥で、何かがとくん、と大きく脈打った。
カイゼル様の鼓動と、私の鼓動が、ひとつに重なっていく。
(あたたかい……)
生まれてから一度も感じたことのない温かさだった。
光がおさまったとき、私の右の手首に、小さな紅い鱗の紋が浮かんでいた。
カイゼル様の逆鱗と、同じ色をしていた。
「契りは、成った」
グラウス様の声とともに、まわりの竜たちが、いっせいに低く喉を鳴らした。
祝福の歌なのだと、あとでルシエラ様が教えてくれた。
ルシエラ様は、テアさんに抱きついて、わんわん泣いていた。
グラウス様が、ゆっくりと私の前に進み出た。
「マルグリット殿。……長老会でのこと、許されよ。我らは、そなたを見くびっておった」
「いいえ。グラウス様は、カイゼル様のことを案じていらしただけですから」
私がそう答えると、グラウス様は目を細め、深く頭を下げた。
竜人国の長老が、人間だった娘に頭を下げている。
その姿に、まわりの竜たちが小さくどよめいた。
儀式のあと、塔の頂に、カイゼル様と二人だけで残った。
月が、少しだけ西に傾いている。
「体は、大丈夫か」
「はい。なんだか、ぽかぽかしています」
そう答えてから、私はふと自分の手を見つめた。
「でも……手は、まだ少し冷たいままみたいです」
竜の命を受けたのだから、もしかしたら、手も温かくなってしまうのかもしれないと思っていた。
カイゼル様が触れて楽になると言ってくれた、この冷たい手が。
カイゼル様は、私の手を取って、そっと自分の頬に当てた。
そして、目を閉じて、心底ほっとしたように息をついた。
「……よかった」
「よかった、ですか」
「ああ。俺の好きな手のままだ」
思わず、笑ってしまった。
カイゼル様も、つられたように小さく笑った。
月の光の下で、手首の紅い紋が、静かに輝いていた。




