33話 赤と白のストック
私は今、自室で自叙伝を執筆している。
水族館の出来事を書き終え、緑茶を飲みながら休憩していた。
窓から外を眺めると、雲ひとつ見えない夜空に星が広がっている。
窓から直接、月は見えなかったが、これだけ明るいのだから、さぞ綺麗に輝いているのだろう。
栗まんじゅうを口にして、残りのお茶で流し込む。
「もう少し、書きますか……」
正直、疲れたし眠いのだが、今日という日の記憶が鮮明なうちに書き終えたかった。
私は頬を軽く叩いて、再び筆を取った。夏海さんとの女子会を記すために。
****
水族館から帰ってきて、集合場所だった駅に到着したのは夜9時過ぎだった。
駅には私たちと同じように帰路へつく多くの人々が行き交っている。
私たちはその場で、流れ解散となる予定だったが、その直前に夏海さんに呼び止められた。
「少しだけ、話さない?」
それを聞いた七沖くんは、興味津々な様子だったが、夏海さんが「女子会の邪魔だからさっさと帰って」と追い払った。
おいおい泣いている七沖くんを、夕陽くんは背中をさすりながら慰める。
寂しげに帰る二人を苦笑しながら眺めつつ、私は夏海さんの誘いを快諾した。
今日を最高の日にしてくれたのは夕陽くんだけじゃない。夏海さんの気遣いがあってこそだ。恩人の誘いを断るはずがない。
疲れからくる体の重さも、今の私には心地のよいものだった。
最初は店を探していたが、時間的にも閉店している店舗が多く、静かに話せる場所はなさそうだった。
結局、コンビニでホットコーヒーを買ってから駅前公園へ向かうことになった。
公園とはいえ、遊具があるような施設ではない。コンクリートとレンガで歩道が舗装され、周りは芝生で綺麗に整えられている。池には橋がかかっており、日中であれば散歩に丁度よさそうだ。
「ごめんね、疲れてるだろうな、とは思ってたんだけど……どうしても今日のうちに話しておきたいことがあって」
「大丈夫です、夏海さんに誘ってもらって嬉しかったですし、実は、私も聞きたいことがあったんです」
池のそばにあるベンチに座る。
真っ暗で水面はほとんど見えなかったが、薄黄色に光る綺麗な月が映っていた。
「じゃあ、先に冬香さんの話を聞こうかな。夕陽のこと?」
「はい、そうです」
地上では繁華街の光が、空には星々の光が遠くに見えた。
それらを眺めながら、彼女は私が話し始めるのを待っている。
「私は……男性として夕陽くんのことが好きです。夏海さんは、それで本当に大丈夫なんですか?」
朝には、はっきり言わなかったことを改めて伝えた。
私の恋を応援してくれる大事な友達だからこそ、彼女の気持ちを置き去りにして、自分の気持ちばかり見たくない。
夕陽くんと同じくらい、夏海さんのことも大事に思っているから。
「私のことも気にしてくれてありがとう。でも大丈夫だよ」
彼女はホットコーヒーを両手で持ち、指先を温めている。
「朝にも言ったけど、私も夕陽のことが好き。それは恋人として、というよりも……うん、たぶん家族として好き。まだ、自分でも整理してる途中だから、中途半端な感じではあるけどね」
やはり夏海さんの中には恋人としての夕陽くんがまだいるのだろう。
「そこに……私がいてもいいのでしょうか?」
だからこそ聞いた。彼女が望んでやまなかった、夕陽くんの隣に私がいていいのか、と。
「いいに決まってるでしょ?むしろ、冬香さんがいることを前提に私は考えてるよ」
ニッと笑いながら、迷いなくそう答えてくれた。
夏海さんは自分の足を前後に揺らし、それを見つめながら話を続ける。
「私は夕陽を幸せにできる恋人じゃなかった。でも、冬香さんは違うと思う。私が原因で夕陽が苦しんでいるとき、あなたは手を差し伸べた。私が自分のことばかり見ているとき、あなたは夕陽の心を支えてくれた」
彼女はコーヒーを飲み、一息入れたあと、私のほうへ顔を向ける。
