27話 大紅団扇の恋に悶える心
今日は午前練習と昼休みを挟んで、午後練習もする日だ。
普段はこんな形の練習はないのだが、どうやら午後に使う予定だったバレー部がキャンセルをしたらしい。それで急遽、バスケ部が使うことになったみたいだ。
そして、女子バスケ部は練習試合のため、夏海は来ない。
そのため、朝食を自分で作るので早めに起きた。
「あ~面倒だな。夏海作ってもらってたから……やる気にならない。コンビニでもいいけど……いや、作るか」
外から陽を入れたら気分が上がるんじゃないかと思い、カーテンを開けたが、空にはどんよりしたネズミ色の雲が覆っていた。
「うーん、気分が下がったな」
気を取り直してキッチンへ向かおうとすると、チャイムが鳴る。
一人暮らしの俺を訪ねてくる人なんて夏海くらいだ。
「これから部活なのに……誰だろう」
玄関のドアを開けると、清水さんがいた。
「あれ、清水さん。どうしたの?今日も部活の練習があるんだよね。だから……」
「うん、だから一緒に行こうかなって思ったの。朝ごはん、食べてないでしょ?」
「えっ……そうだけど、俺……練習の時間って言ったっけ?」
たしかにメッセージのトーク機能で今日、練習があると話はしたけど、逆に言えば、それくらいしか言ってなかったはずだ。
「言ってないよ。どうしてわかったのかは……秘密」
唇の前に人差し指を当てて、あざとく魅せる清水さんに目線を半ば強制的に誘導されてしまう。
「これって情報漏洩してる……?」
「えー、人聞きの悪いことを言わないでほしいな……」
少し拗ねるような表情を見せる彼女は「でも……」と続ける。
「本当に怖いって思わせてしまったら、ごめんなさい……。ただ、黒臼くんに会いたかっただけなの……」
徐々に不安に飲まれるように暗くなっていく彼女がかわいそうに感じてしまう。
「いやいや!大丈夫だよ。清水さん、ありがとう。えっと……朝ごはん作ってきてくれたの?」
ぱぁっと明るくなる彼女は学校のカバンとは別の、保冷機能の付いたカバンからおにぎりを取り出す。
「うん、あんまり凝ったものは作れなかったんだけど、これでもいい?」
それを嬉しそうに見せてくれる、彼女の淡い笑顔が俺の心に刺さる。
だが、俺は彼女の気持ちをそのまま受け止めることに躊躇している。
昨日の朝練も昼ごはんのデザートもそうだったが、彼女の健気な献身と、時折見せる焦げるような色香によって、たしかに俺の心は激しく揺れ動かされている。
しかし、同時に彼女が自然体を貫こうとするほど、好意と善意、その全てに彼女らしさと自己犠牲的な危うさが同居しているような気がしてならない。
「黒臼くん、大丈夫?」
「……あ、うん。大丈夫だよ。じゃあ、お言葉に甘えて、ご馳走になろうかな。男の一人暮らしの家でよければ……上がってもらおうと思ったけど、大丈夫?」
彼女は弾けるような表情で答えてくれた。
俺の悪い癖だ、わかっている。それでも清水さんの気持ちを拒否することができない。
いまだ記憶の中に残っている、かつて藤の花の下で見た、清水さんの悲痛な笑顔。
当時は友達として受け取っていた。失礼な話だとは思うが、だからこそ軽く受け止めることができた。
今の俺に、そんなことができるわけがない。
勝手に時間が解決してくれると、見て見ぬふりをしてきた未精算の過去だ。
無知で無頓着だった、かつての自分を羨むと同時に呪いたくなった。
「清水さんも食べるの?」
「うん、用意してたら食べる時間がなくなっちゃったから、一緒に食べようかな」
戸建てアパートへ迎え入れ、リビングのソファに案内をする。
「適当なところに座って待っていて」と伝え、俺はキッチンに入る。
やかんに水を注ぎ、火にかける。
「あ、ごめんなさい。私も手伝うよ」
座っていて落ち着かない様子だったところを見るに、手伝ってもらったほうが、彼女の気持ちは楽になるのかもしれない。
「ありがとう。じゃあテーブルを拭いてもらってもいい?」
絞った布巾を渡す。彼女は軽やかな足取りでリビングのテーブルを拭いてくれる。
以前、冬香が家に来た時も、こんな感じで楽しそうに家事をしてくれたことを思い出した。
「黒臼くん、ニコニコしてどうしたの?」
拭き終わった清水さんはキッチンまで布巾を持ってきてくれていた。
「ううん、なんでもないよ。清水さんが楽しそうだなって思っただけ。それじゃあ、火の様子を見てもらってもいい?」
彼女は自身の頬を人差し指で撫でながら照れる。
火の番を任せているあいだ、俺は冷蔵庫から昨日残ったおかずを電子レンジで温め直す。
「あ、私も少しだけどおかずを持ってきてるから、よかったらそれも食べてね」
俺は彼女の保冷袋バッグからおにぎりとおかずを取り出して、テーブルへ並べる。
