10話 移りゆく紫陽花の紫苑
午前中の授業が終わるチャイムが鳴り響く。
昼ごはんのためにクラスメイトは、思い思いの人たちとグループを作りはじめる。
私たちは中学三年生となり、受験シーズンの足音が聞こえる中、慌ただしくもいつも通り……そんな生活を送っていた。
私は窓の外を眺めながらぼーっとしていた。ここ最近、思い出を振り返ることが増えてきた。
決して忘れることはないであろう、彼との思い出。
5月下旬が過ぎた頃。雨がしとしと降る日が増え、紫陽花が咲き始める季節だった。
その頃に私たちは、付き合い始めた。
告白してきたのは彼の方からだった。いつものように夜、通話をしながら勉強をしていたときだった。
篠田くんが好きなアニメのヒロインが私に似ているという話を始めた。私は相槌を打っていただけだが、彼は彼女のどこが可愛くて魅力的なのか、熱弁が止まらないものだから勉強の手が全く進んでいなかった。
当然、途中でそれとなく勉強をするように催促したが、効果は薄かった。
だから冗談半分で「私にそっくりで可愛くて魅力的なんでしょう?じゃあ、そんな私が彼女になって『余計なおしゃべりはほどほどにして、早く勉強を進めてください』とお願いをすれば、素直に言うことを聞いてくれるんですか?」と聞いたら、しばらく間が空いたあとに「うん」とだけ言って黙ってしまった。
彼の手が進むようになったから最初はそれで良かったと思っていたのだが、今度は彼が終始無言になり、逆に私が集中しづらくなった。
いつもなら彼のほうから、何かしらの話題を見つけてきては喋っている通話なのに、私のイヤホンから聞こえるのは呼吸音と勉強に詰まって頭を抱えているであろうため息だけ。その静けさに居心地の悪さを感じた。
しびれを切らした私はペンを置いて、軽く手を叩く。彼の注意を引いてから理由を問うと「八木坂さんに告白するための言葉を考えていた」と急に言い始めた。
結局、上手い言葉が出てこなかったようで、私が「篠田くんらしい言葉なら何でもいいから早く言ってください。恥ずかしくて、もう待てませんよ」と促して、ようやく告白をしてくれた。
タイミングはロマンの欠片もなかったし、悩んでいた割には言葉も拙かった。
当然、かっこよくもなかったけど……とても誠実でまっすぐだった。
私は小説を読む機会は減ったが、代わりに書くことが増えた。自分の色を乗せた、自分だけの物語を書きたくなった。世界は私が思っていたよりも不格好な優しさで満たされていることがわかったから。
その温度を、忘れないうちに残しておきたかった。
今は想像もできない壁にぶつかったとき、未来の私が迷わないように。
「八木坂さん?どうしたの?」
宮貴さんに声をかけられて、意識が現実に引き戻される。
机に肘をついて、手のひらに顎を乗せながら窓の外を眺めていた。
雨が降り続けている。
目線を窓から教室に戻す。目の前には宮貴さんと篠田くんの二人がいて、一緒に昼食をとっていた。
「あ……いえ。なんでもありません」
私は苦笑いで誤魔化す。彼との馴れ初めを思い出していた、なんて恥ずかしくてとても言えない。
彼女は私のことをジーっと半目で見つめる。若干、表情がニヤついていた。
「そう?ずいぶんと優しい顔で窓から外を見てるから、てっきり篠田のことを考えてるのかと思った」
鋭く図星をついてくる宮貴さんの言葉に、私はタジタジだった。
「ん、何?俺の話?」
朝練に遅刻しそうになって、朝食抜きで授業を受けていた篠田くんは夢中でごはんを食べ続けていたせいなのか、話を聞いていなかったようだ。
そんな鈍感な篠田くんに対して宮貴さんは深くため息をつく。
「あんた、本当に相手の機微を見ないよね……」
「機微?誰の?今は腹が減ってそれどころじゃないんだけど……」
少しだけ頬を膨らませて、ひたすらごはんをかきこみ続ける彼を見て、私は笑みが零れる。
相変わらずデリカシーの欠片も無い言葉と態度に呆れながらも、そんな単純な彼を見るのが好きだった。
私を見て、宮貴さんも笑う。
「本当に篠田のことが好きなんだね」
彼女がポツリとこぼした言葉に、私の心が動揺した。
「……そんなに表情から出てます?」
「そりゃあバッチリ出てるよ。表情どころか、目線とか話す内容とか……もうね、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい矢印が見えてるかな」
顔が熱くなる。口が上手く回らなくなり、言い訳もできなくなる。落ち着くために水筒を取ろうとすると、手から滑り落ちた。
彼女はわかりやすい私の反応を見て、クスクスと笑いながら水筒を拾ってお茶を入れてくれる。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして。ほら、また視線が篠田に向かってるよ?」
もう何も言えなくなり、黙り込むしかなかった。下を向いてごはんをひたすら食べる。
彼女は私と篠田くんを往復するように目線を移動させる。
「まさか……篠田にこんな可愛らしい彼女ができるとはなぁ。こいつと腐れ縁の私としては感無量な話だよ」
宮貴さんは一人で黙々とごはんを食べている彼をまじまじと見つめると、小さくため息をつく。
「前にも言ったと思うけど、こいつはマジで浅いからね。素直というか純真というか……こんな感じで目先のことで夢中になると何も考えなくなるからさ。もし何かあったら何でも相談してよ」
私は静かに頷く。彼を見ると、ちょうど食べ終えたようだ。両手を合わせながら、ごちそうさまと言っていた。
「なんか、俺ディスられてた気がするんだけど、気のせい?」
「気のせいだから安心して。そんなことより、愛しの彼女が早く話をしたくて仕方なさそうだよ」
宮貴さんはもじもじしている私を見ながらそう言った。
篠田くんは私の反応を見て、本当のことだと思ったのか「へへへ……」と気持ち悪い、にやけ顔をしながら私のほうを見つめる。
告白されたとき「はい」と返事をする際に出した交換条件として、私のことは冬香と呼ぶように伝えた。
彼はそれ以降、嬉しそうに私の名前を呼ぶようになった。
「冬香……そうなの?そんなに俺と話すのが楽しみだった?」
彼はわざと私の名前を呼ぶ。私がどう反応するのかを知っているから。
私は恥ずかしさのあまり、目を逸らす。
視界の端に満足げな彼の顔が見えた。
窓の外を見ると、校庭の片隅にある紫陽花は、雨に打たれながら健気に紫苑色の花を咲かせていた。