「……私が冬香さんに話したかったことでもあるんだけど、大事に想っている一途な冬香さんに、夕陽のことをお願いしたいなって思ってたんだ。私ができなかった――あぁ、えっと……ごめん、これは無しで。さすがに自分勝手かも」
「なぜですか?いいじゃないですか、全部教えてください。夏海さんの望みなら可能な限り実現しますから」
「うん……わかった。じゃあ、言うね?」
彼女は膝の上で手のひらを強く握った。
「私ができなかったことを、私の代わりにしてほしい」
きっとこの願いには、夏海さんの夕陽くんに対する様々な感情が含まれているのだろう。
「はい、わかりました。夏海さんの代わりと……私の気持ちを上乗せして、夕陽くんのことを大事にしたいと思います」
全てを受け取ることができたのか、それはわからない。
「ありがとう、嬉しい」
それでも彼女は私に微笑んでくれた。
「夏海さん」
約束したことを実現するための、これからの話をする。
「私、明日以降に清水さんに夕陽くんのことが好きと伝えたあと、夕陽くんにも気持ちを伝えようと思っています」
「え、清水さんにわざわざ言う必要があるの?」
「彼女は来週の今日、夕陽くんとデートする約束がありますから。先に私が彼に告白をして、デートをするなと釘を刺すつもりはないんです。私の一番は、夕陽くんの幸せですから」
夏海さんの気持ちを置き去りにできないように、夕陽くんと清水さんの気持ちも見て見ぬふりはできない。
夕陽くんには何の憂いなく、私と向き合って欲しいから。
「詳しいことは知りませんが、清水さんと夕陽くんにも、今まで積み上げてきた大事な思い出や気持ちがあるのでしょう?それを全部出したうえで私を選んでもらえれば、それで大丈夫です」
夏海さんの様子を見ると、彼女は目に見えて驚いていた。
「どうしたんですか?」
「いや、私なら告白して、デートを阻止するなぁって思ってたから。私にそんな度胸はないから、びっくりしちゃった。でも、選ばれなかったら……どうするの?」
不安がないと言えば嘘になるが、私が一番大事にしているのは、夕陽くんの気持ちだ。
「それは、清水さんと付き合うことが幸せなことだと、夕陽くんが判断したっていうことですから。悔しくて泣いてしまうかもしれませんが、それが彼の幸せなら、それはいいことだと思います」
私の代わりに彼女が不安に感じているような表情になってしまった。
夏海さんを安心させるため、彼女の目を見つめて、手を握る。
「夕陽くんにアプローチしないわけでないですよ。だから、夏海さんに夕陽くんと清水さんのことを教えてほしかったんです。夏海さんから見て、二人がどんな人に見えたのか。聞かせてください」
私は夏海さんの想いを背負うと心に決めていた。彼女がどれほど夕陽くんのことが好きで、どんな気持ちで清水さんと接してきたのか。
彼女の過去を受け継いだうえで、私だけの人生を前へ進めるために、夏海さんのことをもっと知る必要がある。
「それに、私は夕陽くんを信じてます」
それら全てが、彼へと繋がるのだから。
「あー……冬香さんには敵わないな。本当に夕陽のことを大事に考えてくれてるんだね」
夏海さんは、私の手を握ったまま空を仰いだ。溢れ出そうなものが落ちないように。
「わかった。私が知っていることなら全部教えてあげる。その代わり――」
彼女は憑き物が落ちたような笑顔で私を抱き寄せた。
「清水さんに負けないでよ、冬香さん」
****
「……そろそろ寝ようかな」
私は自叙伝を閉じ、机から立ち上がる。
ベッドに身体を投げ、布団に潜り込む。
七沖くんには、私が暗闇へ飲み込まれないように背中を支えてもらった。
夕陽くんには、私が望む未来の形を教えてもらった。
夏海さんには、私が前に進むための勇気をもらった。
みんながくれた優しさを胸に抱いて、目を閉じる。
私の昏い過去はまだ後ろにいる。だけど、前には進める。
あとは、歩くだけだ。




