28話 ワインレッドに染まる尾の花
秋も深くなり冬間近とはいえ、部活が始まれば体育館は熱気に包まれる。
声を出して合図を出し、皆で士気を上げる。
顧問の指導は熱を帯び、激励が飛ぶ。
時には怒号にも近い声で部員をホワイトボードの前に呼び出し、戦略的な解説を絡めていく。
マネージャーは飲み物の準備と、練習のサポートのために忙しなく声を出して動いていた。
練習中にも清水さんの様子を盗み見る。邪魔にならないように気を遣っているようだ。
時折、マネージャーに声をかけられているが、何を話しているのだろうか。
全身に籠った熱は外気との温度差で白い煙のように立ち上る。
「疲れた……。あぁ……お疲れ、七沖」
「おう……ふぅ。お疲れ」
練習の終了間際、最後は二人一組でペアを組んでストレッチをして終わりとなる。
「夕陽は午後の練習は参加するのか?」
互いの身体を伸ばし合いながら、この後の予定を話し合う。
「どうしようかな……清水さんが見たいって言うなら参加しようかと思ってるよ」
午後練習の参加は任意で、部内でチームを組んで練習試合をひたすら回すことになっている。部活としての練習ではあるが、どちらかといえば真面目に遊ぶような内容になるはずだ。
「相変わらず、情熱的なアプローチを受けてるみたいだな?」
七沖は遠くからでもわかるほど、派手な金髪を揺らし、俺を見つめている清水さんをチラッと見た。
「まぁ……ね。正直、どうしたらいいのかわからない。俺のことを好きでいてくれるのは嬉しいんだけどね」
七沖の開脚前屈を手伝うため、彼の背中をゆっくりと押す。
今朝の出来事を思い出す。膝枕をされるとき、好きな人にすべきだと言ったら「だから今そうしている」と言われた。
「告白は、もう、されてるんだろ?」
股関節を伸ばすと、彼は少し苦しそうな声を出しながら話を続ける。
いや、それ以前からだ。有形無形、様々な形で明確な好意を示してくれている。
「そうだね。告白というより、会話の端々でジャブみたいに言ってくるような感じだけど」
「ふーん。その様子だと、明確な返事はしてない感じか」
俺は、何も答えなくていい立場に甘んじていた。デートをしようと言ったが、すでに彼女の願いが叶わないことは決まっている。
なぜなら、俺は――冬香が好きだから。
「……うん、そう」
だから答えられない。
膝枕の感覚がまだ残っている。部活中でも片時も忘れられなかった。
でも……あの穏やかでゆったりとした時間の裏には、ずっと冬香がいた。
清水さんと冬香を比べるつもりはなかった。おこがましいことだ。だが、俺の心はそうではなかった。
「夕陽、おーい、聞こえるか?今度は俺が押すから、足を広げてくれ」
「あ、悪い。ぼーっとしてた」
清水さんに対する罪悪感。それが彼女と関わり続ける理由だ。
叶いもしない、期待させるだけの時間を渡して、彼女が喜ぶのだろうか。
「夕陽、相変わらず体が柔らかいな……軟体動物みたいだ」
デートをする前に、俺から明確な意思を伝えるべきだ。その上でデートをするかどうか、ちゃんと聞こう。
顧問からキレのいい集合がかかる。練習が終わる合図だ。
今後の練習内容の方針や午後の予定についての話など、細々した話を終え、俺たちは更衣室へ戻る。
普段なら七沖たちと駄弁ってから帰るが、今日は待っていてくれてる清水さんへ顔を見せるため、早々に体育館の下駄箱まで向かった。
すると、体育館の入り口で清水さんは誰かと話をしているようだ。
親しげにしていたのは、同期で同じバスケ部の長尾だった。
彼はいわゆるオタクであり、俺にとっても貴重なオタク友達でもある。まさか、清水さんと知り合いだとは考えもしなかった。
「お疲れ、夕陽。今日は帰るのが早いね」
清水さんと言葉を交わす長尾の姿を見ると、何とも言えない感情が芽生える気がした。
「長尾、お疲れ様。清水さんと知り合いなんだ?」
「うん、最近ね……」
「へぇ、そうなんだ」
無意識に声のトーンが一つ下がってしまった。
それを聞いた清水さんは、くすくすと笑う。
「一ノ瀬さんと桑田さんを通して友達になったんだよ。ね、長尾くん」
「あ、はは。実はそうなんだよね。偶然が重なって話すことが増えたんだ」
白ギャル一ノ瀬さんと褐色ギャル桑田さんが、オタクの長尾と友達……?
これが……オタクに優しいギャルってやつか……?
