24話 たおやかに寄り添う藤の花
教室のドアが開く音が聞こえた。
「おはよう。さっそくだが、みんなに連絡することがある。清水、窓の外ばかり見てないで集中しろよ」
先生は朝の挨拶もそこそこに、黒板の前で意気揚々と朝の会を始める。
景色に集中しすぎて、朝の会が始まっていることに気付かなかった。
「はい……」と控えめに返事をしながら、それでも外の変化を教室の窓越しに見るのが好きでやめられなかった。
外の桜はすっかり枯れ、代わりに新緑の若葉が芽生えていた。
春の穏やかな陽気を感じると、少しだけ眠くなる。
そんな、夏の気配をうっすら感じるこの時期に転校生がやってきた。
彼の名前は黒臼 夕陽くん。
先生に促される形であいさつの声が聞こえる。
彼の声を聞いて、私は意識を教室へ向けた。
「――……」
中途半端な時期に転校してきたこと、名字の黒臼という珍しさと夕陽という綺麗な名前、それらの印象が強く残っていた。
とても物静かな人で転校初日でも、まるで最初からそこにいる……空気のような存在感だった。
最初の二・三日程度は皆、関心があったようだが、それ以降は誰も関わらなかった。というより、いてもいなくてもどちらでもいい存在だと、認識し始めたのだろう。
そもそも、小学6年生にもなれば皆、仲のいい友達の輪はすでにできあがっている。いまさら、転校生一人くらいで気もそぞろなのは、私くらいなのかもしれない。
それでも彼はマイペースに一人で過ごしていた。
私も奥手だから、彼とほとんど話したことはなかった。せいぜい、おはようとバイバイくらい。たぶん、私の顔を覚えてすらいなかったと思う。
何か大きな理由があったわけじゃなかったけど、そんな彼を観察するのが私の日課になっていた。
あえて理由を挙げるなら、私も自分のペースで本を読んでいることが多いから、勝手にシンパシーを感じていたのかもしれない。
4時間目の、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
この学校の校庭には藤の花が咲いている。
卒業生が寄贈したこの花は、とても綺麗だと思っていたのだが、周りの生徒は誰一人として興味を示していなかった。
私は休み時間や昼休みに教室の窓から、それを眺めることがよくあった。
ある日を境に、藤の花のそばに設置されているベンチで男子生徒が一人、座っている姿を見るようになった。
藤の花に興味を示す人がいるとは思っていなかったので、どんな人なのか……興味がわいた。
給食を食べ終え、足早に校庭に向かうと、鮮やかな藤の花の前にはいつも通り、彼は座っていた。
「こんにちは」
私はベンチに座っている後姿の彼へ声をかけてみたが、反応がない。
顔を見たくて前に回ってみると――黒臼くんがうたた寝をしていた。
安らかな表情をしている彼を見て、私の顔も綻んでしまう。
彼を起こさないように隣へ座る。
優しい風が私たちの間を抜け、足元で校庭の砂がサラサラと音を立てながら転がる。
木々と葉同士が擦れ、風の音に彩りを飾る。
心地の良い彼との時間を私は楽しんでいた。
「ん……んん……っ」
彼は座ったままの体勢で寝るのが息苦しかったのか、ベンチに身体を倒した。顔がちょうど私の膝の上に乗ってしまう。
「あ……えっと……」
私は驚いて体を硬直させてしまったが、彼は全く気付いてないようだ。そのまま寝息を立て始めた。
自分の息遣いが心音にかき消されそうになっている、その状況を甘受していた。
突き動かされる感覚に従って、私は彼の頭を撫でる。
指先が痺れたような気がした。サラサラした彼の黒い髪の毛に触れるたび、指を通って、腕を駆け上がり、心臓まで奇妙な感覚が走る。
癖になりそうだった。もっとしたい。
