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マンションの隙間から  作者: ナチャ
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2/3

後編

体が硬直して動かない。関節は鉄パイプのように固くなり、指の1本さえままならない。心臓すらも止まっているようだ。

ただそれに反比例するように私の体は芯から震え、恐怖が沸き立っている。



「はっ…………はぁ……ぁ……」


やっとの思いで絞り出した私の声が、庫内に静かに響く。数秒前とは打って変わって、夜の森にいるかのような不気味な静けさが私の恐怖心をなぞる。


考えたくない。考えたくないのに、脳が思考を停止しない。

5秒ほど前に外から鳴り響いた、あの轟音。

たった1回で私の体を、心を、何もかもを恐怖で支配したあの轟音。


何も考えたくないのに、頭の中ではソレだけが鮮明に思考を跋扈している。

1度しか鳴っていないあの轟音が、耳の中で何度も強制的に反芻させられている。



再度轟音が鳴り響いた。



言葉では到底言い表せないような。

心臓を釘で打ち付けられる、そんな感覚が全身を襲った。


あぁダメだ。何かしようにも、私は完全にこの音に支配されてしまった。聞くだけで、それだけで条件反射で体が強ばる。



また轟音が響く。



ダメだ。これ以上聞いていたら頭がおかしくなりそうだ。耳を塞ぎたいが、私の両手は目を覆ってしまっている。両手を耳に移してしまったら何かの弾みで目を開けかねない。だから出来ない。




轟音が鳴る。響く。轟いて。エレベーターの中と私の体を恐怖で満たしていく。





最後の記憶は、轟音だった。

私の耳がおかしくなっていないならば、

それは恐らく、私の耳元で鳴り響いていた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




淡く光る灯り。空気が淀む廊下。目の前に広がる景色に、生理的な嫌悪感が湧き上がる。

もう言わなくても分かるだろう。3回目の、明晰夢で来る9階だ。


思わず、ため息が溢れ出る。

明晰夢。9階。不安な要素のてんこ盛りと呼べるこの状況にも、3回目ともなると慣れてしまった。

エレベーターから出て左を見ると、やはり最奥に開いた「911」のドアが見える。

うん、全て同じだ。そして前の2回の結果から踏まえるに、今回は恐らく「910」に行った辺りで目が覚めるのだろう。



ならば話は早い。「911」に向かって、とっととこの悪夢からおさらばしよう。

私はそれだけを考え、「911」へと歩を進めた。


無機質な空間に、無機質な足音が響く。不気味にドアを開き続ける最奥に、1歩1歩と近づいていく。

数十mほど進み横を見ると、前回の終了地点だった「909」号室前までたどり着いていた。少し間を置いて足を踏み出すが、夢が覚めることはない。


やはり、今回はここからまた1部屋分進むことができるようだ。

確認と同時に歩みを再開し、さらに数m。私はとうとう「911」の手前の「910」号室に並ぶ位置に降り立った。

よし、特に何事もなくここまでこれた。これで……




違和感。


おかしい。夢が覚めない。

これまでだったら特定の部屋前に到着した瞬間に意識が覚醒していた筈なのに。今までと同じ手順を踏んでいた筈なのに、夢の世界は何故か形を保ち続けている。


頭の中で様々な可能性を模索するが、残念ながら何も思い浮かばない。

エレベーターを出て、「911」に向かって進むだけ。特段変わった事はしていないはずだ。ならば、何らかの理由で覚醒する条件が変わってしまったのだろうか?もしそうならそれを探さなくてはならないが、この夢の世界で出来ることなんて精々……


数秒ほど、視線の奥にそびえる「911」の扉を見つめる。

やはり…進むしかないか。わざわざ明晰夢にまで出てきたこの場所…目が覚めないのなら、今の私に出来ることは歩を進めることだけだ。



深呼吸し、ゆっくりと右足から1歩目を踏み出す。


その時だった。



数m先に見える、異様な存在感を放つ「911」の玄関ドアが目を疑う速度で轟音と共に閉まったのだ。


その轟音は響いた瞬間に私の体を硬直させ、心臓を跳ね上がらせた。

直後、私は思い出した。

意識を失う前の、最後の記憶を。私の心を布切れの様に引き裂いた、あの轟音を。



そして、確信した。

あのエレベーターで聞こえた轟音は、「911」の扉が閉められる音だったんだ。



これまで感じた事のないような恐怖が、一瞬で私の頭を支配する。

感覚を忘れるほどの体の震えと肋骨に響く激しい動悸で、私はいつの間にか地面にへたりこんでいた。

。



次の瞬間、また轟音が聞こえた。


私は反射的に体を丸め、耳を塞ぎ必死に夢が覚めるのを待った。

覚めて。お願い。お願いします。夢から醒めて。


そんな私を追い詰めるが如く轟音は鳴り続ける。心なしか音が近づいてくる気配さえ感じた。


早く覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて


心の中でお経のように唱える。目を力いっぱいぎゅっと瞑り、何も知覚しないように。

大丈夫。これは夢だ。だから早く









目を開けてしまった。

それには理由がある。


呼ばれたんだ。名前を。

でもただ名前を呼ばれた訳じゃない。


だって、その声は。



手のひらを地面に押し出し、勢いで私は前を見た。


そこには






「バイバイ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「咲耶!」


突如聞こえた私を呼ぶ声に体が跳ね上がった。



あれ?エレベーター…じゃない9階だ…え?なんでどこだここは


「咲耶!お父さん!!咲耶が起きた!お父さん!」


混乱もままならず、横を見ると姉が居た。とても心配そうな顔をしている。まるで誰か死んでしまったかのように深刻そうだ。

なんでお姉ちゃんが?だって私


手の感触が柔らかいのが気になり、下を向くとベッドの上に居た。

辺りを見渡す。見慣れた景色だ。いや、そうだ。私の部屋だ。


何が何だかわからずに居ると、お父さんが来た。

顔は姉と同じくとても心配そうにしている。


「咲耶!大丈夫か!!」


大丈夫?なにが?



