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外に出ると、少し冷えていた。
僕が寒そうに自分の手を握っていると、リラさんがその手を取って歩き出す。
リラさんの手は暖かい。
というより、少し熱いくらいだった。そのおかげか、さっきまで感じていた寒さはすぐに気にならなくなった。
屋敷は城下町の外れにあるらしく、少し歩くと通行人が増えてくる。さらに進むと、石畳の道の両脇に店が並び、明かりがぽつぽつと灯り始めていた。
「この時間帯が一番好きなのよね」
リラさんが、どこか楽しそうに言う。
「昼ほど騒がしくないし、夜ほど危なくもないし」
危ない、という言葉に少しだけ引っかかる。けれど、深く考える前にその感覚は流れていった。
「ほら、あそこ」
指さした先には、小さな食堂があった。木製の看板に描かれた文字は、読めるような、読めないような、不思議な感覚を残す。
中に入ると、暖かい空気と香ばしい匂いが迎えてくる。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声が響いた。店内はそれなりに賑わっていて、仕事終わりらしい人たちが食事をしている。
「リラちゃんじゃないか!」
カウンターの向こうから声が飛ぶ。
「久しぶりだな、最近見なかったぞ」
「ちょっと仕事でね。今日はゆっくりできそうだから来たの」
自然なやり取りだった。ここでは、リラさんは“常連”のようなものらしい。
席に案内され、向かい合って座る。
「何食べる?」
「……なんでも」
それしか答えが思い浮かばなかった。好き嫌いがあるのかすら、わからない。
「じゃあ適当に頼むね」
リラさんは慣れた様子で注文を済ませた。
しばらくして料理が運ばれてくる。湯気の立つスープ、焼いた肉と野菜、そして少し固そうなパン。
立ちのぼる香りと温かさに、思わず目を細めた。
「ほら、食べてみて」
言われてスプーンを持ち、一口すくって口に運ぶ。
「……おいしい」
思わず言葉がこぼれた。
「でしょ? ここのスープ、評判いいのよ」
リラさんが少し嬉しそうに笑う。そのまま、しばらく無言で食べた。
空腹が満たされていく。それとは別に、何かが、ほんの少しずつ崩れていく感覚があった。けれど、それが何なのかはわからない。
「……ねえ」
リラさんが声を落とす。
「あなた、本当に何も覚えてないのよね?」
「はい」
「名前の一文字も?」
「はい」
「……そっか」
少しだけ視線が落ちる。
「じゃあさ、名前どうする?」
名前。その言葉に少しだけ思考が止まる。自分を呼ぶための言葉。ないと不便だろう、とは思う。
「私がつけてもいい?」
軽い口調だったが、どこか慎重さもあった。
「……お願いします」
自分で決める理由が、見つからなかった。
「うーん……」
リラさんがこちらを見ながら少し考える。
「見た目的に……ノクス、とかどう?」
「ノクス……」
口の中で転がしてみる。違和感はなかった。
「いいと思います」
「ほんと? じゃあ決まりね!」
ぱっと表情が明るくなる。
「今日からあなたはノクス!」
その名前は、不思議とすんなり受け入れられた。
食事を終えて店を出る。
完全に日が沈み、空には星が瞬いていた。少し欠けた三つの月が、静かに浮かんでいる。
――ざわり。
胸の奥に、わずかな違和感が走る。
理由はわからない。何も思い出せない。ただ、重たい何かが胸の内側に溜まっていく。
それが何なのかも、わからない。
「ノクス? どうしたの?」
気づけば、リラさんが顔を覗き込んでいた。
答えようとする。でも、言葉が出てこない。
何も、わからない。
すると、リラさんがそっと手を握ってきた。
その瞬間、胸の奥にあった重さが、少しだけほどける。
「大丈夫。確かに何も覚えてないって怖いことだけど、一人じゃないよ。私がいるよ」
その言葉が、手を通して胸の中に落ちてくる。
重かったものが、さらに軽くなる。いや、溶けるように消えていく。
気づけば、何も言えないまま、頬を温かいものが伝っていた。
「え、ちょっと……」
リラさんが驚いたように、袖で頬を拭う。
その後は、手を引かれるまま屋敷へと戻った。
その夜。
眠る瞬間まで、リラさんはずっと手を握っていてくれた。




