12話 エンゼルトランペットⅢ
カーテンから差し込む朝日で目が覚めた。
思うように動かない体を無理矢理、起こす。
なぜか視界が開かない。右手の人差し指で目を擦ると、ぱりぱりとした糊のような何かで接着されている状態だった。
涙の跡だ。目が涙で濡れたまま乾いてしまったようだ。
昔、門限を守らずに母さんに怒られて、不貞寝したときにも同じような状態になった記憶を思い出した。
「んー……懐かしい記憶だな……」
目が覚めきらない脳を刺激するために、手で軽く頭を叩く。
ソファの背もたれに体重を預けたまま、意識がはっきりするまで頭を前後左右に軽く振る。
なんで涙を流していたのかをすぐには思い出せずに悶々としていると、キッチンから人の気配を感じた。
鍋に水を入れる音、ガスを点火する音。
「夕陽、おはよう……」
キッチンから聞き慣れた声があくびと共に聞こえた。
「……おはよう、夏海」
彼女はキッチンで作業を続けている。瓶がぶつかる音が聞こえたことから考えると、コーヒーを入れようとしてくれているのだろう。
そうだ、昨日は夏海が家に帰りたがらないで、泣き始めて、押し倒されて……それから――
思考がはっきりしてくる。昨日のことを鮮明に思い出して、一瞬だけ体を止めた。
「ちょっと……顔を洗ってくるね」
そう夏海に伝えると「うん、わかった」と返事が聞こえる。
床を見ると、スマホが落ちていた。
再びソファに身を投げてうつ伏せの状態になる。
そこから、寝ている間にポケットから落ちたであろうスマホを、ソファから手を伸ばして拾い上げ、時間を確認する。
昼の12時で、今日は平日。なのに家にいる……。
「えっ!今日学校では!?」
驚きのあまり、体に力を入れ、上体を勢いよく起こす。ソファの弾性によって体が揺れてそのまま落下してしまう。
夏海は大声と落下音に驚いて、キッチンから飛び出してくる。
「大丈夫!?怪我してない?」
「いってぇ……あぁ、うん、大丈夫だと思う。頭をテーブルの脚にぶつけたくらいだから……」
心配そうに俺の体をさすっていた彼女は、ぶつけたと思われる個所を手で優しく触れる。
夏海が触れると若干の痛みを感じて「いてっ……」と呟く。
彼女は俺の体を支えながらソファに座らせる。
急いでキッチンに戻り、大きめのポリ袋と氷、タオルを使って簡易的な氷嚢を作ってくれた。
「ありがとう……」
「どういたしまして。もうすぐコーヒーを入れるから少し待っててね」
コーヒーが出てくるまでの間に、俺は氷嚢を頭に当てながら、洗面所で顔を洗う。
涙の跡を落としながら昨日のことを思い出す。
夏海の本音を直接聞いたのは初めてだった。
あんなにも想っていてくれたのに、俺は……恋人として彼女の心の声に応えることができなかった。
たぶん、彼女を恋人として、もう見れてないからだ。
彼女を追い詰めて壊しておきながら、自分はもう恋人として見れないから応えないなんて……人として最低だ。
俺は……俺が許せない。もう、夏海とは終わらせないといけない。せめて、それだけは俺の手でやらないと。
彼女を傷付けてしまった今の俺が取れる、最後の責任なんだと思う。
洗面台の上に頭を差し出し、シャワー蛇口で頭から冷水をかける。
頭を冷やして、自分なりの覚悟を決める。
タオルで髪を拭いて、夏海のもとへ戻った。
リビングのテーブルにはコーヒーが二つ、すでに置いてあった。
夏海はコーヒーには手を付けず、ソファに座っていた。
「コーヒー、ありがとう」
声をかけると彼女はいつもと変わらない表情でこちらを振り向く。
「顔を洗うにしては遅かったね。あぁ、頭も洗ってたんだ」
「うん……そうだよ」
濡れた髪の毛を見て、納得してくれたおかげで、意図しないタイミングで説明せずに済んだ。
彼女は俺がソファに座った、姿を確認してからコーヒーを飲み始めた。
「そういえば、夕陽は学校の欠席連絡は大丈夫なの?うちはさっきお姉ちゃんから連絡があって、学校にはお母さんが風邪で休むって伝えてくれたみたいだけど……」
おそらく夏海がこっちに来ていた時点で、晴華さんたちはこうなる可能性を考えていたんだろうな。
「俺も学校から連絡はないけど……あ、父さんからメッセージがきてるな……」
『夕陽が無断欠席なんて珍しいな。夏海ちゃんでも連れ込んだのか?とりあえず、学校には風邪で休んでいると伝えてあるから。まぁ、2日くらいはそれでズル休みしてもいいぞ。だけど、高校生なんだから節度は、しっかり持てよ』
後半は余計なお世話だが、久々に父さんと話せたような気がして少し嬉しかった。
「父さんのほうに学校から連絡があったみたい。風邪で休みってことにしたって書いてある」
「相変わらず、夕陽のお父さんは気が利くね」
「そうだね……」
そこで会話が途切れた。
無言のまま、コーヒーを飲む音だけが聞こえる。
夏海にバレないように深呼吸をしてから、本題を話す。
「夏海……」