「お姉ちゃん…どうしたの?なんでそんなに慌ててるの?」



「…憶えてないの…?だって……だって…咲耶…エレベーターの中で……








       ずっとうずくまって……泣き叫んでたんだよ…」





瞬間、記憶が蘇った。

エレベーターでの出来事、明晰夢の内容。全部が頭の中でフラッシュバックし、脳みそを引っ掻き回すように頭と記憶の中を走り出した。



輪郭のない恐怖と、形を成さない不快感が、津波のように、心の中を、体を、私を、





支配していく。





自分の意志か、本能かは分からない。私はベッドにうずくまり、手で耳を必死に塞いでいた。

そうしなければ、また聞こえる気がした。あの轟音が。


私の耳元で、ずっと。



ーーーー




「落ち着いた?」



姉の静かな声が耳に通った。

横に目をやると、姉が寝ている私の手を握っていた。



「……うん。大丈夫。もう平気。」


自分でもわかるほど元気が無い声で、姉に返事をする。


「……そっか……じゃあ良かった…。」


姉は安堵と、それに少し入り混じる不安の表情を浮かべた。



「お姉ちゃん……今…何時?」


「えっと……夜の7時。日曜日ね。」


日曜日………あれ、私……どれくらい寝てたんだろ…


「咲耶、お腹空いたでしょ。何か食べたいものある?なんでも言って。買ってくるから。」


食べたいもの……食べたいものか………そうだなぁ…



「お姉ちゃん…」


「ん?」


「お姉ちゃんの………ハンバーグ食べたい…」


今年に入ってからまだ食べてないから、久々に食べたくなった。

私の要望を聞くと、姉はふふっと笑った。その笑みは、きっと心の底からだったと思う。


「分かった…!任せて、作ってくるから。材料あったかな…」


そう言いながら、姉はリビングへ向かった。

その背中を見て、私の心が休まる音がため息となって口から溢れ出た。





少しだけ気力が戻った私は、姉が作ったハンバーグを食べながら土曜日の夜のことを聞いた。



私を送り出した後、戻るのが遅いと気になった姉が外に出るとエレベーターから私の声が聞こえて、急いでいくとエレベーターの中でうずくまって泣いている私を見つけたらしい。そこにたまたま帰った父が居合わせ、2人でなんとか家に運んだとのこと。

その後はさらに大変だったらしい。家に着いた途端に気を失った私は、その後2時間ほどで目を覚ましたらしいが急に泣き叫び出し、ベッドから出てこなかったという。

それが1時間ほど続き、ゆっくり落ち着きを取り戻し現在に至る。



「そんな……ことが…」


「覚えてないの?何も?」


断片的ではあるものの、その時の事は一切覚えていない。


「うん……ごめん。お姉ちゃん。」


「謝んなくていいよ!もう収まったことだし、ね!」



姉はこう言ってくれているが、内心とても疲れているはずだ。多分、家に私を運んだ時から寝ずに私を見ていてくれたんだと思う。ずっと手を握って、そばに居てくれた。疲れているはずなのに、それを表に出さず明るく振舞ってくれる。


「お姉ちゃん。私はもう大丈夫だから。」


「ほんとに?無理してない?」


「無理してない。ほんとにほんとに、もう大丈夫。」




ごめんお姉ちゃん。私嘘ついた。

本当は、ずっと怖い。

覚えていないのはお姉ちゃんに見つけてもらった時以降の記憶で、それ以前の。エレベーターの中での事や、明晰夢での事は全部覚えてる。あの轟音や、その正体。私の名前を呼んだ、「なにか」の事まで全部。それを思い出すだけで、恐怖で心が壊れそうになる。それくらい怖い。

でも、私がずっとあんな調子だと、お姉ちゃんはずっと私のそばに居てくれるから。自分の体調も顧みないで、私と一緒にいてくれるから。嬉しいけど、お姉ちゃんの方が私は大事だから。



「……そう。なら良かった。明日さ、学校休みな。テストなのは知ってるけど無茶しない方がいいよ。学校にはお父さんが電話しとくって。明日私も休み取ったからさ、一緒に映画でもみよーよ。」


「うん…ありがと、そうする。」


「…よし、じゃあ私洗い物しちゃうから、なんかあったら呼んでね。」


「…っあ、お姉ちゃん!」


「ん?どした?なんかある?」


「…今…、お父さん……家に居る?」


「居るよ。呼んでくる?」


「うん…お願い。」


「分かった。」







その夜、私はお父さんに引越しを懇願した。

金銭的に難しいのも分かってる。それでも私は、ここに住むのは無理だ。あんなことが起きた以上もう普通には暮らせない。一刻も早くここから出たい。それ以外の気持ちは生まれない。


9階の事も全部話したから正直断られると思っていたが、案外すんなり受け入れて貰えた。

どうやら最近私の様子がおかしい事が気になっていたようだった。お父さんは9階には何も感じない人だが、不動産側からなんの説明も無く9階が封鎖されている事にずっと不信感を抱いていたようで、すぐにでも引越しの準備をすると言ってくれた。お金のことに関しては…多分私に気負わせまいと心配するなと言っていた。



学費だけでなく、引越しの費用までお父さんとお姉ちゃんに掛けてもらって、申し訳ないと思う。将来で絶対に2人に恩返しをする。

でもごめんなさい。今はそれより、ここを離れられる事の安心感の方が大きい。私はもうここには居たくないから、すぐにでもここを離れたいから。本当にごめんなさい。迷惑ばかりかけて、何も恩返し出来ないで。自分の事しか考えられなくて、本当にごめんなさい。




父親に何度も謝り、姉に何度も謝り、私の心は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


でもそれでも、どうしても。ここを離れられるという嬉しさが徐々に徐々に、私の心を満たしていった。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




月曜日、時間は夕方頃。私は姉とリビングで映画を見ていた。



「この映画面白かったねー。」


「ね、まさかあそこでマイケル死んじゃうとは。」


「それ!何だかんだ死なないと思ってたもん。それにあのハンバーガー、伏線だったとか予想外すぎたわ。」



姉と映画の感想で他愛もなく話し合えるくらいには、私も少し回復してきた。それでもあの出来事を思い出すと吐き気がするが、なんとか頭の片隅に留めることで防いでいる。この調子なら、引越した後は普通に復学出来ると思う。引越しの為あと1回は絶対エレベーターに乗らなくては行けないのが心配だが、姉や父と一緒に乗れば幾分マシだと思いたい。


「…っうし、映画も見て時間も夕方だし!買い物行ってくっか!咲耶なんか欲しいものある?」


「んー特にない。」


「おっけ、じゃちゃちゃっと行ってくるわ。行ってきマース。」


「行ってらっしゃい。」


バッグを持ち、パッパと着替えを済まし、姉は買い物に出かけて行った。


さて……何しようかな。ずっと姉が一緒にいてくれたから、一人でいる時何をしていたか忘れてしまった。あ、そうだ。最近買った小説をまだ全部読んでいないのを思い出した。


私はテレビと電気を消し、自室に向かった。





1時間ほどだろうか。

ベットの上で小説を読んでいると、リビングの方から音が聞こえた。あの出来事以来どんな小さな音にも過敏になり、落ち着かなくなってしまった私だが、この音に不安を抱く心配はなかった。

何故かと言うと、聞こえた音がマンション1階のロビーから来る呼び出し音だったからだ。


リビングに行き液晶画面を見ると誰かが映っていた。

宅配便とか頼んでたっけ…?

