番外:母・アリア
「ただいま、戻りました。」
ジルが戻った時、アリアは窓際の温かい椅子の上でミラを抱いていた。
陽だまりの中の母子は、出来すぎなほどに絵になった。
「お帰りなさい。少し、時間がかかったようだけれど、何かあったの?」
陽だまりの中から、アリアが尋ねる。
「いえ、特には。ただ、お茶をお持ちした所、モリヤさんがお酒と軽食をと仰られたので。」
「そうだったの。それで、あの人の様子はどうだったかしら。なにか口にされていた?」
母親の手の中ので微睡む赤ん坊。そのふくふくとした顔が目に入ち、ジルは胸がわしづかみにされたような感覚に陥った。
その動揺を閉じ込めるためには、相当の努力が必要だった。
「申し訳ありません。すぐに退出してしまいましたので、分かりかねます。しかし、旦那様はアリア様の体調を気遣っておられました。」
ジルがそう答えると、アリアは「そう」とだけつぶやき、憂いを眉のあたりににじませた。
その表情のまま、彼女はそばに控えていた乳母を下がらせる。
明るく、静かな部屋の中がアリアと、ジル、そしてミラだけになった。
乳母が退出したことを再確認するように、扉に目を向けた後、アリアはミラを優しく揺らし笑みを浮かべる。
赤ん坊も笑った。
ジルも釣られる。
「お願いが、あるの。」
腕の中のミラから顔を上げ、アリアが言った。
一転して、切羽詰まった声だった。
「何でしょう。」
にわかに緊迫し、ジルは答える。思わず、ノドが鳴った。
「考えすぎで、大げさで、神経質に聞こえるだろうけれど、それでも貴方にはお願いしておきたいの。」
アリアはそう、前置きをした。
「なんでも仰ってください。」
ジルの言葉は、半ば習慣。反射的ともいえるものだった。
それだけの期間、アリアに仕えてきたのだ。
呼吸一つ分、間がおかれた。
「もしも、私や、カーマイン家に何かあった時は、ミラのことを頼みます。その時は、例え、私を犠牲にすることになったとしても、この子のことを守ってほしい。」
丁寧かつ、断固たる口調でアリアは言った。
その後で、付け加える。
「どうしても、不吉な考えが頭から離れないの。トギル男爵の様子もおかしいし、なにか良くないことが起ころうとしている気がして。」
ジルの対応は完璧だった。
つまり、自身が具体的な事情を把握しているなどとはおくびにも出さず、しかし、主人の発言には大いに驚いた様子で言葉を返した。
「そんな、考えすぎでは?ミラ様もお元気ですし、トギル様もミラ様の誕生をあんなにもお喜びだったではないですか。領民も皆、喜びに沸いております。何も心配されることは」
アリアの顔に浮かんだ不器用な笑みは、自分もジル言葉を信じたいと思っていることの表れか。
「そうだと思うわ。でも、どうしても不安なの。だから、貴方に約束してほしいのよ、貴方だけは何があっても信じられる。貴方が約束してくれれば、安心できる気がするの。」
主人からのかつてない言葉に、ジルの心は震えた。
同時に、自身の知る企みを明かすべきかという迷いが改めて提示される。
それでも、侍女は自身を制止した。
「分かりました。お約束します。アリア様やカーマイン家に何があっても、私はミラ様をお守りします。」
今度も、ジルの対応はほぼ完璧だった。
相手が、幼いころよりともに過ごした乳姉妹でなければ、気が付くことはなかっただろう。
彼女の口調。ほんの僅か、忍び込んだためらいに。
女の勘か、それとも母の愛か。
一足飛びに、何かを確信した口調でアリアが言う。
「貴方、何か、知っているの?」
ジルは自身の失策を呪った。
主人に対し、秘密を持つことは出来ても、嘘は吐けない。
そもそも、長い付き合いだ。生半可な嘘は通用しない。
自身の知る事情を明かすしかない状況だった。
それでも、なお、ジルは躊躇した。
互いをよく理解するがゆえに、侍女は主人の今後の動きが分かるような気がした。
決して賢い行動ではない。それが何をもたらすか。決して賢くないジルにとっても、明白だと思われた。
「どうか、それはお聞きにならないでください。私はどのような罰でもお受けします。ですから、どうか。」
せめても、と乞い願うジルだったが、アリアの視線は揺るがなかった。
「ジル、お願いよ。何か知っているのなら、教えてちょうだい。」
繰り返される催促。
侍女の顔に苦渋が浮かぶ。
「………、かしこまりました。」
絞り出された声は小さく、かすれていた。
次回より、投稿ペースを毎週に戻します。(ボリュームは現状維持)
コロコロと変更して申し訳ありませんが、隔週だと投稿の間が空きすぎて、モチベーションのコントロールが難しくなることを実感したためです。




