32話 パンジーとビオラ
「おかえり。夕陽、冬香さん」
野外テラスの入口が見えてくると、先に到着していた夏海さんと七沖くんが手を振ってくれる。
私たちは小走りで到着してすぐ、夕陽くんと共に頭を下げる。
「遅刻してごめんなさい」
1時間後に集合の予定だったが、30分近く遅れてしまった。
怒られてしまうかと思ったが、二人ともニコニコしていた。
「全然いいよ。二人とも、どうだった?」
「えっと、うん。楽しかったよ」
朝から散々怒られていた夕陽くんは、少し控えめに言うと、その言葉を聞いた七沖くんは満足そうにしていた。
「冬香さんも楽しかった?」
「……はい、とても楽しかったです。ありがとうございました」
朝に少し話した内容も含めて、夏海さんも内心では、まだ割り切れていない部分もあるはずだ。
にもかかわらず、夕陽くんのことで私を気にかけてくれているだけで、夏海さんには感謝をしきれない。
「ん?なんか俺だけ話が見えてこない部分があるんだけど、気のせい?」
夏海さんは苦笑しながら「それは夕陽の気のせいだから。安心して」と背中を叩く。
「何を安心しろと……?」と一人で疑問を呟く彼を無視して、私たちは屋外テラスへ向かう。
外へ出ると目の前には、上段と下段に別れており、それぞれが階段で繋がった明るい色のウッドテラスがあった。
その奥には海が広がっている。
先ほどより風が穏やかになり、海が近くなったことで、波の音がより鮮明に聞こえてくる。
テラスの下にはアシカやペンギンの展示スペースがあり、見下ろすような形で見ることができる。
私たちは太平洋側に面したテラスの手すりに寄りかかり、4人で休憩がてら、談笑しながら眺めていた。
「少し、ペンギンを見に行ってもいいですか?」
私は夏海さんたちが買ってきてくれた温かいお茶を飲みながら、他のみんなに伝える。
私はさり気なく、七沖くんと目を合わせる。
彼に話したいことがあったからだ。
「お、じゃあ俺も一緒に行こうかな」
七沖くんは察してくれたのか、そう言いながらお茶を飲みきった。
夏海さんは、夕陽くんと休憩をしているから気にせず行ってきて、と送り出してくれた。
上段のテラスを降り、下段のテラスに設置された落下防止用の金属柵に手をかけながら、顔を少し出して、ペンギンたちの様子を観察する。
呼んだはいいけれど、どう切り出すべきなのかわからず、しばらくの間、何も話せなかった。
近くには母と父に囲まれながら、キャッキャと無邪気に喜びながら、ペンギンへ手を振っている子供が見える。
その光景が微笑ましく感じる一方で、私は素直にそう感じるだけではいられなかった。
きっと、あの人たちは血の繋がった親子で、愛情と幸せに満ちた時間をこれからも過ごすのだろう。
私の人生では決して手に入ることのない光景から目を逸らす。
私と血の繋がった家族とは大違いだ。
無意識に、思い出したくもない記憶の扉に手をかける自分がいる。
見たくない。だけど、その先にあるんじゃないかって思わずにはいられない。あるはずのないものを手にしたくて――
「冬香、また何か考えごと?」
七沖くんの声が聞こえて、手が止まる。
隣を見ると、彼は心配そうに私を見つめていた。
私を暗闇から連れ戻してくれる、私の親友がそこにいる。
「――大したことじゃないですよ」
「今日、昼めし食ってたときも同じ感じだったな」
「……そんなに表情から出てます?」
七沖くんは金属柵に背を向け、体重を預けながら笑った。
「夏海や夕陽はわからないけど、俺の目にはそう見えたよ。中学の頃、宮貴にもしょっちゅう「顔に出てる」って言われてなかったか?何なら冬香のさっきのセリフ、当時も宮貴に言ってたぞ?」
「そういえば……そうでしたね」
自分のことをポーカーフェイスだという自負が多少はあったのだが、どうやらそんなことはないようだ。
彼は中学の頃を思い返していたのかもしれない。一人で思い出し笑いをしている。
私も少し釣られながらも、本題に入るために改めて話し始める。
「お昼ごはんのとき、助けてくれてありがとうございました。嬉しかったです」
私は意識だけを彼に向け、目線はペンギンを見つめたまま、親友に感謝を伝えた。
