37話 紫苑の記憶
重いボールがゴトンと音を立てながら転がる。
軽快な音と共にピンが跳ね上がった。
時折、別レーンでは大きな声が上がり、少しだけ耳障りに感じる。
四人の男子と、私を含めた三人の女子で近場のボウリング場に来ていた。
今日は放課後、黒臼くんの家にお邪魔しようと思っていたが、星田さんたちと遊ぶ約束があるらしく、断られてしまった。
仕方なく、一ノ瀬さんに誘われてついて来たのだが、あまりボウリングは得意でない上に面白いと思ったこともない。
ボウリング場は騒がしくて、楽しそうに盛り上がっているのに、それに反比例するように私の心は、波ひとつ起こらない水面のように平坦だった。
「清水さん。投げ方、教えてあげようか?」
声を聞くと、静かな水面に石を投げ捨てられたような感覚を覚える。
黙って椅子に座っている私に狙いを付けたのか、チャラくて軽い男が、許可もなく肩に腕を回してきた。
モニターに表示されている、私の悲惨なスコアを指差しながらニコニコしている。
一ノ瀬さんたちと絡みのある他校の男子だが、仲良くなれる気がしなかった。
接触した部分から、ねっとりとした気色悪い感覚が伝わってくる。
これが黒臼くんと同じ性別なんて信じられない。
性別どころじゃない。同じ人間と捉えるのも黒臼くんに失礼だ。もはや別の生き物だと考えるべきだと思う。
「ごめん、腕をどけてほしいんだけど」
「えー、いいじゃん。楽しく遊んだほうが人生幸せだと思うよ?俺が教えたら、ボウリングだってもっと楽しくなるんじゃないかな」
答えになっていない返事をしながら、指先で髪の毛を触ってくる。
ワンチャン狙いの雰囲気が、ありありと見て取れる。
私のことを見下して、茶化してくるような人間が、なぜ人生を語れると思っているのか。
滑稽でくだらないものに見えてしまい、それに耐えきれず、笑ってしまった。
「え、なに?なんか面白いことでもあった?教えてよ」
「ごめん、あなたが人生を語っているのがおかしくて……」
隠さずに嘲笑したおかげか、彼は不快そうな顔で舌打ちをした。
「りょーすけ。しーちゃんにダル絡みするなって言っただろ。人の話聞いてないの?」
ボールを投げ終えた一ノ瀬さんは彼の行動を見かねたのか、釘を刺す。
「うるせー、聞いてたよ。ってか、こんなつまんねぇ女はこっちから願い下げだっての」
「りょーすけ」と呼ばれた彼は、手を引っ込めて私のそばから離れる。その代わりに一ノ瀬さんが隣に座った。
「しーちゃん、ごめんね。前からあいつのことが苦手なのは知ってたから、本当は呼ぶつもりなかったんだけど……」
彼の腕が触れていた部分を、汚れを落とすように手で払ってくれる。
「私こそごめんね。場の空気を壊すようなことをして……」
「ううん、いいの。来てくれて嬉しかったよ。ボウリングが終わったらご飯を食べに行く予定だけど、しーちゃんは無理せず帰って大丈夫だから。言いにくかったら、私に言うだけでいいからね」
私に寄り添ってくれる彼女がいる。それだけでさっきの不快な気持ちはどこかに消えてしまった。
「ありがとう、一ノ瀬さん」
彼女の膝の上に手の平を乗せて、感謝を伝えた。
言葉だけじゃない、心を伝えたかったから。
派手な見た目とは裏腹な、彼女の優しさが、今の私を支えてくれていると言っても過言ではない。
「あっ……いや、その。しーちゃんは大事な友達だから――」
歓声が上がった。突然のことだったので、驚いた私たちが投げた人に目を向けると、長尾くんがストライクを取っていた。
「すげー、長尾って超上手いんだな」
「ただのオタクだと思ってたけど、ギャップエグすぎだろ」
男子たちが、照れ笑いをしている彼を称賛していた。
「へぇー意外。長尾にこんな特技があるなんて。ね、しーちゃん」
膝の上に置いた手の甲に温かさを感じた。
