番外:そして物語の幕は開く
「アリア様、こちらをどうぞ」
スーランがコルダの世話に出て行ってほどなく。ジルはコルダ車の中に上がり、主人の前に黒パン、干した果物、そして水の載った盆を置いた。
「申し訳ありません。本当なら、なにか暖かなものをお出ししたいのですが」
目を伏せるジル。
アリアは皆まで言わせることなく、言葉の続きをひきとった。
「追手に場所を教えることになるから、火は焚けないんでしょう?大丈夫。十分すぎるくらいだわ。」
手間がないように、堅い黒パンはすでに盆の上で一口大のサイズに切り分けられている。
アリアはその一つを手に取って口に運ぶ。
味わう、というよりも機械的な栄養補給の趣だった。
先程、乳を飲んだばかりのミラは、籐で出来た籠の中で毛布にくるまれてウトウトとしている。
世の中に悲しいこと、苦しいことが存在するという事実を未だ知らない顔だった。
その顔を見つめながら、アリアは手早く食事を摂る。
あとわずかで食べ終えるというタイミングで、唐突にミラが泣き出した。
赤子の声は声量以上にあたりに響く。
アリアは手にしていた干し果物を盆に戻し、すぐさま我が子を抱き上げる。
「よしよし、良い子ね。どうしたの、お乳は飲んだし、オムツも汚れてないわ。よしよし、大丈夫よ」
オムツの状態などを手早く確認して、ミラをあやす。
ほどなくして、ミラの泣き声は小さくなり、やがて寝息がとってかわった。
ほんのひとかけのパンと干し果物が残った盆をさげようかと、迷っていたジルにアリアがつぶやくように言った。
「ごめんなさい。」
眠るミラを両の腕に抱き、全身でその身体を包み込むようにするさまは、うなだれているようにも見えた。
「なにを、おっしゃるんですか。」
不意打ちに対して気のきいた返答ができず、ジルはそれだけを口にした。
「あなた達夫婦を、巻き込んでしまってごめんなさい。」
もう一度、繰り返したアリアは顔をあげてジルの目を見返してきた。
若い母親の顔は疲れていたが、同時に追い詰められた者の奮い立たせた気力がある。
先程のスーランとのやりとりが聞かれていたかとドキリとするジルだったが、その動揺を何とか隠しきった。
「巻き込まれたなんてとんでもない。あのひとだって言っていたでしょう?ミラ様は私たちにとっても我が子同然。私も夫も望んでここまで来たのですから」
「ありがとう。あなたたちがいてくれて、良かったわ。」
小さく笑みを浮かべるアリア。
しかし、それも一瞬の事だった。
「分かっているのよ。貴族として、カーマイン家の奥方として、この行動が間違っているということは。」
「そんな、」
とっさに否定を口にしようとしたジルの言葉は、そこで打ち切られた。
目の前の主人の表情が深く、悲しく、それでもどこか強さを感じさせるものだったから。
「家を大切に思うなら、皆のためを思うなら、この子を差し出して、目を閉じて、耳をふさいで、全てを忘れようとするべきなのでしょう。でも、できない。どうしてもできないの。」
アリアの瞳がジルから、手の中のミラへと戻される。
母は娘を一層優しくかき抱く。
「だて、この子はこんなに温かくて、こんなにも愛しいのだもの。」
アリアの目からこぼれ落ちた涙が一粒。ミラの頬ではじけた。
その光景を目にした時、ジルは自身の覚悟が固まったことを感じた。
この道行の結末がどうあれ、今まで仕えてきたこの主人に最後まで付き従うことを。
ミラがむずがるように身じろぎし、小さく声をもらす。
未だ言葉になりえぬ、ただの声。しかし、それは自身を抱く母への呼び声に違いないように思われるのだった。
………。
アリアたちのコルダ車の後方。
万が一にも気づかれないように距離をあけ、少ない遮蔽物に巧みに隠れ、野営を行う一団の姿があった。
彼らの身を包むのは無骨な鎧。手にしているのは光沢放つ武器の数々。
ヤグラの傭兵団だ。
追跡行の最中とあって、傭兵たちは一様に静かで、それぞれに夕食を摂りながらボソボソと低い声で言葉を交わしている。
その一団にあって、一際気づまりな会話をしているのは、誰あろう。首領のヤグラと副長のツウジだった。
と、言ってもそれは内容の話。
2人の表情に切羽詰まったところはない。要するに普段の仕事と同じということだ。
「今日で5日。人里も途切れた。そろそろ、頃合いだな。」
ツウジがそう言うと、ヤグラも肯いた。
「そうだな。相手は赤子、女が2人、それに男が1人。少人数で見張りも満足には出来まい。夜が明けたら、仕事にかかろう。」
不安に駆られる夜が明け、ホッと気の抜けたところに仕掛ける。そういう頭領にツウジも、分かっているとばかりに大きく肯く。
「分かった。皆に伝えておく。赤子以外はどうする。」
ほとんど考える間もなくヤグラは答える。
「奥方は可能な限り生かして捕まえろ。殺すのは最後の手段だ。従者は斬れ。いい戒めになる。」
「了解」
ツウジは短く答え、方針を周知するべく去っていく。
それを見送ったヤグラは革の水筒から一口。酒を含む。
酒精がかすかに喉を焼く。
(嫌な仕事だ。)
わずかにゆがめられた唇から、心中の声が紡がれることはない。
見上げれば、月が冴え冴えとした光を地上に投げつけてくる。
運命の朝は刻一刻と迫りつつあった。
次回、新章です。