心を落ち着けながら切り出す。
「なぁに?夕陽」
昨日のことをまるで気にしてなさそうな、いつも通りの彼女は優しく返事をしてくれる。
「昨日の夜……覚えているよね?」
コーヒーを手に取ろうとしていた彼女の手が止まる。
無言のまま彼女は手を膝の上に戻し、目線を横に向ける。
「……それがどうしたの?」
彼女は触れられたくないと感じていたのか、自分からは積極的に話そうとする様子はない。
目を逸らす彼女を真っ直ぐ見つめる。
本当は今すぐにでも目を逸らしたい……だけど、俺がやらないといけないことだ。
「俺たち……別れよう」
彼女の目が揺れているのがわかる。
冷静であると言い聞かせようとしているのか、テーブルにあるコーヒーをゆっくりと横にずらす。
「えっ……何……何を言っているの?なんで昨日の話から、別れようって話になるの?意味がわからないよ……」
そう言いながら、テーブルの上に手を置いた。
自身が思った以上に強く置いてしまったのか、テーブルが叩かれる音が聞こえた。
彼女はその音に驚き、ごめんなさい、と弱々しく謝る。
明らかに動揺を隠せない彼女へ、さらに言わないといけないなんて……緊張と不安で、俺の心は破裂する寸前だった。
口元が重い。喉元で言葉が詰まる。
「お……俺、は……夏海のこと、もう……恋人として見れないんだ……だから、終わりにするべきだと、思う……」
夏海の視線が安定しない。喉元まで言葉が登って来ては、それを噛み潰すように喉が動いているように見える。
「あ、あぁ……もしかして、昨日の私が言ったことを真に受けちゃったの?ごめん、ごめんね?……違うよ?そういう意味で言ってないから。私はこれからも夕陽と一緒に……」
彼女が動揺している姿を見ただけで、俺は苦しくなる。
「夏海が、じゃない……よ。俺が、ダメなんだ……」
「夕陽にとって何がダメなの……?だって、私……夕陽のこと大好きだよ?夕陽は何も悪くないよ?私が……私が悪かっただけだから。あなたは何も責任を感じる必要はないよ……?」
俺が伝えたいことが上手く伝わっていないのか、要領を得ない返事がきた。
だが、彼女の言葉の全てが鋭いトゲのように、俺の心に刺さる。
俺は何も答えなかった。彼女に返事をするための言葉を俺は持ち合わせていない。
夏海は口を閉ざして下を向く。口元がわずかに動いているように見える。
「あ……あぁ、そっか、そういうことか。夕陽は勘違いしてるよ」
「……俺が勘違いしてる?」
脈絡のない反応に戸惑う俺を無視して、彼女は得意げに話始める。
「うん、昨日の私、まるで夕陽せいで私が辛い思いをしてるみたいな言い方だったよね?それが勘違いって話。だって、夕陽は何も悪くないもん。悪いのは私。私が夕陽のことをちゃんと見ていなかったからこうなっちゃったんだよ?それなら、夕陽が自分のせいだ、なんて気に病む必要もないよ!」
嬉しそうに語る彼女の表情は明るい。
だが俺には何が言いたいのか、理解できなかった。
それではまるで、昨日の夏海の言葉が嘘ということになってしまう。あのときの言葉が嘘なんて、俺には思えない。
「違う……違うよ。そうじゃない。俺は昨日の夏海の言葉、覚えているんだ。だから、今の言葉を受け取ることは……できないよ。」
「違わないよ?だって、このあとデートに行くんでしょ?せっかくズル休みをしたんだし、外だって晴れてるんだから行こうよ」
再び言葉を無視されてしまい、俺は小さくため息をつく。
改めて、彼女に伝えることにした。
「俺は……夏海と別れる。それは君が悪いとかそういう話じゃなくて、俺が……ダメなんだ。ごめんなさい……デートも行けない」
「違う!違うっ!全然違うよ!なんで私の言ってることをわかってくれないの……!」
俺の言葉を掻き消したいのか、癇癪を起して叫ぶ。
彼女は立ち上がり、ソファに座っている俺の前に立つ。
そのまま俺の肩を掴むと、ソファに押し付けてキスをする。
俺は自分でも驚くほど冷静にキスを受け入れていた。
言葉で止めても、今の夏海には聞こえない。
だから諦めて受け入れて、彼女を見つめる。
俺の様子がおかしいと気付いたのか、彼女は右手を俺の心臓に触れる。
心臓はまったく、速くなっていなかった。その事実に夏海は肩を震わせる。
「恋人の私とキスをしてるんだよ?その先もしようって誘ってるんだよ?どうして、何も反応してくれないの?どうして、そんな顔をするの……?」
表情が絶望に染まる。
両手で自分を抱き、一人で耐える。
「ごめんね……夏海」
「言わないで……いや……いやぁ……!」
涙を流し、俺の上でうずくまる彼女を抱えて、ソファに座らせる。
夏海は何も抵抗をしなかった。
子供のように泣きじゃくり、動かなかった。
これ以上、何を伝えればいいかわからない。
考えるよりも先に立ちあがり、リビングのドアを開けてトイレへ向かう。
俺は初めて、彼女に手を差し伸べるのをやめた。




