8 朱色の記憶
【2015年2月25日 フランク王国エクス、聖マリア教会】
アンジーはエクスにいた。
教会。雨。雪。光。突然の光。光の中のシルエット。声。優しい声。美しい光。美しい影。そして――
「――Ambre――Ancien――」
光。雪。影。
声。女の声。
男の声。
「――アンジェリック!」
今から10年前の冬、アンジェリック・ヴェスパーはエクスにいて、アウレリウス通りの聖マリア教会に来ていた。
もう19時をまわっていた。アンジーは仕事柄、事前に確認していたが、この日は4旬節の祈りの日なので通常よりは遅くまで開いていたものの、19時は遅過ぎた。だが外交官である雇主、ガスパールの仕事が長引いたのだった。
ガスパールは当時45歳で、フランク王国外務省の要職にあり、多忙な毎日を送っていた。仕事に追われ、妻の見舞いにも行けず、7歳の一人娘マドレーヌの世話も乳母であるアンジーに任せっきりだった。やっとプライベートな時間が持てそうだったこの夜、ガスパールはアンジーにマドレーヌの手を引かせ、妻の延命を祈りに家から一番近いこの教会にきたのだ。
辺りは既に夜で湿った雨混じりの雪がちらついていた。気温は1℃。とても寒く感じられた。
「旦那様。閉まっています」
アンジーはわかってはいたが、ガスパールに知らしめるために扉のノブをガチャガチャと鳴らした。
ガスパールは悲痛な表情で扉を拳で叩いた。何度も。
「くそっ……祈ることもできないのか……」
妻は腎不全で余命を宣告されていた。助かるためには移植しかなかったが、妻の順番が来るのはまだまだ先だった。当時のガスパールにはエリートとしての特権もまだなかった。
その時、それは起こった。
突然目の前に現れた小さな光の点。気づいた瞬間にはそれは拡大し、教会の扉を隠すほどの大きさになった。あまりの眩しさにアンジーとガスパールは後退り、転倒した。まだ幼いマドレーヌだけが、光に向かって立ちすくんでいた。
シルエット。光の中に人らしき影が浮かんでいた。
女。ガスパールはシルエットからそう感じた。
天使。アンジーはその信仰深さゆえに、そう信じた。
顕現。天使の顕現だ。これがそうなのか。そう思った次の瞬間、アンジーを膨大なイメージが襲った。
イメージ。そんな言葉では言い表せない。概念。情報。教え。どれも足らない。表現できない。人間の知識では及ばない、天啓。
それが全ての始まりとなった。
【現在――2025年8月6日14時13分 ローマ共和国アンキュラ】
「♪"Deposuit potentes de sede"(やつらをひきずりおろせ!)」
マドレーヌは歌った。楽しかった。
4日前、じめじめした陰気なエクスからこの眩いアンキュラに来て、クリノリン・シルエットのスカートを揺すりながら疾走したあの爽快感を思い出していた。
ついさっきロルフは、ゴールデンレトリバーを連れた婦人とぶつかったあのヘアピンカーブをゆっくりと曲がったばかりだ。あの辺り、アナドル文明博物館近辺ではマドレーヌの名を叫ぶ声が一番多くなった。マドレーヌはロルフのロールバーを掴んで立ち上がり、大きく手を振り笑顔を振り撒いた。
いつもは胸の前で手首だけ動かす、ロイヤルなんとかって言う手の振り方じゃないと怒られる。でもそんなのばかみたい!こうやって思い切り手を振ったら、ほら!みんな大喜び!わたしもすごいんじゃない!?
ロルフが石畳の段差で揺れた。転げ落ちそうになったけど、ジェイさまが支えてくれる。幸せ。生きてきて、今日が一番幸せ!
