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9 Desperatio

【2025年8月6日15時20分 コジャテペ、特別使徒保安庁(Ö.A.G.T.)アンキュラ支局、北側立体駐車場屋上ヘリポート】

「……"Fecit potentiam in brachio suo: dispersit superbos mente cordis sui."……」

 ……彼の肉体が破壊した

 己の意志で壊滅した……


 人々の歌声が、遠くに聴こえる。


 

「お待ちしておりました。あなた方はゲストです」

 オルギュンラル通りの検問所で、保安庁(GT)アンキュラ支局の黒服の女はジェイたちにそう告げた。

 

 軍の無言の協力により、ジェイたちを乗せたロルフはスムーズにインジェス公園の二股を右に進み、細いリビア通りを走った。そこには群衆は1人もおらず、数メートル置きに黒いスーツの男たちが立ってロルフを奥へと誘導していた。軍人でも警察官でもなく、GTの職員であることは一目瞭然だった。

「どういうことなの」

 ヴィの疑問に答えられる者はいなかった。確かなのは、GTにはヴィたちを拘束するつもりはない、ということだけだ。ヴィはアクセルを踏み、数分で検問所に着いた。


「ゲスト。つまり、招待されたってわけ?」

「……そうらしいね。最初からそのつもりだったのかな」

 ヴィはパヴルを睨んだ。

「いや罠でしょ?どう見ても」

「罠か」

 ジェイが低い声でいった。

「いいんじゃない?ここまで来たら、同じことだ」

 マドレーヌを見る。

「君はもう、本当にここで降りろ」

「いやですわ」

 即答して、ふんぞりかえる。

「私はジェイさまと一緒に行きます。このマドレーヌ・ド・ガスパールがいれば、誰も手出しはできませんもの」

 それはそうかも知れない。だが――

 

「いいわ。一緒に行きましょう、お嬢様?」

 ヴィは笑みを浮かべていた。

「どうせ、この子はしがみついてでもついてくるわ。好きにさせましょう」

「ヴィヴィ!嬉しいわ、お友達!」

 ジェイは諦めた。タキシードの上着を脱ぎ、マドレーヌに渡す。

「ジェイさまーッ!感激ですわ!日焼けしてしまいますから、困ってましたの!」

 GTの黒服が咳払いした。

 ヴィはブレーキを離し、ロルフはコジャテペの敷地へ入っていった。


 

 誘導されるままに立体駐車場に入り、スロープを上がった。5階まであり、その上が屋上だった。屋上に出ると、隣接したアンキュラ支局とほぼ同じ高さだ。植樹で仕切られたカフェテラスがあり、その北にはアンキュラの街が広がって、北東にはアッカレも見える。

 ヴィは西側のパーキングエリアの端に誘導された。ロルフを駐車し、みんなが降りている間にソフトトップを閉めた。


 群衆は支局までは来ていないが遠巻きに囲んでおり、『マグニフィカト』はまだはっきりと聴こえる。むしろ歩くのをやめたことで合唱らしくなっていた。その歌声に、しゅるしゅるという機械的な音が混じった。同時に影がヴィたちを覆った。

 ヴィたちは真上を見上げた。

 アンキュラの太陽はまだ高く、眩しく輝いていたが、その陽の光を遮って、大きな影が降りてこようとしていた。


 最初はヘリだとは思わなかった。細長い流線型の影。だがすぐに風が強くなり、高度が下がるにつれて、回転するローターの残像が見えた。

 それから突風がきた。ヴィたちはロルフの影に隠れるように背後に下がった。

 歌声はかき消された。機械音ではなく、暴風に。砂埃が舞い、景色が茶色くなった。


 

 パヴルはiVitra(スマートグラス)を押さえ、ヴィとマドレーヌは髪を抑えた。

 ジェイだけは直立不動で、降りてくるヘリをじっと見ていた。


 風は唐突にやんだ。ヘリが着地し、エンジンを止めたからだ。一瞬の空白の後、また『マグニフィカト』が聞こえ始めた。

「……"Quia fecit mihi magna qui potens est: et sanctum nomen eius."……」

 ……力あるものが、成し遂げた

 侵し難い、その名は――


「ヴェシリア・セレン。来たか」

 みんながジェイを見た。それから、ヘリのスライドドアが開いた。


 血の色のカソック(法衣)。袖口の刺繍が金色に光る。ポインテッド・トゥ・ハイヒールが電動ステップを叩き、高い金属音が響き渡った。その長い脚がコンクリートを踏み締め、ヴェシリアはアンキュラに降り立った。続いて降りてきたSPたちが小さく見える。