無我夢中で触っていると、眼鏡が鼻からずれてしまったが、それどころではなかった。
「んん……?」
彼が目を覚まし、膝にあった体温が消えてしまう。
「ん……誰……?」
目を擦りながら、寝ぼけた表情で私のほうを見る。
「あ、あの……私、清水 秋果。同じクラス……です」
頭が働いていないのか、しばらくの間、じっと見つめてきた。
「あぁ……ええっと、黒臼 夕陽、です。よろしく……」
「うん、よろしく」
彼は挨拶だけすると、あくびをしながら立ち上がる。
「戻る……じゃあね」
それだけ言い残して歩き始めた。私は彼にもう一度触れたくて、聞いた。
「あ、あの!また……一緒のベンチにいても……いい?」
ほぼ初対面の人にこんなことを言われて、気持ち悪いって思われるかもしれないけど、どうしてもそばに居たかった。
「うん、いいよ」
それだけ言って立ち去った。
私は彼の後姿を見送りながら、膝に残っていた彼の感触と温かさを噛みしめる。
翌日から、私は彼が藤の花の前で座っている姿を見かけるたび、隣へ行くようになった。
2回目に声をかけたときは、「ごめん、誰だっけ……?」と素で言われて、一週間以上、内心で引きずっていたことは、彼には内緒にしてある。今では、なぜそういう人なのかを知っているから納得しているし、そんな些細なことは今の私には関係なかった。
「あ、清水さん。今日も来てくれたんだ」
彼はいつものように藤の花の前でボーっとしていた。
5月も中旬が終わる。花もだいぶ散り、薄紫色の花よりも深緑の葉の色が多くなってきた。
私は相変わらず友達が少ないけど、風の噂で私と黒臼くんが付き合ってるんじゃないか、という話が流れていることだけは知っていた。
何一つ事実じゃなかったけど、私はそれを否定するつもりは全くなかった。
「黒臼くん、こんにちは。元気そうだね」
私が隣に座ると、彼は笑顔をこぼしてくれる。
「花もだいぶ枯れたね。また来年も見たいな……あ、今年で卒業だったね。残念だなぁ」
枝豆のような実をならせ始めた藤の木を眺めながら、空に向かって話しかける。
「でも、今日はいつもより楽しそうだね?」
彼の口角が心なしか上がっているように見えた。
「そうかな……?あぁ、でも、そうかもね。実は新しい友達ができてさ。父さんの……昔からの友達の子なんだけど……楽しかったんだ」
私は心音が早くなるのを感じた。最初に出会ったころのものとは似て非なるものだった。
「そうなんだ、同性の友達ってできると楽しいよね」
私は自分の願いを込めて、そう相槌を打った。
「あ、いや……女の子だよ。隣のクラスにいる星田さんって言うんだけど」
「え、そうなの?女の子……そうなんだ」
ベンチに座ってるはずなのに、足元がふらつく感じがした。
心音が加速して、目の前の彼に集中できない。
「あ、あのさ……いつもの……する?」
私は膝を軽く手で叩く。
聞きたくない話を遮るために、私と彼だけの特別な時間を使う。
「いいの?いつもごめんね」
彼はそう言いながら嬉しそうに、私の、膝枕を受け入れる。
先ほどまで暴れて仕方なかった心臓は、徐々に落ち着きを取り戻し、いつもの私が帰ってきた。
永遠に続けばいいのに。
新緑に移り変わる藤の花を見上げ、何も変わらない穏やかな表情の黒臼くんを見下ろす。
指先の痺れはもう感じなくなったけど、その代わり、彼の温かさが指先から伝わってくるようになった。
中学に上がったら、どこに行こうか。
ショッピングモールに行って服を一緒に選んでもらおうか。
それとも、図書館で互いのおすすめの本を紹介し合おうか。
カラオケに行って、彼の好きな曲を教えてもらうのも良さそうだ。
私は彼との未来を想像するだけで胸が満たされた。
次の週から、彼がここに来る頻度が減り始めた。
毎日必ず、昼休みに来ていたのが一日だけ減った。
