17話 白と赤の彼岸花
白い布で周囲を仕切られているベッドの上で、冬香は眠っていた。
時計の針が動く音と彼女の息遣いだけが聞こえる。
保健室に設置されている時計にしては珍しく、木製のアナログ時計が壁に飾られている。
外はまだ雨が降っているはずだが、不思議とそれは聞こえてこなかった。
ベッドの横で椅子に座り、彼女の寝息を聞いていると釣られて俺も眠くなりそうだ。
涙の跡が見えたので、そばにあったティッシュで拭き取り、そのまま頬を撫でる。
「んん……」と声を零しながら体を動かす。触ったことで起こしてしまったのかと思い、手を咄嗟に離してベッドの端に置く。
寝返りでこちらに身体を向けると、彼女の手が目の前に置かれたので、思わず指先で触れてみる。
彼女の手は俺の指先を掴み、両手で包み込む。
そうであってほしいと思っただけかもしれないが、心なしか穏やかな顔になったような気がする。
彼女の顔を眺めて、俺は深く息を吐いた。
昼から忙しなかったのが、ようやく一息ついたような気がする。
冬香の手首には湿布が巻いてある。どうやら頬を叩いたときに痛めたようだ。
彼女をここに連れて来たときに手当をしてくれた保健室の先生曰く、おそらく相手を全力で叩くことをほとんどしたことがなかったため、体が衝撃や負荷に耐えられなかったのだろうとのことだ。
保健室前の廊下から話し声が近付き、徐々に遠くなっていく。
この部屋はちょうど体育館に行く途中にある。時間的にも体育の授業のために移動している人たちだろう。
俺は冬香の付き添いということで、担任の先生から特別に許可をもらってここにいる。
時計が午後三時を指し示すと、機械仕掛けの時計が動き始めた。クルッポーと可愛らしい音を鳴らしながら扉から鳩が出てくる。
ノスタルジックな気持ちになる時計を見上げながら笑顔をこぼす。
保健室の先生は、本当に良い趣味をしている。
「夕陽くん……」
目線を下に戻すと、いつの間にか冬香が目を覚まして、俺の手を握りしめていた。
そのまま手を伸ばして、手首まで触れる。
「おはよう、冬香。よく寝れた?」
「はい……ありがとうございます」
それから、会話が途切れてしまった。どこから会話の取っ掛かりとして話せばいいのか、わからない。
「どうしたんですか?何か、ありましたか?」
穏やかな表情の彼女を見て、不安にさせたくないと感じた。
「手、大丈夫?あと肘とか肩は……痛くない?」
保健室の先生が、時間差で手首以外の部分も痛くなることがあるから気を付けて、と注意されていた。
「今のところは……問題なさそうです」
「わかった。家に帰って痛みとか違和感があったら、必ず湿布を貼って、痛みが酷い時はちゃんと病院へ行くんだよ?」
彼女はクスクスと笑う。
「お父さんみたい」
体調を心配していただけなのだが、たしかに少し過剰だったかもしれない。
「ごめん……」
「いいですよ。夕陽くんがお父さんなら、きっと幸せですから」
「それは……褒められてるんだろうか……?」
「褒めているので、素直に受け取ってください」
俺の手を撫で、優しく揉む。今ではないどこかを見ているような、アンニュイな表情をしながら。
「夕陽くん」
手を止め、少しだけ影の見える表情になる。そのまま彼女は言葉を続ける。
「今日は、迷惑をかけてごめんなさい。私が叩いた人……バスケ部の人でしたよね?」
「あぁ……そうだね。でも気にしなくていいよ。冬香が叩かなければ俺が殴ってたし、俺じゃなければ七沖が殴ってた。いずれにしても、あいつが俺たちに殴られるのは、冬香と夏海を侮辱した時点で決まってたんだよ」
「そうだとしても……叩くべきじゃなかったのかもしれないと、そう考えてしまうんです」
冬香は手を強く握る。安心させるために彼女の手を優しく撫でる。
「たしかに……他にも方法はあったのかもしれない。けど、これは冬香が大事なもの、大事な人を守るために選んだ結果で……それは俺たちも同じだ」
「――はい」
「仮に、もし背負うべきものがあるとすれば……冬香だけじゃない、俺たちも一緒だよ。そうまでしてでも、俺たちは夏海のことが大事で好きなんだと思う」