よく見てみると、それは見慣れた顔だった。






ドアを開け、挨拶を交わす。


「久しぶり……でもねえか。よっ、鮎川。」


「……高正。」


来てくれたのは、高正だった。




「ほんとに入っていいの?全然長居とかしないけど。」


「いいよ。来てもらってすぐ帰らせるの悪いし。」


「おぉ……じゃ、失礼します…。」


少し落ち着かない雰囲気で、高正は私の部屋の床に座った。

何をそんなに緊張してるのか、全く訳が分からない。もう2年の付き合いになるのに。



「………」


「……………」


高正は部屋に入るなりずっと周りや床を見ている。どこか気になる様子だ。


「…………どうしたの?」


「えっ!?…ああーいや…なんていうか…入るの初めてだからかな…お前の部屋…なんか落ち着かなくて…」


あぁー…なるほど。


「あぁ…そっか。前にタコパで初めてうち来た時は私の部屋入ってなかったもんね。」


「あ、…うん。多分それ。……あーえっと……うーん……」


「なに緊張してんの…」


「いや…うーん…緊張してんじゃなくて…あの…聞きたいことあって…」


「聞きたいこと?」


「うん…ほら…今日、学校休んだじゃん……テストだったから…その…」


確かに休んだけど……なんでそんな変なこと聞くみたいに…


「ちょっと……体調不良。だから休んだの。」


「体調不良かーそっか…もう良くなったの?」


「うーん…どうだろ。まぁ…少しは…かな。」


「おぉー。じゃあ明日とかから学校来れんの?」


「いや、当分無理。近々引っ越すからそれまでは家から出ない。」


こればかりはどうしても譲れない。次にエレベーターに乗ったら何が起こるかわからない以上、不要な外出は避けるべきだ。

テストに関しては受けないと留年するのだが、学校側には心の病気になった…という事で引っ越し後なんとかテストを受けられるようにしてもらった。


「えぇーマジで?なんかあったの?」


「別に…何も無いよ。」


高正は9階に何も感じないんだ。どうせ言っても気味悪がられるだけだし何も言わない。


「ほんとかぁ?なんかヤバいことあったとかじゃねーのぉ?」


っ………

…………………いや、落ち着け。高正は元からこんな奴だ。大丈夫。こいつの発言には大抵なんの意図も含まれてない。こいつ自身何も考えずに発言してるからだ。いつも通り冷静に。


「それよりさ、今日のテストどうだった?上手くいった?」


「え?…あぁー、…うん。ギリ…かな?」


「ギリ!?私が教えたのに!?」


「いや割とムズかったんだよ!マジで!」


「えぇーほんとにちゃんとやったのー?」


あぁ……これだ。

高正とするこんな何でもない会話が、今は1番心地いい。気持ちが落ち込んでいたが、お陰で少しだけ心が軽くなった気がした。


「ねー高正、どんな問題でた?教えてくれない?」


「いや!それは絶対ダメ!先生にも言われてっから!」


「えーいいじゃん教えてよ。」


「ダメダメ!ダメダメダメだ!」




今思えば、この時の私は少し不安定だったんだと思う。

さっき言った通り、高正の発言には大抵なんの意図も含まれてない。だからいつもの様に、スルーすればよかったんだ。



「あ、そういえばさぁ。」


「?なに?」


「今日美那さんとか居ないんだな。」




「…なんでお姉ちゃんが気になるの?」


「え?いや別に、鮎川体調不良って言ってたから、家ひとりなのかなって。」


そう…だった。高正は……


「お姉ちゃんは駅前のスーパー行った。」


「あ、そう。」


「行けば?今からなら会えると思うよ。」


「え?いや別に、会いたいわけじゃないけど。」



ダメだ。



「会いたいんでしょ?お姉ちゃんと。楽しい話して、一緒にご飯食べて。」


「いや…え、どうした?」


「もういいからお姉ちゃんのとこ行きなよ。来てくれてありがとう。楽しかったよ。」



これ以上は



「鮎川、大丈夫?疲れてるだろお前。なんか作ってやろうか?」


「だから大丈夫だって!!!!」



自分を保てなくなる。




「もういいよ!!!お姉ちゃんの話したいならお姉ちゃんと一緒に居てよ!!!」



「分かってるよ!!!!お姉ちゃんの事好きなんでしょ!!!お姉ちゃんと話す方が楽しくて!お姉ちゃんと食べるご飯の方が美味しいんでしょ!!!」



「なんで私といるのにお姉ちゃんの話なんかするの!!なんで私のところなんか来るの!?!もう全部嫌なの!!!!」



「高正なんか…………大っ嫌い!!!もう顔も見たくない!!!」







「鮎川…」


「帰って。」



「もう帰って。早く。」


「でも、」


「帰って!!!!!」






「…………俺は





鮎川と話したくて、いつも来てたよ。」






数秒して、ドアの開く音が聞こえて、その次に閉まる音が聞こえた。

十数秒して、ポタポタとなにかこぼれる音が聞こえた。

数十秒して、それが自分の涙だと気付いた。


わずか数十分、私は、数少ない味方と初恋の人を自ら突き放してしまった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




体が動かない。

動かないのは自分の意思だ。動かす気にならない。指一本すら気力が湧かない。



高正に、ひどいことを言ってしまった。

あんなのひどすぎる。現状もだが、それ以上に自分が嫌いになる。

2年の付き合いになるのに、何も分かってない。あんなの高正の何でもない一言じゃないか。それなのに私は子供みたいに逆上して、自分だけ言いたいことを言って、八つ当たりして高正にあんな事を。おまけに大嫌いなんて。



……これから…どうすればいいんだろう…。

もう多分、高正との関わりは消えると思う。あんなこと言ったんだし当然も当然だ。自ら縁を切ったようなものだ。

でも……私は…高正が……。


そんな気持ちすら、おこがましい。

時間を巻き戻せるなら巻き戻したい。でもそれは叶わない。

高正の存在のおかげで芽生えかけていた9階に立ち向かう勇気も、消え失せた。どうしようか、これから。


部屋のベッドで項垂れていると、ドアの方からノックの音が聞こえた。


「咲耶ー?大丈夫ー?お姉ちゃん帰ったよーー。」



姉の声が聞こえ、時計を見ると6時半を回っていた。

もう…こんな時間なのか。あの後部屋にずっと居て、時計も見ていなかったから時間感覚が無くなっていた。


「大丈夫ー?なんかあった?ドア開けていい?」


「っ大丈夫。何もないよ。」


「そう、ご飯作るから、もうお風呂入っちゃいなー。」


「うん…。」



正直、高正にあんな事を言ってしまった手前お姉ちゃんに対しても変な感情を抱いてしまいそうで怖い。

…でも、現時点でお姉ちゃんには相当無理をさせている。今こんな事で負担をかけるわけにはいかない。ちゃんといつも通り接しよう。お姉ちゃんは変なとこで鋭いから、しっかり隠さないと。


