8話 移りゆく紫陽花の薄緑Ⅰ
私が中学生だった頃の話。
中学3年生への進級を前にして、みんなの興味関心は高校受験に向けられつつある冬の時期。
私はこの時期から、すでに地元の公立高校に受験することを決めていた。
担任の先生からは「八木坂の成績なら私立の新学校でも合格できるのに、なぜ公立高校なんだ?」と何度か言われたことがある。
私から言わせてもらえば、自分なんかのためにこれ以上、今の家族へ金銭的負担を強いることのできる立場にはないと思う。
一応、一度だけ私が受験できそうな私立の高校を調べたことはあった。だが、入学金や授業料など諸々を含めた総額に驚いた。今の私があるのは、お母さんやお父さんの善意のおかげだ。さらに私立を受験したいからお金を出して欲しいなんて、おこがましい話をできるわけがない。
休み時間、いつものように自分の机で小説を読んでいると、机を叩かれる大きな音が聞こえた。
私の前にニヤニヤしながら立っている女子がいた。3人組で、いつも私を無意味にイジってくる。
どうしようもない奴ら。
なんでこんなことをするのか、よくわからないけど、どうやら気になってる男子に好みのタイプを聞いたら私の名前を出されてムカついた、ことが原因らしい。
登下校時にいつも一緒にいる友達から聞いた。その子いわく「冬香は美人だから嫉妬されやすいんだろうね」とのことだ。
くだらない話だ。自分の外見に自信が無いことを認めたくないから、こうやって攻撃をしているだけなんだろう。
大きな音や大声を上げて注意を引こうとする彼女たちを無視する。私にとってはただのノイズだから。
私の世界には不要な存在だ。
胸元を掴まれ、体が前後に揺らされる。手元の小説が足元に転がる。相手は勢いのまま、私の小説を踏みつけた。
何も言わない私が気に入らないのだろう。何か返事をしろと、しつこく迫ってくる。
そもそも下品で耳障りなだけの、聞く価値のない言葉を覚えているわけがない。何を返事しろと言うのだろうか。
だから、返事をする代わりに事実を伝えることにした。
「鏡、見たことはありますか?あなた、結構醜い顔をしていますよ」
怒声を浴びせられる。怒りのまま右拳が振り上げられたのが見えた。私は避ける気も反撃する気もなかった。
私のような人間が殴られようとも誰も気にしない。私は無意味に生きている人間なのだから。
周りの人間は見て見ぬふりをしている。
私は独りだ。
右拳が振り下ろされる瞬間、目を瞑る。
だが、衝撃は来なかった。なぜ殴られなかったのだろうか。
ゆっくりと目を開けると、私と彼女の間に一人の男子が割り込んできていた。
「なんでこんなことをやってるのかは知らねーけど、グーで殴るのはさすがにダメだろ。普通に考えて」
彼は相手の拳を手のひらで止めていた。
拳を止められたせいか、あるいは暴力を振るった自分のまずさを自覚したのか……彼女たちはグチグチ文句を言いながら私の目の前から立ち去る。
「大丈夫?八木坂さん」
ありがとう、と私が伝えると、彼は恥ずかしそうに笑った。
「大したことじゃないよ。暴力はさすがにやべーだろって思って咄嗟に仲裁しただけだから」
彼は床に落ちた小説を拾い、汚れを自分の学ランで軽く拭き取りながら机の上に置いてくれる。
そのまま「じゃっ!」と言いながら友達の元へ戻ろうとする彼に
「ありがとう……ございます。篠田くん」
クラスメイトとして名前と顔だけを知っていた彼にお礼を伝えると、篠田くんは「おうっ」と一言だけ残して、その場をあとにした。
友達と雑談を始める彼の後ろ姿を何も考えず、しばらく見つめる。
何事も無かったかのように席に座る。
いつもどおり、小説を開いて
いつもどおり、モノクロの現実世界と私を隔離する
だけど、いつもとは違うものがひとつだけ私の心に芽生える。
この世界に、少しだけ色が付いたように感じた。