 ヴェシリアの刃物のような眼が、すーっと横に走った。ヴィを見た時一瞬止まったかに見えたが、そのまま無言でカフェテラスの方へ歩き始める。その先にはいつの間にか待機していたカアン・ギュネルがいた。

「お疲れ様です。こちらへ」

 ギュネルはカフェテラスへ誘う。ヴェシリアはSP2人を引き連れて、植樹の仕切りの奥へ消えた。


「あなた方も、あちらです」

 黒服の女がヴェシリアに続くよう促した。

「どなた?あの方は」

 黒服はマドレーヌを睨んだ。

「……。セレン首席審問卿です。我がローマ最高の知政を司るお方です」


  

 早足でヴィはジェイに並んだ。

「……なぜわかったの?」

「なぜ?……知っていたから」

 答えになっていない。あの女を「知っていた」のか、首席審問卿が来るのを「知っていた」のか。

 セレン首席審問卿。ヴィは見るのは初めてだった。もちろんシスターとして、保安庁(GT)のトップのことは知っている。"月の女王"、"無慈悲な聖女"。教会で修道士たちはたまに噂話をしていたし、使徒職に出向いた先でも話題になったことはある。雰囲気が似てるなんて言われたこともあった。だがそれ以上の知見はなかったし、興味もなかった。これまでは。


 カフェテラスには誰もいなかった。奥にスカイウォークがあり大聖堂に繋がっていた。

「16時より、審問会が審理開始となります。それまで、本庁舎をご案内いたしましょうか?それとも、このカフェテラスでお茶でも?景色は素晴らしいですよ。前の……いえ、支局長のお気に入りで」

「審問会はどこで?中央審問室ですか?」

 ヴィとパヴルはまたジェイに驚かされた。わたしたちが知らないことを知っている。前に来たことがあるのか。いつ……誰として。


 

「さようでございます。まだ30分ほどお時間はありますが、参りますか?準備は出来ております」

 ジェイは無造作にヴィたちに言った。

「どうする?お茶にする?」

「ジェイさん……聞きたいことが山ほどあるけど、今は我慢する。その、中央審問室を案内していただけますか?よーくご存知のようなので」

「オーケー。じゃあ行こう」

 パヴルの嫌味は全く通じていなかった。


 

 スカイウォークで、マドレーヌはジェイと腕を組み、はしゃいでいた。

「素敵!街が小さく見えますわ。領事館はどこかしら?」

 マドレーヌは立ち止まろうとするが、ジェイは気にも留めずに歩き続ける。

「もう、ジェイさま?せっかくのデートですのに。これってデートですわよね?」

 ジェイは苦笑いすらしないが、マドレーヌはむしろそれも楽しんでいるようだった。顔がにやけっぱなしだ。


 ヴィとパヴルは並んで2人の後に続いた。スカイウォークの窓の外をアリーが掠めていった。


 本庁舎の内部は外観からはかけ離れた無機質な灰色だった。一行は飾り気のない「支局長執務室」とプレートがあるだけの扉の前を通り過ぎ、エレベーターで一階まで降りた。

 エレベーターのドアが開くとまた印象が一変した。ヴィの見慣れた礼拝堂だ。もちろん、聖テレーザ教会のそれとは次元が違う。広大で、五階まで届く吹き抜け。金箔をふんだんに使った壁や柱。東側の祭壇の上には巨大な天使ミカエルのステンドグラス。朝日が差す時間なら、色彩が溢れていただろう。今は陽光も当たらず、ただのモザイク画だ。


 

 またミカエルか。ジェイはその顔を見上げた。ここのミカエルは天秤しか持っていない。これは珍しく正しい描写だ。あいつは剣より強い神の光の力があるし、武器など必要としない。

 領事館の天窓のシャルルマーニュと同様に、顔は本物とは似ても似つかない。こんな端正な大人じゃない。ジェイエルの知っているミカエルは、大人の身体には全く不釣り合いな童顔、というより赤ん坊みたいな顔で、いつもニヤニヤ笑いが張り付いていた。まあシャルルマーニュと違って、ミカエルの顔を見たことがある人間などいないのだから仕方ない。


