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マンションの隙間から  作者: ナチャ
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1/3

前編


「はぁ……はぁ…」


何をしているわけでもなく、息が上がる。


まるで長距離走を走り終えた後かのように、心臓が踊っている。


早く逃げないとまずい。

心の中にはもはや目的などなく、ただ逃げなくてはという思考が錯綜している。


恐怖に満たされた体を無理やり奮起させ、私は走り出した。


「はぁっ……はぁ……」


部屋から出た私は左に曲がり、そのままの勢いで玄関ドアを開け外廊下に出る。


一室から抜け出した先。視界に映った外は暗闇が支配した空に満たされ、一切の光が消え去っている。粒子でさえ入る余地は無く、ただそこには黒が蔓延する空間があった。

走った勢いのままに手すり壁から体を乗り出して下を見ると、街灯や家の灯りなどが鈍く淡く光っているのが見えた。いつも見る光景なのだが、なぜか今はどことなく不快感を増長させるひとつの要素でしか無かった。



後ろを振り返ると、半開きの玄関ドアの向こうに部屋から出てくるアレが見えた。


アレに捕まったら終わりだ。

そう確信しながら、手すり壁に向き直る。


どうしてこんな事になってしまったんだろうか。高生を連れてきてしまったから?それとも私がここに来た時点で、こうなる運命だったのか?


疑問と焦燥感を胸中に零しながら、私はエレベーターの方へ足を向けて全速力で走った。



その瞬間だった。

走り出した瞬間、私の居る階の部屋のドアが轟音を立てて一斉に開いた。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



暗い外廊下。淡くぼやける灯り。無機質な扉。

ここかどこかは、一瞬で分かった。

「あそこ」だ。

そしてここは夢の中。なるほど、これが明晰夢というものか。初めて体験したが不思議な気分だ。万能感に満ち溢れつつどことなく不安感に駆られる。そんな気持ち。


…不安感に駆られるのは明晰夢だからではなく、「あそこ」に居るからか。

現実では目も向けたくないほどの場所なのに、夢の中だからか恐怖心は無い。ただそこには、消えることの無い不安と払拭できない嫌悪感が存在する。

まあ、現実ではどうせ来ないんだ。いっそ探検してみよう。


足を数歩前に進め、乗っていたエレベーターから出る。

直後。無意識に左へ続く外廊下に目を向けると、最奥にある角部屋の玄関ドアが開いているのが遠目に分かった。

あの部屋は……「911」か。

再度言うが恐怖心は無い。

私はゆっくりと、「911」へと進み出した。

その歩みに明確な目的は無く、ただ進むことを目的とした歩みだ。


数mほど進み立ち止まる。

横に並ぶ部屋に視線を向けると、「908」と刻印された号室番号を示すプレートが目に入った。

「908」か。もう少し。





「おい!!!!」


「うわぁ!」


突如耳元で響いた大声に驚き、反射的に声を出してしまった。

あれ?私今…あれ?やばい理解が追いつかない。


「……ぷっ……あっはっはっは!!何だよ!「うわぁ!」って!今どきそんな驚き方するやついんだな!うはははは!」



………あぁ…そっか…もう放課後か…。私、途中で寝ちゃってたんだ…。…やばい…こいつの大声のせいで基本情報の記憶が…。

えーと、私の名前は鮎川 咲耶。今年で17歳の高校二年生。そして前の席でバカみたいに腹を抱えて笑ってる奴は同級生の島崎 高正。ただのバカ。よしよし、記憶が蘇ってきた。……こいついつまで笑ってるんだ。


「そんなに笑わないでよ…大きい音とか苦手なの知ってる癖に。」


「知ってるけど……くっ……ふふふ……。」


本人は我慢してるつもりだろうが、小刻みに体が震えている。何がそこまで面白かったのか理解に苦しむ。性格だけでなく、笑いのツボまで浅いのだろうか。


「……いや、ごめん。ごめんて。そんなに怒んなよ。もう笑わないから!……ふふ…。」


「もういい。高正にはもう勉強教えてやらないから。」


「あーごめんごめん!お願いだから教えてください!来週のテストいよいよヤバいんだよ!」


珍しく自分から「勉強教えて!」と頼み込んできたくせに、人のことバカにした上笑いものにするとか礼儀がなってないな。義務教育からやり直せばいいのに。

教えてる最中に寝落ちしてしまった私も大概だが、それを差し引いても余りある所業だ。



「……分かった。とっとと終わらせるよ。早く帰りたいし。」


「おお!ありがとう!!」


ー



はぁ…。今日は早めに家帰って家事とか済ませた後に勉強漬けの予定だったのに…。てか高校生なんだから勉強ぐらい自分でしようよ。まあ高正に押されて引き受けちゃった私も私だけど!


「えーと……それで?」


「だから、ここは代入して…」


「あーあーあー!!!はいはいはい!」



…前々から分かってはいたけど、ほんとにバカだなぁ…。

これ中3レベルの問題じゃないの?なんで高二になってやってるの?よく1年の時留年しなかったな~っていうかよくこの高校入れたな。マジで裏口入学疑うレベルでバカなんだけど。

もうかれこれ付き合いは2年になるけど、相変わらず慣れないなぁ…そもそも私が人に教えること自体苦手だし、人に教えるのは自分の勉強にもなるとかよく聞くけどいまいちピンと来ないし、高正は引くレベルでバカだし。

1年の頃は何とか自力でやっていたようだが、2年になった途端にこれだ。

ほんと…どうしてこうなった…




カリカリと小気味いい音が鳴る。高正の持つシャーペンがノートの上で踊っている音だ。

そして時折高正の声と、私の声。

外からは部活動をしているであろう生徒の掛け声や、音漏れしてくる吹部の練習音。

廊下からはたまに誰かの足音と、先生の声。


実は割と、こういうのは好きだったりする。

友達は少ないけど学校そのものは嫌いじゃないし、全身全霊で高校生してる…という感じがする。

…それに……それにここの教室には…



ここには、高正と私の2人だけ。

誰も邪魔をしない。誰もここには入れない。

同じクラスで普段も話したりするけど、他のクラスメイトが居るのと2人きりとでは訳が違う。雰囲気というか、もう何もかもが違う。

こいつはどうせバカだから、私の気持ちには気付かないんだろう。でも今みたいなこんな時間が、今の私にはちょうどいい。


……我ながら自分のポエマー気質に寒気が走る。こういうのは中学で卒業したはずなんだけどなぁ……




「あ、そういえばさぁ。「あそこ」の話、考えてくれた?」


それは突如、切り出された話題。

手元のノートに問題式を写しながら、高生はそう言った。


「……その話…もう何回も断ってるよね。」


「ごめん!でもやっぱ気になるんだよ!!」


「………」


…そうだ。こいつはこういう奴だった。はー危ない危ない。また落ちるとこだった。まったく、こいつの無神経な脳みそから生成される言葉には現実への覚醒作用がある事を忘れてた。おかげでめっちゃ冷めた。とっとと終わらせよう。


「ほら早く終わらせるよ。ここやってここ。」


「…へい。」




できるだけ「あそこ」の事は考えたくない。

自分の日常に距離が近い分尚更だ。ただでさえ毎日神経をすり減らしているのに、誰かと行くなんて勘弁だ。

絶対に。「あそこ」には行かない。


ーーーー



時刻は18時34分。

季節も季節だが、今日は少しだけ暗くなるのが早い。春の残り香と冬の残滓が少々。それらがブレンドされ生まれる風と空気は自然に心を穏やかにしてくれる。


そんな雰囲気の中、私と高正は学校からの帰路を歩いていた。



「いやー!今日ほんとありがとな!なんとか来週のテスト乗り切れそうだわ。」


「いいよ別に。絶対ご飯奢ってよ。」


「奢る奢るめっちゃ奢る。テスト終わったらバイト入れまくって好きなもん食わせてやる。」


よっしゃ、回転寿司行って死ぬほど食ってやろ。


「ありがと。ていうかほんとに良いの?送ってもらっても。」


「ぜーんぜんいいよ。こんな時間になるまで付き合わせちゃったの俺だし。」


「それもだけど…門限とか。今もう18時半だよ。」


「いいんだよ俺ん家門限無いようなもんだから。親も帰ってくんの10時とかだし。」


「…そう……ならいいんだけど…。」


確か高生のおうちは両親が共働きだったっけ。本人の言う通り門限は無いに等しいのだろうが、それでも送り程度のことで拘束してしまうのは忍びないな。


「あー土日どうしよっかな。暇だ暇。」


「勉強しなよ……。」


「いや土日まで机に向かいたくないっていうか」


「何それ…ほんとによく今までやってこれたよね。」


「それは俺もほんとにそう思う。」


「自覚あるなら直しなよ。」


「うーん……やっぱ勉強ってクソだわ。」


「今回マジで留年するよ。」


「冗談冗談。ちゃんとやるよ勉強。でも1人は寂しいなぁ〜……。」


「友達とやらないの?」


「皆1人でやる方が集中するんだってさ。俺は誰かとやる方が集中できんのに。ほんっと俺の身にもなって欲しいよな。」


「言ってることめちゃくちゃだよ?」


間。と同時に、魔が差した。


「………じゃあ、誰かと一緒なら勉強するの?」


「うーん、………する!」



…………………これって………チャンス!?

