5話 スノードロップⅠ
夢を見た。
幼稚園のころの記憶だ。
園の片隅で誰とも話さず、下を向いていつも一人で遊んでいる女の子がいた。
少し臆病なハモによく似ていて、いつのまにかその子のことを目で追っていた。
ある日、陽が落ちる寸前の幼稚園の窓から駐車場を眺めていたとき、彼女の母と思わしき女性から頬を叩かれているのを見てしまった。
声にならなかった。大人に言っても、誰にも信じてもらえない。
誰もあの子を守ってくれない。
ハモがいじめられているようで放っておけなかった。
幼稚園にいる間は彼女と遊ぶことが増えていった。
最初は反応がなくて、おもちゃを持っていって遊びに誘ってみたり、頭を撫でて反応を見たりしてた。徐々に笑ってくれることが増えていった。
それがとても嬉しかった。
でも、親の転勤で転園が決まった。何もできないまま、あの子を置いていってしまった。
夢の中では駐車場であの子が叩かれている、あのシーンが繰り返される。
そのたびに胸が押し潰され、声が出なくなる。
誰か助けてあげて
何もしてあげられなかった、無力な自分の代わりに誰か、たすけて
その瞬間、目が覚める。
息苦しい。喉が渇く。
まどろむ意識の中、俺はスマホを手に取り、助けを求めていた。
何度もドアを叩く音で目が覚めた。全身がだるい。今日は何の予定も無いはずなのに誰だろう?
気怠い体を無理矢理起こして玄関に向かう。
「はい……どちら様?」
「黒臼くん……!?大丈——きゃあ!」
突然、訪問してきた八木坂さんは大声を上げる。急な出来事に寝起きの俺の頭はついていけない。
「八木坂さん?なんでここに……。っていうかなんで驚いて……あ」
上半身裸だった。そういえば、昨日は濡れタオルで体を拭いたあと、寝落ちしてしまったことを思い出した。下半身だけは先に拭いて、きちんと履いていたことだけはせめてもの救いだった。
一度、彼女には玄関前で待ってもらい、慌てて部屋に戻る。部屋着のTシャツをちゃんと着てから戻った。
「驚かせてごめんね。とりあえず玄関前で話すのも申し訳ないし……家に上がる?」
彼女の目が大きく見開く。紅潮して、しどろもどろになる。
「ふぇっ!でも黒臼くんって一人暮らしなんですよね……?」
「あ、そうか。一人暮らしの男の家に上がりたくないよね……ごめん、気が利かなくて。今から外出用の服に着替え——」
「いえ、違います!嫌なわけじゃないです!」
両手にグっと力を入れながら八木坂さんは一大決心でもするかのように顔を上げ、まっすぐこちらを見る。
「上がらせてもらっていいですか……!?」
彼女の決心を受け入れ、家に迎え入れることとなった。
「冷たいお茶しかないんだけど、八木坂さんはそれで大丈夫?」
冷蔵庫を開きながら、リビングで借りてきた猫のように固まっている可愛いらしい八木坂さんへ聞く。
「はい……何でも大丈夫デス」
「語尾が片言になってるよ……」
「い、いえ!ソンナコトアリマセン!」
面白い反応を見せてくれる彼女にツッコミを入れながら冷やした紅茶をコップに注いで、ソファに座る彼女の前のテーブルに置く。
「大丈夫?とりあえず、ひと口飲んだら?あ、お菓子もあるよ」
お菓子専用の棚から多種多様なお菓子をカゴに入れて彼女の前に置く。
緊張を解すためか、適当なお菓子を手に取って食べながら紅茶を飲む。
「……このお菓子、初めて見ます。日本のものではないですよね?」
「俺の父親、手芸とかカーテンみたいな生地類を取り扱ってる会社の取締役でさ。しょっちゅう海外出張してるんだよね。その時のお土産。ちなみに八木坂さんが手に持ってるのはイギリス定番のショートブレッドっていうお菓子」
「へぇ~、お茶も紅茶ですね。てっきり緑茶とか麦茶が出てくるかと思ってました」
「あぁ、それは近場のスーパーで売ってる紅茶だから日常で飲む用のやつだけど、イギリス土産の紅茶もあるよ」
お菓子の解説をしているうちに、あっという間にお菓子の空袋が増えていく。
「美味しい?」
「おいひいです」
「それはよかった」
リスのように口いっぱいにお菓子を詰め込む姿を堪能しながらおかわりの紅茶を淹れてあげる。
八木坂さんが落ち着いたみたいなので、俺も向かいのソファに座り、本題に入る。
「それで……なんで八木坂さんはここに来たの?」
彼女は心底、驚いた顔をしながらお菓子でむせる。
「黒臼くん……君が私を呼んだんですよね?」
肩を震わせながら睨みつけてくる。
今度は俺が紅茶でむせる。