一ノ瀬さんはさり気なく、私の手の上に手の平を重ねている。
彼女の耳が少しだけ赤くなっていることに気付いた。色白なので、それがより鮮明に見える。
「そうだね、一ノ瀬さん」
向かいの椅子では、桑田さんが長尾くんの隣に座り、楽しそうに話をしている。
私にはよくわからないけど、どうやら最近、二人は夜な夜なパソコンでゲームを一緒にしてるようだ。
そのせいか、ずいぶんと距離が近くなったように見える。
桑田さんは2連続ストライクを出した長尾くんの手を労うように揉んでいる。元々、スキンシップは多い人だと思っていたが、それは同性に対してがほとんどだ。
異性である長尾くんに、ここまで接触が多いのは初めて目撃した。
長尾くんと話している桑田さんの表情が、私たちと話しているときよりも豊かで、幸せそうに見える。
「桑田さんって、長尾くんのこと……好きなのかな?」
一ノ瀬さんに尋ねる。
「うん、たぶんそうだと思う。なんか、明音が好きなアニメが同じらしくて、意気投合したんだって」
明音。桑田さんの下の名前だ。普段から苗字で呼んでいる私からすると、少し呼び慣れない名前だ。
長尾くんは照れながらも満更でもなさそうだ。
桑田さんは彼を褒めながら、この後のことを相談しているような会話が、かすかに聞こえてくる。
きっと二人は、今夜も寝る直前まで一緒にゲームをして、アニメの話をするのだろう。
私も黒臼くんと、そういう仲になりたい。
私も、好きな人の隣で幸せになりたい。
冬香がトイレに入ってから、かれこれ30分以上は経っている。
三人で何度か声をかけたが、反応はなかった。
とりあえず、タコパは終わりにしたほうがよさそうだ。
夏海はキッチンで空いた皿を洗っている。相変わらずトイレから出てこない冬香を心配しているようだ。
「冬香さんはどうするの?」
「うーん、とりあえず、反応があるまでは家にいてもらおうかとは思ってる。親御さんの連絡先がわかれば迎えに来てもらってもいいんだけど……知らないんだよな」
「あ、俺、知ってるよ。結構前に教えてもらったけど、家の電話だから繋がると思うぞ」
七沖が手を挙げた。
何年も付き合った元彼であれば、挨拶くらいはしているだろう。知っていてもおかしくない。
「マジ?じゃあ七沖から連絡してくれない?」
「え、俺が?うーん、元彼の俺が連絡するの?気まずいんだが……夕陽でいいでしょ」
向こうからしたら見知らぬ連絡先から着信が来たら驚いてしまいそうで、気が引ける。
「夕陽が連絡してあげたら?冬香さんのこと、もう覚悟は決めてるんでしょ?大事な人なんだから助けてあげなさい」
夏海に叱られる。俺には兄妹は居ないが、もしいたら、こんな感じで背中を押されるのだろうか。
少しだけ、むず痒い。
「わかった。連絡するから番号を教えてくれ」
七沖から聞いて、自分の部屋に向かう。
スマホを耳に当て、電話をかける。
『はい、八木坂です』
女性の声だった。母親だろうか。
「もしもし、はじめまして。冬香さんのお母様でしょうか?」
少しだけ間が空く。すぐに見当が付いたのか『あぁ、冬香のお友達?』と、返事が返ってきた。
「突然、電話をしてすみません。黒臼と言います。冬香さんと同じ高校の友達です」
『黒臼くん……あなたの名前は夕陽くん、で合っているかしら?』
「はい、そうです。冬香さんとは仲良くさせてもらっています」
『こちらこそ、いつもありがとう。最近、また元気が戻ってきたみたいで、私も安心してたの。あなたとお話ができて、とても嬉しいわ』
冬香の親らしい、とても上品な話し方をする人だ。
「あぁ、いえ……ありがとうございます。私こそ、お母様とお話ができて嬉しいです」
ここまで持ち上げてくれる人と話したことがなかったので、どう話すのが正解か、わからなかった。
