29話 冬の香り
今朝は肌を刺すような寒さによって起こされた。
昨日の夜、めくるのを忘れていたカレンダーを進めると、11月と表記されていた。
「もうそんな時期……か」
窓から見える空は昨日、雨が降ったおかげか、深い青が広がっており、心地の良い陽射しが部屋に差し込んでくる。
まだ、冬服を洋タンスの奥から引っ張り出すのを忘れていたことを思い出して、今日着る服だけを急いで取り出す。
毎年、この時期になると心が落ち着かなくなる。
幼少期、児童養護施設に入ることになった、あの日を思い出すから。
机に置いてあった、自分を見失わないように書いている自叙伝を、思わず手にしてしまう
表紙には「冬香」と書かれている。
ページを開いて読んでは、目を閉じる。それを何度か繰り返す。
自分の言葉をもう一度、自分の中に取り込むことで自分らしさを失わずに済むような気がするだけだ。
ただの個人的な儀式でしかない。
「あ、早く行かないと」
私は慌ただしく準備を整えて、一階のリビングへ降りていく。
大事なのは今だ。
今の私にも、血の繋がりは無いけど家族はいる。それと同じくらい、大事な友達もできた。
もう交わることのない、過去の人たちに引っ張られる必要はないはずだ。
夕陽くんと初めて出会ったカラオケの帰り、彼が楽しそうに家族の話をしていた姿を思い出しながら、そう言い聞かせた。
私は玄関のサボテンを愛でたあと、自転車を走らせた。
ペダルを漕ぐたびに、風が吹き抜け、耳と指先が痺れるような感覚に襲われる。
記憶の片隅にこびりついて消えない、母と過ごした最後の日を思い出さずにはいられなかった。
あの頃の私は、理不尽に無視されることも怒られるのも嫌で、家の片隅で最初から存在しないように暮らしていた。
それでも、泣かずに耐えられたのは、幼稚園で私と遊んでくれる、優しい彼だけが私にとっての拠り所だった。
いつも不機嫌で何かに怯えながら生きていた母から珍しく「電車に乗って遠くへ遊びに行こう」と言われた。
普段は無関心か、怒るか、そのどちらかしかない母からの言葉が嬉しくて、無邪気にその言葉を信じていた。
電車の時間が長くて飽きてきた頃、到着した駅に降りると、人通りは少なく、遊びに来るような駅じゃないことだけはわかった。
駅を降り、目的地へ向かって歩いていたときの母の顔は――今でも忘れない。
嬉しそうに笑っていた。
当時の私は、久々に母の笑顔が見れて嬉しかったと思っていた気がする。
忌々しい記憶を置きざりにしたくて、無我夢中で自転車を走らせていると、いつのまにか駅前の駐輪場に着いていた。
「はぁ、せっかくの水族館なのに……」
意気消沈しそうになったが、夏海さんと七沖くん、そして夕陽くんとこれから会える事実で気持ちを上書きした。
自宅の最寄り駅から電車に乗る。15分ほど乗り、集合場所である、学校の最寄りの駅に到着した。
駅の改札口を降りると、夏海さんが先に到着していた。
電車に乗っていた人の波で、流されるように改札口を出ると、目の前の太い柱に背を預けるように待っている夏海さんを見つけた。
「おはよう、冬香さん」
夏海さんは私に気が付くと、ニッと口角を上げて手を振ってくれた。
「おはようございます、夏海さん。早いですね、まだ30分前ですよ?」
「それは冬香さんも同じでしょ?」
彼女は私の手先が赤くなっていることに気付いたのか「ちょっと待ってて」と言いながら、すぐそばにある、駅構内のコンビニに入ると温かいペットボトルを二本買ってきた。
そのうちの一本を私の手に直接渡された。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。冷めないうちに手と体を温めてね」
彼女は駅の太い柱に背中を預けながら、お茶を飲み始めた。
「11月に入った途端に寒くなってきたよねぇ。私、寒いより暑いほうが好きだから、なかなか辛いんだぁ」
そう言いながら、巻いているマフラーの先端を手のひらで大事そうに握っていた。
「そのマフラー、かわいいですね。暖色系で夏海さんによく似合ってます」
「そう?ありがとう。これ、前に夕陽が誕生日プレゼントでくれたんだ」
彼女は在りし日の思い出を愛でるようにマフラーで口元を隠した。
「……本当に夕陽くんのこと好きなんですね」
