35話 冬茜に染まる藤の花
放課後の練習が終わると、空はすでに真っ暗だった。
11月にもなると、陽が落ちる時間もだいぶ早い。それに伴って気温も下がってきたが、練習直後の俺達にとっては、ほどよい涼しさでもあった。
汗で濡れたインナーとシャツを着替えていると、古賀から声をかけられた。
彼の事情は聞いたので、以前ほど苦手意識はないが、いまだに無意識に壁を作ってしまう。
「夕陽先輩、お疲れ様です」
「あ、あぁ……古賀、お疲れ様」
殊勝にも丁寧に頭を下げてきたので、若干拍子抜けをしてしまった。
隣でニヤニヤしてる七沖は無視をし、用件を聞いてみると、やはり夏海のことで話したいことがあるようだ。
「このあいだ、夏海先輩のことで……失礼な態度をとってすみませんでした」
もう一度、深々と頭を下げる古賀。それに対して俺はどう対応するべきなのか、決めかねていた。
思わず周囲に目線を向けてみるが、様子見をしてる人と隣で笑っている七沖しかいなかった。
「いや、俺も言い方がキツかったよな。悪かった」
「いえ、俺の聞き方が悪かったからです。俺が逆の立場なら、殴ってたと思います」
じゃあ、俺も今から殴ってもいいのだろうか?
そんな冗談を心の中で呟きながら、苦笑いで流しつつ、古賀と仲直りするために両肩を軽く叩く。
「仲間なんだからさ。互いに水に流そう。古賀もそれでいいか?」
彼は表情が明るくなる。
「はい!よろしくお願いします!お兄さん!」
「は?」
七沖が吹き出す。俺は呆気にとられて、気の抜けた声が出てしまった。
「夏海先輩が夕陽先輩のことを家族だって言ってたんで、当てはめるなら、夏海先輩のお兄さんかなと思いまして!」
「んん???なにそれ……話が飛躍しすぎて意味がわからないんだが」
七沖は腹を抱えて転げ回っている。それを見て興味が湧いた他の部員も、口を押さえて笑い始める。
「夏海先輩と夕陽先輩から色々と話を聞いて、俺にはよくわからない世界だなぁって思ってたんですけど、夏海先輩のことは、まだ好きなんです」
「お、おう……そうか」
「じゃあ、外堀から埋めていこうかな、と思いまして!」
「じゃあってなんだよ。あと笑顔で意味のわからない企みを公表するな」
真顔で突っ込むと、隣の七沖が俺の背中を強く叩き始める。
「だってよ、夕陽お兄ちゃん!こいつが、妹の彼氏として相応しいか、しっかり見てやれよ!」
だははは!と笑い、その場に崩れる。笑いすぎて呼吸がしづらそうだが、そのまま窒息してしまえばいいと本気で思った。
古賀は「あれ、なんかまずかったですかね?」と、天然なのか嫌がらせなのか、判別のつかない反応をする。
俺はため息をつく。今さっき仲直りした手前、喉まで出かかった言葉は飲み込むことにした。
こうして俺は、なぜか夏海の兄という謎の立場を獲得してしまった。
夏海にどう説明すればいいのか、まったく見当がつかない。
他の部員から「お兄ちゃん」と茶化されながら、体育館の下駄箱まで向かうと、入り口で夏海と友達が話していた。
「お疲れ様、夕陽。……ん、なに?七沖。私の顔になにか付いてるの?」
「いや、妹だなぁって……」
「余計なこと言うなよ。収拾がつかなくなるから」
「妹……?」とジト目で俺たちのことを睨みつける夏海をスルーして、肘打ちで七沖の脇腹を軽く突く。
「わかったよ。悪かった、悪かったよ。お兄ちゃん」
こいつ、ぶん殴ってやろうか。
六割ほど、本気でそう思いながら睨みつけると、七沖は目を逸らす。
「で、なんの話?お兄ちゃんってなに?」
「帰りながら説明するから……少し待ってくれ」
疑いの目を向ける夏海を宥めながら、俺たちは帰宅をするために、自転車を押しながら校門に向かう。
その道すがら、夏海にことの経緯を説明しはじめる。
「え、なに。どういうこと?私が夕陽の妹って……なに?」
「いや、古賀が急にそう言いだして――」
校門を抜けてすぐ左側に、人影が見える。視界の端に映っただけだが、気付いたらそちらを向いていた。
そこには、力なく立ち尽くしているように見える、制服姿の女性がいた。
「清水さん?」
真っ暗で彼女の姿は見えづらかったが、声をかけると、カバンを持っていた手が反応したように見えた。
「っ……!」
彼女は俺を見つけると走って抱きついてくる。
「……どうしたの?」
彼女の背中をさすり、落ち着かせる。
隣で殺気立つ夏海の前に手をかざして制止する。
「ごめん、夏海、七沖。先に行っててくれない?」
七沖は夏海に声をかける。二人の気配が遠のいていくのを感じたので、ひとまず安心した。