【だったら土日一緒に勉強する?】

…とか言って!?誘えたりできるかな!?いや待ってがっつき過ぎかなぁ。でももう付き合いも2年になるし、正直言って普通の友達以上の距離感じゃないかな…………いやいや待ってそもそも私今回のテスト結構ギリギリなんだよなぁ…。範囲甘く見てたから予想以上に時間かけないと赤点も必死っていうか…私自身一人でやる方が集中できるから、やるなら1人で一気にやるし…今日もだけど正直誰かとやる余裕無いんだよね…オマケに高正と一緒だと絶対教えなくちゃいけなくなるから………うーーん…………ちょっとくらいなら…良いかなぁ別に…うん…少し教える程度なら支障は無いと思うし………まあ…大…丈夫……でしょ。うん大丈夫よし誘おう。



「…あ、あのさ高正。もしよかったら…」


「お、着いたぞ鮎川ん家。」


私の決意とともに出した言葉は、高正と目の前にそびえ立つ建物によって強制的に断ち切られた。


白と藍色を基調とした11階建て。

パッと見は普通の、どこにでもあるマンションだろう。

一部を除いては…。



「…やっぱ行っちゃダメ?」


「その話もうしないよ。ダメだって。」


「……わーったよ。んじゃ、また来週な。」


「うん。じゃあね、バイバイ。」



「バーーイ。」


敬礼のようなポーズで私にそう言い放ち、高生は再び帰り道を歩いて行った。

……はぁ…隙あらば交渉してきて…あいつ全然懲りな………あっ!!!!!


「誘うの…………忘れた…」



………帰るか。


ー



歩を進める。

早く帰りたいが、近付くにつれ足取りは重く。そして遅くなっていく。とても楽しかったさっきまでの時間はいつの間にか無に帰り、代わりに静寂と不安、底知れない嫌悪感と不快感が押し寄せる。

本来家とはあらゆる人類において安息すべき場所のはずだが、私にとっては苦痛でしかない。


……いや。語弊があるな。苦痛なのは家までの道のりであって家そのものではない。




鍵を1階ロビーのセンサーに押し当て、共用廊下への自動ドアが開く。

廊下を少し進み、左手側にあるエレベーターの前に向き直った。

大丈夫。もう慣れたものだ。恐怖心が消えた訳では無いが、冷静にいつも通りやれば平気だ。



少し震えた指でエレベーターのボタンを押す。

ボタンの上部分に映る階数数字が少なくなり、エレベーターが降りてくるのが分かる。

4階にあったのか。ならばすぐ来るな。


数秒待ち、1基のエレベーターが着いた。

開いたドアに反応し、ゆっくりと深呼吸しながら内部へ歩を進める。

11階のボタンを押すと、ドアが閉まりエレベーターが上昇を開始した。


2階…3階…4階…5階…6階


…よし。そろそろだ。


私は目を瞑り、さらに上から手のひらを被せ、何も目に映らないよう確実に視界を断ち切った。


大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。

何百回もやってきた。今日も大丈夫。

見なければ。

私は今日も無事に家に帰れる。





エレベーターが止まった音が聞こえた。

何百回も聞いた音。階ごとに聞き分けができるわけじゃないが、恐らくはエレベーターが11階に着いた音だろう。


目を覆っていた手を降ろし、ゆっくりとまぶたを開いて指の隙間から前を見る。

ドアの横に見える階数表示には11の数字が表示されている。


「……ふう。着いた…。」


長い時間だったが…今日も………無事に家に帰れた。



ーーー




「おかえり〜。学校どうだった?」


「普通。毎回聞かなくていいよ。」


「えーだって気になるし〜。」



リビングから聞こえる姉の声に定型文で返事をし、玄関からすぐ左手にある自室のドアを開ける。


電気を付けて部屋に入り鞄を降ろす。すると、思わず力が抜けて膝からへたりこんでしまった。

…無理もない。こんな事を平日だけでも最低2回は繰り返している。精神的に参っているのも、私自身1番知っている。



私の住んでいるマンションは、パッと見は普通のマンションだ。

でもそれは一部を除いた場合。



このマンションは、9階が封鎖されている。文字通りに。

外から共用廊下などを見ることは可能だが、ただそれだけだ。

侵入はまず不可能。9階へ行ける手段は階段とエレベーターの二通りあるが、階段は9階以上ごと使えないよう工事されているしエレベーターはそもそも9階に止まらないよう設計されている。そんな階に入居者は当然居らず、1階丸ごと無人階となっている。


何故ここまで過剰に9階が封鎖されているのか、結論から言うと理由は分からない。マンションの名前をネットや図書館で調べたりしてみたが、それらしい原因などは一切出てこなかった。

過去に何か悲惨な事件があったのか、マンションが建つ前の土地で何かあったのか、もしくは居住できないほどの重大な欠陥があるのか。私の足りない頭ではこれぐらいしか思いつかないが、理由はこの際なんでもいい。一番の問題はそこじゃない。



問題なのは、9階に「何か」が居ることだ。


実際に「何か」を見た訳では無いが、確実にそこに居ることは分かる。

初めてそう感じたのは13歳の頃。

中2の半ば頃、ここに引っ越してきた時のことだ。エレベーターに乗って11階へ向かう際、通過中に初めて9階を直視した瞬間に察知した。あの感覚は今でも覚えてる、全身の毛穴に針を突き立てられたような総毛立つ感覚だ。

私自身に霊感の類は全く無い。それなのに瞬時に、そこだけ雰囲気が違うのが分かった。異空間、非現実、人が居てはいけない場所だと確信した。


それ以来、9階はまともに見ないようにしている。

遠目はもちろん、エレベーターに乗る時でさえも。さっきのように目を徹底的に塞ぎ、確実に視認しないように。

これを現在まで、4年間。毎日続けている。

さっき言った通り9階以上ごと階段は使用不可な為、11階に住む私は必然的に外出する度エレベーターに乗り、9階を通過しなくてはならない。



この事を家族に相談しようとしたが、姉も父も私と違って9階には何も感じないらしく、封鎖されているのを多少不審がっている程度の認識だ。

誰に相談できるわけもなく、これを何年も続けるのかと最初は不安で仕方がなかった。実際4年経った今では不安が恐怖に昇華し、見事に私を苦しめている。

4年間で1日も、9階を恐怖しなかったことは無かった。


そして………


実はつい最近になって、大きな問題をもう1つ発見した。気付いてしまったのだ。

1つは9階に何かいること。そしてもうひとつは…。


「咲耶ー!ご飯できたよー!!」



姉の声がリビングから聞こえた。

……今日は色々と疲れた。嫌なことは忘れてご飯を食べよう。


ーーー




「そんでさー?そのクソ客がまーたクソでさー。」


「……」


「態度悪いわ脚触ってくるわでクソ客定義の役満なわけよ。」


「………」


「もうマジでキレてね、店長に言ってつまみ出してもらった。女相手だからって何してもいいわけじゃねーんだよって。ウケる。」


「……お姉ちゃん。」


「ん?味薄い?なんか入ってた?」


「ご飯食べてるんだからクソとか言わないでよ。」


「え?ああ、ごめん。」



鮎川 美那。

私の姉で、今年で22歳の社会人。

仕事は夜の水商売、いわゆる「キャバ嬢」だ。仕事風景を見たことがないのでよく知らないが、お店では3本指の成績を誇るらしい。

人当たりの良い天真爛漫な性格で、金髪と笑顔がよく似合う陽キャ人間。性差年齢問わず仲良くなれる能力の持ち主で、友達の少ない私とは真反対の人種だ。


「ていうか…ご飯なら私が作るって言ったのに。お姉ちゃんこれから仕事でしょ。」


「いーのいーの。仕事前はなんかやって体温めときたいのよ私。」


「でも…」


「いいって。私は夜キャバ嬢。咲耶は昼JKやってりゃいいの。夜は私の専門だから子供は黙ってご飯食べてな。」


「……ありがとう。」


「お礼言ってくれんならそれで十分よ。」


私は母を知らない。私の幼少期、物心すら無かった時に家を出ていったからだ。普通子供というのは母親が居ないと中々に大変なのだが、それでも特にトラブル無くやってこれたのは姉がいたからだった。5歳も離れた私をまるで本当の子のように接してくれた。