理由を聞いたら「その日は苦手な給食メニューがあって、食べきるのに時間がかかってしまった」と言っていた。
今まで、嫌いな食べ物なんて聞いたことがなかったが、彼がそう言うのであれば、きっとそうなのだろう。
次の週には二日になった。
理由は「男友達ができたから、その人たちと絡むことが増えた」らしい。
同性の友達が増えると、趣味を共有したりするのが楽しくなるのはよくわかる。だから、仕方ない。
次の週には……三日。
理由は、教えてくれなかった。少ししつこく聞いたら、先週までと同じ理由だと言われた。
それでも、彼は優しく私と話してくれたし、いつも通り、膝枕を楽しんでくれた。
そして、頻度が減り始めてから1か月が経過しようとしていた。
もうすぐ7月になろうとしている。藤の花は完全に枯れ、深緑の葉が青々と生い茂る。
枝豆のようにさやに入った実をたくさんならせ、すっかり夏の様相に変わった。
「黒臼くん、最近忙しそうだね」
「うん、まぁね。俺もどうしてなのかよくわからないんだけど、友達が急に増えて、その人たちとよく遊ぶことが増えたんだ」
「そうなんだ。それなら、仕方ないね……」
いつも通りに話したつもりだったが、黒臼くんは心配そうな目で私を見ていた。
「大丈夫だよ。私はここにいるから、時間があるときに来てくれれば……それで大丈夫だから」
彼には彼の事情がある。それは尊重しないといけない。
私の底に、黒い何かの気配を感じる。だけど無視した。きっとそれは彼を苦しめるものだから。
彼は手を私の膝に置いて、無言で私の瞳を見つめていた。
互いに何も言わず、私は膝を軽く叩いて、彼はその上に頭を乗せる。
この瞬間だけは私だけの黒臼くんだ。その事実だけは、他の何かが変化しても決して変わらない。
それだけを道しるべに私は今を生きている。
7月の夏休みに入る直前。私は青々しい葉が生い茂る藤の花を眺めている。
実はすべて、先生たちが取っていた。理由を聞いたら、こうしないと来年の花に必要な養分が実に使われてしまうからだと、教えてくれた。
必要なことだと理解はできたけど、全て取られてしまった藤の花は、心なしか寂しそうだった。
ボーっとしているとベンチの横に人が座った音と気配を感じた。
黒臼くんだと思い、ぱっと振り返ると、そこには彼はいなかった。代わりにいたのは、星田さんだった。
「……えっと、星田さん?」
私が訝しげに話しかけると、星田さんから圧を感じた。
彼女の噂はよく聞いていた。男女関係なく誰とでも仲良くできる、とても明るい人だと。
私は違うクラスだが、それでもそういう話を聞く。ということは実物はもっと人当たりが良いものだと思っていた。
「あなたが、清水さん?」
どうやら、思い違いだったようだ。
「はい……そうです」
星田さんの目から、とても強い感情が溢れていることだけはわかる。
だけど、それがなんなのか、今の私にはわからなかった。
とにかく、怖かった。
「夕陽、知ってるよね?」
「えっと……黒臼くんのこと?」
「そう。夕陽があなたのことを気にして、全然みんなと遊ぶことに集中してくれないんだよね。なんとかならない?」
「ごめん……それは、なにが言いたいの?」
何を言ってるのかよくわからない。それが私と何の関係があるのだろう。
彼女は短くため息をつく。
「もう少し、ハッキリ言うね。夕陽に近寄らないで」
「……え?」
私はあまりにも唐突な言葉に、戸惑った。
星田さんにそんなことを言われる筋合いがどこにあると言うのだろう。
「聞こえなかった?これから夕陽は私たちと遊ぶから、あなたは気にする必要はないって言ってるの」
彼女は尖った声を私にぶつけてきた。
これは明確な警告だ。明らかに星田さんは私と黒臼くんとの間に割り込もうとしてる。