「どういたしまして。まぁ正直、冬香が何について悩んでいたのかは、わかってないんだけど……冬香がああいう顔をするときは大抵、考えても解決しない内容だから。目の前のことを見てほしかったんだ」
どんな顔なんだろうと思いながらも、彼に隠しごとはできない事実が改めて浮き彫りになった。
「それで、昼間悩んでたことについて、何か見つかった?」
七沖くんの言葉と言い方から、私の身を案じている表情をしているだろうことが容易に想像がついた。
これから告白することも含めて、恥ずかしいので顔は向けなかったけれど、彼の気持ちはよくわかっているつもりだ。
「そうですね。私、夕陽くんのことがすごい好きで、独り占めにしたいみたいです」
彼は何も言わない。次の言葉を待っていた。
「だから、夕陽くんのそばにいる女性はみんな、夕陽くんとの特別を持っていて……私だけ、それを持っていないことが嫌だったんです」
私は深呼吸をしながら、寒くなってきた指先を温めるために口元で吐息を当て、自分の頭を手で触れる。
「でも、七沖くんの当たり前を大事にする話を聞いて、わかりました。私にとっての彼との特別は、とうの昔にあって――」
そうすることで、幼稚園の頃に優しく撫でてくれた夕陽くんとの記憶を呼び起こされる気がするから。
「それは当たり前のように、今日までの私を支えてくれてました。きっと、これからも助けられるんだと思います。……そのお返しを私は何もできていません」
まだ高校生なのに、こんなにも重い感情を向けられてしまう夕陽くんには申し訳なく感じる。
「できれば、私は夕陽くんと一緒にいる時間を当たり前にしたい。これから先の長い人生の全てを、そうしたいって思いました。その中で、彼を幸せにしてあげたい。彼に私をあげたい。そう思いました」
彼自身の覚悟が決まらない可能性がある以上、この想いを全て話すわけにはいかないだろう。
「そうか、良かったよ。冬香が幸せそうで」
「兄が妹を心配するような言い方ですね」
赤裸々に話して、体がむず痒いので思わず茶化してしまった。
「へへっ、似たようなもんだ。俺は夕陽と冬香を応援してるからな。推しカプってやつだ」
「……そういう言い方されると、ちょっと気持ち悪いかもしれません」
「わ、悪い。本当にただ応援してるだけだから。いやマジで」
二人で吹き出すように笑っていると、七沖くんは思い出したことでもあったのか「あ」とだけ言う。
「さっき、夕陽に何も返せてないって言ってたけど……たぶんあいつは、すでに冬香から返しきれないものをもらったと思ってるよ。だから変に自己犠牲的になるなよ。どうしても返したいなら、ただ冬香が好きだと言ってあげること。それがあいつにとっての最大のお返しだよ」
「……ありがとうございます。気を付けますね」
全部本当の気持ちだったのだが、そこまで危うい言い方だったか。少し気持ちが入りすぎたのかもしれない。
どちらにしても、好きの中身までストレートに伝えるのは夕陽くんにとっても重荷だろう。気を付けて伝えないといけない。
もう少し気持ちの整理をつけたくて、七沖くんにアシカも見に行こうと誘った。
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「潮風が気持ちいいね」
夏海はそう言って髪に触れると「あ、パサついてる……帰ったら風呂に入らなきゃ」と苦笑いをしていた。
俺も夏海の真似をして髪に触ると、俺は整髪料で固めていたことを忘れていた。ゴワゴワしてるのは朝も今も大して変わらない。
「ねぇ、夕陽」
「うん、どうしたの?」
俺たちは、海の地平線に向かって陽が向かい始めている姿を眺めながら話す。
「冬香さんのこと、どう思ってるの?」
「……異性として、どう思ってるか?ってことを聞きたいんだよね?」
夏海は今更そんな確認をするな、と言いたげな呆れた様子だった。
俺はなんと言おうかと少し考えたが、下手な言葉で飾っても意味がないと感じた。
「女性として好きだよ。一緒にいると安心する。明日も話したいって思うし、その次の日も顔が見たいってなる」