私にとって姉は、姉であり母なのだ。

自分の事を我慢して、私の学費のために昼夜問わず働いて…姉とお父さんには、本当に感謝してもしきれない。



「いつもありがとう。でも、ほんとに無理はしないでね。」


「はーい。てかそれさ、どう?美味しい?」


「美味しいよ。でもちょっと味薄いかな。」


「あーやっぱり!?あたしも薄いかなー?って思ってたんだよね。次からもうちょい色々試すか…。」


「楽しみにしてるね。…そういえば夜ご飯、お父さんの分無いみたいだけど今日は帰り遅いの?」


「あ、そうなのそうなの。夕方くらいにお父さんから連絡あってさ、今日は仕事終わりに同窓会あるからご飯いらないよ~だって。帰るのも明日の夜みたいだし、洗濯とかやっちゃっていいよ。」


「分かった。…それでは、ご馳走様でした。」


「ほいほ~い。んじゃ咲耶も食べ終わったし、私も仕事行くか~。あ、ごめん今日洗い物お願いしていい?」


「全然いいよむしろ任せて。あ、ゴミも私捨てとくよ。」


「ほんとに?ありがとー!んじゃ行ってきまーす!」


「行ってらっしゃい。気を付けてね。」



姉が玄関に向かい、少ししてからドアの開閉音が聞こえた。

その後鍵を閉める音が響き、そしてまた、静寂が訪れた。




「…お風呂入ろ。」


ーー




ふー…さっぱりした。

やっぱりお風呂は至高の時間だ。1日の疲れがお湯と共に抜けてゆく感覚が心地良い。天国と言っても差し支えないだろう。

さて、この後はやることがどん詰まりだ。洗濯機回して洗い物してそれから勉強……あ、そうだ。ゴミ捨てないと。億劫なことは早く済ませちゃおう。


カウンター台にある皿から家の鍵を取り、部屋着の右ポケットに入れる。

うちのマンションのゴミ捨て場のドアは閉まると同時に鍵も閉まるため、万が一閉まった時に鍵を持ってないとロビーから回って他の入居者が入った後ろを通るしか帰る方法がなくなるのだ。

私はパンパンになったゴミ袋と缶、ペットボトルが入ったビニール袋を持ち、サンダルを履いて玄関を出た。



外に出ると高層階特有の冷たい風が全身に吹き付けられた。風呂上がりの鋭敏な肌感覚を撫でるように刺激され、思わず恍惚とした一息をついてしまう。

季節は夏の少し手前と言ったところか。この涼しさと多少の暑さが混在している具合の気温が一番ちょうどいい気がする。



エレベーターの方へ向かいつつ、ふと考える。

高生は今頃何をやっているだろうか。

流石に勉強してる…と信じたいけど、高生だからなぁ……

……というか、まさかテスト直前になってもあの話をしてくるとは思わなかったな…


1ヶ月ほど前だったか。

下校中、高生が急に私の住むマンションについて聞いてきたのが始まりだった。内容は「何で9階だけ封鎖されてるのか」とか「9階以外の階には何もないのか」とか「他の住民はどうしてるんだ」とか、答えられるなら答えてやりたい質問ばかりでウンザリしたのをよく覚えてる。

挙句の果てに「直接見に行きてぇ」などと言い出した高生を全力で防ぎその場は終了したが、どうにも諦めがつかなかったようだ。それから3週間ほど催促期間に入り、若干高生を嫌いになりかけた所で現在に至る。

そしてここ数日間はテストが近い為話題に挙がる事もなく、やっと忘れたかと油断していた矢先に今日の勉強会でのあれだ。


1年の頃は何とかひた隠しにやっていたが、流石に2年の付き合いにもなると隠しきることは難しい。高生も信憑性の薄い噂を聞いたり私を家まで送り寄る度に興味が募っていったようだし。

それにしても、一体何を原料にあんな行動力が生まれるのだろうか。単純な好奇的熱意だとしても、あのバカに関しては完全に矛先を間違えてるとしか言いようがない。

大体聞いてきた質問の答えなんか私が知りたいくらいだし、9階のことはともかく他の住民がどうしてるかなんて私が知ってるわけなくない?そもそも下階と比べて11階は入居者自体が少ないし、10階に関してはエレベーター前の部屋以外に入居者が居ないほどの閑散ぶりだ。

…まあ確かに、他の住民で私のように9階に何かを感じる人はいるのか…なんて気になった事はあったが、そんな事を聞いて回って変人扱いされたら困るし変な心配事とか増やしたくないしていうか…                                       


ぶつぶつと独り言を脳内でぼやきながら歩いていると、いつの間にかエレベーター前に到着してしまっていた。


心臓の鼓動が徐々に、音と速度を上げていく。

風呂上がりだと言うのに、嫌な汗が首筋を伝う。

ここに立つとどんな状況下でさえ恐怖心を駆り立てられる。そしてその恐怖心は私の心を蝕み、ムカデのように全身を這いずり回る。



……いつまでもここで突っ立っているわけにはいかない。

私は一呼吸の間を置き、エレベーターの降下ボタンを押した。



ー



着いたエレベーターに乗り、1階のボタンを押す。

ドアが閉まるのを確認するとゴミ袋を降ろし、目を瞑ってその上から手のひらを被せた。



エレベーターの無機質な降下音と、始動時に感じる三半規管が浮くような感覚だけが、今の私に知覚できる数少ない情報。

それを傍らに実感しながら、頭の中を空っぽにする。無駄な情報や雑念で計測を乱さない為だ。

私は今、エレベーターの全階通過時間を計っている。

方法は体内時計という極めて安定性に欠けるものだが、この状況下ではこれが唯一の手段なのだ。


「……………」



体内時計は秒針を刻み続ける。それなのにここだけ、まるで時が止まっているかのような感じがする。この空間だけ切り取られたような、そんな感覚が。…長いな。


そう思ったのも束の間、エレベーターが止まる音が内部に響いた。次にドアが開く音が聞こえ、ゆっくりと目を覆っていた手を下げる。

指の間から恐る恐る覗くと、1階と表示されている階数表示が視界に映った。


私は2つのゴミ袋を両手で拾い上げ、ゴミ捨て場へと歩を進めた。



……参ったな。また伸びている。




つい最近発覚したもう1つの…私にとっての問題…それは。


「エレベーターに乗っている時の体感時間が伸びている事。」



違和感を覚えたのは1週間前。

学校からの帰りでエレベーターに乗っていると、ほんの少しだけエレベーターの動いている時間が長く感じた。

最初は気のせいだと思っていたが、次の日になっても違和感は消えず。念の為体内時計で通過時間を測ってみると、誤差はあれど約40秒程度に収まった。


このマンションのエレベーターが一つの階層を通過する時間は約3秒。全11階だから1階から11階までかかる時間は単純計算で約33秒。つまり33秒で、最上階から最下階まで行ける筈なんだ。