彼女の表情が少しだけ明るくなる。
「ありがとうございます……。そうですね。私も、そう思います。私たちは夏海さんのこと、大好きですから」
俺は冬香の手を上から握り返して、伝える。
「改めて言わせてもらうね。夏海を守ってくれて、ありがとう。俺もすごく嬉しかった」
こんなありきたりな言葉だけでは伝えきれないものがたくさんあるのに、言葉にできない。
だから、その代わりに彼女の手を強く握る。俺の熱が伝わって欲しいと願って。
冬香は目を閉じる。しばらくすると、ゆっくり目を開けた。
「大丈夫ですよ。ちゃんと伝わってきましたから」
話しながら二人で手を握り合っていると、冬香は何かを思い出したのか、手を止めた。
「そういえば、今日の夜、夏海さんのところに行って話をするんですよね?」
「あぁ、そうだね」
念のためにスマホのカレンダーを確認する。今日で間違いない。
「じゃあ、私からの言伝ということで、夏海さんに伝えてください」
夏海の顔を思い出していたのだろう、懐かしむような表情をしている。
「また一緒にお昼ごはんを食べて、一緒にいろんなところへ遊びに行きましょう」
「ありがとう、ちゃんと伝えておくよ」
保健室の気温が上がってきたような気がした。不思議に思い、白い布を開けて窓から外を覗く。
外はすでに雨が上がり、窓ガラスに付着した水滴が光を反射する。
雲の隙間から秋の日差しが差し込んでいた。
家に一度帰り、私服に着替えてから原付で夏海の家に向かう。
雨上がりのおかげで空気がいつもより澄んでいる。
満月が浮かび、月光が夜空を照らしているため、雲はひとつもないことがわかった。
彼女は今、何を考えているのだろうか。
そう考えるほど、引き返す理由ばかり考えてしまう。
彼女にとっては迷惑かもしれない。二度と顔も見たくないかもしれない。
もしかしたら、これがまともに話せる最後かもしれない。
それでも、俺は彼女を諦めたくなかった。
夏海の問題だから、もう別れたから。そうやって夏海から離れていい理由が俺には一つもなかった。
身体の震えを押さえながら俺はひたすら夜道を走った。
夏海の自宅前に着くと、いつも通り、晴華さんが玄関を開け「いらっしゃい、いつも妹のことで悪いね」と言いながら迎え入れてくれた。
変わらない晴華さんの様子を見るだけで、俺の心を少しだけ楽にしてくれる。
夏海の部屋に向かう直前、晴華さんは一言だけ、夏海について教えてくれる。
「休みの間、妹とは何回か話をしたから、あいつも頭の中の整理はそれなりにできているはずだよ。だけど、私にできるのはそれだけ。後は夕陽くん次第だから……よろしくね」
彼女は俺の背中を軽く叩いてくれる。「頑張れ!」と言いながらリビングへ姿を消した。
感謝を伝える前にいなくなってしまったので、リビングに向かって無言で頭を下げた。
俺は2階への階段を上がり夏海の自室前にたどり着く。
高鳴る心臓に手を当て、目をつぶる。
深呼吸をする。落ち着け、と自身に暗示をする。
慎重にドアをノックした。
「鍵、空いてるよ」と冷静で平坦な声が聞こえる。
もう一度、深呼吸をしてゆっくりとドアノブを下げ、開ける。
夏海はベッドに座っていた。先ほどまで心音がうるさくて仕方なかったのに、再会した途端に安心が勝った。
俺と目が合った彼女は、はにかみ、手を振ってくれる。
「ひさしぶり、夕陽」
「うん、ひさしぶり……夏海」
夏海は自分の隣を手で軽く叩く。
言われるがまま指定された、ワインレッドに近い色のベッドシーツに腰を下ろす。
俺たちは一言も喋らなかった。まるで数年ぶりに再会したような感覚だった。
たくさん聞きたいことはあったはずなのに、目の前にすると、全てが口にすべき内容なのか、その価値を疑ってしまう。
この再会の口を切るに相応しい言葉を頭の中でぐるぐると探す。
「今日は、話があって来たんでしょ?」
長い沈黙を破るため、彼女から手を差し出してくれた。
「そう……だね。部長から、夏海が学校に来ない理由を聞きに行ってほしいって頼まれたんだ」
彼女は乾いた笑いを漏らしながら天井を仰ぐ。その目には諦観の色が見えた。