『それで、どうしたのかしら?冬香は友達みんなでタコ焼きパーティをすると聞いていたのだけれど……』
「えぇ。今、私の家でしているのですが……冬香さんがトイレから出てこなくなってしまって……少し困っているんです」
向こうから困惑する声が聞こえる。状況もわからずにこれだけ聞いたらそうなるのは自然だろう。
『どういうことかしら?もう少し説明してもらってもいい?』
「タコ焼きパーティをしているときに、人が訪ねてきて……その人は私の父の、知り合いだったんです。その人の名前を冬香さんに聞かれたので、答えたところ、今のような状況になってしまって……」
女性はしばらく黙り込んでから、言葉を選ぶように俺へ質問をする。
『その方の名前は……なんと言うの?』
「四葉 真冬。そう言っていました」
『それは……』
電話越しでもわかるくらい、声が揺れたのを感じた。
「……四葉さんは、冬香さんの知り合いでしょうか?」
『そのことは一度、冬香と話してからでもいいかしら?どちらにしても、電話で軽く話せる内容ではないの』
「わかりました」
『それで……冬香を迎えに行ったほうがいいのかしら?住所だけ教えてもらえれば、そちらに行くわ』
「はい。申し訳ないのですが、よろしくお願いします」
冬香の母に住所を伝え、電話を切る。
リビングに戻ると、七沖がテーブルを綺麗に拭きとり、夏海も洗い物を大方終わらせていた。
「お疲れ様、どうだった?」
キッチンで手を拭いている夏海から聞かれた。
「これから迎えに来るって。あと事情を軽く説明したんだけど、やっぱり四葉さんのこと、知ってるみたいだ」
俺たちはソファに座る。
おそらくセンシティブな話ということは、俺も含めて、全員理解しているはずだ。
冬香と外見が似ている女性。
それと以前聞いた、冬香に関連していると思われる、明けの空学園という児童養護施設の名前。
この二つが意味するところは――四葉さんが赤の他人ではない可能性だ。
七沖は同系列、と冗談めいた言い方をしていたが、冗談では済まない話かもしれない。
今は断定をすべきではない。
冬香の反応からして、かなりナイーブな部分だ。決めつけることは、逆に彼女を傷つける可能性がある。
無音がリビングに漂う。
廊下からドアが開く音が聞こえた。すぐにリビングのドアが開く。
振り返ると、目が充血した状態の冬香が立っていた。
「いきなりトイレに籠もってしまってごめんなさい。少し体調が悪くなっちゃいました……でも、もう大丈夫です」
いつものように儚い笑顔を見せる彼女だが、俺たちがその言葉を額面通りに受け取れるわけがない。
「冬香さん……無理してるよね?」
夏海が立ち上がり、冬香に抱きつく。
「……ありがとうございます。本当に少し気分が悪くなっただけですから」
「気遣いの嘘はいらないから。そんなわけがないでしょ?だってあんなに苦しそうな顔をしてたのに……平気なわけがないよ」
夏海は冬香の頬に手を伸ばし、真っ赤に充血した彼女の瞳を覗く。
納得してくれない夏海を前に、冬香は困惑を隠せていなかった。
「本当に……大丈夫ですよ。夏海さんは心配性ですね」
冬香の視線が一瞬だけ、俺のほうに向けられた気がした。
「なんで嘘をつくの?私たちが――」
「夏海。冬香さんが大丈夫と言ってるんだから、いいんじゃないか?冬香さんも、それで大丈夫?」
たぶん冬香からすれば、今のは助け舟となったはずだ。
「はい、平気です……なので、本当に大丈夫ですよ」
夏海は納得してなさそうだが、渋々、冬香から距離を取った。
そのまま元のソファに座り、俺を睨みつけてきた。
おそらく、冬香は話をする心の準備ができていないのだろう。
俺たちが今ここで、根掘り葉掘り聞くのは負担になってしまうかもしれない。
夏海に恨まれるくらい、安いものだ。