でも…さっき乗った時に体内時計で計測した通過時間は



正しければ、約1分34秒だった。


ー





ゴミを捨て家に戻り、一通りの家事を終えた後。

自室のベッドの上に寝転がりながら、現実逃避のように天井を見つめる。



とうとう1分以上も長く感じるようになった。


この1週間、ペースは一定だった筈だ。

今日だって朝乗った時は50秒程度だった。それが今日の帰りとさっきので計2回、1度だけで20秒以上伸びている。そしてゴミ捨て場から戻った時の通過時間は約1分58秒。このペースで行けば1ヶ月後には……想像もしたくない。


どうにかしてこれを止める方法は無いかとこの数日間で模索したが、残念ながら何も思いつかなかった。そもそも体感時間なんて所詮自分の感覚でしかないし、私の頭がおかしくなったと言われてしまえばそれまでだ。

仮に何かしらの外的要因が働いていたとしても、それを証明する術など存在しない。異変はもう私の真横まで、確固たる形をもって現れているというのに…。



……いや、嘘をついた。恐らくだが止める方法はある。予測の域を出ないが、現時点では最も現実的かつシンプルな方法だ。

【エレベーターで9階を通過する瞬間のみ視界を遮る】

恐らくこの行為を止めれば、体感時間は元に戻るだろう。目を背けず、変移する全てを直視する。視覚をフルに活用すれば、体感時間の延長など起こるわけがないのだ。


でもダメだ。

それだけは絶対にしてはならない。と、思う。明確な理由は説明できない。ただ私の直感と本能がそう訴えている。次、また9階を直視したら絶対に何かが起きる。想像に難く、筆舌に尽くしがたい何かが。



……まるで9階に居る「なにか」に、目を開けてこちらを見ろと、こちらに来いと。遠回しに言われているようだ。



もし…もしもこれ以上の何かが起きれば、私はきっと耐えられない。耐えられるものではない。

今まででさえギリギリだったんだ。外出するたびに目を塞ぎ、得体のしれない「何か」にただ怯え、消えることのない歪な恐怖を飲み込んできた。



いっそのこと、誰かに話してしまおうか。

そう考えたことは何度もあった。実際喉から出掛かった事もあるだろう。

でも出来ない。もし拒絶され、忌避の目でも向けられようものなら私は終わりだ。


引っ越してから4年間。誰にも相談できず、誰に助けられることもなく、私は1人で恐怖と戦ってきた。

矛盾しているように聞こえるが、この4年間を1人で耐える事ができたのは「私が1人だったから」なのだ。



私だけの家でこんな事を考えているからだろうか。

いつの間にか出てきた一筋の涙が、重力に従って顔を伝った。

それが堰を崩したのか、私はそれから十数分泣き続けた。息を荒げ鼻をすすり、声にならない声を静かにあげて涙を流し続けた。


私は4年間、ずっと1人で恐怖と戦ってきた。

だがそれはもう、限界に達しているのかもしれない。

一滴の雫でさえも許容できないほどの、崖の淵に立っているのかもしれない。



ーーーー




ぼやけて光る照明。淀んだ空気。居るだけで吐きそうな嫌悪感に苛まれる。胃袋をひっくり返されるような感覚。腹の底、心の底からの拒絶心が胸中を占める。

まただ。「あそこ」だ。

夢に出る回数はもう数え切れない程だが…ここまで明確に、そして明晰夢として現れるのは今日の勉強会と今を含めわずか2回だ。

最近始まった体感時間の急激な増加に加え、こんな事が連続して起こるなんて…やっぱりおかしい。

何かが変わったんだ。この4年間変わらなかった何かが……でも一体…何が?


疑問を頭の中で走らせながらエレベーターを降り、またも無意識に左へ続く外廊下を見る。


奥の角部屋、「911」のドアが開いているのが分かった。

ここまで同じ…。これはもしや、前回見た夢の続きなのだろうか?いや、もしそうなら前回の夢の途切れた場所から始まる筈。2回とも私はエレベーターに乗った状態でこの夢を見ているので、少なくとも続きでは無いのだろう。



……やはり恐怖心はない。不安感と不快感、嫌悪感が取り巻く。

私は前回のように再度、「911」に向けて進み始めた。

歩調は変わらず、一定のペースで歩き続ける。


十数mほど進んだタイミングで、再び横に並ぶ部屋へ視線を向ける。そこには「909」と刻印されたプレートが壁に接着されていた。

前回より一部屋分先へ進んでいる。

このまま向こうに行けるのか疑問符を浮かべつつ、私は1歩を踏み出した。





ベッドに入り眠ったのが数秒前に感じ、カーテンの隙間から顔を出す光が目を無理やりこじ開けたなら、それは眠りから目が覚めた証拠だ。

目覚ましでもなく、何かしらの違和感でもなく。自然と意識が覚醒した。

壁掛け時計を見ると、短針と長針は10時16分を指している。

昨日は確か…3時くらいまで勉強してたから…睡眠時間は7時間と少しか。


それなのに、まるで10時間以上眠っていたかのように意識はハッキリと覚醒している。瞼を重くさせるような眠気は一切無く、あくびでさえも出てこない。

そして何より、さっきまで見ていた夢を覚えている。照明の輝度から隅々まで、嫌になるくらい鮮明に。


「こんな夢…明晰夢を2日連続で見るなんて…。しかも…」


徐々に先へ進んでいる。1回目は「908」で起こされ、2回目は「909」で目覚めた。

このままのペースだと、あと2回で「911」に辿り着く。


……考えたくない。夢の続きなんて、「911」に何があるのかなんて知りたくもない。思い出すだけで吐きそうだ。

夢の中じゃ恐怖心なんて一切無かったのに、目覚めた途端それが津波のように押し寄せてくる。明確に残る夢の記憶と、その夢の中の不快感を連れて。


最近は……何かがおかしい。

この明晰夢も、体感時間の事も、どちらもこの4年間で一度も起きなかった事だ。それらが何故か、今になって頻発し始めている。

………理由なんて…何も分からない。分からないけど……

…嫌な予感しかしない。



…やめよう。こんな事を想像するのは。片隅にも止めないようにしよう。テスト前とはいえ折角の休日なんだ。せめて現実くらいは、出来る限り楽しい事だけを考えよう。


このままずっとベッドに居ると気分が悪くなりそうだ。

体にかかっていた寝具を引っぺがし、私はベッドと自室を後にした。






リビングに行くと、ソファで姉がクッションに抱きついてぐっすりと眠っていた。平日末の仕事帰りはいつもこうだ。顔を真っ赤に染めて帰宅し、起床後は二日酔いでトイレに篭もる。1時間くらい篭られるのはちょっとアレだけど、仕事で疲れてるから文句は言わない。いつも仕事お疲れ様。



さて、これからどうしようか。今日は図書館に行くつもりだったが、家を出る予定の時間まで少々余裕がある。

滞りなく準備を終えても30分ほど余るな……あ、そうだ。



ー




「ふ……ぅああぁぁああ〜〜〜………おはょ…」


目を細めてあくびをかき、空気の抜けた声を出しながら姉が起きてきた。


「おはよー。仕事お疲れ様。」


「んー…。…お、チャーハンじゃーん。」


「うん。私特製不健康チャーハン。」


「おーすごい。名前はともかく非常に食欲をそそられる。」


姉はそう言いながらコップに入れた水を飲み干し、リビングテーブルに座ってテレビを点けた。

そんな姉の元へ私特製不健康チャーハンが盛られた皿を、スプーンを添えて持っていく。


「これお昼ご飯ね。全部食べちゃっていいよ。」


「わ~ありがとー。てか咲耶どっか行くの?」


「うん、図書館。テスト前だから勉強してくる。」


外したエプロンを冷蔵庫横のフックにかけながら、姉に返事をする。チラッと顔を見たが、まだまだ眠気に侵食されている様子だ。


「そっか~。行ってらっしゃい。気を付けてね~。」


「うん、行ってきまーす。」


椅子の上に置いていたリュックを背負い、返事をしながら玄関へ向かう。

靴を履いて振り返ると、リビングから姉が顔を覗かせて手を振っているのが見えた。

ドアノブに手をかけながら振り返し、私は玄関の扉を開けた。


ーー




筆記体の英文が印字された包装紙を開き、中に入っていたハンバーガーにかじりつく。

数度咀嚼し、空けた片手でフライドポテトを数本つまみ口に放り込む。程よい塩味を感じつつ炭酸飲料で喉を潤し、最強のサイクルを完成に導く。

いやー、久々に来たけどやっぱり最高。ファストフードから享受される多幸感は、健康と引き換えにしてでも得る価値があると言えるだろう。



時刻は13時37分。場所は最寄り駅前に佇むファストフード店店内カウンター席。図書館で2時間ほど勉強した後、現在に至る。

普段は復習程度なら家で済ませてしまうのだが、テスト前となると話は別だ。家では私物に囲まれてるからか長時間の集中が難しく、また9階などに対して雑念が生まれ勉強どころではなくなる。