「幻の存在だと思ってたわ」
清水さんと長尾は、俺の独り言の意味がよくわかってない様子だった。
ん?というか――
「長尾……もしかして、一ノ瀬さんたちに部活のこと話したりしてる?」
「えっと、話は……するよ。次の週は試合があって一日出掛けてるとか……そういう話」
「あーそういうことか、わかった。ありがとう」
情報漏洩の元凶は……見つかったようだ。
「来週出る、例の続編新作の感想を教えてよ。面白そうなら初代を買うからさ」
長尾に手を振りながら下駄箱へ向かうと、清水さんもあとを付いて来る。
まぁ、女の子と仲よくなるために自己開示はするもんだ。多少の情報漏洩と清水さんと仲良さそうに話していた事実には、目を瞑ろう。
「清水さん、昼ごはん食べるでしょ?駅前のファミレスに行かない?」
「えー、黒臼くんの家で食べたいな。キッチンを貸してもらえるなら、私が作るよ?それに膝枕の続きも――」
俺に好きな人がいることを伝えたら、清水さんはなんて言うだろうか。もしかしたら、関係が断たれてしまうかもしれない。
――あぁ、いや……本当に、俺も懲りないやつだな。
こうやって俺は、いまだに誰も傷付かない未来がないかと模索している。
自分で自分を嘲笑しながら、これから壊してしまうであろう、束の間の平穏をくれる清水さんの笑顔を眺めることで、逃避した。
自宅の玄関ドアが見えてきた頃、空は朝よりも色の濃いネズミ色の雲に覆われていた。
天気予報でも陽が傾く頃には、雨が降り始めると言っていたはずだ。
清水さんは当たり前のように家に上がり、荷物をリビングの邪魔にならない場所に置く。
「じゃあ、私が黒臼くんのお昼ごはんを作ってもいい?」
彼女は腕まくりをして気合を入れる。
きっと彼女にとって、今この瞬間が楽しい時間であろうことが滲み出ていた。
「黒臼くん?聞いてる?」
ソファに座ったままの、反応の薄い俺の手を握って呼び戻す。
「清水さん……その前に、少しだけ話、してもいい?」
俺の言い方があからさまだったのだろう。彼女の表情から、弾けるような笑顔をあっという間に消してしまった。
「うん、なぁに?」
正面のソファに座り、少しだけ甘ったるい声と目で俺のことを見つめる。
俺には好きな人がいるから、清水さんとは付き合えない。
言えば終わりなのに、喉あたりが渇いて震えている気がして、口に出せない。
出そうとする瞬間、清水さんの苦しそうな、あの表情が藤の花と共に思い浮かんでしまう。
「大丈夫?言いたくないなら無理しなくていいよ?」
彼女はハンドタオルを持ち出して俺の額を拭いてくれる。
「ありがとう……」
俺は深呼吸をする。
先のことを考えるのを止め、今言うべきことだけに意識を向ける。
「俺、好きな人がいるんだ……」
「……うん」
彼女は動じなかった。
「えっと、だから、清水さんの気持ちには応えられない。ごめんなさい」
清水さんと目を合わせ辛くて、視線が定まらない。
視線の端々に映る、彼女の眼差しが先ほどよりも一層、甘く、優しそうに見えてしまう。
混乱した。きっと怒られたり、泣かれたりするものだと思い込んでいたのに。真逆の反応をされてしまった。
少なくとも、夏海と別れたときはそうだった。
ここから先、俺はどうすればいいのか、わからない。
追い出す?俺が外に出る?それとも、もう一度同じ話をする?
どれも違う気がする。そんなことで清水さんはこの場から居なくならないと、直感が言っている。
「黒臼くん」
心を撫でるような声で俺の名を呼ぶ。
「ありがとう、勇気を出してくれて。やっぱり優しいね……本当に昔と変わらない」
一途な人を傷付ける、酷い男になることも覚悟をしてた。なのに、彼女は告白する前よりも優しかった。
「俺のどこに……勇気があるの?優しさなんてどこにもないよ?君の気持ちを踏み躙ったのに……なんでそういうことが言えるの?」
わからないから聞いた。どうしてそこまでして、俺のことを好きでいてくれるのか。
「清水さんのそれは、こんな優柔不断な人間に向けるべきものじゃないよ……」
彼女なら俺なんかより、もっといい人はいくらでもいるのに。
「あなたに勇気がなくて、優しくもなかったとしたら、今、黒臼くんはこんなに泣いてないと思うよ」
目の前が濡れて何も見えなかった。彼女がいつ俺の隣に来ていたのかも、わからなかった。
清水さんの手のぬくもりが膝の上に置いていた手から伝わってくる。
「まるで黒臼くんが振られたみたいだね。私、泣いてないよ?」
涙で歪んだ視界越しに清水さんの笑顔が見える。
「そう言われても……なんか、わからないけど、涙が……止まらないんだ」
「やっぱり私……黒臼くんのことが大好き」
清水さんは横から俺を抱きしめる。
「私ね、他に好きな人がいるのは知ってたよ。それが誰なのかも知ってる。全部わかっていて、私はあなたの近くにいるんだよ?その意味――わかる?」
耳元に顔を近付け、思いを吐露する。
「相手のために、自分のために泣ける……そのままのあなたを、私はほしい」
彼女の指先が頬に触れ、撫でる。
声の色が――赤く、黒く、濃くなる。
「だから、私を振ったことは気にしなくていいよ?諦めないから。来週のデートだってもちろん行くし……。あなたが私以外の誰かを選ぶまで、そばにいて――私の気持ちをあなたに伝え続けるから」
最後、情緒的で甘くとろけるような吐息に混じって、まるで砂糖が焦げたような言葉を彼女は囁いた。
それはあまりにも強くて、重い言葉だった。
彼女は頬に口づけを落とす。
「さすがにちょっと恥ずかしいかも……」
はにかむような、恥じらう声色の独り言が聞こえる。
「じゃあ今からお昼ごはんを作るから、少し待っててね」
直前まで日常会話をしていたかのように、軽い言葉と足取りでキッチンへ向かう。
告白する前と何ら変わりのない振る舞いを見せる彼女の瞳は、以前より強い感情に満ちていた。
外に置いてある室外機に何かぶつかる音が聞こえた。涙で掠れた目を擦り、ガラス窓を見上げると、明るいネズミ色だった雲の群れには、いつの間にか黒のまだら模様が浮かんでいた。
時雨が降る。部屋がより一層冷え、冬の訪れを感じた。部屋に飾ってあるカレンダーには、ちょうど今日で10月最後の日付がめくられていた。
すぐ止むかと思ったが、結局、1時間以上降り続けた。
その日、俺は午後の練習には参加しなかった。
理由は、清水さんが雨の中、外に出たくないと言ったこと。そして俺自身、とても練習に行く気分にはなれなかった。




