8話 移りゆく紫陽花の薄緑Ⅲ
翌朝、いつも通りのルーティンで登校する。
誰もいない教室のドアを開け、自分の席に座る。小説を読むため、机に置いたカバンに手を入れる。
「……え、何で無いの?」
私は目を丸くする。こんなことは今まで一度もなかった。
カバンのあらゆるポケットを開けて探すが、どこにもない。
大きくため息をついて机に突っ伏す。
小説を忘れた理由は明白。昨日の夜、篠田くんとの会話で動揺し、それを落ち着かせるために布団に潜り込んだまま寝てしまったからだ。
念のために毎朝、忘れ物がないかを確認しているのに……今日は気付かなかった。
一度思い出すと、あのときの感覚と感情が内側から吹き出してくる。
心音が早まり、呼吸が浅くなる。
指先が思い通りに動かない。
おぼつかない手でスマホを取り出す。メッセージアプリを起動し、履歴を確認する。
篠田くんからの着信は、なかった。
ただ、それだけのことなのに、私の心は揺らされる。
私の意志とは関係なく、私の中で彼の存在が大きくなっているのを感じる。
心臓を手で押さえながら耐えていると、教室のドアが開く音が聞こえる。突っ伏した状態のまま、視線だけをそちらに向けると――篠田くんがいた。
彼は教室に入るなり、真っ直ぐに私を見つめる。
心音が加速し体が熱くなる。居ても立ってもいられず、立ち上がる。
早歩きで教室から出ようとすると、彼は私を呼び止めた。
「や……八木坂さんっ!」
無視することもできず、ドアの前で立ち尽くす私に、彼は深呼吸をしながら慎重に言葉を選ぶ。
「昨日は……ごめん。急にあんなことを言われたら嫌な気持ちになるよな。俺、デリカシーとか配慮がないって家族にもよく言われるのに……馬鹿だから、すぐ忘れるんだ……」
背後から、キビキビとした動きで深く頭を下げたような、衣擦れの音が聞こえた。彼の声をよく聞くと、緊張しているのか、少し震えていた。
私は彼のほうに向き直り、頭を下げ続けている彼を見つめる。
無神経な彼が一生懸命、私のことを考えて言葉を選び、声を震わせている――その事実が私にとって嬉しかった。
「篠田くん……私こそ、失礼な態度をとってすみませんでした」
身体の前で両手を握り、ゆっくりと頭を下げる。
彼は慌てながら、謝罪をする私を制止した。
「八木坂さんが謝る必要はないから!俺が勝手に盛り上がって自爆しただけだから!」
手のひらを私の方に向け、左右に振りながら、後退りする。
「……何で盛り上がったんですか?」
盛り上がった、という言葉の意味がよくわからず、私は純粋な疑問として聞いた。
勉強が楽しくて盛り上がったのだろうか?
それとも、サボるために動画を観たり、音楽を聴いたりして盛り上がったのだろうか?
彼は顔が真っ赤になる。さらに後退りをしながらどもる。
なぜ距離を取るのだろう?私はもっと近くで話がしたいのに……。
「あと、自爆したというのも――」
「勘弁してください!これ以上突っ込まないで!恥ずかしくて死ぬから!」
彼は、その場で勢いよく土下座をする。
言葉と動きの勢いに驚いてしまった。
なぜ土下座をしているのか、よくわからないが、どうやら彼を追い詰めてしまったことだけはたしかのようだ。
「あ、ごめんなさい。問い詰めるつもりは……なかったんです」
彼は土下座のまま、息を深く吐く。
「いや……大丈夫。もう落ち着いたから」
制服に付着した埃を手で落としながら立ち上がる。
「えっと……話が逸れちゃったけど、昨日の話は……無かったことにするから、また勉強を教えてくれるとありがたいんだけど……もう、ダメかな?」
心音と心のざわめきは、いつの間にか落ち着いていた。
それに気付くと同時に、乱雑だった考えや思いが不思議とまとまっていく。
私は、この話を無かったことにしたくなかった。
もっと話して、もっと知って……彼と仲良くなりたい。勉強するだけの関係に戻りたくない。
その先に何があるのか、今の私にとっては未知数だし、デートをする理屈は何も思い浮かばないけれど、私の心がそう叫んでいる気がした。
「……ダメですね」
「そっかぁ……そうだよな。わかった、頑張って俺一人で――」
肩を落として自分の机に向かう彼の背中を見ながら、私は小さく息を吸った。
「デートに連れて行ってくれないと、もう勉強は教えませんよ」
その言葉を聞いた彼は、一瞬だけ時が止まったかのように固まる。
直後、満面の笑みでガッツポーズをして飛び跳ねながら喜んだ。
私は彼の無邪気な姿を見て思わず、くすりと笑い声が漏れてしまった。
それと同時に教室のドアが開き、男女合わせて6名ほどが雪崩のように入ってくる。
「うぇっ!何だよ、お前ら!」
篠田くんが声を上げると同時に私も驚く。彼らは下世話な笑顔で私たちを見ている。
私は嫌な予感がして、彼らから離れるために後退りする。
ああいうニヤけ顔をする人たちは悪意をもって私をイジるタイプだ。
「篠田、お前……朝っぱらからなに青春してるんだよ!」
男子が大声で叫ぶと、篠田くんの元へ笑顔で駆け寄っていく。彼の背中を、何度も強めに叩いているのが見える。
呆気に取られていると、残りの女子たちが私のほうに近寄ってくる。
「八木坂さん、だよね?あいつ、マジでデリカシーの欠片もない男だと思うけど、何かあったら私たちに相談してね?篠田に説教しておくからさ」
嬉しそうな顔で私のことを心配してくれる。
話を聞くと、どうやら全員バスケ部らしい。廊下で私たちの会話を盗み聞いていたとのこと。
彼女たちは、私のことをとても優しく応援してくれた。
他人からこんなにも温かい感情を向けられるのは……篠田くん以外では初めてだった。
私は今まで、他人なんて悪意ありきで接してくるものだと思っていた。
だけど、それはただの思い込みで……現実はもっと温かいものなのかもしれない。
もしかしたら、もう少し、人を信じてもいいのかもしれない。
私の心にある、凝り固まったわだかまりが、溶けていくのを感じる。
その日を境に、学校で小説を読む回数が減った。