よって、テスト前に限り私は図書館等の最適な環境で勉学に励むのだ。

体感時間の事もあり過度な外出は正直言って避けたいのだが、それでも多少のストレスは覚悟の上だ。赤点なんてもちろん取れないし、昨日は泣いちゃったのが尾を引いて勉強に身が入らなかったし。あと集中できる環境下じゃないと勉強の効率が60%下がるってどっかの海外の偉い学者さんが言ってた気がするし。



そんな思考をよそに、順調なペースでポテトが口に運ばれていく。

実は最近体重が少し気になっているのだが、テスト前だし英気を養う的な意味合いで食べていいよね。うんテストは少しでも万全な状態で臨みたいし、ダイエットなら全部終わった後に…


「あれ!?鮎川じゃん!?」


突然聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、思わず後方を振り返る。


ハンバーガーセットが乗せられたプレートを両手で持ち、赤色を基調に黒のラインが入った目立つスクエアリュックを背負う、嬉しそうな顔で私を見つめる1人の男。

島崎 高正。生粋のバカがそこに居た。


「何やってんだよこんなとこで。」


こっちのセリフなんだけど…


「こっちのセリフなんだけど…」


初めて本音と建前が一致した気がした。


「俺?俺は腹減ったから昼食おうと。てか隣座っていい?いいよねありがとうグッドモーニング。」


「ちょ、待って荷物が…」


隣の席に置いていたリュックを足元にどかした瞬間、高正は神速の勢いで私が座るカウンター席の隣に着座した。

相変わらずの有無を言わせない速度と態度に瞠目する。2年もの付き合いで私は慣れてしまったが、他の人にもこいつは同じようなことをやっているのだろうか?


「んで鮎川何やってたの?」


「勉強してたよ…図書館で。」


「へー真面目だねぇ。」


「至って普通だよ。…で、高正は何してたの?」


「家居てもやる事ないから本屋で立ち読みしてた。」


「月曜テストなの知ってる?」


「当ったり前だろ。」


「勉強は?」


私がそう聞くと、洋画でお馴染みの肩をすくめる動作を向けてきた。表情も「やってませんけど?」とでも言いたげな様子だ、無性に腹が立つ。


「やってないのね。」


「Exactly!」


「はぁ…マジで留年しても知らないからね。」


私がそう言うと高正はハンバーガーを食べかけていた手を止め、暗い面持ちで押し黙った。直前までの余裕ある態度はどこへやら、視線も下へ俯いて哀愁さえ感じさせる。流石に留年は堪えるようだ、珍しくシリアス調の顔になっている。

そんな様子を横目にポテトをかじっていると、何かを決意したかのような表情で私をじっと見つめる高生と目が合った。

何となく嫌な予感がして目を逸らしたが、間に合わなかった事を合図するかのように高生がゆっくりと話しはじめる。


「…鮎川さん…。午後って勉強しますか?」


「午後?うん…図書館でするけど……何?」


「あの…ほんっとにマジで邪魔しないんで…………一緒に勉強してくれませんか?」


「……はぁ?」


「いや!ほんとに!お願いします!俺マジで一人で勉強出来ないんです!誰かと一緒じゃないと無理なんです!」


嫌な予感、的中だ。

いつもなら表面上だけ渋りつつ二つ返事でOKするところだが、今回ばかりは判断に迷う。

理由は2つ。1つは「昨夜泣き通した影響でその後の勉強が身に入らなかった事」、そしてもう1つは「テストの出題範囲を見誤っていた事」だ。


とにかく後者に気付いた時は本当に焦った。先生から渡されたプリントを見直していると疑問符が浮かぶ部分が幾つかあり、それを復習予定だった範囲と照らし合わせると面白いくらいにズレていたのだ。あの瞬間の血の気が引く感覚は出来るだけ思い出したくない。

そしてそれにたじろいでいる隙に前者からのカウンターが入り、最終的に昨日までに終わらせる予定だった範囲の半分以下に留まってノックアウトだ。


そりゃ昨日は誘っちゃおうかなとか余裕こいてたけど、今は今で普通にピンチっていうか…高正と一緒に休日を過ごせるのはホント嬉しいし本望なんだけど……一緒だと多分意識がそっちに行って勉強に集中できないし…本来だったら断る理由なんて無い…無いんだけど…


「ん〜…ごめん、さすがに一人でやりたいかな……。申し訳ないんだけど、今回のテストは私も結構ピンチでさ…。それに昨日あんまり集中できなかったから今日でその分取り返したいし…。」


「あ、大丈夫っす。俺ホント川のせせらぎのように慎ましく机に向かうんで。もうマジ無機物だと思ってくれて構わないんで。」


「いやそういう問題じゃないし…言い回しから既に慎ましくないし……」



「…ていうか、一緒に勉強したら絶対高生に教えなきゃいけなくなるじゃん。正直そんな余裕ないよ。」


「いえ教えなくていいんで…マジで隣で一緒に勉強してくれるだけでいいんで。まああわよくば分からないとこあったら教えて欲しいなーみたいな感じで」


「教えろって事じゃん絶対イヤ!これ以上あんたの面倒なんか見切れないよ!」


「いやマジで!お願いします!」


「ヤダ!」


「お願いします!」


「無理!」


「お願いします!」


「あんたそれ言う度に頭の位置下げてってるけどそれ何の意思表明!?」


「俺が行動で表せる最大限の誠意です。」


「見せる所と見せ方間違えてるよ……。」


マズイ。非常にマズイ。

高正はこうなったら絶対に折れない。普段は発泡スチロールくらい口と頭が軽い癖に、こういう時は頑なに折れない。更には悪気無く周囲の目を気にせずにこういう事をしてくるから尚タチが悪い。


断るべきなのだ。そうすべきなのに…

心の中でため息がこぼれる。


…私って、案外チョロい性格してるのかな……



「もう…分かったよ…。でも勉強は絶対教えないからね。」


「マジ!?ありがと〜!!」


「ちょ、やめてマジでスキンシップが激しい!」



ーーーーー




「今日マジでありがとな鮎川。お陰でめちゃくちゃ集中できたわ。」


「いいよお礼なんて。隣で勉強してただけだし。」


他愛のない会話を続けながら、高生と帰路を歩く。

時刻は18時42分。空には薄く夕暮れの光が浮かんでいる。


お昼を済ませた後に約5時間ほど、私は図書館で高生と共に勉強の波に乗った。

当初はどんな地獄になるだろうと身構えていた勉強会は、肩透かしを食らうほどすんなりと終了を迎えた。

意外なことに、5時間もの間高生は黙々と1人で机に向かって勉強していたのだ。勿論何度か沈黙を破り私に質問してくることもあったが、それも1時間に2回程度のペースで正直ストレスだったとは言い難い。


誰かと一緒なら勉強できるという旨の発言は狂言ではなかったようだ。

まあ…この5時間の集中を1人でも発揮できるようになってくれればそれが一番なんだけど。


「この後どうする?良かったらご飯行かね?時間もちょうどいいし。」


「……あ~…行きたいけど…今日は帰る。家でも勉強したいし…。」


「マジかよ。今なら特別キャンペーンで奢っちゃうぜ。」


予想外の角度から来る誘惑に心が揺れる。

…だ、ダメだダメだ。行けない。テスト前だし、何より今日は勉強の調子がすこぶる快調だった。出来ればこの勢いを崩すことなく週明けに持っていきたい。ノイズなどでは断じてないが、テストが終わるまでは可能な限り思考内容を一極化しておきたいのだ。


