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翌朝。
目が覚めたとき、少しだけ不思議な感覚があった。
昨日の出来事が、夢じゃなかったと実感するまでに、少し時間がかかる。
体を起こす。
……何をすればいいのかは、体がわかっていた。
部屋を出る。廊下に出た瞬間、自然と視線が動く。
床の汚れ、壁の埃、わずかな歪み。
見ようとしなくても、目に入ってくる。
――ああ、掃除をしないと。
理由はわからない。ただ、それが“当然”のことのように思えた。
気づけば体が動いていた。
物置部屋から雑巾を用意し、水を汲み、無駄のない動きで床を拭いていく。棚の上、窓枠、普段目につかないであろう場所まで、手が伸びる。
考えてやっているわけじゃない。
ただ、体が覚えている。
どこをどうすれば効率がいいのか、どうすれば綺麗に仕上がるのか。
すべて、最初から知っていたみたいに。
「……なにこれ」
声が聞こえて、顔を上げる。
そこには、エプロン姿の女性が立っていた。
「ちょっとリラ様! あの子なに!?」
その後ろで、穏やかな顔の男が苦笑している。
「落ち着けってマーサ。俺らの事を考えて、リラ様が新しく雇った使用人じゃないか?」
リラさんが奥から顔を出す。
「ああ、ちょうどいいところに来たわね。紹介するわ」
そうして、二人を紹介してくれた。
マーサ・バネットさんと、その旦那さんのベネディクトさん。ベニーさんと呼ばれているらしい。
元々この屋敷で働いていた人で、今は街でパン屋をやっているとのことだった。
「それにしても……」
マーサさんが、僕を見る。
「ちょっと、ノクス……」
床を拭いた跡、整えた棚、揃えられた物の位置。
「なにこの仕上がり……」
呆れたように、でも少し楽しそうに笑う。
「ベニー、見習いなさいよ」
「いや俺そんな器用じゃないし、無理だって」
そんなやり取りをしながら、マーサさんは腕を組んだ。
「……ノクス。あんた、どこで仕込まれたの?」
「わかりません」
正直に答える。
「体が覚えているだけで」
「はあ……」
マーサさんはため息をついた。
「リラちゃんが言ってた、盗妖精のいたずらってやつね?初めて見たけど、 厄介ねえ……」
昼食後。
僕は一つ、相談をした。
「マーサさん、料理を、教えてもらえませんか」
マーサさんが、きょとんとする。
「掃除はできるのに?」
「はい。料理は……わからなくて」
「へえ……面白い子ね」
そう言って、にやりと笑った。
「いいわよ。ちょうど娘もいるし、教えてあげる」
そうして紹介されたのが、オリビアさんだった。
落ち着いた雰囲気の女性で、マーサさんとはまた違う柔らかさがある。
「無理しなくていいからね」
そう言って、優しく微笑んだ。
もう一人テッサさんという娘さんもいるらしい。とても活発なんだそうで、リラさんと同じ騎士団に入りたいんだそう。
その日、僕はおそらく、初めて料理をした。
なぜなら———
野菜を切る。火を使う。味を整える。
どれもこれも、動きがぎこちなかったから。
掃除のときのような“体が勝手に動く感覚”はない。
「そこは、もうちょっとこうして」
「はい」
言われた通りにやる。
覚える。
頭の中で何度も繰り返す。
それは、初めて“自分で何かを身につけている”不思議な感覚だった。
一方で。
「ほら、踏み込みが甘い!」
外から、鋭い声が響く。
窓の外を見やると、テッサさんとジークさんが、庭で訓練をしていた。
ジークさんの動きは重く、鋭く、無駄がない。
テッサさんはそれに、必死に食らいついている。
それを見たジークさんは動きにフェイントを入れ始めた。
それにつられたテッサさんに、激しい攻撃が降りかかる。
かなり容赦ない動きだった。
特に最後の足払い。あまりにも速すぎて、ギリギリ見えなかった。
そして、テッサさんは倒れる。
のど元に木剣を突き付けられて終了。
悔しそうな表情のテッサさんに、「騎士団に入るなぞ、まだまだ先じゃな」と厳しい一言。
けれど。
少しだけ、ジークさんの声は柔らかかった。
夕方。
すべての準備が終わる。
「よし、こんなもんね」
マーサさんが満足そうに頷く。
「初めてにしては上出来よ」
そう言われても、実感はなかった。
ただ、少しだけ――
嬉しい、と思った。
夜。
食堂にて。
食卓に料理を並べる。
そこには、騎士団詰め所から帰ってきて着替えたリラさんと、既にお酒を飲み始めているジークさん。
「わあ!やっぱりマーサが来てくれる日はいいわね!お店に行くのもいいけど、マーサの料理もおいしいのよね!それじゃ、いただきます!」
リラさんが元気よく手を合わせる。
僕は――壁際に立っていた。
「……ねえ」
手を合わせたままのリラさんが、不思議そうにこちらを見る。
「なんでそこにいるの?」
「……わかりません」
正直に答える。
「でも、ここに立つのが……自然で」
言いながら、自分でもおかしいと思う。
「もしかして、前は誰かの従者だったのかもね」
リラさんが考えるように言う。
「マーサも言ってたわよ。あの子、掃除に凄い慣れてるって」
「……そうかもしれません」
自分では、わからない。
「でも今は違うわ」
リラさんが、はっきりと言う。
「居候でも何でもいいけど、とにかく“そこ”じゃない」
少し強めの口調だった。
「一緒に食べましょ」
「……はい」
言われて、自分の料理を用意して、席に座る。
食事が始まる。
「え!これ、ノクスが作ったの!?」
料理を食べながら、リラさんが目を輝かせる。
「すごいじゃない!」
嬉しそうに食べてくれる。
その様子を見ていると――
少しだけ、胸の奥が温かくなる。
けれど。
ジークさんは、料理に手をつけなかった。
酒だけを飲んでいる。
「おじいさま? このスープおいしいですよ」
「いらん」
短く、それだけ言って席を立つ。
そのまま、食堂を出ていった。
「……ごめんね、ノクス」
リラさんが、少し申し訳なさそうに言う。
「せっかく作ってくれたのに」
「いえ」
首を振る。
「むしろ、昨日あんなことを言った僕を住まわせていただいてるだけで、十分です」
「……そう?」
まだ少し納得していない顔だった。
でも。
それは、本心だった。
昨日の僕は、確かにどうでもよかった。
生きてもいいし、死んでもいい。
そう思っていた。
でも。
昨日のスープは、おいしかった。
理由はわからない。
けれど――
あれは、僕の中の何かを変えた。
だから。
目の前で少し寂しそうにしているこの人を。
どうにかしたいと思った。
それが、どういう感情なのかはわからないけれど。
恩を返したいと。
強く思った。