ジェイは、10日前ヴィを乗せてアッカレへドライブしたあの早朝を思い出していた。ヴィが助手席で屈んで黒薔薇の花弁を拾い、いたずらっぽくヒラヒラさせた同じ道を、ロルフはゆっくり走っていた。
ヴィが歌いながら、ミラー越しにジェイを見ていた。目があったが、ほんの一瞬だった。ジェイは歌っていなかった。
ロルフはあの朝左折したアッカレへのT字路を通り過ぎ、光の海が割れる中、ディヴァン・チュクルハンの角を右に入った。盆地の底にあるホテルの屋上や窓にも、たくさんの人々がいた。虎の仮面もまだ見えたが、もう素顔の人たちの方が多かった。
窓のいくつかには顔ではなく貼り紙のようなものが見えた。手書きっぽい、赤い円だけの貼り紙。
気がつくと、ディヴァン・チュクルハンに限らず沿道にもちらほら、その赤い円が見えた。プラカードをあげている者もいた。
パヴルはそれが何か知っていた。
赤いウロボロス。K.K.のマークだ。
K.K. |いにしえの琥珀《Kadim Kehribar》は、最近その信者を爆発的に増やしていた。大掛かりな集会やデモをしたりすることはなかったが、赤いウロボロスのマークは街のいたるところで見かけられた。エーミットやスィビラでも、K.K.に関する話題は増加していた。じわじわと、布巾に水が染みていくように、K.K.は広がりつつあった。
ロルフは長い下り坂に入った。歩道の代わりにベンチが点々としているような細い道だ。細かい石畳の模様が美しい古道だが、今は人混みでほとんど見えない。
ヴィは右足を休め、左足でブレーキのみでロルフを制御していた。時速は5キロ以下、ほとんど止まりそうなスピードだ。この坂は使徒職でよく登り降りした坂だった。車ではなく歩いて。今も歩いてついてくる者も多く、皆『マグニフィカト』の一節を口ずさんでいる。
「――ヴェシレ!シスター・ヴェシレ!」
近くから名前を呼ばれた。すぐ横に、見知った顔があった。
「シスター・デフネ。どうして――」
言いかけて、思い出した。そう言えばこの辺は、シスター・デフネの勤める聖エズラ教会のそばだ。修道衣を着ていないのですぐには気づけなかった。
「すごいじゃない、ヴェシレ!この人たち。たくさんの人たち!みんなあなた方の味方よ!」
シスター・デフネは顔を紅潮させていたが、腰を痛めた60歳とは思えないしっかりした足取りでロルフに並んで歩いていた。ヴィはブレーキに乗せた左足に少し力を加え、スピードを落とした。
「シスター・デフネ、腰はもう?」
「ええ、ええ!私、元気になったのよ!腰も、嘘みたいに良くなって!あなたは?元気?」
「それは良かったですね、ええ、わたしも元気ですわ、シスター・デフネ」
「ヴェシレ!私ね、もうシスターはやめたのよ!」
「え?」
素直に驚いた。ウルスでも名の知れたシスターなのに。やめた?シスターを?
「ふふ。驚いた?身体が悪いとかじゃないのよ、逆よ逆!シスターなんか、もっと早くやめれば良かった。あなたもでしょ?ヴェシレ」
ヴィは何を言っていいかわからない。道がきつめにカーブしていた。ヴィは前方に注意を戻した。
「お話ししたいわ!ヴェシレ!これが終わったら、ゆっくりお話ししましょう!気をつけて!」
デフネは立ち止まり、ミラーの中で手を振り続けた。その横に太った男が立っていた。手に赤い円のプラカードを持って。
パヴルはマルティンに気づかなかったが、ジェイは2人に気づいていた。中良さそうに見えて、少し暖かい気持ちになった。だがそれより気になり始めたことがあった。
赤いウロボロス。少しずつ増えている。
アリーもジェイと同じことを気にしていた。猫人間はまだたくさんいるけど、あの赤いのはなんだろう?丸くて、眼のようにも見える。大きな赤い円。人間がアリーたちを脅かすのによく使うデザインにも似ている。
ジェイの思考を覗いた。
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びっくりして思わず鉤爪に力が入り、ジェイの肩に喰い込んだ。ジェイが顔を顰めた。強い不安。
パヴルは別のことに気を取られていた。
光のパレードは続き、広い大通りに出た。タラトパシャ大通り。道幅は倍以上になり、高層ビルやマンションが立ち並ぶ開けた地域だ。
群衆の密度は少し薄くなったが、パヴルが気を取られたのはそのことではなかった。
沿道には警察の機動隊や軍の暴動鎮圧部隊のような一団も見えたが、彼らはただ群衆を整理しようとしているだけで、行進を止めようとはしていなかった。
パヴルが気を取られていたのは過去の思い出だった。僅か10日ほど前の思い出。忘れられない思い出。
サフィとこの辺りを歩いた。病院への潜入ミッション。打ち合わせをしながら、サフィは時々、通りがかりの店のウインドウで足を止め、楽しそうに笑っていた。ピンクの髪がガラスに映って、紫の瞳でそれを見つめて。その翌日には逮捕されるなんて、思ってもいなかっただろう。
ロルフはエイダン・セイギュン通りとの大きなロータリーまで来た。片側3車線、巨大なロータリーだ。上空にはヘリがいた。
ロータリーを左折してロルフは真南を向いた。ビルや立木の隙間にコジャテペの十字架。
イブン・シーナ病院の周辺には新たなグループが集結していた。ピンクのウィッグの集団だ。数は多くはないが、そのウィッグは目立った。彼らはパヴルたちが通過すると口々にサフィーエと叫び、ロルフに追随する大群衆に合流した。
ピンクの髪、紫の瞳。胸を張って。
「♪"Quia respexit humilitatem ancillae"」
だって、こんなあたしを見て!
マドレーヌがお気に入りのフレーズを、高いソプラノで歌っている。パヴルには、サフィの歌声に聞こえた。
【14時30分 特別使徒保安庁アンキュラ支局、第12特別留置施設】
「……バビュール様?」
呼ばれた気がした。まさか。そんなわけない。ハクチュウムってやつ?