あまりにも機を読まない誘いに歯がゆさを覚えてしまう。

正直言って行きたい。高生と一緒にご飯食べたい。別に奢ってもらわなくてもいいから行きたい。何で今なんだ…こういうイベントはせめて全部が終わった後に…


「ごめん、それだったらまた今度に」


「お~い、咲耶~。」


改めて断ろうとしたその時、突如誰かに名前を呼ばれた。

声の方へ視線を向けると、左手側にそびえるスーパーから女性が1人近づいてくるのが見えた。ラフな服装で1本にまとめた金髪を左肩に垂らし、両手に買い物袋を持つその人は…


「お姉ちゃん!」


鮎川 美那、その人だ。


「よっす~お姉ちゃんだよ。今帰り?」


「うん。お姉ちゃんは買い物?」


「そだよ~。今日明日休みだからお酒とつまみとお菓子いっぱい買っちゃった。」


満面の笑みでそう言って、姉は買い物袋を持ち直した。

片方の袋からはお菓子やつまみのパッケージがはみ出ており、更には下から缶同士が軽く接触する音も聞こえた。きっとあのお菓子の下に缶ビールが十数本は格納されていることだろう。

仕事で浴びるほど酒を飲み、休日にもオアシスの如く酒を飲む。当方は未成年なので分かりかねるが、お酒ってそんなに美味しいのだろうか。


そんな事を考えながらふと反射的にもう片方の買い物袋に目を向けると、妙に赤く生々しい物が頭を出しているのがいやに目を引いた。

…?なんだろアレ……初めて見るものではないような…


「お姉ちゃん…その赤いのって……なに?」


「ん?これタコ。安かったから。」


「タコ……たこ焼きでもするの?」


「お、当ったり~。確か家にさぁ、1回しか使ってないたこ焼き機が………おっと、そっちは?」


突然たこ焼き機への言及を中断したかと思うと、姉は覗き込むような姿勢で私にそう質問した。視線は私の隣に向いており、どうやら高生の存在に気付いたようだ。

…そういえば、お姉ちゃんは高生と数度顔を合わせたくらいで面識が無かった筈だ。それも高生が私を送ってくれている最中に遭遇した程度だから覚えてすらいないだろうし…まあ、改めて紹介は必要か。


「っあ、そうだお姉ちゃん。覚えてないかもだけど何回か会ったことある」


「おっ!?誰かと思ったら高正じゃ~ん!おひさじゃ〜ん!!」


「あ、美那さんちっす!おひさっす!!元気してました?」


「当たり前じゃんこちとら社会人だよ?めちゃ元気だし今日も酒飲んでタバコすぱってタコパしちゃうし???」


「ハハハ、よく分かんないけど元気そうで何よりっす!!」


「一笑に付した!?高生アンタ会う度スルースキルに磨きがかかってない!?」


………あれ?



「ふ、2人は…いつの間にそんなに仲が…」


「え?ああ、割と数回会ってる内にね美那さん。」


「うんうん。こういう買い物帰りとか仕事帰りの朝にたまに会うんだけどさ~、そういう時に話してるうちに仲良くなっちゃった。」


「へ、へえ………」



浅慮にも至らず思考が停止した。

私が2年かけて構築してきた高正との関係性を、姉は数度の機会だけで悠々と飛び越してきた。

そしてそんな姉にどういう感情を抱けばいいか分からず放心状態で立ち尽くしていた私は、「この後ウチでタコパするけど来る?」という姉の誘いを快諾する高生を、ただただ傍観する他なかった。


ーーー




「でっすよ?でっすよ?そこでマイケルなんて言ったと思います?」


「えーなんだろ?咲耶分かる?」


「わ…分かんない…。」


「だよね難しくない?教えて高生!!」


「お前はハンバーガーかって。」


「だっはっはっはっは!!!待ってなにそれどういう意味?」


「俺も分かんないっす。」


「がはははは面白すぎ!マイケル連れてきて!マイケルの解説聞きたい!!」


「…………」




…う………うるさい……夜9時のテンションじゃない…


鮎川宅のリビングに、姉の笑い声が響き渡る。

恐らく友達との間で起きたエピソードを話す高正と、酒缶片手にゲラゲラ笑いながらテーブルを叩きまくる姉と、その隣で黙々とお菓子をつまむ私。

大体1時間くらい前からずっとこの調子。よくもまあ続くものだ。

皿の上に食べ物は残っておらず、もうほぼ高正の面白エピソードを聞くだけの座談会となっている今日この頃。私も笑いたいが姉のゲラ加減に笑う気とタイミングを失う。

……特にやることもないし洗い物するか。


椅子から立ち、空となった皿を何枚か積む。冷め切ったたこ焼き機のプレートを外し、積んだ皿と共にそれらを台所まで持っていく。

シンクに皿を置き、レバーハンドルを上げて水を出す。洗剤の染みたスポンジを手に持ち、私は洗い物を開始した。



「えってかさてかさ〜聞いていい?」


「お、何でもどうぞ。」


「高正のさ〜そのリュックに付いてるストラップってなに?なんかのアニメのキャラ?」


我が家のシステムキッチンはシンクの向かい側がカウンター台になっている為、リビングに人がいれば洗い物をしていてもその姿を視認できる。そして耳をすませば、会話の内容もある程度聞くことができるのだ。

どうやら席を立ったあとすぐ話題が変わったようで、姉がテーブルにうつ伏せになりながら高生に質問している。


「これすか?これはロイコクロリディウムっす。」


「ロイ……なに?」


「ロイコクロリディウム。寄生虫っすね。」


「寄生虫〜〜??何に寄生すんの?人じゃないよね?」


「カタツムリっすね。ほら、こんな感じで触覚に寄生するんすよ。」


「えっどれ?…うえっ!気持ち悪!うわ動いてる!キモ!」


洗い物をしつつリビングに目をやると、高正がスマホで姉に何かの動画を見せているのが分かった。まあ多分ロイコクロリディウムの生態を紹介する動画だろう。かく言う私も、高生にはその手の動画を何度も見せつけられことがある。何かを好きなのは良い事だと思うが、あの熱意には若干引いた。


「すごいっすよね〜。こうやってカタツムリ操って目立つように動きまくって鳥に食べてもらうんすよ。んでその鳥の中で卵産んでその卵が鳥の糞と一緒に…」


「あーームリムリ聞きたくない。もう分かったからあんたのそのロイコなんたら愛は。そんなストラップ付けてるくらいだからよっぽど好きなんだね。」


「あ、いや別に好きじゃないっす。」



その言葉を聞いた瞬間、洗い物をしていた手が止まった。

聞き間違いを期待したが、その期待を打ち砕くかのようにリビングから会話が綴られていく。


「…え、じゃなんで付けてんの。」


「あーいや…なんていうか………実は3年くらい前に母方のおばあちゃんが亡くなって…これはそのおばあちゃんから貰った物なんすよね。」


「……そうなんだ。じゃ、大事にしなきゃね。」


「はい!」



…そう…だったんだ…亡くなったおばあちゃんの……

でも…そんな話、私は1回も…聞いたことない。何となく大事なものだということは知っていたけど…

それに、私が以前あのストラップについて聞いた時…高生は「好きだから付けてる。」って……

そう……言ってた筈…だって、私にはあんなに…


……お姉ちゃんには言って、私には言わない?