 

「こちらへ」

 黒服の女が奥の祭壇を示して言った。中央審問室は祭壇の裏にあるらしい。ヴィたちは礼拝堂の身廊を奥へと進んだ。

 祭壇まで20メートルほど歩いてその裏に回る。そこには装飾はなにもないただの白塗りの壁、真ん中に大きなウォルナットの重厚な両開きの扉があった。黒服の女がその扉を開けた。また世界が変わった。


 圧迫感。頭上に、白く冷たく光る巨大な照明が浮かんでいた。中央に縦に走る1本の太いLED。そして左右にも伸びる、同じLEDの冷たく白い光。十字の光が長方形の部屋を照らしている。天井も壁も床もその光を吸い込むように黒い。低い天井に吊るされた、白く光る巨大な十字架。部屋を押し潰すような重圧。

 手前に、五人ほどが座れるベンチが2列。そこから少し離れた前方の真ん中に、ぽつんと置かれた黒い証言台。どちらも扉と同じウォルナットのようだ。

 そして、その先は何もない。暗闇。

 だがよく見ると、それも壁だった。上半分はガラスのようで、うっすらと反射し、外の明かりとヴィたちの姿をぼんやりと映している。おそらくこのガラスの向こうに審問官たちが座るのだろう。


 

 ヴィもパヴルも、マドレーヌでさえ、言葉を失って立ち尽くした。この異質で静謐な、異世界の入り口のような空間。

 ジェイだけが、奥の壁のガラスのさらに奥に、見透かすような視線を据えていた。


 

 静謐を破ったのは背後の騒めきだった。複数の足音。話し声。パヴルたちを案内した女とは別の黒服がマスコミを引き連れてきた。

「は?どういうこと?」

 ありえない。パヴルは憤慨した。ズィとサフィを見せ物にするつもりか。黒服に案内されてきたってことはGTが許可したってことだ。ありえない。叩き出してやる。

 だがマスコミの後ろにまだ別の人物がいた。


 

「アイシェおばさん!」

 パヴルより先にヴィが駆け寄った。

「……どうしてここに」

「シスター・ヴェシレ?まあ、こんなところでお会いするなんて……あなたも、召喚されたの?」

「いえ……わたしは」 

「シムシェキ少佐の審問会……本当は今日じゃなかったのに、急に予定変更って言われて。車も用意していただいちゃったのよ。来ないわけにいかないでしょう?私のせいで逮捕されちゃったんだし……私が……ヴェシレ、ごめんなさい……あなたのお父様の葬儀ミサに参列したくて……」

「ええ。いえ……アイシェおばさん。ありがとうございます。父も喜んで――」

 

 お父様。

 ヴィは踵を返し、アイシェの手を取った。

「アイシェおばさん。あの……お手洗い!お手洗いにお付き合いくださいな。始まる前に、ね?」

「まあ、そうね。私もいっとかなくちゃ。年取ると近くって!」

 ヴィはアイシェを急きたて、部屋を出た。重い扉が閉まる直前、隙間を射抜いてジェイを見た。



「……トイレかな?」

「ジェイ様?早く座りましょ?」

「……マドレーヌ。トイレ行く?」

「私は大丈夫ですわ?アンキュラはすごく乾燥してますもの。さあ、早くこちらにいらして?」

 マドレーヌはウォルナットのベンチの前列に座り、隣をポンポン叩いた。青緑の瞳を煌めかせて。

 

「まもなく審理開始です。ご着席を。マスコミのみなさんも」

 黒服の男がまた別の人間を連れてきた。若い軍人。背が高いその軍人が入室すると、黒服が扉を閉めた。施錠はされなかった。出来ないのだ。TVカメラのケーブルが扉に隙間を作っていた。


  

 ベンチに、前列左にマドレーヌ、真ん中にジェイ、その隣にパヴルが座り、マスコミはカメラマンとあと2人が後列。若い軍人はパヴルから少し離れて、前列右端に座った。妙に縮こまって落ち着かない。

 パヴルはその男に見覚えがあった。名前は知らないけど、ズィの運転手。伍長だっけ――

 その時、奥の黒い壁に突然明かりが灯った。ガラスの仕切りがスッと明るくなり、3つのシルエットが浮かび上がった。

 

