番外:馬丁・スーラン
日没迫る夕暮れの街道をコルダ車が走り抜けていく。西へと。
あたりに人家はない。
出発からはや5日。
その間に村と村の間隔は大きくなり、反対に村自体の規模は小さくなっていた。
御者台に腰かけ、コルダを駆る男の顔には隠すことの出来ない疲労が、無精ひげと一緒に茫々と張り付いていた。
男の格好に取り立てていう所はない。まずまずの良家に仕える馬丁、そのままだ。
屋外での労働のたまものか。よく日に焼けた肌は無骨な印象だが、同時に職務に対する勤勉さの証明とも思われた。
まっすぐ前を見据えている男に、幌の中から声がかかる。
「アナタ、そろそろ休みましょう」
女の声、カーマイン男爵家の侍女、ジルの声だ。
「ああ」
そう、素直に肯いたものの、男はしばらくの間、そのままコルダ車を進めていた。
前方に目を凝らしている様は、何か夜を過ごすうえで助けとなるもの、川や泉、あるいは薪になりそうな木立を求めていたのかもしれない。
もしくは、ただ背後から迫って来るであろう追手を警戒して少しでも距離を稼いでおこうと考えたか。
前方にも、後方にも、自分たちの車以外は見当たらない。荒れ地と草原の入り混じった街道沿いの景色が広がっているだけだ。
やがて、男はあきらめたようにコルダ車を止め、御者台からおりた。
先程とは反対に、幌の中へと声をかける。
「ジル、俺はコルダたちに草を食ませてくる。アリア様たちと先に夕餉を済ませて、休んでおいてくれ。」
幌を開けないのは、一度不用意に開けたところ、アリアがミラに授乳を行っていたことがあったためだ。
その時は、ジルにしこたま絞られた。
男の声に応えたのは、侍女ではなく女主人だった。
「スーラン。疲れているのに、仕事を任せてしまってごめんなさい。」
ジルが幌の後部をまくりあげている。
薄暗い馬車の中で、若い母親は赤子を手の中にあやしながら使用人に詫びた。
気遣われ、男、スーランは疲れを隠すように背筋を伸ばす。
「そんなことをおっしゃらないでください。ミラ様は俺とジルにとっても我が子同然。当たり前のことをしているだけです。」
アリアの顔には濃い隈が浮き、頬はほんの数日の間にやつれている。
粗末な馬車の旅、それも逃避行となれば、心身の疲労はいかばかりか。それでも、アリアは気丈にふるまっていた。
「ありがとう。アナタ達には本当に感謝しています。」
「そのお言葉は、無事に北域にたどり着いてからにしてください。まだ、道半ばにもいたっておりません。」
そう、目指すべき北周公の勢力圏までは程遠い。
すでにアリアとミラの逃避行は露見し、追手は確実にかかっているはず。
追手は何者が命じられるか。兵士か傭兵か。
いずれにしても、貴族の子女を連れた一行とは段違いに速いだろう。
今しも、追手の騎乗したコルダのいななきが聞こえそうな気さえする。
そんな、内心の焦りを噛み殺しながら、スーランは言葉を重ねる。
「私たちの事なら、お気遣いは無用です。とにかく、今は体をお休め下さい。明日も、厳しい道行になります。」
コルダにも、人にも休息は必要。
現在の状態が既に最高速度なのだ。泣き言を言っても変わらないのなら、後は沈黙するしかない。
そんなスーランの内心を察してはいたのだろう。
アリアもくどくは言葉を重ねなかった。
………。
アリアの前を辞したスーランはコルダ車の前に回り、コルダの世話をし始める。
そこにジルが歩み寄る。
たった二人の同行者として、情報は共有しておかなければならない。
先に口を開いたのはスーランの方だった。
「アリア様とミラ様の様子はどうだ。」
「…、アリア様はかなり疲れていらっしゃるわ。でも、弱音も吐かれないし、お気持ちはしっかりされているみたい」
ジルの答えの後、スーランは「そうか」とつぶやいて、しばし、考える様な間をとった。
「なあ、俺たちはアリア様をお屋敷にお返しすべきじゃないか。」
慎重に、低く抑えられた言葉。
反対に、ジルの返答は大きくなった。思わず。と言ったところだ。
「何を言い出すのよ。アンタ、自分が何を言っているのか分かっているの?!」
スーランが苦し気な表情で、ジルを制止する。苦い物を心ならずも口にしたという顔だ。
ジルもすぐに声を抑えるが、感情までもが静まったわけではなさそうだった。
対するスーランの声は、一段と低くなった。
「分かってる。分かってるよ。お前ほどとは言わないが、俺だってアリア様には長くお仕えさせていただいているんだ。ミラ様だって大事に思っている。」
ジルとスーラン。この使用人の夫婦はアリアがカーマイン家に嫁ぐ以前、実家であるアライス家のころから仕えてきた。
乳姉妹であるジルには及ばないが、スーランも幼いころからアリアをよく知る、いわば年上の従兄のような関係だった。
「じゃあ、なぜそんなことを言うのよ。」
詰問するジル。
スーランはその眼を力なく見返した。
「お前だって、本当は分っているんだろう?」
問われて、ジルは詰まる。夫の言う通り、逃避行の先行きが暗いことは重々わかっていた。
「俺たちは強行軍で進んでいるが、所詮、女子供を連れたのろまなコルダ車だ。だけど、追手は伯爵家肝いりの兵士か傭兵だろう。逃げ切れる可能性なんか、万に一つあればいい方だ。」
黙り込んでしまった妻に対して、それでもスーランは言葉を続ける。
「仮に逃げ切れたとして、その後はどうするんだ。北域でも同じように狙われるかもしれない。そもそも、貴族のアリア様が市井で暮らしてくのも生半の事ではないだろう。」
うなだれるジルの様子に、言い過ぎたと感じたのか。スーランは少し口調をやわらげた。
「カーマイン家に戻ることが正しいとは思わない。でも、少なくともアリア様は不自由なく暮らしていける。もしかしたら、苦しみや悲しみも時が癒してくれるかもしれない。」
最後の部分については、スーラン自身も信じていないのだろう。しかし、その分だけ切実な願望の響きがあった。
「それは、」
何かを言いかけるジル。だが、その先は言葉にならなかった。何を言うべきか、言葉を見つけられなかったというのが正確か。
代わりに、スーランが再度口を開いた。
「俺からアリア様に切り出してもいいし、やりたくはないが無断で引き返すこともありかもしれない。考えてくれないか。」
力ない口調。
「……、分かったわ。」
ジルはようやく言葉を返した。
「ふがいない夫で、すまない。」
うなだれて、詫びを口にして、今度こそスーランはコルダに草を食ませるべく、コルダ車から離れて行った。




