10 背負うもの
ぼくだって。
痛みはほんの一瞬だった。拳は、腹ではなくベルトのバックルに叩きつけられた。バックルの中にスプリングがあり、叩かれた衝撃で解放された。スプリングの先のピンが、2.1ミリ先にセットされた打撃式雷管を突いた。
雷管が破裂した。乾いた打撃音がし、針のような衝撃波が、そこから僅か数センチ先の胃の中に飲み込んでいた1キロのC4プラスチック爆薬に突き刺さった。
爆発。何も感じなかった。知ってたからだ。腹を殴られる痛みを。
何度も何度も、腹を殴られた。子どもの時から、何度も何度も。顔を殴られるより、ずっと痛いし辛いんだ、腹は。
父さん。
お酒を飲んで、酔っ払って、ぼくの腹を殴る。
母さん。
ぶつかって物を壊したりするから、ぼくの腹を殴る。
兄さん。
ぼくの方が背が高いから、ぼくの腹を殴る。
毎日毎日、何度も何度も。
学校でも同じ。背が高いせいだ。背が高くて痩せていて影が薄いから、すぐ何かや誰かにぶつかる。そしてみんな、ぼくの腹を殴る。ぼくのせいだってわかってる。ぼくがばかでのろまで、だめだから。
だから身体を縮こませて、少しでも小さくなりたかった。背を丸めて、少しでも。ぼくなんか、なにもできない。わかってた。
ぼくの腹を殴らなかったのは、じいちゃんだけだ。
じいちゃん。
なにもできないんじゃない。なにもしてないだけだって、じいちゃんはいつも言ってた。そして、バクラヴァをくれた。高いのに、いつも買ってくれた。甘くておいしいバクラヴァ。
ダウェル、おまえは背が高い。それを悪いことだなんて思うな。自信を持つんだ。おまえはきっと、すごいことができる。頑張ってみろ。
バクラヴァを食べるぼくに、じいちゃんはいつもそう言ってくれた。
中学でも、みんなぼくの腹を殴った。邪魔だから。ばかだから。のろまだから。だめだから。でも一番背が高いのはぼくだ。みんなより遠くが見えるし、何かできるはずだ、ぼくだって。
TVで、すごく背が高くて大きな軍人さんが、ハチュルで大活躍したってニュースを見た。シムシェキ少尉。憧れた。あんな風になりたい。なれるだろうか?きっとなれる。ぼくだって。
高校でも、みんなぼくの腹を殴った。でも我慢した。我慢できた。頑張って腹筋だって鍛えたし、高校を卒業したら兵隊になるんだ。シムシェキ少尉みたいに、英雄に。ぼくだって。
士官学校の試験はだめだった。でもあきらめるもんか。英雄になるんだ。士官になれなくても、頑張れば英雄になれる。ぼくだって。
卒業して、志願して兵隊になった。訓練も頑張ったけど、あんまりうまくいかない。みんなぼくの腹を殴った。サンドバッグみたいに。ちょうどいいって。
運転だけは褒められた。ぶつかるのはもう嫌だったから、頑張った。ぼくが褒められると、みんなぼくの腹を殴った。サンドバッグのくせにって。
友だちは1人もいなかった。エーミットだけが楽しみだった。バビュールが大好きだった。コメントしてみた。頑張って。コメントなら、腹を殴られないし。
バビュール!ぼくのコメントを拾ってくれた!嬉しかった!シムシェキ少尉、いや少佐とバビュール、ぼくのヒーロー!
奇跡が起きた!シムシェキ少佐がアンキュラに来る、それだけでも興奮したけど、ぼくが運転手に選ばれた!一番驚いたのは、それからもう一度も、腹を殴られなくなったことだ!じいちゃん!ぼくにもできた!ぼくだって!