彼女はしばらく何も言わなかった。気付かないうちに、何か地雷でも踏み抜いたのかと思い、恐る恐る顔を覗いてみると、真逆の表情だった。
「そうなんだ。うん、それならよかった」
彼女は海を眺めながら、嬉しげに目を細めていた。
「……ごめんね」
もう別れてしまったとはいえ、別れる直前はあんなにも嫌がっていた彼女だ。別の女性が好きだと俺が口にしたら悲しむかと思った。
だがむしろ、この発言が地雷だったようだ。
「は?自惚れないでよね。もう夕陽が私のことを恋人として見てないことは知ってるし、私も夕陽が恋人じゃなくてもいいんだってわかってきたから」
彼女は俺の肩を小突く。
「あっ……そうだよね、ごめん」
こういう下手な気遣いが、俺の悪い癖だと自省する。
夏海はとても大きなため息をつき、うなだれる。
「そう思うなら、男としてしっかり責任を取りなさい」
「責任……?」
「冬香さんをしっかり幸せにしなさいって言ってるの。冬香さんが恋人なら、夕陽の家族の一員である私も、認めてあげる」
「俺を……家族と言ってくれるの?」
冬香さんの件も驚いたが、それと同じくらい、俺のことを家族だと言ってくれたことにびっくりした。
夏海は今でも恋人に固執しているものだと思っていたから、こんなことを言われるとは思っていなかった。
「当たり前でしょ。正直、家族なんていう陳腐な言い方はズレてる気がするんだけどね。あなたに対する気持ちを説明するには、それくらいしか思い浮かばないの」
それに、と続ける。
「バーベキューへ行ったとき、父さんに話したことは聞いたよ。父さんも母さんもお姉ちゃんも、みんな家族だって思ってるんだから、私だけ認めないわけにはいかないでしょう?」
夏海は柵に預けていた体を起こし、俺の前に歩いてくる。
「私は恋人じゃなくてもあなたのことが好き。夕陽どう?私のこと、どう思ってるの?」
答えは決まっていた。迷いはない。
「俺も同じだよ。夏海のことが大好きだ。これからも一緒にいてほしい」
夏海は満面の笑みで微笑む。
いつのまにか、陽は濃いオレンジ色に変化し始めていた。
夏海は手を差し出す。
「改めて、よろしくね。夕陽」
「よろしく、夏海」
俺と彼女は冬茜に染まる中、互いの手を取った。
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夕焼けが強くなってきたのでそろそろ帰る時間かと思い、夏海さんたちのところまで戻ると、なぜか夕陽くんが説教されていた。
「夏海さん、夕陽くん、お待たせしました」
「あ、おかえり、冬香さん」
夕陽くんはしょぼくれた顔で私たちを出迎えてくれる。
「どうしたんですか?」
「夕陽のこと?優しすぎてダメダメだから、男としての責任の取り方っていうものを教えてたの」
「そう、なんですか?夕陽くんは十分、責任感のある男性だと思いますけど……」
夕陽くんが今にも泣きだしそうにこちらを見てる。
弱々しい夕陽くんは……これはこれで可愛くて良い。
「冬香、それは夕陽に甘すぎるな」
後ろから七沖くんがニヤニヤしながら話に入ってくる。
相手の気持ちを大事にして、決して投げ出さないという意味ではすでにあるように感じるけど……違うのだろうか。
「冬香さんは夕陽を綺麗に見すぎだよ……」
夏海さんは心配そうな声をしながら、後ろから私を抱きしめる。
突然のことで驚いてしまったが、親密なスキンシップをしてくれて嬉しかった。
今日だけで、夏海さんと距離を縮めることができた気がする。
私たちは帰りの電車の時間を調べ、夕食をどこで食べるのかを話し合いながら帰路についた。
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願わくば、こんな他愛のない会話を、高校を卒業してからもずっと続けていくことが出来たらこれほど嬉しいことはない。
そして、大好きな夕陽くんと一緒にいることが当たり前の未来へ辿り着くためには、自分から手を伸ばして手に入れないといけないのだと、改めて心に刻んだ。
それが私にとって忌まわしい過去と、私の薄汚い心を彼に見せることになったとしても。
自宅に帰った後、私は自叙伝にそう書き加えた。