お湯ができたので、レンジにあるおかずを清水さんに並べてもらいながら、紅茶を用意していく。
俺たちはテーブルを挟んで「いただきます」と目と手を合わせながら食事を始めた。
彼女は昨日の残りである、厚揚げのあんかけを気に入ってくれたようだ。美味しそうに、おにぎりと一緒に食べてくれる。
俺も清水さんが持ってきてくれた、沢庵とほうれん草の胡麻和えが美味すぎて箸が止まらなかった。
「そういえば、この箸は黒臼くんの?」
彼女の手元にある、黒い漆が塗られている八角の箸を眺める。
「一応来客用だけど、あんまり区別してないから使ったりしてるかも……あ、ごめん、嫌だったかな」
「ううん、嬉しいよ」
嫌じゃない、ではなく嬉しいとはどういうことだろう。
俺の表情を見て察したのか、苦笑しながら答えてくれる。
「末広がりの意味がある縁起の良い箸だから嬉しいってことだよ」
父が出張のお土産で買ってきただけの箸だと思っていたので、そんな意味があるとは考えてもいなかった。
「さすが清水さん、物知りだね」
小中学生時代の彼女を思い浮かべた。眼鏡をかけて、いつも本を読んでいる彼女の姿を。
「そんなことないよ。知らないことだってたくさんあるよ。例えば……」
しばらく逡巡する。
「黒臼くんのこと、とかね」
「俺?清水さんが知ってる頃とあんまり変わらないと思うよ」
たぶん、良くも悪くも本質的には変わってないと思う。
「そうなんだ」と彼女は俺のことを観察するように見る。
「じゃあ、膝枕もまだ好き?」
心臓が少し早くなった。
藤の花を思い出す。
あれ以来、誰にもしてもらっていない。特に深い理由はないが、夏海にもお願いしたことはないはずだ。
「あー……清水さん以外に、してもらったことがないから、どうなんだろう?よくわからないかも」
清水さんの口元が緩む。
「じゃあ、やってみる?膝枕」
彼女は太ももをポンと軽く触れる。その動作があの頃と同じだった。
「あと30分くらい時間がありそうだし、できるよ?」
「それは、昔と今じゃ意味がまったく違うから……」
逃避の言葉だと自覚しながらも、それ以外に言葉が見つからなかった。
「同じだよ」
俺の言葉を掻き消すように続ける。
「昔も今も、私にとっては同じ。何も変わらないことだから。私のために、受けてほしいな」
「そ、そういうのは好きな人にしたほうが……」
「うん、だからこうして聞いてるの」
逃げ道が塞がれる。もう強い言葉で拒否をするか、受け入れるかのどちらかしかない。
答えを出せない俺に痺れを切らしたのか「仕方ないなぁ」と言いながら
「膝枕を受けてくれないなら、星田さんと八木坂さんに、私を家に上げて、膝枕をしてほしそうに鼻の下を伸ばしてたって言っちゃおうかなぁ」
本気か嘘か、それはわからないが、そう言った。
「いや、それは勘弁してほしい……」
なぜ俺に落ち度があるような話になるのか、いまいち納得できないが、それをやられるとマジでヤバそうだ。
彼女は無言で俺を見つめる。
「……わかったよ。膝枕してもらうから、言わないでね……」
「うんっ」
観念した俺はおにぎりを食べ終え、素直に清水さんの隣へ座り、頭を膝に乗せる。
体と頭の中が浮ついて自分が何をしているのかも、わかっていない気がする。
「んっ……んぅ……」
清水さんの体がピクンと軽く跳ねながら、甘くまとわりつくような声が聞こえて、俺まで変な声が出そうになる。
「だ……大丈夫?やっぱりやめたほうが――」
「だめっ!……絶対にやめちゃだめ……!」
太ももから離そうとすると、清水さんは強めに押さえつけてくる。
顔がさらに沈み込む。
これは――
「あっ……ごめんなさい、強く押しすぎちゃった。痛くない?大丈夫?」
「うん、大丈夫だから……ありがとう」
心頭滅却を念仏のように唱えることで、なんとか乗り切れた気がする。
浮ついた声であたふたしていた彼女は、俺の言葉で落ち着きを取り戻したようだ。
彼女の吐息が近くなる。
「よかった……。じゃあ、時間になったら起こすから、寝てもいいよ」
俺の頭を撫で、髪を手ぐしで、とかしていく。
あの頃よりも柔らかな太ももの触感を感じながら、俺は心を無心にしていく。
「どう?膝枕は……今も好き?」
「……うん、好き」
「そっか、よかった」
ここまで来てしまったら、抵抗する気力もなくなってしまった。
だから、この時間を彼女のために共有することだけを考えよう。
それが、今の俺から彼女へ渡せる、数少ない誠意なんだと自分に言い聞かせた。
撫でる手が顔へ近付くたび、懐かしい花の香りを感じる。
初夏の風に揺れる藤の花と、二人で座ったあのベンチを思い出しながら、意識が遠のく。