私はベッドから立ち上がり、クローゼットから着替えを取りだし部屋を出た。



ーー



「咲耶なんかあったでしょ?」


ご飯を食べる手がピタリと止まった。

どうしてバレた…。いや、まだ可能性は…


「なんかって?何も無いよ。」


「はい嘘。部屋から出てきた時から顔暗くなってるしやたらため息するしお風呂の時間いつもよりちょっと長かったしあと嘘つく時の癖の右腕前腕を触る癖が出まくってる。」


えっ……いや…え…そんな癖…


「…そ、そんな癖……無い…よ……無いよね…」


「あるよめちゃくちゃあるよ気づいてなかったんだ逆に。」


は、初めて知ったんだけど…。なにそれ…


「咲耶…。あんな事があったんだし、何かあったらあんま重く考えないで、相談して欲しいな。何も隠さず全部言えって言ってる訳じゃなくて、抱え込んで、それが咲耶に負担になるくらいなら私に話して、悩みを共有させてよ。あんな事あってお互い大変だったし、私も頑張るから。」


「……」


「それに、お姉ちゃんだからね!あんたより頭は悪いけど社会経験は雲泥の差だから色々対策とかも練れると思うし!」



そうだ。お姉ちゃんは昔から勘が鋭かった。特に隠し事に対して。

お姉ちゃんは優しいから、私が何を打ち明けようとまるで自分の事のように悩んでくれるんだろう。それがお姉ちゃんの生活の負担になると思って何も言わなかったが、それが逆にお姉ちゃんを心配させていた。

何をやってるんだ。私は。

結果的にお姉ちゃんを困らせてるなら、それは何よりもダメな事なんだ。


「…お姉ちゃん……。」


「んー?」


「ありがとう。」


「良いってことよ。」


私が何を言っても、お姉ちゃんは笑顔で返してくれる。

本当に、ありがとう。


鼓動が少し強くなる。

息が少しだけ、苦しくなる気がした。

大丈夫。なんでも言われる覚悟は出来てる。



「実は…」


ー



「……ってことが…お姉ちゃんの居ない間に…あった出来事…です。」


ご飯はとっくのとうに食べ尽くし、テーブルはまっさらだ。やけに時間かけて話しちゃったしつい敬語になってしまった。

きっと私は色々と言われると思う。それくらいの事を高正にしてしまったんだ。だから…


「咲耶。」


「…はい。」


「今から言うこと、内緒にできる?」


「…?……うん。」


なんだろう……何を…言う気なんだろうか…。



「実はね。高正が私と会った時、決まって高正が話すのがね、全部咲耶の話題なんだよ。」


?


「……え?」



「…うそ?」


「ほんと。んであまりにも咲耶の話題ばっかだからさ、いつだったか聞いてみたのよ。「高正って咲耶の事好きなの?」って。」


「は!?何聞いてんの!?」


「いいから聞いてって。でさー高正なんて返したと思う?」


「……な、なんて返したんですか……」




《好きっ…ていうか……うーん…なんスかね…?…そうっすね…いづれは…なんか………その…告白したいなとは………思います……ね…》




「っだってさ!!!!こんなんもう好きって言ってるようなもんじゃん!それを変に濁すんだよあのバカは!」



………な、




「なんで!?」


「だからーあいつ咲耶の事好きなんだよ。両思いなの!あんたらったらはー歯がゆいわァ見てて歯がゆい歯がゆい!」


「ちょちょちょっとまってなんで私が高正の事好きだって」


「は!隠せてるつもりだったんだ!可愛いねぇ子供は!」



え………ええええええーー……………


やばい。体温が一気に上がりっぱなしだ。待って…情報の整理が…えーと私は高正を好きで高正はわた……し…を…

そんな……じゃあ……私ガチでただの勘違い女じゃん……後悔とか通り越して恥ずかしすぎて死にたくなってきた…マジで私これからどうすればいいの…





「……でも、ごめんなさい。」


心の中で悶えている私を横に、姉が急に頭を下げ謝罪をした。


「え、え。なに急に。どうしたの。」


「私としては、高正の相談に乗ってるつもりだった。咲耶が好きなものは何かーとか、どんな映画観るのかーとか。」


「っ…」


「でも…咲耶からしたら、それがストレスだったんだよね。咲耶の気持ちに気付いていたのに、咲耶の気持ちを考えて無かった。嫌いになったかもしれないけど、これだけは言わせて。本当にごめんなさい。」




……確かに、私は頑張ってるのになんでお姉ちゃんは…見たいな感情を、一時は姉に対して抱いていたかもしれない。姉にできないことを私はできるが、その逆も然り。そして出来ることの数は私の方が少ない。私なんかよりも優れている姉に対して、強烈な嫉妬を抱いていた時期はあったかもしれない。

でもお姉ちゃんは、私なんかよりも頑張ってる。私よりもいっぱい苦労して、私の為に働いてくれている。そんな人を、嫌いになるわけが無い。むしろその逆。私はずっとお姉ちゃんが大好きだ。


「お姉ちゃん、謝らないで。確かに少し、すこーーーしだけ。高正とお姉ちゃんが話してる姿見るのいやだなーって思った時は、確かにある。」


「…うん。」


「でも、そんな事でお姉ちゃん嫌いにならないよ。お姉ちゃんはカッコよくて、綺麗で、真っ直ぐで、私の目標で。私のお姉ちゃんなんだから。」


「咲耶………。」


「……って、これじゃどっちが相談してるのか分かんないね。ふふ。」


「ははは…そうだね。」


時間的には全くそうじゃない。でも、久しぶりに、心の底から笑えた気がした。


「……あ、でも…どうしよう。」


「え?なにが?」


「私…高正に酷いこと言って別れちゃったから……もう絶交かも…」


そうだ、まだ問題は解決してない。どうすれば…


「あーそんなもん簡単よ。直接会って謝ればいいの。」


「…え?」


「あ、でもチャットアプリとかメールでの謝罪はぜったいダメだからね。電話でギリだからマジで。」


「謝って済むなら謝りたいけど…なんでダメなの?」


「気持ちが伝わんないからに決まってんでしょー!?最近の若い子ってほんとダメだよねー告白もアプリでポチポチ適当に打って済まして。直接伝えて初めて気持ちってのは心に届くもんでしょうがっての!」


見た目的にはとても遊んでそうで軽そうな姉はこういう気持ちを伝える行為に対して割と厳しめのようだ。

……意外だ。姉は割とこういうメールとかでパッパと済ます派だと思っていたから尚更だ。…いや、キャバ嬢という人との繋がりが何より大切な商売ではそういう姿勢こそ求められるものなのかもしれない。


「…でも、謝っただけで許してくれるかな…」


「大丈夫。高校生は特に、若い頃は気持ちの移り変わりがいい意味でも悪い意味でも早いから。案外簡単なもんよ。」


「……そっか…そうなのかな。」


「そんなもん。…まあ咲耶は今直接会うの難しいから、今度会う約束取り付けるって意味でも、今からでも電話した方がいいね。」


「へっ!?今!?」


「そーそー今今!」


「でももう夜遅いし明日にでも…」


「明日を視野に入れてるやつに今日を生きる資格は無いってね!私お風呂入ってくるからそれまでに電話!かけとくんだよー!」


そう言って姉は猛スピードで脱衣所に向かった。


………直接会って…謝るか…。シンプルすぎて逆に選択肢に無かった。…たしかに、それが一番良いのかもしれない。




よし……とりあえず……電話……しよう……するぞ……


スマホを手に取り、パスワードを入れてアプリを開く。

こ、…このボタンを押せば……電話が……


画面まであと数ミリという所で、指が止まった。


…あんな言い方をして突き放した私の言葉を、高正は聞いてくれるだろうか?