 審問官。逆光を背負っているので顔ははっきりとは見えないが、シルエットだけでも明確にわかる。

 座っていても一番威圧感があるヴェシリア・セレンは、パヴルたちから見て左側に座っていた。中央の、主審問官の座に、アンキュラ支局長ギュネル。右端に、2人から離れて書記官。誰も、一言も発しない。

 

 続いて、パヴルたちの足元に明かりが点いた。証言台の左右に、四角くて白い、2つの明かり。機械音。白い四角が、ゆっくりと迫り上がってくる。 

 2本の、白い柱。

 それはガラス張りの箱だった。中が明るい。そして、人がいた。


「ズィ!サフィ!!」

 パヴルは叫ばずにはいられなかった。


「静粛に」

 肉声ではない、金属的なノイズの混じった男の声。

「In nomine Domini, Amen.」

 ギュネルがスピーカー越しに宣言した。

「私、カアン・ギュネルは、教皇猊下の威光により任命された異端審問官として、あなた方に対する審理を執行します」

 

 

【1時間前 特別使徒保安庁(Ö.A.G.T.)アンキュラ支局地下、悔悛者待機室】

 ズィヤ・シムシェキは鏡に閉じ込められていた。

 

 30分前。房で独り、片腕立て伏せをしていた時だった。ここに入れられてから、ズィヤは肉体を苛めることで自身を保っていた。2日に1回のシャワーの時間以外、ここから一歩たりとも出られない。面会はもちろん、取り調べさえない。飯を食って寝るだけしかやることがない。

 

 ズィヤは寝る間も惜しんで筋肉を鍛えた。平時なら完全にオーバーワークだったが、肥えて豚になるくらいならオーバーワークで身体を痛める方が百倍ましだ。疲れ過ぎて眠れない時は、窓から空を眺めた。そしてまた、鍛える。そんな毎日を始めてもう10日――

 

 突然のブザー、鉄扉の開く音。

 シャワーを浴びせられ、髪を整えられ、髭を剃られた。着替えろと言われて渡されたのは、クリーニングされた軍服だった。

 一瞬、もう何日も忘れていた希望が芽生えたが、連れてこられたのはここ。鏡の中だ。

 鏡の箱。

 

 やつらは告解箱と呼んだ。笑わせる。なにを話せと言うのだ。ガキの頃にぶつかってきた相手をぶちのめした話でもするか?

 箱に押し込められてしばらくは外の気配に集中した。音も聞こえないが動きは感じられた。ここに連れられてきた時、箱は2つあった。そして今、もうひとつの箱にも誰かが入ったようだ。狭い鏡の箱の中で鏡に拳を叩きつけたりもしてみたが、無駄だとは思っていた。

 

 なんの前触れもなく、箱に振動が伝わって来て、それからガクン!と箱が持ち上がった。鏡越しに明るさが変わるのがわかった。マジックミラーだろうか。天井/床を抜けて、ワンフロア上がったらしい。微かに、名前を呼ばれた気がした。その直後、「静粛に」スピーカーから男の声。続けてラテン語。

 そうか。始まったらしい。俺の審問会が。告解箱。笑わせる。


「あなた方は理解していますか?なぜここに連れてこられたのか。何の罪で召喚されたのか」

 なぜかだと?それなら知ってる、典礼妨害だ。だが答える必要はない。黙秘を貫いてやる。


 

【現在 中央審問室】

「知るかよ。おまえのおふくろとやりまくったからか?」


 ズィの声に似てた。だが明らかにAIだ。僕にはわかる。あのクソ真面目なズィがあんなこと言うわけがない。これはディープフェイクの生番組ってわけだ。

 こんなのってあるか。ふざけやがって。


 パヴルは暴れ出しそうだったが、かろうじて理性を保った。そしてズィに言われたことを思い出した。

 僕は、僕のやり方(フィールド)で戦う。

 

 iVitraは5Gに繋がって、バッテリーもまだ50%以上ある。ライブも継続中。

 ARキーボードを出す。視線入力なので得意の超高速タイピングよりは遅いが、それでも並以上の速さで言葉を紡いでいく。

『みんな。これはディープフェイクだ。音声はAI、DAW(音響編集ソフト)ある人はスペグラチェックしてみて!』

 ライブにコメント、スィビルス(ツイート)も送信。

 これが僕の弾丸だ。撃ちまくってやる。



 審問官席の窓の下に据えられたモニターには、生放送中のTVはもちろん、バビュールのライブもスィビラ(SNS)も映っていた。パヴルのスィビルスは瞬く間にトレンド入りし、TVのスタジオでも拾われている。

