12話 エンゼルトランペットⅡ
食事を終えた俺たちは、その流れでテレビを観ていた。
夏海が「隣で一緒にテレビを観たい」とお願いをしてきたので、俺は彼女の願いを聞いて、隣に座る。
ほとんどいない父さんだけが使う、テレビの音だけが部屋を飛び交う。
隣り合ったまま、時間だけが過ぎていく。
時間は夜の11時。晴華さんに任されているとはいえ、高校生ならさすがに帰るべき時間。
今日の彼女は言うことを聞かないだろうけど、それでも言うのが俺の役割だ。
役割を果たせれば、彼女が帰らなくても晴華さんは何も言わないと思う。
「夏海……そろそろ時間だよ」
その先は、言いたくない。
夏海は俺の言葉が聞こえなかったかのように、無言のままテレビを観続けている。
「夏海――」
言いかけると、彼女はテレビを消す。
名残惜しそうに目線を下に向ける。
俺が彼女の肩に手をかけようとすると、夏海は手を振り払う。
両手の平を膝の上で強く握りしめたのが見えた。
「いや……帰りたくない」
肩は震え、瞳から涙が溢れる。
言葉そのものは反抗期の彼女としてはよくあるものだったが、その言い方は普段の夏海とは似ても似つかないほど弱々しいものだった。
「……夏海のお母さんとお父さんも心配をしてるよ?」
建前だけでどうにかなるとは思っていない。それでも、今の彼女と話すためにはそれに縋るしかなかった。
「そんなことどうでもいい!お母さんとかお父さんとか……今は、言わないで……!」
彼女は切ない声で叫ぶ。両手の平で顔を覆い、隙間から大粒の涙が流れる。
俺は差し出した手を戻して、彼女の声を聞くことしかできなかった。
突然、彼女は俺をソファに押し倒して馬乗りになる。
俺の肩を震える手で掴み、そのままソファに押し付ける。
荒れる呼吸を必死に押さえ込み、平静を装う。
「ご……ごめんなさい、急に押し倒して……」
涙が俺の顔に垂れる。それを見た彼女は袖で必死に涙を拭っている。
「涙、止まらない……なんで……」
独り言を呟く彼女を見て、俺は憐れとも可哀想とも違う、形容しがたい感情が湧いてきた。
何を受けとってそう感じたのか、それはわからない。
だけど、少なくとも、自分の彼女に対して感じるべき感情ではないし、明らかに恋愛感情から来るものではないのは、間違いなかった。
「ごめん……ごめんなさい、私……」
涙を止められなくて焦りが募る彼女の頬に、俺は手を差し伸べる。
「大丈夫だよ。俺は待ってるから」
彼女はきっと、恐怖の中で苦しんでいる。
周りが何も見えなくて、自分の心を受け止めるだけで精一杯なんだろう。
彼女の頬を撫でる。手のひらから体温を通して、そばにいると伝える。
たぶん、この行動は間違っている。俺は恋愛感情以外の、別の何かに突き動かされているだけだ。
本当は、まだ俺に恋愛感情があると、勘違いさせるべきではない。それは彼女を余計に苦しめることになる。
わかっている……だけど、目の前の彼女にそれを伝えるなんて、俺にはできない。
恋愛感情がなくても、俺は彼女のことが大好きなのだから。
いつの間にか、涙は止まっていた。震えは収まり、表情は穏やかになっていた。
彼女は俺の上に優しく倒れ込む。心臓の音を聞いて、安心しきった表情になる。
「ありがとう……夕陽」
彼女は体を少しだけ起こして、優しく、お願いごとを口にする
「キスしたい……いい?」
唇を、俺に近付ける。
唇が重なる音だけが小さく聞こえる。
彼女は頬を赤らめながら顔を離す。
「あのね……夕陽さえよければ、このあと――」
そう言いかけた彼女の表情は、驚きと共にみるみるうちに曇っていく。
彼女は喉の奥に詰まった何かを必死に押し殺す。
そこにあったはずの何かを探すように、俺の頬を両手で掴んで触り、独り言を呟く。
「無い……なんで……なんで……!」
だが、どれだけ触っても、目を凝らしても、彼女が欲しているものはどこにもなかった。
やがて諦めると、自身の顔を俺の胸に埋める。
言葉にならない感情が、小さな吐息になって漏れはじめ、いつしか抑えきれない嗚咽となった。
夏海は俺の心臓に、手を重ねる。
「どう……して?どうして、そんな顔をするの……?」
彼女の慟哭が耳をつんざき、心に突き刺さった。
「ねぇっ!どうして!?」
彼女に寄り添い、落ち着かせたことで、見えていなかった俺の表情が見えたのかもしれない。
「夏海……俺は――」
錯乱する彼女に手を伸ばしたが、拒否される。
「私たち……恋人……だよね?一緒にいられるんだよね……?」
恐れと不安から逃れたい一心なのだろう。彼女は拒否したはずの俺の手を再び握る。
これだけ声を上げ、興奮しているのに、彼女の左手は血が通っていないのではないかと思えるほど、冷たかった。
「わ……私…は……!夕陽のこと……大好きなのに……なのに……あなたのここには……恋人の私は……もういない……」
心臓に当てていた右手の指先に力を入れて、俺の心を掴もうと空回りしている。
「私の居場所だったのに……そこに、あの人がいるってわかっちゃうの……!」
視点が定まらず、今に意識が向いていない。
「いや……!私の夕陽なのに……なんで夕陽を取られないといけないの……?やだよ……とらないで……」
言葉が内向きに閉じていき、肥大化する心に飲まれる。
「ただ……そばに……いて……くれ…いいのに……私は……」
思考の袋小路に追い詰められる。自責の念に駆られ、懺悔の言葉が溢れる。
「ごめんなさい……わたしが……わるかったの……。カラオケ……で……つうわ、きられ……きが……にげて……すてて……こわして……あれも……」
ひたすら、うわ言のように謝罪を口にする。
自分に押しつぶされ、力なく崩れていく彼女へ、手を差し伸べずにはいられなかった。
俺の名を呟く彼女を強く抱きしめて、一緒に涙を流し、懺悔をする。
「ごめん、夏海……俺が苦しめてるんだよな……。ごめん……本当に、ごめんなさい」
凍えるように震える彼女に、自分の温もりを重ねる。
俺は彼女と共に苦しむ必要があるんだと思う。
彼女の心を正面から受け止め――
自分の心とも向き合わなければ、きっと先に進めない。
俺たちは互いの名前を呼び合いながら、そのまま眠りに落ちた。