いやそもそも、電話すら取ってくれるだろうか。

もう…会うことすら……



……いや。そんなことを考えるのは、電話をかけた後だ。

言い訳なら後でいくらでもできる。大事な事は、今すべきだ。


私は指を押し込み、電話をかけるボタンを押した。




…………


………………



?




電話に出ない。

耳を押し当ててよく聞いてみるが、やはり出ない。

………もしかして、着信拒否されてる?


そ、そんな……そんな事されたら…もう本当に直接会うしか……

電話で話すのはなんというか事前準備みたいな意味合いも私の中では兼ねてたから…それすっ飛ばすことになるとは…。


…まあ、時間も時間だし単純に寝てしまったか出れない状況なのだろう。うんそうだ。本当に着信拒否されてたらマジでへこむ…。

とりあえず、明日も1回かけてみて、それでもダメだったら直接会って謝罪をしよう。話はそれからだ。



そう心に決め、洗い物をしようと椅子を立った瞬間、家の中に電話の音が鳴り響いた。

その音を聞いた私の視線にスマホは無い。なぜならその音は、家の据え置きの電話の音だったからだ。


ふと時計を見ると夜11時を回っていた。もう11時か。

こんな時間に誰だろうと、急ぎ足で向かい受話器を取る。



「はいもしもし、鮎川です。」


『あ、鮎川さんのお宅でしょうか?』


「はい。どちら様でしょうか?」


『こんな夜遅くにすみません。私、島崎高正の母なのですが、鮎川咲耶さんは居られますか?』


島崎…高正の……


「あ、もしかして…おばさん?」


『え?もしかして咲耶ちゃん?』


「!そうです!お久しぶりです!」


『あら、久しぶり!最近はあまり遊び来ないから寂しかったわよ〜。』


「ははは、じゃあ今度遊び行かせてもらいます。…えっと、こんな時間にどうかしましたか?」


『あ、そうそう。えっと………高正はもしかして、まだ咲耶ちゃんのお家にお邪魔になってるのかしら?』



一瞬だけ、時と音が消えた気がした。

高正…?どうして…高正が…?




「…いや……居ない……ですけど……。何かあったんですか?」


『何かあったってわけじゃないんだけどね、家に帰ったら高正がまだ帰ってきてないからちょっと驚いちゃって。ほら、うち共働きで夫も私も帰る時間が遅いし、高正ももう高校生だしで門限も緩めにしてるんだけど、流石にこんな時間まで帰ってこないのは初めてだから、それで心配になっちゃって。』


「……それで…うちにどうして……」


『学校側に電話かけたら放課後に咲耶ちゃんの家にプリントとかを届けに行ったって担任の先生が言ってたから、それで。えっと、高正はもう居ないのよね?』


「…はい。えっと……夕方4時ぐらいにうちに来て……それで…5時ちょっと前くらいに……もう…帰っていきました…。」


そうだ……あの後…高正は帰ったはず…。


『そう……うーん、やっぱり友達と遊んでるのかしらねぇ。電話かけてるのに出ないからなおさら心配なのよ。』


「…え、電話…にも出ないんですか?」


『そうなのよ〜。普段はバイト中とか以外は基本すぐ出てくれるからこんなに出ないのも珍しくてね〜。』


「あの……高正が行きそうな所に…心当たりとかはありますか?」


『そうねぇ…最近はあまり家族で出かけることも無くなっちゃったから…バイト先に電話はしたけど今日はシフト入ってないって言うし…』


「そうですか………」


『まあとりあえず、しらみ潰しに探してみるわ。ごめんなさいね、んな時間に。おやすみなさい。』


「いえ…こちらこそ……おやすみなさい。」




受話器を置き、可能性を模索した。


友達と遊んでる?いや、こんな時間まで遊ぶ悪友とかガラの悪い友達は高正には居ないはず。私が知らないだけの可能性もあるけどおばさんはこんな時間まで帰ってこないのは初めてと言っていた。私が知らないだけと仮定しても今日だけ帰ってないのは不自然だ。

それに電話に出ないのもおかしい。高正がよっぽどの事がない限りすぐに電話に出るのは私も知ってる。私の番号が着信拒否されてるとしてもおばさんからの電話に出ない理由はないはず。

事故にあった?もしそうだとしたら心配だが、それならおばさんに連絡が行くはずだ。現在進行形で事故に遭っている可能性も無くはないが、今日はバイトのシフトは無いと言っていた。それなら高正の今日の放課後の予定は私の家にプリントを届ける…のみのはず。高正はあてもなく何時間もほっつき歩く事はしないから、仮に事故にあったとしても相当前の時間のはず。もしそうなら連絡がいかないのは尚のことおかしい。

有り得ないが図書館で勉強してるという線もある。が、高正だしそれは無い。仮にあるとしても8時前後には家に帰っているはずだ。だって土曜日、うちでタコパをした時は8時に帰っていたから。遠慮も入っていただろうが、そもそも高正はそんな夜遅くまで外出はしない人間だ。

じゃあやっぱり、高正が家に帰っていないのはおかしい。




ふと頭に一筋、可能性がよぎった。

それは考えたくなかった、出来るだけ頭の片隅に追いやっていた、最悪の想定。



……いや、そんな事は無い。高正だって、羽目を外したい時があるのだろう。親や友達との関わりを切って、どこか1人ふらっと散歩しているのだろう。大丈夫。また学校で会える。


頭の中で納得づけようとしても、心がどうしても落ち着かない。

体はいつの間にか歩き出し、リビングを後にしていた。

部屋に入りパーカーを羽織って、玄関に向かう。

鍵と懐中電灯を取り、玄関の鍵とドアを開けた。


お姉ちゃんがお風呂に入ってて良かった。こんな時間に外に出るとなったら確実に行き先を聞かれるし、嘘をついたらバレるし尚更怪しまれる。それにあんな事があったんだ、絶対着いてくる。