「大丈夫?」
顔を胸に沈め、すすり泣く声が聞こえる。
しばらくその場で、頭を撫でていたのだが、他の部員の声が聞こえてきた。
「お兄ちゃんが女を抱いてるー」と、他の部員に冷やかされるが、無視する。
彼女の気が済むまで胸を貸していると、すすり泣きが聞こえなくなってきた。落ち着いてきたようだ。
彼女は、俺の制服をギュッと握りながら顔をあげる。
「黒臼くんってお兄ちゃんなの……?」
少し赤くなった目で見つめられながら、聞かれた。
「うん……そうみたい」
もう訂正する気にもならなかったので、力なく肯定する。
彼女は、まじまじと俺の顔を覗くと、もう一度胸に顔を沈めながら「お兄ちゃん……いいかも」と、か細い声が聞こえた。
乾いた笑いをこぼしながら、聞こえないふりをする。
話が取っ散らかるので、これ以上突っ込むのはやめておこう。
風が少し吹き、木々が擦れあう音が響く。
寒いだろうと思い、少しだけ強く抱きしめる。
「落ち着いた?」
彼女は濡れた頬を自分のハンカチで拭きながら「うん」と言った。
とりあえず、立ちっぱなしでは落ち着かないので、校門入口の中庭まで移動する。
花壇の隣に設置されているベンチへ腰かける。
「黒臼くんは、八木坂さんから話は聞いた?」
「うーん、たぶん聞いてないと思うけど……冬香さんとなにかあったの?」
彼女は動きを止め、しばらく考えを巡らせている。
「ううん、なんでもない。これは八木坂さん本人から聞くべきことだから、私からは言えないかな」
彼女は目を伏せながらハンカチを畳んでしまおうとする。
「うん、わかった」
言えないのは、きっと二人のあいだで交わされた話の結果なのだろう。それなら俺は聞くべきではない。
しまいかけていたハンカチを貸してほしいと聞く。彼女は戸惑っていたが、手渡してくれた。
預かったハンカチで、彼女の顔に残っていた涙のあとを全て拭き取る。
「うん、綺麗になった。これ、ありがとう」
ハンカチを彼女に返した。
「ううん、こちらこそありがとう」
彼女は自分の頬が綺麗になったことを手のひらでなぞり、確認するように触れる。
俺は彼女を横目にスマホを取り出して、時間を確認する。あと40分ほどで完全下校時間だ。
「黒臼くん」
清水さんは俺の膝を軽く叩く。
「ん、どうしたの?」
「膝枕、してほしいな」
「俺が?男の膝なんて硬くて気持ちの良いものじゃないと思うけど……」
「私はそれがいいの。早くして?」
仕方なく、俺は服の汚れをはたいてから、膝を軽く叩いて彼女の頭を迎える。
嬉しそうに、俺側に顔を向けながら、膝の上に頭を乗せた。
彼女は自身の顔を俺の膝にうずめ、腕は胸元に抱え込むように畳み、手を俺の制服の下に忍び込ませる。
ちょうど、腹部あたりに清水さんの手のひらがYシャツ越しに触れる。
「んんっ……!清水さん、びっくりするから……急に触らないで……」
「ごめん、暖かそうで思わず……。まさかそんな敏感とは思わなかったな」
「その言い方だと、俺が変態みたいだからやめて……」
「あっ……ごめんね、そんなことないよ?」
清水さんはこの状況が楽しいのか、はにかみながら、膝の触感を堪能するように、顔を何度も置きなおす。
彼女の金色の髪が垂れることで、うなじと耳が見える。
藤の花での記憶を思い出す。
彼女には俺がこうやって見えていたのか。
考えるよりも先に、俺は彼女の頭から首筋にかけて撫でた。
彼女は最初に触った一瞬だけ、体を強張らせたが、そのあとは体から力が抜け、されるがままだった。
それから、10分くらいはしていたと思う。
彼女の息遣いがゆっくりになり、徐々に深くなっていく。
清水さんが俺に尋ねる。
「何も聞かないの?」
「聞いてほしい?」
「ううん、聞かないでほしい」
「わかった」
淡々と会話を終え、再び沈黙が訪れる。
中庭に植わっている広葉樹の枯れ葉が風に乗ってカラカラと音を立てながら足元で転がっている。
さすがに体の芯が冷えてきたのか、寒さを少し感じた。清水さんも寒いだろうと思ったが、当然、毛布の類はない。
俺はカバンに入れてあるマフラーを取り出して、清水さんの膝の上に置く。
「ん、ありがとう。あったかいね」
清水さんは、膝の上から上目遣いで俺を見つめる。
いかにもワケ有りげな接触の仕方だったから、気にならないといえば、嘘になる。
だけど、たぶん事情を話したいのは二の次で、今こうしていることが、彼女のしたかったことなのだろう。