「んん?どういうこと?」
八木坂さんは自分のスマホの画面を見せる。メッセージアプリに俺からのメッセージが届いている……今日の朝3時45分頃。内容は『たすけて』のみ、着信履歴もある……。
「こわ……なにこれ」
「黒臼くんが送ってるんですよ!めちゃくちゃビックリしたんですから!死んじゃうんじゃないかって、そう思ったんですよ!?」
これは俺が悪い。
念のために自分のスマホでも確認をしてみるが、しっかり履歴が残っている。何を思ってこの怪文書を送ったんだ、俺よ……。
「紛らわしいことをしてごめんなさい……」
テーブルにおでこがつきそうになるほど、深く頭を下げる。その姿を見た彼女は、先ほど大きな声を出したことを謝罪しながら続ける。
「黒臼くんの無事を確認できたので、もう良いですけど……でも、なんでこんなことをしたのか、ちゃんと教えてくださいね」
「俺もちゃんと説明したいんだけど、寝ぼけていてやったことだからよくわからないんだ……。ただ、まぁ昨日、すごい嫌な気分のまま寝たから、それが影響して変な夢でも見たんだと思う」
「なんで嫌な気分になったんですか?」
彼女はじっと俺の顔を見る。正直、昨日の俺はカッコ悪いからあまり話したくないんだが、下手にごまかすと簡単にバレる上に嫌われるかもしれない……。まぁ八木坂さんにあんな情けないメッセージを無意識に送ってる時点でめちゃくちゃダサいか。
「夏海のことでちょっとね……。思うところがあって少し落ち込んでただけだよ」
「どんなことがあったんですか?」
押しが強い。
これは全部言わないと納得してくれないパターンか……。
「うーん、今日、本当は夏海とデートに行こうと思ってたんだけど、断られちゃったんだ」
そう伝えて、しばらく何も言わずに無言でいると、彼女は再び口を開く。
「それだけですか?違いますよね?それだけなら彼女でもない私にあんなこと、普通は送らないですよ」
彼女は変わらず、まっすぐこちらの顔を見ている。同時にどこか不安げな表情にも見えた。きっと彼女は、俺のために自分の押しが強いことをわかっていてやっている。
強い意志を彼女の瞳から感じる。
俺は観念して正直に話すことにした。カッコ悪い俺を見せて嫌われるかもしれないが、その時は仕方ない。諦めるしかないだろう。
「んーっと……何から話そう……」
少し悩んだ結果、最初から本題を話すことにした。
「夏海って俺と付き合っていても、男友達と普通に遊ぶんだよね。本当はやめて欲しいなって思ったりするんだけど……でも本人は悪いことだと思ってないし、俺も遊ぶこと自体が悪いとは思わない」
何も言わずに聞き続けてくれてる。
「恋人だからって交友関係まで口出しするのは違うのかなって。そう感じるから……言わない、んだけど……」
心が落ちていくのを感じる。これ以上は言いたくない。けど、落ち始めてしまった以上、言うしかない。
「じゃあ、夏海の心配をしてる俺って何なんだろう……夏海にとって俺はいなくてもいい邪魔な人間なんじゃないかって……そう思ったら……。でもあいつらしく生きていけるならそれが正解なんだって……」
話がまとまらない、自分でも何が言いたいのかよくわからない。
「あれ……俺、なんで…。俺がわがままなだけ……で…。ごめん、変だね…自分が悪いのに…」
昨日の記憶と感情が蘇ってくる。テーブルの上に置いていた手の指先が痺れて震える。八木坂さんに情けない自分を見せたくなくて自分の手をもう片方の手で握る。動くな、と強く願いながら。それでも止まらない手が情けなくてテーブルの下に隠そうとする。
「夕陽くん」
手にぬくもりを感じる。隠そうとした手を八木坂さんが右手で握っていた。優しいけど強く、握ってくれていた。左手を添えて、俺の手を撫でてくれる。
「大丈夫、隠さなくていいよ」
いつの間にか目の前がにじんでいた。唇が小さく震える。
「夕陽くんの優しさをカッコいいって私は思っているし、自分を殺してでも大切な誰かのために選択ができるあなたを、私は尊敬してるよ。ただの……一人の友達としての意見だから、私にこんなこと言われても心許ないかもしれないけど……」
八木坂さんは俺の手を強く握りしめる。熱が伝わってくる。
「私はあなたのそういう良いところを知ってるから。苦しい時は必ず私に相談して。夕陽くんは一人じゃないよ」
目の前が見えなくなった。決壊したダムのように、とめどなく溢れる涙と感情に流されるまま、情けなく泣いた。