………これは、私だけの問題なんだ。私がやらなきゃ。




外に出ると少しモワッとした空気が体を覆った。

この数日でさらに夏に近付いたようだ。この微妙な空気は少し苦手だ。


そんなことを考えながら歩を進める。

大丈夫。少しだけ、少し確認するだけだ。エレベーターには乗らない。見るだけだ。


安全と、心を落ち着かせようとしても落ち着かない。鼓動はいつもの様に徐々に大きくなり、いつもの様に嫌な汗が背中をひたる。



エレベーターの前に着き、階表示を見る。

9階に…………止まってない。

それはそうだ。このマンションのエレベーターは9階に止まらないよう設計されているんだ。

大丈夫だ。


そう何度も唱え、エレベーターの降ボタンを押す。


エレベーターは4階に止まっていた。来るまで微妙な時間の階だ。

見るだけ…見るだけだ。すぐに帰る…見たらす……ぐ…に


エレベーターが11階に着き、ドアが開いた。

すぐに帰る?そんなこと、出来るわけなかった。



「なん………で………。」



息が荒くなる。呼吸が正常かも分からない。手を心臓部分にあてがい呼吸を落ち着かせようとした。



「なんで……これが………」




エレベーターの真ん中には物がひとつ、落ちていた。


ただの物じゃない。少なくとも知ってる人にとっては。






《高正のさ〜そのかばんに付いてるストラップってなに?なんかのアニメのキャラ?見たことない。》




《え?ああいや別に好きじゃないっす。》




《あーいや…なんていうか………これ死んだおばあちゃんから貰ったやつなんすよね。まあいわゆる形見ってやつっすね。》




《……そうなんだ。じゃ、大事にしなきゃね。》


《はい!》






そこに落ちていたのは、高正のおばあちゃんの、形見のストラップだった。



ーーーーー




人差し指と親指、震えた手でそれを手に取る。


「…間違い…ない。」


事情は最近知ったが、これは確かに高正のストラップだ。2年間ずっと見てきた。見間違うはずがない。


1度、高正がこれをどこかに落とした時があった。

気付いたのは落としてからだいぶ後で、高正はその時とても慌ててた。

その後真夜中の1時まで捜索は5時間続き、その捜索の果てに見つけることが出来た。高正は見つけた時涙目だった。


それほど大事なものなんだ。仮に落としたものなら確実にここに戻るはずだ。戻らないわけが無い。


仮定が頭の中で、確信に結びつく。



斜め後ろに向き直り、震える手でボタン……を…


ためらうな。私は9階のボタンと閉ボタンを押した。

9階ボタンが光り、ドアが閉まり、エレベーターが下に向かう。


「ふーーー…………」



目を瞑り、深呼吸を長く深く深くする。

高正が私の家に来たから、高正は帰っていないんだ。つまり、私が休まなければ高正がここに来ることもなかった。

私が迷ってどうする。高正を助けられるのは……私だけだ。


目は瞑っているが、手では覆わない。手で覆うのは恐怖の表れだ。それを9階の「なにか」に気取られてはいけない。

十分怖いが、行動だけでも表さなければ。



ガコン…と止まる音がして、ゴオォーと…ドアが開く音が聞こえる。


最後に見たのはいつぶりか……いや、最初にここに来た時以来だ。それ以来、本当に1回も見てないから。だから………


その「なにか」とは、4年ぶりの邂逅だ。



ー



パチッと目を開き、まっすぐ前を見る。

……大丈夫。まだ「なにか」は居ない。


ここまでは普通のマンションだ。大丈夫、まだ何も起きない。



足を前に出し、ゆっくりと歩を進める。


1歩 2歩 3歩 4本



エレベーターから出て、外廊下一本のところに出る。


目の前には「903」のプレート。これも普通。

右を向き、奥を見る。何も無い。まだ普通。

左に振り返り、奥を見る。ふつ……いや




嫌な予感のひとつが当たった。


明晰夢で見たとおり、最奥の部屋のドアが開いているのがはっきり見えた。

もちろん最奥とは、「911」号室だ。

あのトラウマにもなった……轟音の部屋だ。



再度深呼吸をする。

今度は目を瞑らない。しっかりと先を見据える。

大丈夫。私は大丈夫。


ゆっくりと、だが確実に足を進めていく。



少し行ったところで横を見る。

プレートには「908」の数字。

初めて見た明晰夢は、ここで途切れた。



さらに進み、「909」号室の前へ行く。

2回目はここ。金曜日の夜だった。



そして3回目の明晰夢。

そこで限界だった、「910」の部屋。

確か……この辺りだったか。1歩踏み出そうとして、ドアが閉まりあの轟音が鳴り響いた。



季節は夏の手前、家を出た時はムワッ気があったはずなのに今は妙に肌寒い。パーカーを羽織ってきて正解だった。

多分、3回目の明晰夢の時あの轟音が鳴った後急に寒くなったから、それを覚えていたんだと思う。と言ってもほぼ無意識のようなものだ。



…………覚悟は決まった。腹も決まった。あの轟音が鳴っても、私は後ろへ引かない。


強い意志を力に変え、その力で私は1歩、前へ踏み出した。






…………何も起こらない。

よし、………なら…大丈夫…だ。


1歩 1歩 1歩


間隔をどんどん狭め、「911」へ向かう。

数歩進み、そして……



「911」号室の、目の前に立った。

明晰夢でも来れなかった場所に、私は来ている。


当然だが明かりは無い。

電気が来ているかは分からないが、期待はしない方がいい。持ってきた懐中電灯を付け、部屋の中に当てる。土足で上がり込むのは気が引けるが、今はそんなこと言ってられない。そのまま玄関を上がり、私は「911」の探索を始めた。











このマンションの全部屋の間取りは一貫して同じだ。

部屋ごとに基調となる色やクローゼットなどの家具類の色やデザインが多少違う程度で、ほかは全部一緒。

私の家は「1110」号室だが、それ以外の部屋をちらっとだが見た事があり、その時確認したから間違いない。


こんな所でも4年間住んでるんだ。どこにどんなスペースがあるかは目を瞑ってもわかる。



経過時間は約30分。

部屋の隅々、クローゼットの中、棚の奥まで私はくまなく探した。




だがそれでも、高正は見つけられなかった。



「……どういうこと?」


部屋数は入ってすぐ左右に2つ。入口は左手前と右奥で別れており、その部屋の隣にはトイレと脱衣所、そこから風呂がある。玄関から廊下真っ直ぐにリビングに行くと右横にカウンター式の台所。リビングの隣には同じ間取りの畳のスペースがある。


家具類は狭いクローゼット程度しかなく、台所や脱衣所の棚に人1人分でも隠れるようなスペースは無い。押し入れはしっかり何度も確認して、隅々まで見た。

でもそれでも、痕跡すらない。こんな事があるのか?