 ギュネルはヴェシリアを横目で見た。ヴェシリアと目が合う。頷いた。

 台本通り。このまま続行。


「第一悔悛者」

 証言台の右側、ズィの箱が明るさを増した。もうひとつの方は逆にガラスが白濁し、サフィの姿がシルエットだけになる。

「姓名を名乗りなさい」



 鏡が消えた。透明のガラスになり、ズィヤは周囲を見回した。

 正面に黒い壁、ガラスに仕切られた部屋。シルエットが3つ。横も黒い壁。背後を振り返る。

 パヴル。

 ニヤリと笑って、唇が動く。

 "TRUST ME"

 

 またスパイ映画か。眼球に熱を感じて顔を伏せ、両手で目を押さえた。顔を上げ、強く頷く。

 ああ。信じてるぞ。


 パヴルの隣、少し離れて、伍長がいる。目が合うが、伍長が顔を伏せた。後ろにTVカメラ。そしてパヴルの左側の男。

 教会で見かけたやつだ。何者か。


「第一悔悛者。姓名を名乗れと言っている」

 正面に向き直る。シルエットを睨みつけた、

 ……黙秘だ。お前たちに聞かせる言葉はない。


 

「ズィヤ・シムシェキだ。ローマ軍第一軍団少佐」

 またAI音声だ。もう誰も騙されるもんか。

 ズィが頷くのを見て、パヴルは確信した。僕たちのターンだ。GTをぶっ潰す――

 ズィの箱が白濁した。そして、サフィが。

「第二悔悛者。姓名を名乗りなさい」



 鏡が消えて周りが見えた。

 なにここ?怖い。怖い、怖い怖い。人影。逆光の中。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 あたし……死んだ?天国の入り口なの?

「サフィ……サフィーエ・サナルです……」

 涙声が出た。もういやだ。もうあたし……涙が溢れ、流れ落ちる。泣きたくない。でも止められない。いやだ。いやだ。いや。



「サフィっ!」

 サフィが箱の中で崩れ落ちた。一瞬前まで勝った気でいたのに、こんなの無理だ。

 ジェイさんが僕を見ている。もういっそロクツィオでもなんでもやって欲しかった。

 だが、ジェイさんは目を閉じた。


 

 その時。誰も――ヴェシリアでさえ、予想していない事が起きた。

「ちょっと!なんですの、これは!」

 マドレーヌが立ち上がった。

「女性虐待ですわ!こんなこと、フランクでは許されませんわよ!!」

 マドレーヌはそのままドカドカと足を踏み鳴らし、一気に正面のガラスまで突き進む。

「私を誰だと?マドレーヌ・ド・ガスパール!私の前でこんな酷いことを。許しません!国王に言いつけます!」



 ……え?だれ、この子?なにか叫んでるっぽいけど、外の声は聞こえない。

 若い子。明るいブロンド。男もののタキシードを羽織って、脚は剥き出し。まるで……そういうお仕事のひと?

 サフィの涙が、このあまりに場違いな光景に引っ込んだ。周りを見回す。振り返る。

 バ……バビュール様っ!?



 パヴルの腰が浮いた。

 サフィ。顔が、みるみる明るくなった。何度もフラッシュバックした、紫の瞳。潤んでるけど、涙はもう溢れてない。逮捕映像で見た、立ち向かう瞳。パトライトやフラッシュを跳ね返す、強い瞳。

 だが。



「静粛に」

 騒然とした室内に、冷水をぶちまけるような声が響き渡った。

「マドレーヌ・ド・ガスパール。お嬢様」

 ヴェシリアも立ち上がっていた。同時に逆光が少し暗くなり、その氷壁の表情がはっきりと見えた。

「セレンです。お目にかかれて光栄でございます。お父上には大変お世話になって。あなたのような慈悲深いお方、わたくしも見習わなければなりませんわね。ですが、マドレーヌ様。これは虐待なとではございませんわ。わたくしはこの女性の無実を証明するためにここにいるのです」

「無実?……そうでございますの?」

「どうか、マドレーヌ様。あなたのその高貴な瞳で、この女性を見守っていただけませんか?わたくしどもに、マドレーヌ様のお力をお貸しくださいませ」



 ジェイがゆっくりと進み出て、マドレーヌの両肩に手を置いた。マドレーヌの怒りが一瞬で蕩ける。2人は席に戻った。



 なにこの茶番。まあでもおかげで落ち着いたかも?