「冬香さん、タコ焼きが残ってるんだけど、食べる?」
「はい、食べます。途中だったので、またお腹が空いてきました」
俺は冷蔵庫に突っ込んであるタコ焼きが乗っている大皿から適当に小皿に移してレンチンをする。
待っているあいだ、七沖は冬香に対して真剣な表情を向ける。
「冬香」
「……はい。なんでしょう?」
彼女は気後れするように、遅れて返事をした。
「夕陽はフォローしてくれたみたいだけど、俺は夏海と同意見だ。本当はこの場で、冬香は悩みを口にすべきだと思う。それに、誰も今のお前を大丈夫だと思ってないからな。それは夕陽も同じはずだ」
その通りだ。だが、俺は冬香の気持ちを尊重したい。
冬香は七沖の顔を見たくなかったのか、目線を横に逸らす。
「だけど、話したくないとか……話すための準備ができてないっていう気持ちも、なんとなくわかる。だからこの場で、これ以上は聞かない」
彼女は逸らした目線を下に落とし、膝の上で両手を握る。
「だから、もし気持ちが固まったら、必ず俺たちに相談してくれ。俺や夏海がダメだとしても、夕陽には必ずしてほしい。そのための友達だと俺は思ってるよ」
冬香の指先だけが、わずかに動いた。
表情は見えなかったが、瞳から涙が溢れている。
夏海も言葉を付け加える。
「お願いだから……一人だけで背負って、解決しようなんて思わないで」
彼女の言葉を聞いて、何も言わない代わりに俯いたまま、ゆっくりと頷く。
俺は温めたタコ焼きと箸を、冬香の前に置く。
そのまま彼女の隣に座る。
冬香の手の甲に、俺の手の平を重ねる。
指先は冷たかった。原因はわからない。わかるのは、冬香が苦痛と悲しみに耐えていたことだけだ。
「ありがとう……ございます」
冬香は俺の腕にしがみつき、顔を押し当てた。
嗚咽だけが響く中、七沖は気を取り直すために立ち上がる。
「よし、夕陽。さっき外に出ていたとき、コンビニでアイスとスイーツを買ってきたんだ。食べようぜ。冬香もタコ焼き食った後、食べるだろ?」
「そうだな、食べよう。冬香も食べるでしょ?」
彼女は小さな声で「はい」と頷く。
「夕陽はそこで待っててよ。私が温かいお茶を用意するから」
夏海も立ち上がり、二人でキッチンに向かった。
俺は冬香の頭を撫でる。
冬香の過去と俺の過去。正確に言えば父の過去だが。
まだ断言できない。だが、まさか、この二つが交わる可能性が出てくるとは思わなかった。
「ん〜……」
四葉さんを見たとき、初対面だと思ったと同時に、初めて見た気がしなかった。
最初は冬香に似ているから。それが理由だと思っていた。
よく考えると、それだけではない気がする。
どこかで会ったことがあるのか?
そういえば、小さい頃、俺が好きだった女の子のお母さんが、綺麗な黒髪だったような……。
「あ……」
いつしかの夜に怖い夢にうなされ、無意識に冬香へメッセージを送ったことがあった。
あのときは夢の内容を覚えていなかった。
デジャヴのような感覚の中で、それが蘇ってくる。
四葉さんの顔……夢の中で見た気がする。
あぁ、そうだ――
俺は、夕暮れの駐車場で頬を叩かれる女の子を、幼稚園の窓から見ていた。
叩いていた人は、長い黒髪で綺麗な女の人だった。
似ているだけかもしれない。だけど……。
「夕陽くん……夕陽くん?」
自分の頬に手の平が触れる感触と、冬香の声を頼りに意識が戻った。
「――ん、どうしたの?」
「なんだか、夕陽くんがどこか遠くへ行ってしまったような気がして……」
泣きそうな冬香の顔と、頬を叩かれていたあの子が重なる。
園の端っこで、楽しくなさそうにひとり遊びをしていた……幼い頃の俺が淡い恋心を抱いていた、あの子。
「冬香……」
「はい、何ですか?」
「冬香は昔、希望が丘幼稚園に……いたこと、ある?」