また、何か怪奇現象が起こることを覚悟していたがそれすらもない。全体的に埃が積もっている、ただのマンションの一室だ。

あまり舐めたことは言いたくないが、正直拍子抜けだ。



………逆に困った。これからどうすればいいんだ。絶対ここに高正がいると思って来たけど、高正が見つからない。目的を見失ってしまった。

ここに居ないなら……まさかほんとにどこか1人で散歩にでも行ってるんじゃ?もしそうなら謝罪より先にぶん殴ってやるんだけど。


ため息を吐きながら廊下を見渡し、ふと何気なく床にライトを当てた。



「……あれ?………あ。」



………そっか。なんでこんな事に気付かなかったんだ。こんな簡単なことに。


この「911」には床全体に埃が積もっている。

その床を歩いたら付くんだ、足跡が。


何回も行き来したので見極めるのが大変だったが、見つけた。



私の靴以外の足跡を。

そしてそれは



「高正の………靴だ。」



靴底をはっきり見た事はないが、多分こんな感じの靴を履いていたと思う。サイズも多分一致する。やっぱり高正はここに来てるんだ。見つけられたのが幸運だったか、不運だったか後で考える。それより今は…


「これを……辿っていけば…。」



高正の足跡は玄関から迷うことなく一直線だった。

玄関から入ってすぐ右にある部屋。足跡は、その部屋の壁の少し手前で途切れていた。


壁……この壁の先は隣の「910」号室だ。この先には何も無い。

……やっと見つけたと思った手がかりは壁の先に途切れた。文字通りに。


…………いや、なにか意味があるはず。

ここで…やるか。




私はポケットに入れていたスマホを取り出し、とある番号に電話をかけた。



まさかとは思った。そんな事あるはずないと、心の中でタカをくくっていた。でもそれは静かに、、、いや、はっきりと音を出して私に存在を伝えた。




壁の向こう側から、高正のスマホの着信音が聞こえた。




ー





聞こえる。はっきりと聴覚が掴んでいる。あの私すら聞きなれた着信音、どこで手に入れたのか分からない音源だ。間違いなく高正のスマホが、壁の向こう側にある。



でも……どこに?壁の向こう側にあるのは分かったが、向こう側は「910」号室だ。「911」号室じゃない。

何かあるのは「911」号室で、「910」号室じゃないんだ。その確信がある。あるが故に混乱する。

どうする?「910」号室に行く?でも「911」のように都合よく空いているとは限らない。壊すのはあまり好きじゃないし………



……………


違和感。


スマホが仮に隣室の「910」にあるとして、いくら壁越しとはいえここまで綺麗に聞こえるものか?私は自分の部屋で隣室からスマホの着信音が聞こえたことは1度もない。場所にもよると思うが、そもそもマンションだからそんな壁は薄くないはずだ。


壁に耳を当て、壁にノックしてみる。



そういった知識があるわけじゃない。そんな私でも、音の響き具合で向こう側に空間があるのが分かった。それも割と広めだと思う。


どうやって入れるか。

壁に手を当て、今度は力を込めてみる。

左端から両手で強めに押して流れると、真ん中辺りで手応えを感じた。確固たる手応え。他は「ドンッ」みたいな響く音だったのに対し、そこは「バリッ」と、何かが破れるような音が聞こえた。


懐中電灯を当て、見てみると壁が凹み壁紙が後ろ側に少し破れている。ここの壁部分は壁紙ごと向こう側に押し出せそうだ。


さらに強い力で押すと、バリバリバリと大きな音を立て床から天井にかけて壁が向こう側に倒れ、人1人通れるくらいの横幅が出来上がった。



本当に……向こう側がある。

胸中驚きながらも懐中電灯を前に光を押し出し、その空間へ足を踏み入れる。





その空間はまるで部屋と部屋の隙間にあるような空間だった。

壁は本来ある部屋の壁の裏側なので当然汚く、壁を構成する断熱材とかの素材は丸裸になっている。

天井部分はライトを当てずとも目視でわかるほどやけに黒いし、地面もまるで木製の橋を渡っている気分だ。


部屋全体を照らし、スマホがどこにあるか探すと地面に何かあるのが見えた。あれは…………


近付き、両手で持つ。

これは…


「高正の……バックパックだ。」



中から着信音と、バイブレーションを布越しに感じる。

チャックを開けて中からスマホを取り出す。


「高正のスマホ…………中の物も……多分…全部…変わってない…。」



やっと……見つけた……。

ここに来て高正の所持品を見つけれたのは嬉しいが、私が本当に探しているのはこれじゃない。


高正本人が………ここに居ない。



どうしよう。もう何も手がかりなんて…。


高正のバックパックを背負い、私は立つと再度周囲を懐中電灯で照らし回る。



それにしても……どうしてこんな空間が?

設計ミス?いや、こんな大胆なミスするはずが無い。だってこの広さだと、多分隣の「910」号室を完全に……………





私には霊感がない。霊とか、そういった物は一切見た事がない。

じゃあなんで私は、霊感が無いのに9階に何かがいることがわかるのか。

その理由は考えたことがなかった。考える暇などなかったからだ。

でも今色々と事実が明らかになり、多少だが心が静まり、冷静に考える時間ができた。


たまたまだと思っていた。そういうのを感じるのは、多分。そんな感じだと思っていた。

でも多分、違う。



私の予想が正しければ。



この空間が位置する場所は。




私の








「部屋の……………………真下だ。」




ーーー





多分だ。でも、私の部屋は、この空間の真上だ。この空間は「910」号室の入って左の部屋を完全に侵食していてるほどの広さで、前述の通り私の家は「1110」号室。私の部屋は入って左の部屋にあって、この空間とは上下位置が完全に一致する。

待って……下には10階がある…その下の住人は………違う……下には最初から誰も住んでなかった…。まるでそこだけ避けるみたいに…誰も居ない…。

いや、でも私はこのマンションに来た瞬間に9階に何かいることを察知したんだ。あの部屋に行く前だ。

………いや、さらにそれより前………内見とか……その時に……そうだ。このマンションに来ていた。まさかその時から………私は…狙われていたの?………でも…引っ越したあとあの部屋を私が選ぶかは完全に分からなかったはず…右にも部屋はある………でも………でも……もし…………







誘導されていたとしたら?