 バビュール様が来てくれた。あたしなんかのために。もう怖くない!

「サフィーエ・サナル」

 偉そうな女の声がスピーカーから聞こえた。

「ごめんなさい、怖がらせてしまって。儀礼は飛ばしましょう。あなたはなぜ逮捕されたか、おわかりですか?」

「なぜって。バビュ……彼を、こっそり連れ込んじゃったから?病院に」

「彼、とは?この審理室にいらっしゃいますか?」

 

 どうしよう。でも、もうバレてるよね?バビュール様も来てるってことは。捕まったわけじゃなさそうだし?

「……はい」

「では、指し示していただけますか?」

 サフィは振り返ってパヴルを見た。それはもう指し示したも同然だった。

 バビュール様、頷いた。いいよね?罠とかじゃないよね?

 

 サフィはパヴルを指差した。

「ありがとうございます、サフィーエ・サナル。主審問官殿。差し出がましい真似をいたしました。どうぞ、審理をおすすめになって」

 ヴェシリアが座り、またシルエットに戻った。ギュネルが声高く言った。

「パヴル・エルギュン。証言台へ」

 


 パヴルが黒いウォルナットの証言台に立つと同時に、サフィの箱が白濁し、ズィヤが再び現れた。

「証人は、真実を――」

 ギュネルの言葉が切れた。マイクになにかぶつかった音がした。

「失礼。儀礼は飛ばします。パヴル・エルギュン。あなたは、ズィヤ・シムシェキを知っていますか?」

 

 罠が張られたか。iVitraにも『ヤバいぞ!』とか『答えるな!』とか通知が来る。でも、僕だけ逃げるわけにはいかない。

「はい。この人です」

 パヴルはズィを見た。ズィは首を横に振っている。

「シムシェキとは、どちらで知り合いましたか?初めて会った場所は?」

 パヴルは素直に答えた。どうせ調べてあるんだろ。

「そこは、『いにしえの琥珀』という新興宗教団体の集会場だとご存知でしたか?」

「それは、たまたま――」

「はい、か、いいえ、でお答えください。ご存知でしたか?」

「……はい」

 

「あなたは、7月24日、シムシェキとメッセージをやり取りしましたね?」

 ……メッセージ?そりゃしたけど。それが?

「我々は、あなたとシムシェキのやり取りの記録を入手しております。こうあります……」

 壁のガラス窓の一部に、メッセージ・ログが表示される。

「シムシェキ――『やってみよう』

 エルギュン――『ileri』――これは、どういう意味ですか?」

 

 間違いなく罠だ。だが、なんの?ただの言葉遊び、ちょっとふざけてローマ軍の符牒を真似しただけだ。

「お忘れですか?では代わりに。これは、ローマ軍の符牒ですね。意味は、『作戦開始』」

「その通りです。でも――」

「7月24日。この日、あなた方のこのメッセージの直後に、何があったか覚えていらっしゃいますね?」

 

 まさか。冗談だろ?あの事件を僕たちのせいに?

「またお忘れのようだ。では思い出させて差し上げます。この日の午後2時過ぎ。フキュメット通りで、故意の轢き逃げ殺人がありました。不幸な犠牲者の名は、クルチュ神父。シムシェキは事件現場から徒歩数分の、アウグストゥス神殿にいたことが目撃されております」

 

「そんなの!たまたま――」

「偶然だとおっしゃる?まあそうかも知れませんね。偶然、シムシェキは現場の近くを歩いていた。観光ですかね?偶然、あなた方は、なにかの作戦を実行に移すメッセージをやり取りした。偶然。しかもあなた方は、クルチュ神父と聖テレーザ教会、そしてエキンジ司祭のことまで、いろいろと調べていたそうですね……偶然」

「なんだそれ?あんた、カアン・ギュネルだよな?僕たちは知ってるんだぞ!あんたがあの事件後なにをしたか。ズィになにを渡し、なにをさせようとしたか!証拠だって――」

「そうですか?私が?」

 ギュネルが立った。逆光が弱まる。

 