でもあの日。シムシェキ少佐が逮捕されたあの日の朝。もうずっと入院してたじいちゃんが死んだ。何度もお見舞いにいって、ピンクの髪の綺麗な看護師さんに声かけられて。嬉しかったのに、じいちゃんが死んだ。
任務は休まなかった。休みたくなかった。シムシェキ少佐の大事な日だってわかってたし。そしたらバビュールにも会えた。じいちゃんのおかげだ。
運転席から見てた。ぼくの2人の英雄が、戦いに赴く決意を固める瞬間を。
アイシェおばさんがバクラヴァをくれた。エモが大好きだったのって。ぼくもですって言ったら、喜んでくれた。涙が出た。じいちゃん。
シムシェキ少佐とバビュールが、ぼくに銃を預けてくれた。英雄たちのための任務。ぼくを頼ってくれたんだ。じいちゃんの言ったとおりだ。すごいことができる、ぼくだって。
でも、シムシェキ少佐は逮捕された。バラバラに分解された銃だけが残った。じいちゃんが死んで、シムシェキ少佐も逮捕されて。黒くて怖い、あの銃だけが残った。
シムシェキ少佐は悪い人じゃない。英雄だ。絶対戻ってくる。信じてたから、教会のそばでずっと待機してた。他の運転手が挨拶に来て、運転手仲間に紹介してくれた。ディルシズ。仲間になろうって誘ってくれた。
シムシェキ少佐が戻ってくるまでなら、と思った。だってぼくには、他にできることなんかない。
いにしえの琥珀。K.K.
ディルシズの仲間に誘われて集会にいった。みんなぼくを褒めてくれた!シムシェキ少佐の運転手。英雄の運転手も英雄だって!
誰もぼくの腹を殴ったりしない。その話をしたら、肉体なんて関係ないって教えてくれた。背が高いか低いかなんて関係ない。大切なことのためなら、肉体を捨てたっていいんだ。死んだっていい。じいちゃんも、死ぬことを怖がってなんかなかった。ぼくだって。
でもあの銃は怖かった。持っていたくなかった。だから川に捨てた。K.K.の人たちが、そうしろって、それでいいって言ってくれた。
なのに。召喚された。GTが怖かった。あの銃があればシムシェキ少佐を助けられるって、ディルシズの人たちが教えてくれた。探すのを手伝ってくれたのに、見つけられなかった。情けなかった。ぼくのせい。ぼくがだめだから、弱虫だから、シムシェキ少佐を助けられない。全部ぼくのせい。ぼくが全部悪いんだ。
もう死のうと思った。じいちゃんもシムシェキ少佐もいないのに、生きててもしょうがないって思った。
K.K.の人たちが、優しく話を聞いてくれた。大丈夫だって。ぼくにもまだ、できることがあるって。ぼくだって。
体なんて壊れたっていいんだって。体なんて壊して、魂だけになれば誰かにぶつかることもない。腹を殴られることもない。死ぬ気になればなんだってできる。エンデューラ。そう言って、C4を1キロくれた。小さく分けて飲み込め。腹を殴られるのはもう嫌だろって。バックルの作り方も教えてくれた。本当に爆発させるわけじゃない。覚悟を決めるんだって。死ぬ気になればなんだって出来る。ぼくだって。
そして、今日。審問会。怖かった。怖くて怖くて、震えてた。
ぼくは、なぜこんなところに……シムシェキ少佐の審問会。召喚された。なぜぼくなんかが。ただの運転手だ。ぼくはなにもしてない。なにもできない。
でも、あの人が言った。元ディルシズのあの人。
そうだ。シムシェキ少佐は英雄だ。ぼくの憧れ。ぼくはなにもしてない。できない。そんなんじゃダメだ、シムシェキ少佐みたいに、勇気を出すんだ。
勇気。覚悟。死ぬ気になればなんだって出来る。ぼくだって。エンデューラ。ぼくだって。
なんでだろう。いつのまにか、叫んでた。絶叫していた。右手が勝手に動いた。腹を殴った。
なんでだろう。世界が真っ白になった。
そしてなにもわからなくなった。
白い光。無音。
……ィィイイ---ンン 耳鳴り。