黒臼くんから話は聞いていた。ご両親同士が仲が良く、その縁があって家族ぐるみで出かけることが多いと。
そんなズルい立場を使って私から黒臼くんを取ろうとしている。
「……星田さんに決められることじゃないでしょ?黒臼くんはなんて言ってるの?」
怒りが湧いてきたのと同時に悔しかった。私が彼と積み上げてきたものはこんなにも簡単に崩れてしまうものなんだと。そんなこと、絶対に認めたくなかった。
「それを夕陽の口に言わせるってことは、あいつを傷つけることに繋がるってわからないの?それとも、それをわかった上で言わせようと?」
「わかってる。だけど、私は彼の言うことしか信じない」
彼女の言い分は、私の大事なものを人質に取っているような気がしてならなかった。
「……わかった。明日、夕陽の口から直接話をしてもらうように言っておくから。いつも通りここで待っていて」
彼女は立ち上がり、そのまま立ち去ってしまった。
黒臼くんの気持ちを盾にして、私を黙らせようとするのが嫌だった。
辛いことをさせてしまって、ごめんなさい。
「清水さん」
翌日、星田さんの言っていた通り、黒臼くんが来てくれた。
きっと、昨日の話を聞いたのだろう。いつもと違って、表情がどこか引きつっているように見えた。
「ごめんね、黒臼くん。星田さんから話を聞いているんでしょ?」
彼は声を出す代わりに、頷いて同意してくれた。
「でも……俺は清水さんとも夏海とも、仲良くしたいんだ。だから、夏海が言ったことは気にしないでほしい……」
私の知っている優しい彼がいる。だけど、たぶんそれでは、この話は終わらない。
「嬉しいけど、きっと星田さんは納得してくれないよ……」
彼は黙ってしまう。自分でもわかっていたのだろう。
「清水さん、夏海たちと……俺と一緒に遊ばない?」
先ほども彼自身が言っていた通り、ただ、私とも星田さんとも仲良くしたいだけなのはよく伝わってきた。
嬉しかった。私を切り捨てて、星田さんを選ぼうとしなかった彼の優しさが。
星田さんがあいだにいても、私の黒臼くんが、今も目の前にいることだけはわかった。
それでも、私の黒い何かは許してくれなかった。
それは、私に囁いた。
それって要するに何も決められないって自白してるようなものだよね?
誰かを選ぶことの責任から逃げようとしてない?
黒臼くんは、星田さんのほうが好きだと思ってるけど、私が都合のいい人だから優しいことを言ってるだけでは?
自分でも信じられない暴言が心の中を荒らしていく。それだけならともかく、それらの言葉が口元から出かかっている。
「ごめんなさい……それは、できない」
私にはとても、この提案を受け入れられる気持ちじゃなかった。
彼を独り占めにしたかった。
「……わかった。ごめんね。清水さん」
私のほうが悪いのに黒臼くんが謝ってくれる。
ごめんなさい、あなたの優しさを素直に受け入れられない、心の狭い人間で。
「たぶん、もうあんまりここにくるタイミングはないと思うから、清水さんも俺のことは気にしないでね」
優しくて、残酷な言葉が私の心に刺さる。
黒臼くんが立ち上がる。
最後の、せめてもの抵抗をしたかった。
たぶん、星田さんは手に入れることができない、私たちだけの特別なこと。
私は咄嗟に声をかけて、膝枕を提案した。
彼は「うん」とだけ言って、私の膝に戻ってきてくれた。
膝枕の最中は一言も話さなかった。
理由はなんであれ、私たちはこれが最後だってわかっていたから。
昼休みのチャイムが鳴る。終わりの時間だ。
さようなら、私の黒臼くん。
そのあともしばらくの間、藤の花の前で時間を過ごしていたけど、彼が来ることはなかった。
私も、もうあそこには行かなくなった。
藤の花は、木枯らしの中で葉をすべて落としてしまった。