一筋の予感が、脳裏をよぎる。


お姉ちゃんと話してる時…高正すごい楽しそうだったな…

普段私にしないような話ばかりしてたし…

お姉ちゃんが笑ったら…高正も笑ってた…

高正…お姉ちゃんと居ると、ずっと楽しそうだった…私と居るより…ずっと…


少しずつ、心臓の鼓動が早くなっていく。

楽しそうに喋る2人を見て、腐臭が漂うような感情が心に染みていく。

さっきまで聞こえていた筈の姉と高生の声が何故か聞こえない。代わりに吐水口から流れる水道水の音が、雨水のように聴覚を満たしていく。

まるで心の奥底が、これ以上の思考を拒んでいるかのように。


高生は  私に嘘をついていた

高生は  お姉ちゃんには本当を打ち明ける


それは つまり  高生が お姉ちゃんを



「鮎川?」


真横から急に名前を呼ばれ、体が一瞬強張る。

条件反射で視線を向けると、知らぬ間に隣に立っていた高生がきょとんとした顔で私を見つめているのが分かった。


「え?…なに?どうかした?」


「いや、何かボーっとしてたから。大丈夫?」


「…大…丈夫……だけど。」


そう言いながら、私は無意識に目を逸らして手元を凝視した。

何か、言葉に表しづらい嫌な感じだ。高生の顔を見ることができない。これ以上目を合わせていると、自分の中の醜い感情が顔を出してしまいそうになる。


「そっか。あ、洗いもん手伝うぜ。」


「…いいよ。それより、もう時間も遅いから早く帰りなよ。」


「え、いやそりゃそろそろお暇するけどよ。お邪魔させてもらったんだから何か手伝うって。」


「平気だって。いいよそんな気使わなくても。」


「そだよーーー。気持ちだけ受け取っとくから早く帰んなーー。」


リビングからの姉の援護射撃も入り、それを聞いた高生は歯に何かが詰まったかのような表情で渋々帰り支度を開始した。

高生を玄関まで見送る為、洗い物を中断して水道の水を止める。


「咲耶。」


濡れた手をタオルで拭いていると姉から名前を呼ばれ、リビングへと視線を移す。

すると、いつの間にか目の前のカウンター台に移動していた姉とノータイムで目が合った。

刹那、先ほどの予感が脳内を走る。

そして返事をするよりも早く、無意識に目を逸らしてしまった。


ダメだ。


……ダメだ。態度に出すな。高生はともかく、姉は隠し事などに非常に鋭い。何から何まで気付いて指摘してくるわけではないが、こういう不自然な挙動なんかは特にマズイ。

それに…それにだ。私がさっき考えた予感は…所詮憶測に過ぎないんだ。誰から聞いたわけでもない、ただの妄想とも言える程度の代物だ。

だから……目を…合わせなきゃ…早く…


「洗い物やっとくからさ、下まで少し高生送っていきなよ。」



思わず、顔を上げて姉の方を見る。

目が合った姉は小声で私にそう告げた後、手に持っている酒缶を飲み干した。


「…いいの?」


「良いよん。でも夜遅いから、見送ったらすぐ帰ってきなね。」


アルコールで赤くなった笑顔を浮かべながら、姉は私の返事にそう答えた。



…そうだ。別に2人が仲良く喋ってたってだけで、そうと決まったわけじゃない。さっきも言ったように、予測の域を出ないんだ。お姉ちゃんの類まれなるコミュ力が、いつものように発揮されただけじゃないか。

…!そうだよ、考えすぎだ。最近は色々な出来事が矢継ぎ早に起きてたから、思考が過剰になりすぎてるんだ。…こんな被害妄想で子供じみた感情を吐き出そうとするなんて…どうかしてる。

お姉ちゃんは…私の為に、ずっと頑張ってくれているのに。



「……分かった。ありがとう、お姉ちゃん。」


目を合わせてハッキリと、私はそう言った。

それを聞いた姉は軽く微笑んだ後、さり気ないウインクを私に発射した。



……そうだよ。ただの………気のせいだ。

疲労から産み出た…ただの私の、考えすぎだ。


「んじゃ、今日はホントにご馳走様でした!このお礼はいずれどこかで返させてもらいますんで、今日はここでお暇させていただきます!」


「あ~い、またいつでも来てね~。バイバーイ。」


「あ、高生。送ってくから下まで一緒に行こ。」


「マジか!やったぜ~行こう行こう。」


カウンター台の皿から家鍵を取り、姉に手を振ってから私は高生と玄関へ向かった。


ー


「あーマジで美味かった。ホントにありがとな鮎川。」


「いいよ。テスト終わったらちゃんとお返ししてよね。」


「勿論だぜ。うっしゃ〜気合い入ってきたな〜!」


家を出て外の共用廊下を歩く私と高生。

会話が途切れ、2人の足音が静かに響く。



……。

……………どうしよう。

つい反射的に言葉を返したけど、今の高生と何を喋ればいいのか分からない。


…高生はどうして、私に嘘をついていたのだろうか。姉の事に関しては気のせいだと結論付けだが、これだけはどうしても分からない。

何故私には言わず、お姉ちゃんには言えるのか。……いや、この場合は何故私に言わないのかを軸に考えるべきか?だって何故お姉ちゃんに言うのかを軸にしてしまったら先程収束した「気のせいだ」という結論に待ったが掛かってしまう。

……頭がこんがらがってきた。なんでこんな奴のよく分からない言動の1つに私がこんなにも苛まれなければならないのか。大体高生のバカが意味不明な嘘をつかなければこんな……


脳内で思考をぼやきながらふと前を見ると、いつの間にか私と高生はエレベーター前に到着していた。

着いた流れで高生が降下ボタンを押し、エレベーターの稼働音が僅かに響く。



……………………

あれ?


怖く…ない……。何故か、エレベーターに対しての恐怖心が消え失せている。完全に、パッタリと。まるで凪の水面のようだ。


もしかして今は夢の中なのだろうか?タコパしている最中にまた寝落ちしてしまったのか?

手を後ろに回して甲をつねるが、その瞬間に痛みが左手を走る。

…夢じゃない。


夢じゃないのに、まるで夢の中かのように恐怖心が抜け落ちてしまっている。

眼前に映るのはどこにでもあるただのエレベーター。それ以外の認識ができない。今まで何に対し恐怖していたのかさえ忘れてしまいそうなほどだ。



重厚な機械音と共にエレベーターが11階に到着し、同時に扉がゆっくりと開いた。

…やっぱりだ………。何も感じない。こんな感覚、新鮮どころじゃない。この4年間で1度も感じたことの無い感覚だ。


「鮎川どしたの?乗らねーの?」


「…っあ、ごめん。乗る乗る。」


……大丈夫…だよね。


一抹の違和感を覚えながらも、私はエレベーターへ数歩踏み出した。



ー




よく聞き慣れた、扉が閉じる音が内部に響く。そしてそれに同期するように、エレベーターが下降する感覚が耳から伝わる。


現在私は、目を閉じている。

といってもその上から更に手で覆うような普段の完全防御スタイルでは無い。扉に背を向けて、目を瞑っているだけの状態だ。

このエレベーターの壁には姿見サイズの鏡が設置されており、内部は死角がほぼ存在しない造りになっている。故に普段はやらないのだが、今に限っては例外だ。何せ……


「行きん時は聞かなかったけどさー、鮎川なんで目瞑ってんの?」


「…わ、…私……エレベーターとか酔いやすいから…目瞑ってないとヤバいの…。」


「あーーそういう事か!納得だわ!」


「ちょ…声量落として……響くから…」


……ああもうやだ。

私が高生を家に連れてきたくなかった理由は大きく2つ。1つは高生を9階に近付かせない為…そしてもう1つは、この姿を見られたくなかった為だ。

どう傍から見ても変人度MAXのこの状態。家族ならともかく、高生には絶対に見られたくなかった。こんな私でも一応女子高生の端くれ、好きな人には私が素敵だと思う場所しか見て欲しくないのだ。


……ただ、普段は縁ある人物と一緒でなければ後ろを向いて目を瞑って満足するような事は絶対にない。マンションの住人が途中で乗ってこようと、私は絶対に目を瞑りその上から手を覆い続ける。そうしなければ耐えられないほどの恐怖に日々あてられているからだ。


故に、その恐怖心が一切浮かんでこないこの今に、ただ困惑する他ない。

恐怖心は無い。故に生まれる違和感が、私の心を這いずり回る。



「……ねえ、今何階?」


「んー、えーと3階。」


「3階…3階ね。」



……3階?…あれ………でも……


「お、1階着いたぜ〜鮎川。」


「…ホントに?」


「ホントだよ。嘘ついて何になんだよ。」


高生の言葉を信じ、薄らと目を開ける。

ゆっくり後ろを振り返ると、エレベーターから出た高生と「1」の回数表示が視界に写った。



違和感は、未だに残り続ける。


ー



「いや〜、しかしアレだな。」


マンションのロビーから出て、外通りに着いた途端だった。身体を伸ばしてあくびをかきながら、高生が喋り始めた。


「なに?」


「いや実は俺さ、今日やっと9階が見れるってめっちゃワクワクしてたんだよ。」


「……は?なに急に。」


「いや拍子抜けしたって話。エレベーターで通る時に9階一瞬見てみたけど何も無かったから、なんていうか予想以上に予想以下だったって感じ。」


「え……何も…無かったの?」


「おう、まあ見れたっつってもホント数秒だけどな。それでも何で閉鎖されてんのか分かんねーぐらい普通だったぜ。個人的にはその一瞬で女幽霊が横切るとか9階が血みどろになってるとか結構期待してたんだぜ。」