「私は確かに、カアン・ギュネル。その名と職務を正当に継承した、新たなカアン・ギュネルです。あなた方がご存知だった人物は、不幸な事故で亡くなりました」



 ズィヤは愕然とした。カアン・ギュネルと名乗ったこの男は、確かにあの骸骨とは別人だった。同じなのは髪と銀縁眼鏡だけ。背格好も人相も全然違う。

 

 符牒のメッセージや現場近くでの目撃情報は、単なるこじつけだ。こちらにはあのGTのiPada(タブレット)の画像がある。法的証拠能力はなくとも、反証として遥かに強力……そう思っていたのに、当事者がもう死んでいるのでは追求のしようがない。それどころか……もしここであの画像を叩きつけたとしたら、逆効果ではないか。捏造かもと疑念をもたれたら、世論も味方してくれない。むしろ疑いを深めるだけ、墓穴を掘るようなものだ。

 やられた。最初からこれが狙いだったのか。俺を嵌める気だと気づいたまではよかったが、その次元が違った。奴らの方がずっと上手だった。



 ズィ……ごめん、僕のせいだ。僕がもっと早くあの画像を動画にしていたら……僕らの方が先手を打っていれば……いや、まだだ。もうひとつ、確実な証拠がある。

 ステーションシックス。あの銃だ。暗殺銃。

 ズィは逮捕された時、自分の銃を持っていた。わざわざ入手困難な、しかも用途が限定されたあんな銃を手に入れたというのは不自然だ。ネットのみんななら、絶対そう思うはずだ。


「……あんた……あんたが誰だろうと、関係ない!こっちには、物的証拠があるんだからな!」

 パヴルはギュネルに人差し指を突きつけた。それからズィを見る。

 ズィは激しく首を振りながら、何か叫んでいる。声は聞こえない……でも僕にはわかる。わかるよ、ズィ!僕が、ズィの代わりに叫んでやる!

 パヴルは人差し指を突き出した腕をゆっくりと回した。後方に。

「この人!この人が、その証拠を持ってる!!」

 パヴルの指先には、伍長がいた。



「ほう。その方が、証拠を」

 ギュネルの口角が上がり、銀縁眼鏡の奥に光が宿った。一瞬だけだったが、ズィヤは見逃さなかった。

「では、見せていただきましょう。ダウェル・ユルトゥエル伍長。証人台へ」

 あの表情。勝利を確信した会心の表情。

 伍長が腹を押さえながら立ち上がった。ズィヤはその名を覚えていなかった。伍長としか、運転手としか覚えていなかった。


 

 猫背で、腹を押さえて、顔色がよくない。ふらつきながら、パヴルとすれ違う。

 パヴルは伍長に笑顔を向けたが、伍長は下を向いたまま。


「姓名を名乗っていただけますか?」

「はっ……はい……ダ…………ユ…………」

「申し訳ないが、もう少し大きな声で」

「ダウェル!ユルトゥエル!……」

「お仕事は、ローマ軍人ですね?」

「はい……軍人、というか……ただの、運転手で……」

「ご謙遜なさらず。あなたはシムシェキ少佐の運転手に、特別に選ばれた。そうではないですか?」

「そっ、そんな、特別なんて……」

「いえいえ。実は私も、元運転手なんですよ。わかります、大変責任のある仕事です。まして、シムシェキ少佐!ハチュル(十字軍)の英雄だ。名誉なことでは?」 

「はい。シムシェキ少佐は素晴らしい方です!ここで罪に問われるようなことは、なにも」

「そうですか?なんでも、エルギュンさんがおっしゃるには、あなたが――」

 伍長は顔を顰めて、苦しそうに前屈みになった。

「ユルトゥエルさん?どうされました?具合が悪いのですか?」

「い……いえ、緊張して……大丈夫です……」

 身体を起こした。手はまだ腹を押さえている。

「では審理を続けます。あなたが、シムシェキ少佐の無実の証拠を持っていらっしゃると……どこにありますか?」

「ぼ……ぼくは……」

 伍長の全身が震えていた。震えながら、腹を押さえていた右手をゆっくりと上げた。拳を握って。

「ぼ……ぼくは……ぼくだって……ぼくだって!!」

 伍長が絶叫した。そしていきなり右手を振り下ろし、腹を拳で殴りつけた。そう見えた。


 伍長の身体が白く光った。

 閃光、轟音、衝撃。

 そして絶望。

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