触れるたびに彼女は声を漏らし、心地よさそうにしている。
彼女の首筋から藤の花の香水を感じた。
本物の香りはもう少し優しかったような気がする。そう思いながら、清水さんと出会った頃を思い出す。
小中学生の頃、全部がそうだったわけではないけど、一人が好きで主体性のなかった俺は、夏海から言われるがまま、彼女の友達と遊び始めた。
中学生に上がると、彼女に好きだと言われ、恋ってこういうことなのかと、夏海を通して初めて知った。
嵐のように色々なことを教えてくれた夏海と時間を共にしていく中で、俺にとって清水さんは過去の人になっていった。
今となっては、俺が勝手に終わった過去だと割り切っていただけで、実際には何も終わってなかったわけだが、当時は本気でそう思っていた。
俺が見向きさえしなくなったあとも、清水さんはこうして想ってくれていた。
きっと彼女の心は小学生の頃、一緒に見ていた藤の花と共に残されている。
初夏の風に揺られ、膝枕をしていたあの日々に。
俺はもう、そこにはいないのに。
彼女の綺麗な髪を、手ぐしで梳く。
俺は冬香さんのことが好きだ。だけど、それとは別に、今度こそ清水さんの気持ちに向き合い、その上で答えを出さないといけない。
好きな人がいるから付き合えない。
清水さんにはそう伝えてある。だが、彼女は諦めなかった。
断るだけでは足りない。それでは彼女は納得しない。
「黒臼くん……デート、してくれるんだよね?」
彼女は震える声で尋ねてきた。
「俺でよければ、もちろん行くよ」
寒いのか、不安なのか、彼女は震える手を俺の背中に回して、より強く抱きしめる。
彼女は「ありがとう」と言って、顔を膝から離し、体を起こした。
そんな健気な彼女に罪悪感を感じる。
七沖が前へ進むためにもデートはしたほうがいい。そうアドバイスをくれたことが、この話のきっかけではある。
もちろん、あいつのせいにするつもりはない。俺も清水さんとの関係に決着を付けるべきだと思ったから決めたことだ。
でも、それは俺の都合だ。彼女をそれに付き合わせてるだけとも言える。しかも、振られることが前提の残酷な話だ。
「ごめんね、清水さん」
「え、どうして謝るの?私は嬉しいよ」
唐突に謝罪されて、キョトンとした様子の彼女は、ベンチから立ち上がり、顔を覗きこむ。
「……前も言ったけど、俺は好きな人がいて、デートをしても清水さんとは付き合えないんだよ?」
彼女は目を丸くしたあと、笑い始めた。
「今さらそんなことを気にしてるの?相変わらず黒臼くんは優しいね」
薄黄色に輝く月の下、背中側で両手を握り、落ち着きのない子供のように、ふらふらと歩きながら、言葉を選ぶように悩んでいる。
「うーん……仕方ないなぁ、じゃあいいことを教えてあげるね」
彼女が夜空を見上げると、瞳は月光を反射し、色が濃く深くなったように見えた。
「私ね、黒臼くんが好きな人に告白して、振られるのを待ってるんだよ。それで、君がショックで落ち込んでいるところをつけこんで、私のことを好きになってもらいたいの。自分でも笑えないほど、ひどい女だなって思うよ?」
ベンチで座っている俺の前で両手を広げ、くるくると回る。
彼女は声のトーンを上げながら話す。まるで夢を語るように。
「でもね、私の諦めないってそういうことなの。振られるってわかっていても、黒臼くんと仲良くしたい。黒臼くんとたくさん話がしたいの」
俺は言葉が見つからなかった。誰が、彼女をこんなふうに追い詰めてしまったのか。
「だからね?私に対して申し訳ないって思わなくていいの。君さえよければ、振られたあと、気持ちの捌け口に私を使ってくれてもいいって思ってるよ?それって、すごい幸せなことだと思うから」
言うまでもない、俺だ。
胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
優しくない人間だから彼女を追い詰めたのに、俺はあたかも優しい人間かのように、心を痛めている。
「優しさは誰かを守ると同時に傷付けていること、ちゃんと理解してね」
バーベキューで晴華さんから、優しさについて指摘されたときの言葉がフラッシュバックする。
無責任に彼女の心へ寄り添い、過ぎた優しさが結果的に清水さんを傷付け歪めてしまった。
「黒臼くん。デート、楽しみだね」
彼女は屈託のない笑顔を俺に向ける。
今は自分の想いを楽しそうに語る彼女を、ただ見つめることしかできない。
彼女を傷付けない選択肢は、とうの昔に失われていた。
俺は、選ばなくてはならない。