「……映画の見過ぎだよ。」



何も…無かった。

姉やお父さんの言っていた事とほとんど一致する。


つまり、高生は9階に対して何も感じない側の人間なんだ。

私とは違う、普通の人間なんだ。



…いや、これでいいんだ。

高生がこっち側じゃないのなら、もうこれ以上9階に興味を持つような事は無いはず。無理矢理よりも、より自然に9階から引き離せる筈だ。

そうだ、それで良いじゃないか。よし、悩みが1つ消えた。あー良かった良かった。


「じゃ、そろそろ行くか〜。ありがとな送ってくれて。」


「うん、バイバイ。また来週ね。」


「うーい、また来週〜〜!」


「ラジオみたいなトーンで言わないでよ。」


「あっ分かる?」


「分かるよ。バイバイ。」


「マジか、バイバーイ。」


大きく手を振り、背負ったスクエアリュックを揺らしながら高生は帰路を走っていった。

笑いながら手を振り返し、遠ざかっていく高生を見送る。少しして1番近い曲がり角から姿が消えた後、口からほんの小さなため息が溢れ出た。

その後10秒ほど高生の走っていった方向を眺め、私はマンションのロビーへと踵を返した。



正直、ため息が出る理由は納得できる。

だって急に家に高生連れてきてタコパなんてするんだもん、混乱するし疲れもするよ。そりゃボーっとしてて何も言わなかった私も悪いけど…私が口を挟むにはもう2人のテンションが出来上がってたし…

私が高生に隠してきたこの2年の努力が無に帰る事を恐れて、内心死のうかななんて思ってたくらいだ。


……まあそれでも…案外楽しかったな。

高生の面白い話だって聞けたし、お姉ちゃんも楽しそうだったし、たこ焼きも何だかんだ美味しかったし。

途中……嫌なことも…あったけど……でも、総合値で言えばプラマイは余裕でプラスだ。今度は高生にご飯を奢ってもらう番だし、今のうちにどこ行くか決めとこうかな…。



ロビーのオートロックドアを抜けて、エレベーターの方へ向かう。

視線を向けると、私たちが乗ってきたエレベーターは1階で止まったままのようだった。ちょっとラッキーだと思いながら、上昇ボタンを押してドアが開いたエレベーターに乗る。


11階のボタンを押し、ドアが閉まるのを確認する。エレベーターが上昇した直後、私はいつもより早めに目を閉じて上から手をかぶせた。



時間は大体9時半か……。

家に戻ったらまずお風呂沸かして片付けして、洗濯も早めにやらないと………あ、お姉ちゃん酔い潰れて寝てないよね…?まあそうなっても大丈夫だけど、もし平気そうなら先にお風呂入ってもらおう。その後は合間を見て勉強タイムになるかな。今日は少し早めに寝て、明日にスパートかけてガッツリやる感じで……


…不思議な感覚だ。

今まではこのマンションのエレベーターに乗ってる時は、こんな日常事に思考を割く余裕なんてまるで無かったのに。昨日までのことが嘘のようだ。



…………あっ。

さっきエレベーターに乗っていた時に感じた違和感の正体が分かった。


体感時間が、元に戻っていたんだ。

最近では1度乗る度に20秒以上伸びていたエレベーターの体感時間が、通常の33秒程度に戻っていたんだ。

無論正確に測ったわけではないけど、それでも感覚で分かる。体感時間の延長を確信した1週間前よりも、更に以前。その時に感じていた体感時間そのままだった。



……でも、どうして?

何故今更…何がきっかけとなって9階への恐怖心が消え、エレベーターの体感時間が元に戻ったのか?

頭の中でそれらしい事象を思い浮かべようとするが、皆目見当もつかない。変わり種となるような事は特段していない筈だ。

…………まさか、高生を連れてきた事によって何かが変わったのか?高生のバカさ加減に、9階に潜む「何か」がビビってどこかに行っちゃったとか?


赤子でも笑わない陳腐な予想だ。

だけどこんな事でさえも、今では少し楽しく思える。

ホントに不思議な感覚だ。だってこんなの、この4年間で1度も………





【4年間で、1度もなかった。】




………そうだ…。この4年間で…1度も……無かった。


エレベーターに乗ってる時の体感時間が伸び続けるのも。

9階が明晰夢となってあそこまで鮮明に夢に現れるのも。

現実で9階に対しての恐怖心が無くなるのも。

伸びた体感時間が、元に戻るのも。



ここ最近は、まるで変化の連続だった。

体感時間も、明晰夢も。この4年で起こらなかった事が立て続けに起きていた。偶然とは思えない頻度で。


なのに…

…なのに何で私は……全部が解決した気になってるんだ?




…あれ?

そういえば、もうエレベーターに乗って大分経つ。

33秒程度なんてとっくに………過ぎ…てるはず……



いや……いや……………違う!!絶対に違う!!!

いくらなんでも長すぎる。既に3分以上は経過してる筈だ。今までの体感時間なんてとっくに越している。

もう11階に着いてる?いやエレベーターは上昇を続けている。それは有り得ない。

私の体内時計が狂った?でもここまでの長さでは体内時計の問題では無いだろう。

確実に…「何か」が……私に…何かをしたんだ……


手を下げて目を見開き、通過階を確認したいができない。


目を開けたら、絶対にダメだ。本能が私の理性にそう釘を刺している。

数分前まで存在しなかった恐怖心が、ゆっくりと徐々に、私の心に溢れ出してくる。

噴火口から流れ出るマグマのように。ゆっくりと着実に私を支配してくる。



呼吸が荒くなり、心拍数が高まるのを実感する。

まぶたを抑える両手が震え、上手く目の位置に定まらない。

恐怖が全身に走り、私の身体を蝕んでいく。


…大丈夫。大丈夫だ。落ち着け私。

少しは油断したかもしれない。でも、もう平気だ。

私が目を閉じている限り体感時間は伸び続ける。だけどその間は何も起きない筈だ。ずっと目を開けず、ただ待っていれば………だから…


心の中でそう言い続け、荒い呼吸を整える。

直後、私はある事に気付いた。




エレベーターが、静かに停止している。

そして私が気付いた事に呼応するように、ドアの開く音が前方から響いた。

エレベーターの稼働音と私の呼吸音が満たしていた庫内から一転、静寂が訪れる。


外廊下から靡いてくる夜風に足を擽られる。その風のあまりの冷たさに、冷や汗が首筋を伝った。



11階………じゃない…。

………違う。絶対に違う。確固たる証拠があるわけじゃない。でも、11階ではないと直感で分かる。

気のせいだと思ってしまいたい。考えすぎだと結論付けてしまいたい。高層階特有の風は、どんな季節でも冷たいものだ。

…でも………高層階なら…「9階」だって……そうじゃないか…


絶対に目を開けちゃダメだ。

目を開けたら、確実に何かが起こる。これまで体験してきた事なんか吹けば飛ぶような、想像出来ないほどの恐ろしい何かが起きる。


外から吹き付ける風に、体がどんどん冷やされていく。それに恐怖が合わさり、手はおろか奥歯でさえも震え始める。


まるで9階にいる何かが、すぐ近くで私をじっと見ているかのようだ。

眼前に顔を据えて、まるで私が諦めて目を開けるのを待っているかのように、恐怖を私に当てつける。



大丈夫なんだ。私は大丈夫。

目を開けなければそれでいいんだ。それだけでいいんだ。

だから大丈夫なんて事ない。ただ少し、驚いているだけだ。時間をかければ、またいつもみたいに帰れる筈だ。


必死に自分を励まし続け、心の平静を保つ。

少しでも早く終わる事を祈るように、ただ一心に。




そんな時だった。



眼前で雷が落ちたかのような。

聴覚を裂き、心臓をつんざくような。


そんな轟音が、外から内部へ響き渡った。

後編に続きます。

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