「えっ!なんで急にそんなことを?」
「え、だって顔がそう言ってますよ?」
夏海さんは恥ずかしかったのか、マフラーの先で顔を隠してしまう。
「う〜……ごめんね」
彼女がなぜ私に謝るのか、よくわからなかった。
夏海さんが夕陽くんのことが好きなのは、前からわかっていることなんだから、謝る必要はないだろう。
そう思い、聞いてみたが、彼女は首を横に振った。
「だって、私はもう付き合ってないし、夕陽も恋人として私のことを見てないから……。せめて、冬香さんの邪魔はしないように気を付けようって、いつも考えてるのに……」
夏海さんはまだ夕陽くんを諦めていないものかと思っていたから、意外だった。
「本当にいいんですか?夕陽くんのこと、諦めて」
少しだけ挑発気味な言い方だったかも、と発言したあとに反省したが、彼女は怒りもせず真面目に返事をしてくれた。
「うーん、諦めるっていうより、恋人じゃなくてもよかったんだなってわかってきた感じかな」
マフラーから手を離し、上着のポケットに両手をお茶のボトルと一緒に入れる。
「たしかに少し前までは、恋人じゃないとダメだって思ってた。でも、別れてから皆と一緒に過ごしていくうちに、それでも私の心が満たされていたことに最近、気が付いたんだよね」
彼女は少しだけ吐息を吐く。
「あ、恋人じゃなくてもいいんだ。ってわかってからは、前みたいに夕陽を困らせることも、私の心がおかしくなることも少なくなって……色々な意味でこっちが正しいのかもしれない。そんなことを考えるようになったんだ」
「変なことを言っちゃったね、ごめん」と力なく儚い笑顔を私に向ける。
達観してるわけではなさそうだった。迷いながら、それでも前に進もうと自身の心と向き合って整理をしている。そんな印象を受けた。
「だから冬香さんには――」
「ういっす。おはよう、二人とも」
七沖くんが到着していた。
なんと間の悪い登場だ、と思いながら夏海さんの様子を見ると、どうやら同じことを思っていたようだ。
「な、何?俺なにかした??普通に挨拶をしただけなんだが……」
呆れ顔の私と夏海さんは、目を合わせて、示し合わせるように笑ってしまった。
「せっかく遅刻せず10分前に来たのに……タイミングが悪すぎましたね、七沖くん」
「本当、七沖は空気が読めないよね……」
「二人とも、開口一番からひどすぎない?」
彼に多少の同情を感じながらも、相変わらずな七沖くんで安心した。
「夕陽はまだ来てないのか」
七沖くんはスマホを操作しながら時間を確認している。
「うーん、本当は一緒に行こうかと思ったんだけど、夕陽から時間がかかりそうだから先に行ってくれって言われたんだよね。ちょっと連絡してみるよ」
夏海さんはスマホで電話をかける。しばらくすると話し始めた。彼女が話してる内容からしてもうすぐ来れそうだ。
「あと5分以内には来れるみたい」
「オッケー。じゃあ俺、そこのコンビニで朝飯食ってくるわ」
「私も一緒に行きます」
到着した夕陽くんに、温かい飲み物を用意しておこうと思い、七沖くんと一緒にコンビニに入る。
「冬香、チーズマシマシのハムチーズブリトーがあるぞ。買おうっと」
「そういえば、七沖くんはコンビニのブリトーが好きでしたね」
「おう、うめーからな」
ブリトーをレジに持っていく姿が、付き合っていた頃の彼のままで、私は笑みをこぼしてしまった。
夕陽くん用のお茶のボトルを買って、夏海さんのところへ戻る。
すると、ちょうど夕陽くんが来たようだ。
「お、ようやく来たな。おはよう、夕陽」
「夕陽くん、おはよう……ござい……ます?」
「おはよう。七沖、冬香さん」
違和感を感じる。服装も普段の彼が着るものとは毛色が違う気がする。
買ったばかりの服っぽいし……いや、今日のために服を買ったといえば自然ではあるのだが、それらの服装には、どうも彼以外の意思のようなものを感じる。
極めつけは髪型だ。普段は何も付けない彼が、今日だけは整髪料を使っている。
かっこいい。とてもかっこいいのだが、初めて見た。なぜ急に――
「夕陽、なにそれ?」
ドスの効いた、殺意のこもった声が夏海さんの口から発せられた。
「え、何が?」
夕陽くんは平静を装っているが、動揺を隠しきれてない。