「もう……学校もバスケも、どうでもよくなっちゃった。それが理由。学校にはオブラートに包んで、体調不良にしてあるけど」
力なく答える夏海の横顔を見るのが辛い。だけど、一番辛くて苦しいのは俺じゃない。
「夏海……」
「なぁに?夕陽」
怒りも悲しみも苦しみも、既に消化したかのように振る舞っているが、確実にそこに存在していることだけはわかる。
「ごめんね」
陳腐な言葉だ、わかっている。彼女に対する気持はこんな言葉で表現すべきじゃない。
「ははっ……それは何に対する謝罪?私を振ったこと?それとも、学校に行かなくなった原因が自分にあるから?それか――」
先ほどとは少しだけ違い、声色に感情が乗っていた。
彼女は自分の手で首を軽く絞め、最後に胸に手の平を当てる。
「ごめん……変なことをして」
一連の動作のことを変なこと、と称したのだろう。俺は首を横に振る。
夏海の手首あたりに包帯が巻いてあるのが見えた。
俺の頭はフリーズした。嫌な予感だけが膨らむ。先ほどの首を絞めた動作さえ、俺の予感が当たっていると示唆する材料にしか見えなくなってしまう。
そんなはずはない、そう否定をするほど現実味が帯びていくような気がした。
「……夕陽、どうしたの?具合でも悪い?顔、真っ青だよ?」
夏海がすぐわかるほど、俺の表情は固まっていたのだろう。
「その手首あたりの包帯……は?」
「手首……?」
夏海は自分の右手首あたりをまじまじと見ると、「あ」とだけ口にした。どうやら俺が何を考えていたのか、ピンと来たようだ。
「ち……違うよ!?これは、あの……料理してたとき、指先を包丁で切っちゃって!驚いた衝撃で落とした包丁の刃先が手首に当たっちゃっただけだから!」
「リストカット的な……?」
「そんなわけないでしょ!?私も自分をメンヘラっていう自覚はあるけど、そこまでしないよ!?」
突っ込みを入れると、彼女は腹を抱えて笑い始める。
「紛らわしい怪我をしないでよ……」
「ごめんごめん!夕陽の顔がこの世の終わりみたいだったから面白くて……!」
ひとしきり笑い終えると、夏海は「あー……面白かった」と言いながら声のトーンをひとつ落とす。
「でもね、リストカット……したくなる気持ちは、わかった。生きてる実感が湧かなかった。血と痛みで知るしかないんだろうね。夕陽を失って、学校も部活も行く必要性が理解できなくなって……私には夕陽しかいないってわかっていたのに、私自身があなたのことを……一番蔑ろにしてた」
手首の包帯をさすりながら続ける。
「そうやって夕陽を追い詰めていたときに現れたのが……冬香さんなんでしょ?」
手首をぼーっと見つめる彼女は力なく、言葉を投げかける。だが、俺が返事をするヒマはなかった
「私の自業自得だよね。私は、自分しか見てなかった。私は……夕陽のことを、自分が幸せになるための装置のように扱っていた」
彼女は自身の唇を強く噛む。
「私には、あなたを好きになる資格は無い」
繰り返し「私」を使う。俺に話すというより、自身に語りかけているようだった。
「違う。夏海に資格が無いなんて、あり得ない」
言葉を返さないわけにはいかない。
「気遣い、ありがとう。でも――」
「それも違う。気遣いじゃない。今から言うのは……一方的に、俺がいかに夏海のことが大好きかってことを話すだけ」
俺は潤んだ瞳の夏海を直視する。
「何を――」
「俺は、夏海のことが大好き。教室でクラスメイトに囲まれている君も、友達と楽しそうに遊んでいる君も、一年で唯一のレギュラーとして試合で活躍している君も、お弁当を作ってくれる君も……全部好き。古賀が夏海を狙ってるとわかったら、思わずぶん殴りたくなるくらい、好き」
「夕陽……」
瞳から涙が落ちそうになるが、最後に俺が言った言葉の意味を理解すると、急に真顔になる。
「え、古賀?それって男子バスケ部一年の古賀くんのこと?」
「うん、今日の昼ごはんの時に叩いた。冬香が」
「えっ!冬香さんが!?……なんで?」
「冬香の頭を撫でながら、これが夏海先輩の代わりですか?ってニヤニヤ笑いながら聞いてきたから。俺と七沖が殴りかかる前に冬香が平手打ちで張っ倒してたよ」