無理のある解釈だと思い込みたい。

でもきっとそのくらいなら、出来るんじゃないかと納得してしまう。

いや、多分できる。明晰夢にさえ干渉してくるんだ。「なにか」なら可能だ。


繋がるはずがなかった程遠かった点と点は、どうやら真隣。

…いや、真下に位置していたようだ。



やばい。上を見る勇気がない。

そういえば天井部分だけは詳しく見ていなかった。本能的に私が避けたのかは分からない。でも見ていないことを思い出した。


ゆっくり、ゆっくり、懐中電灯と一緒に、視界を上にあげた。










真っ黒だ。



この空間に入った時、やけに天井が暗いと思った。でもそれは視界的なものだと思っていたが違う。物理的に黒いんだ。


ペンキで塗ったとか、黒い壁紙を貼ったとかそんなんじゃない。まるで黒い物質そのもので作られたような壁だ。

そして天井は低いと思ったがそれも違う。あまりの黒さに高さを読み違えた。9階部分よりさらに高く、多分10階部分ごと突き抜けている。



「そんな………これじゃ……ほんとに…私の部屋…の真下…」



胃の中のもの全て吐き出してしまいそうだ。こんな場所の真上で、私は4年間も生活していたと思うと寒気が止まらない。

そして怪奇現象が9階にのみ留まっている理由も分かった。9階以外でする必要が無いんだ。何故ならここからずっと私を監視できるのだから。


考えれば考えるほど合点がいく。考えたくないが、脳みそが思考を止めない。




目を背けようとした、その時だった。


黒の天井で、何かが動いているのが見えた。

気のせいだと思いたかったが、懐中電灯を当てるとやはり動いている。


目を閉じたいが離せない。

逃げ出したいが動かない。


その空間は、その何かが動く音と私の荒い息で満たされた。



耳も塞ぎたくなるような不快音と共に、それはバリバリと音を立て壁から飛び出た。



明かりで目を凝らし見ると、それが人の上半身だと分かった。でも腰から下は壁に埋め込まれているようで、飛び出た上半身はだらんと重力に逆らうことなく下に伸びている。


とにかくここから逃げ出したい。その気持ちが心と体を満たすのに時間は要らなかった。

足を1歩、後ろに下げた

その時だった。



上の黒い部分から、先程のような不快音が嫌になるほど放出され、それと一緒に黒い人間の上半身が次々と壁から剥き出しになった。


出た数は約50ほどだと思う。

私はそれを、見る他なかった。

逃げなくちゃいけないのはわかってる。でも、体が動かない。



…………次だ。



次に何かあったら、何も考えず走って逃げる。それしかない。



でもその考えは甘かった。この時点で、私は逃げるべきだった。




一斉に。一斉にだ。

黒い人の上半身から、口と思われる部分から、まるで人の死に際の断末魔のような身の毛もよだつ絶叫が、鼓膜を破る勢いで発せられた。







やばい


とっさに耳を塞いだが、それでも聞こえる。

ビリビリと、振動さえ感じる。

頭が………揺れてる?


いや…違う…。この空間が…揺れているんだ。



ダメだ……これ以上は……




耳を塞ぎながら出口に向かうと、後ろで音が聞こえた。

それはまるで、あの私を震え上がらせた轟音に似ていた。



恐る恐る後ろを振り向いた。


そこには、私を凝視して這いずり近づいてくる黒い人の上半身が落ちていた。

そしてその上半身は、それを皮切りに上から次々と地面に落ちてきた。


ー


「はぁ……はぁ…」


何をしているわけでもなく、息が上がる。


まるで1500mを走り終えた後かのように、心臓が踊っている。


早く逃げないとまずい。

心の中にはもはや目的などなく、ただ逃げないとという感情が錯綜している。


恐怖に満たされた体を無理やり奮起させ、私は走り出した。


「はぁっ……はぁ……」


部屋から出た私は左に曲がり、そのままの勢いでドアを開け外廊下に出る。


外は暗闇が支配した空に満たされ、一切の光が消え去っている。粒子でさえ入る余地は無く、ただそこには黒が蔓延する空間があった。

走った勢いのままに体を乗り出して下を見ると、街灯やら家の灯りやらが鈍く淡く光っているのが見えた。いつも見る光景なのだが、なぜか今はどことなく気持ち悪さを増幅させるひとつの要素でしか無かった。



ふと後ろを振り返ると、半開きのドアの向こうに、部屋から出てくるあれが見えた。


あれに捕まったら終わりだ。

やっぱり無理やりにでも拒否すれば良かった。高正を連れて来て一気に狂い始めた。あの時強引にでも…。


心の中で成りもしない後悔を零しながら、私はエレベーターの方へ足を向け、全速で走った。



次の瞬間、私の居る階の部屋のドアが音を立てて一斉に開いた。


あの轟音が一斉に鳴り響いたのも嫌だったが、それと同時に絶望感が恐怖と一緒に心を覆った。

信じたくないが、……まさかこのドアからあれが…全部…



……もう、エレベーターに行くのは不可能だ。

仮に行けたとしてもエレベーターが動かなかったら閉じ込められて終わる。


退路は…もう…………



1つしかない。


私は「911」から少し離れ「910」の前辺りに行き、足を手すりにかけコンクリート製の柵に跨った。


これは出来るだけ、実行したくなかった脱出方法だ。

人は何メートルからなら即死するという明確な情報は無いとどこかで聞いたことがあるが、正直全く信じていない。

でも多分、足から落ちれば。もしくは柔らかいところに落ちれば大丈夫……だと思う。この下の…街路樹の上とか…。

程度と言うと語弊が生まれるが、9階ほどの高さなら……落ち方さえ気を付ければ………



「っ!」



「911」から音が聞こえた。恐らくアレが来る音だ。



迷う時間は無い。


私は覚悟を決め、体重を柵の外側に…



「鮎川」







名前を呼ぶ声が聞こえた。

それも、聞き慣れた。私の好きな声。


状態を真っ直ぐに戻し声の聞こえた方へ向いた。


方向は、向いて後ろ。



つまり、「911」号室の方向。





「911」の前、何をするでもなく。そこに居た。





高正が、そこに立って居た。










「高正!」



自分でも驚くくらいの大声を出して、名前を呼んだ。


でも高正はそんな私を諭すように。



「鮎川」




























「バイバイ」



それは、私も見た事がない。


光って見えるほどの、



満面の笑みだった。


それが文字通り、私が聞いた最後の高正の声。


それを言い終わったと同時に、高正は「911」号室に、アレに引っ張り込まれた。



「高せ…」


元々不安定な足場だった上に、バランスも不定だった。

それは、私が最後に見た高正の最後の姿だった。


気付けば私から、9階が離れていった。



いや、私が離れたんだ。


バランスを崩した私は9階から、、、



静かに、


ゆっくり、


落ちた。




意識はそこで途切れた。

まるで見終わったビデオがブツっと途切れるかのように、私の意識は一瞬で消えてなくなった。

前編後編で終わらせる予定だったのですが、予想以上に後編が盛り上がって参りましたのでこのままエピローグまでお邪魔致します。

特に言うことないです。次のエピローグで最終話です。

最後まで文才の無いこの作品をお楽しみください。

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