それに、最初は整髪料の匂いかと思ったが、よく嗅いだら香水の香りもする。何の香りだろうか。
「は?何が?じゃないでしょ。何その服装?自分で選んだの?」
「おいおい、夏海。夕陽だって服や整髪料くらいは自由に――」
あぁ、やめたほうがいいのに。七沖くんはあまりにも無謀がすぎる……
「七沖は黙って。今あんたの相手をしてる場合じゃないの」
七沖くんは彼女の気迫に飲まれて後退りしている。
その言葉を口火に、津波のように言葉が溢れてくる。
「どう見ても夕陽のセンスじゃないでしょ。普段は使わない整髪料まで使って、意図的に誰が見てもわかりやすいようにしてる。あからさまな挑発だよ。しかもムカつくのが、これを選んだ奴が夕陽のことをどう思って見てるのか、丸わかりなところ。私の好きな夕陽を詰め込みました!みたいな、無邪気な意思が見え見えなの。その上、香水まで使ってるよね?何の香りかよくわからないけど、普通に考えてマーキングの類でしょ。一番最悪なのは、それら全てが夕陽の素材の良さを際立てる、その一点において、あまりにも上手い!これがもう鼻について仕方ないんだけど!絶対清水さんでしょ!?これ!!夕陽!!!どういうこと!!?」
夕陽くんの周りをぐるぐる回りながら、全身から清水さんの匂いと気配を悉く探し当てる。
実際にそうなっているわけではないが、夏海さんの顔が般若の面のような鬼に見えてしまう。
そして、さっきから見たこともない速度で怒りのボルテージのゲージが天元突破している。
七沖くんは怯えて縮こまっているし、夕陽くんはもはや一言も聞こえてなさそう。意識が明後日の方向に飛び立っているようだ。
私しか止める人間がいないことに恐怖を覚えた。
今の彼女に触れたら、瞬時に燃え尽きそうだ。
「夕陽くん、夕陽くん……ちゃんと夏海さんの話を聞いて返事をしてあげてください」
私は夕陽くんの脇腹を人差し指で刺しながら、意識を呼び戻す。
仕方ない。当事者であり、原因でもある夕陽くんには責任を取ってもらわないといけない。
「あっ……あぁ!えっと、ほら。せっかく四人で遊びに行くんだから、色々と新調したりイメチェンしたくてさ!」
「夕陽のセンスを誰よりも知ってる、私の直感が嘘だと言ってるんだけど!?もう少しまともな嘘を付けないのかなぁ??」
「あーいや、嘘じゃないよ?そう思ってたのは本当だよ。ただ、それを形にしてくれたのが清水さんで――」
「やっぱりそうなんでしょ!?あんの女狐……!私が土曜日の練習試合に行ってる、たった一日で夕陽の優しさに付け入って……!!ク――」
「夏海さん!それ以上は、ダメですよ」
暴走しすぎて、普段の彼女なら思っていても絶対に言わなさそうな言葉がポンポン出てくる……。
彼女にこれ以上の暴言は似合わない。私はそう思い、呼び止めた。
ようやく少しだけ落ち着いてくれたようだ。
「〜っ……!はぁ……ごめん。さすがに冷静さを欠いていた……ありがとう、冬香さん」
「うん、気持ちはすごいわかりますから……」
彼女と手を繋ぎ、手綱を握る。
「とりあえず夕陽くんは、服装と髪型はともかく香水だけはなんとしてください。駅のトイレに石鹸があるはずですから。それで手首を入念に洗ってください」
「え、でも、もったいないし良い香り――」
もしかしたら、この香水は清水さんと夕陽くんにとって思い出の香りなのかもしれない。
「聞こえませんでしたか?いいですね?」
夏海さんほど怒ってもいないし、マーキングとも限らない。だが正直、気分はよくない。
「はい、行ってきます」
聞き分けの悪い夕陽くんは、全速力でトイレに駆け込んで行った。
「はっ!さっき鬼がいたぞ!鬼はどこだ!?」
正気を取り戻した七沖くんが地雷原を踏み抜いて、夏海さんに詰められているが、あれは自業自得なので手助けはしない。
清水さん……一体、夕陽くんに何をしたんだろう。そもそも、なぜ今日出かけることを知っていたのか。
憶測を考えるほど、胸の内が濁っていく気がした。
私はこんな風に暢気にしていて、いいのだろうか。このままだと取り返しのつかないことになるのではないのか。
もし、仮に、夕陽くんの心が清水さんのものになったら――考えたくない。そんなことはあり得ないことだと思いたい。
焦燥感が心に燻ってる事実を自覚せずにはいられなかった。




