番外:侍女・ジル
(どうしよう、どうしよう)
アリア付きの次女・ジルは打ちのめされていた。
今しがた、館の主であるカーマイン男爵と老執事モリヤの密談を耳にしてしまったがために。
男爵の不調を心配した主人アリアから、薬や茶を届けるよう命じられた彼女は、準備を整えて男爵の部屋へと足を向けた。
部屋の前で、中に向かって声をかけようとした瞬間。かすかに、しかし、確かに言葉が漏れてきた。
普段であれば、何食わぬ顔で聞き流し、素知らぬ風で声をかけなおす。だが、今日は内容が内容だった。
一瞬の硬直、そして逡巡。
その後の行動は迅速だった。
駆け出さんばかりの勢いで、しかし、極力静かに。屋外から屋敷を半周し、男爵の窓の下に張り付く。
そして、今に至った。
思った通り、この場所は廊下よりもはるかに二人の会話が聞き取れた。
無論、全てではないが、それでも状況を把握するには十分だった。
話の途中から、自分の膝が震えだしたが、ジルはそれを止める術を知らなかった。
(どうしよう)
その問いが、頭の中をいくつも駆け巡る一方で、今の話を聞いていたことを誰にも(特に男爵やモリヤには)知られてはいけないと強く感じていた。
呼吸が浅く、荒くなっていることに気が付いて、意識的にゆっくりと息をする。
一息に走り出したい衝動を抑えて、そろそろと窓際から移動する。
誰にも見とがめられることなく、勝手口から屋敷の中に戻った時は思わずホッと息をついてしまった。
「ジルさん」
「ハ、ハイ。なんでしょう。」
死角から急に話しかけられ、とび上がりそうになる。声が裏がえった。
振り向けば、誰であろう。執事のモリヤが怪訝な顔で立っている。
おさまりかけていた動悸が再び激しくなる。
「どうかしましたか?」
モリヤの問いに、なんとか平静な笑顔を浮かべようとする。
「いえ、何でも。考え事をしていたので、少し驚いただけです。それより、なにか御用だったのでは?」
いささか強引に話を逸らす。
もとより、強い関心があったわけではないのだろう。モリヤの追求はそこで終わった。
「ええ、そうです。旦那様の部屋に酒となにか軽めのものを。少々、気が弱っていらっしゃるようなので」
「はい、かしこまりました。すぐにお持ちします。」
「よろしくお願いします。」
用はそれだけだったらしい。去っていく執事の背中を見て、漏れそうになる息をジルは噛み殺した。
モリヤが去った後で、ジルは再び思考に戻った。
今しがた知ることになった企みについて、自分がどうすべきか。
その問題に取り組みながらも、体はいつも通りに仕事をこなしていく。
食堂に顔を出し、軽食を用意するよう伝え、自分は酒やグラスを準備する。
一度、男爵の部屋に運び損ねて置きっぱなしになっていた茶の用意は、何食わぬ顔で片付けた。
作業の最初こそ、手が震え、グラスを取り落としそうになったが、時間の経過と、慣れた行動のせいか。酒の準備ができる頃には、表面的にはおおよその落ち着きを取り戻し、問題にもかすかなとっかかりを見出していた。
(結局のところ、言うか、言わないか。ね。)
誰に言うのか。あるいは言わないのか。
もちろん、彼女の直接の主人であるアリアにだ。
男爵の部屋に向かってカートを押しながら、ジルはゆっくりと息をするように努める。
普段通りにしようと思うほど、普段どおりが分からなくなる気がした。
「旦那様。お酒をお持ちしました。」
部屋の外から呼びかけると、すぐさま入室を許された。
カートを部屋に入れる。改めて、間近で見たカーマイン男爵。そのやつれ果てた様子にジルは息をのんだ。
流石にあからさまな態度には出さなかったが、それでも男爵は気が付いたらしい。
「どうかしたか?」
尋ねられ、とっさに返す。
「いえ、あまりにお疲れの様子だったので、つい。申し訳ありません。」
男爵は気にしていないとでも言うように弱い笑みを浮かべた。
運んできた酒と軽食を慎重に配膳する。気を抜くと、手が震えてしまいそうな気がしたからだ。
「お前はアリア付きの侍女だったな。アリアの体調はどうだ?」
出産からまだ間もない妻の体調が気にかかるのは当然のことで、その質問にもおかしなことは何もない。
にもかかわらず、そこに怯えのような調子を聞いたのは気のせいだろうか。
「アリア様もミラお嬢様も大変お元気ですが、旦那様がお疲れなご様子なのを気にされておられました。どうにかしてお慰めできないか、と。」
ジルが率直に答えると、男爵は一瞬、痛みをこらえかねるような表情をした。
「そうか」
と、答えは短く、会話はそれで終わった。
部屋から退出するときには、1つの答えが出ていた。
男爵の憔悴ぶりを間近にしての判断でもあった。
(アリア様には、言わないでおこう。)
高々、侍女に過ぎない身でも“予言”の重さは理解できる。寄親であるキルミツ家の大きさも。
もっとも、この事態に納得したわけではない。受け入れがたい思いはある。
これからミラやアリアに待ち受けることを思うと、胸が潰れる様だった。
それでも、例え、自分がミラに対する処置のことをアリアに伝えたとしてもどうにもならないだろうと思われた。
アリアが反対し、抵抗しても、すでに寄親であるキルミツ家まで動いている以上、決定が覆ることはない。
(共犯者になるよりは、純粋な被害者である方が、まだしも慰めになるでしょう。)
アリアが知れば、結局は自らミラを手放さなければならない。それは、つまり計画の片棒を担ぐに等しい。
知らなければ、ただ奪われるだけで済む。
少なくとも、自らを責める必要はない。
結果は同じでも、それは大きな違いだ。
(なら、あとは私がいつも通りであればいい。今日1日、それだけ過ぎれば)
自分にそう言い聞かせ、深い呼吸を3回。
1回ごとに秘密を深い場所に落とし込むようにして、それからジルは足を踏み出す。
自分の本来の持ち場。アリアの部屋へと。