にしても、独り言いっちゃった。ヤバくない?そりゃ独り言も言いたくなるけどさ。
ここ窓もないし。天井のLEDが朝になったらついて夜になったら消える。それだけ。あとはご飯。これ3食昼寝付きってやつ?つまんないの。
つまんないけど、今は誰にも会いたくないなー。バビュール様にも。だって……。
サフィーエ・サナルは手のひらでミディアムロングの髪をすくいあげ、ため息をついた。
あーあ。なんかボケた色になっちゃって。昨日お風呂の時にも見たけど、根元なんか……2ミリも!元のプラチナブロンドだし。伸びてるんだからしょうがないけどさ。早くヘアマニキュアしたーい。
サフィはもちろんすっぴんだったが、それは気にしてなかった。看護師だから仕事中はメイクを気にするヒマもない。そのラベンダー色の瞳は珍しいのでカラコンだと思われることも多かったが、自前の色だった。視界に影響あるカラコンは看護師としてはありえない。
だからこそ、サフィは髪色に強くこだわっていた。唯一のオシャレと言えるピンクの髪が僅かでも脱色するのは許せなかった。他人から見ればほんの少し明るくなった程度であっても。
あたしの髪の色なんてたぶん誰も気にしない。でもそういう問題じゃないんだよね。これがあたしのアサーティブ。
いきなり電子ブザーが鳴り、ガチャリと音がした。そして、鉄製のドアが重々しく開いた。
「サフィーエ・サナル。出るんだ」
【14時34分 アクス大通り】
パレードは南下を続けた。片側3車線の幹線道路、アクス大通りでは、第一車線に警察や軍の装甲車両が点在し、群衆を整理しようとしていた。衝突などが起きている様子はなく、整然と。
黄色い仮面、赤い円のプラカード、ピンクのウィッグ、青いパトライト。
パヴルたちのために交通規制が敷かれているようだ。だが保安庁は影も見えない。前方の丘の高みから十字架が見下ろしているだけ。
「アリー。見張りを探してみて」
アリーはジェイの肩から飛び立つと、螺旋を描きながら上昇した。アーバンサーマルに乗って一気に上空300メートルに達すると、半径1キロに及ぶ映像をジェイに送った。
クルトゥルシュ公園は人々で埋め尽くされていた。ここはまるで野外フェスのような様相だった。ステージがあるわけではないが、大合唱が始まっていた。
歌はもちろん『マグニフィカト』だった。歌っている人たちはコジャテペまで来る気はなさそうで、歌うことを楽しんでいた。その数およそ3万人。ロルフの周りを一緒に歩く人々、後方で車道まで溢れる人々。さらに沿道の店やビル、マンションから手を振る人々。ロルフの進行方向にはさらに多くの人々が道を開けて待っていた。警察も軍もただ見ているだけだ。
ものすごい数。アリーの視界に入っているだけで10万人近いだろうか。これだけの人間が一方向に動くと、それは土石流にも等しい。止められない。
10万人の行進。120年前の赤い日曜日。サンクトペテルブルク。歌いながら行進していた10万人を、おれは空から見ていた。暴力ではなく、歌。素晴らしいと思って見ていた。その直後、人々は押され、折り重なり、潰されて、血の海に倒れた。
「パヴル。このまま進んだらだめだ」
「は?どういうこと?」
ジェイはiPortaを取り出し、インウェニ・ハリタを開いた。
「インジェス公園。ここだ。この二股で、バビュルスたちを逃がす」
「ジェイ?どうしたの?」
ヴィがミラー越しに見ていた。眉を寄せて。
「この先で、道路が狭くなる。コジャテペに行く道では、GTが検問をやってる。パレードが止まる。大惨事になる」
ヴィとパヴルは群衆を見回した。
「……大惨事?なんでそんな――」
「覚えているからだ。昔あったことを」
パヴルは考えた。いつの事か。でも確かに一理ある。ボトルネック。ダム。ショックウェーブ。
「わかった。やってみる」
パヴルは配信で呼びかけを始めた。
「……みんな、ありがとう!こんなに集まってくれて。でも聞いて欲しいんだ……」
パヴルはバビュルスたちに、この先の進路と行動を説明した。コメント欄もスィビラの通知も早すぎてまだ読めない。伝わったかどうかはわからない。
アリーはコジャテペ上空にいた。
アヤソフィアのスケールモデルのような、四方を城壁に囲まれた大聖堂。四角から十字架が突き出ている。保安庁アンキュラ支局。
北東に少し離れると、ジェイたちが向かっている二股がある。真ん中に小さな公園。
ローマ軍の装甲車両が数台。兵士たちがたくさん。
アリーが高度を下げる。
軍は群衆を誘導していた。パヴルが配信で促した通りに。群衆は二股の広い方に流れ、狭い方――コジャテペ、その手前のGTの検問に続く道は空いていた。
【15時05分 アヤシュ上空】
「機長です。只今より、着陸のための降下を開始いたします。着陸予定時刻は定刻通り、15時20分。シートベルトをお締めください」
アイテリスH160は順調な飛行を続け、高度1,500メートルからアンキュラへ向けての降下を始めた。
ヴェシリアはコーヒーを飲み干した。
ギュネルからのメッセージ。
『虎達は門に到達。声も輸送中です』
素晴らしい。新しいギュネルは有能だ。
『大変よろしい。到着次第、審理を開始する』