「えぇ~……」
「夏海さんに、私の大事な人たちに謝れって、言ってたね」
「……そうなんだ。そう、なんだ……」
夏海の表情が柔らかくなり、ベッドを指先で摘んでは離すを繰り返す。
「えっと……要するに何が言いたいかって言うと、俺は夏海のことがどうしようもなく好きで、大事で仕方ないってことで……」
俺は両手を強く握る。
「それでも、夏海が構ってくれなくて寂しがってたのは、自分のことしか見えてなかったから……俺が悪いんだよ」
夏海は顔を下向け、目線だけこちらに向ける。
「……それなら、なんで別れようって言ったの?」
この質問は気まずくなることを理解していたのだろう。少しだけ声が震えていた。
「いつ頃かわからないけど、いつの間にか恋人として……見れなくなったから」
夏海は深くため息をつく。それでも落ち込んではなさそうだった。
「そっか、そうだよね。そうじゃなきゃ、私が迫っても無反応にはならないよね」
「それは、ごめんなさい……夏海に魅力がないわけじゃないんだ」
「ちょっと……謝りながら変なフォローしないでよ。私も夕陽も、自分のことしか見えてない子供だったってことでしょ?」
苦笑いをしながら手を後ろについて、天井を仰ぎ、「はぁ〜……そっかぁ」と独り言を呟く。
それを境に俺たちは、再び無言になる。
俺は座ったまま微動だにせず、夏海は布団にゴロゴロしながらスマホをいじる。
枕を投げつけられる。シーツと同じワインレッドだ。
「どうしたの?」
「だって何もしゃべらないんだもん。つまんない」
唇を尖らせて枕を回収すると、「えい」と言いながらもう一度投げつける。
「……冬香さんから言伝を預かってるんだ」
四つん這いで俺に近付いてきた夏海の動きが止まる。
「内容を聞く前にさ……私の前だからって無理にさん付けしなくていいよ。もう呼び捨てをするくらい仲良くなったんでしょ?さっき、思いっきり呼び捨てだったし」
彼女は笑顔で再び枕を俺の手元から回収すると、それを抱きかかえ、俺の隣に座る。
「ありがとう、夏海」
俺はなるべく冬香の心を乗せるため、言葉に色が付くように伝える。
「また一緒にお昼ごはんを食べて、一緒にいろんなところへ遊びに行きましょう」
彼女は枕を強く抱きしめ、顔を埋めた。
「そう……うん、わかった。ありがとう」
彼女は顔を見せてくれなかったけど、きっと、冬香の想いは届いたと思う。
「あと篠田からも……今度は4人で遠出して遊びに行こう、だって」
「うん……」
「俺も、夏海のことは本当に大好きで――」
「わ、わかった!それはさっき聞いたから!恥ずかしい……!」
顔をあげて両手を横に振って俺の言葉を制止する。
夏海の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「あ……うぅっ……見られたぁ……。夕陽に……」
体を丸めながら、再び枕に顔を埋めて悶える。
俺は夏海の姿に愛おしさを感じながら、ベッド脇にあるティッシュを持ってきて渡す。
「ありがと……」と言いながら顔を綺麗に拭き取っていく。
しばらくして、涙が落ち着いてきた夏海はベッドから立ち上がる。
「わかった、来週から学校に行く。部活にもちゃんと参加する」
彼女は吹っ切れたように宣言をする。
「私をこんなにも大事にしてくれてる人がたくさんいるのに、私だけいじけてる場合じゃないよね」
こちらを振り向き、満面の笑みを魅せてくれた。
「夜ご飯、まだ食べてないでしょ?お姉ちゃんたちと一緒に食べようよ」
彼女に引っ張られて、一緒に階段を降りていく。
リビングに着くと、夏海の両親と晴華さんが笑顔で迎えてくれた。
「仲直りしたから夕陽のごはんも用意して」と話している夏海を見て、安心と同時に、自分のズルさを自覚した。
恋人ではないと否定しておきながら、それでも好きだと言った。
なぜ好きなのか、それを一切説明せずに。
彼女を冬香や七沖を使って、体よく焚き付けたようなものだ。
楽しそうな表情の彼女を見て、俺はまるで心優しい人間かのように心を痛める。
リビングの窓から見える満月は心なしか、欠けているように感じた。