凄まじい爆音と衝撃波が一瞬のうちに審問室を支配し、そして消えた。血と肉片、煙、粉塵、木片が飛び散り、舞い、散乱した。
真ん中に、黒い塊だけが残っていた。
伍長の絶叫、そして右手が振り下ろされた時、ジェイの身体が反応した。
瞬間的に翼が膨らんでパヴルとマドレーヌを抱き込み、分厚い濡羽色の羽毛の壁が、ジェイを含めた3人を覆った。
爆発で吹き飛んだ証言台のウォルナットの木片が散弾のように翼を直撃したが、翼そのものは無傷だった。しかし僅か数メートルの至近距離での爆圧は、ジェイたちをベンチごと後方へ押し込み、後列に座っていたマスコミの3人を押し潰した。
巨大な十字架型の照明を吊るしていたワイヤーが固定ボルトごと引きちぎれて、照明が落下した。爆心から離れた出口の上の、十字架の下部に当たる部分は壊れず、頂点部分が床まで落ち、斜めになって審問室を前後に分断した。ズィヤとサフィが入っていたガラスの箱は爆風に耐え、照明の直撃も免れて健在だった。
ズィヤは伍長が爆発するのを至近距離で見ていた。ガラスの箱の中で。
フィリスティンで、見慣れていた光景だった。地雷。銃撃。誤爆。イエロソリマでは、ゲリラの自爆テロも何度も目の当たりにした。閃光。轟音。爆風。衝撃。飛び散る人間の身体。血と肉片。
これが違うのは、ガラス越しということだけだった。
透明だったガラスが、突然細かい亀裂で覆われ、何も見えなくなった。同時に内側がたわみ、膨張した。
内圧の変化で耳がおかしくなったが、すぐに解消された。ドアが開放されていた。衝撃でロックが壊れるフェイルセーフ。シアピンが折れたのだろう。
少しふらつきながら、箱の外に出た。暗い。なにかの破片を踏んで、嫌な音がした。うっすらと煙り、空気が熱を帯びている。
違う何かを踏む音がしてそちらを見ると、女が呆然と立っていた。開いたガラス箱の前に。告解箱の隣人か。
ピンクの髪。思い出した。サフィだ。パヴルの協力者。看護師。
「大丈夫か!ケガは?」
サフィがズィヤを見た。紫色の瞳。涙目。
2人の間に、大きな白っぽい柱のようなものが斜めに横切っている。跨ぐには高過ぎ、くぐるには低過ぎる。
高くなっていく方を見た。
2つの告解箱の間を、部屋を縦断して、先は天井に近い。出口がある。大きな扉が爆風で外に開いたらしい。明かりはそこだけだ。
斜めに部屋を仕切っている白い柱のようなもの。これはなにか。その下に……あれは。あれこそなんだ。黒い……繭のような……有機的な物体。
破片を踏みつけながら、慎重に近づく。横の壁際に迂回してもよかったが、まずサフィにケガがないか確認したかった。この部屋で生きて動いているのはサフィだけだから――と思った途端、黒い繭が動いた。
足が止まった。サフィもだ。
白い物体の下で、黒い繭の外装がゆっくり、左右に開いていく。翼が広がっていくように……いや、これはまさに翼だ。鳥の翼。ただ、恐ろしくデカい鳥だ。夢か?俺はまだ、独房にいるのか?
サフィが小さな悲鳴をあげた。悲鳴というか、息を呑むような音。翼が開いた。
パヴル。生死がわからない。ブロンドの若い娘。そして、2人を抱きしめている男。血だらけだ。見ているものが理解できない。男が動いた。生きている。あの爆発で。
サフィは躊躇うことなく、怪我人に駆け寄った。黒い翼も白い柱みたいな物体も、この理解し難い状況も、怪我人を目前にしたサフィを止める理由にはならなかった。看護師なのだ。
「大丈夫ですか?どこが痛いですか?」
サフィにはパヴルは見えていなかったが、近寄ってすぐに気づいた。血だらけの男の右腕に抱かれている。左腕には若い女。意識があるのは血だらけの男。
「……大丈夫。ケガはない」
「いやいや。出血してますからね?あたしは看護師です。見せてくださいね」
男は上体を起こそうとして、顔のすぐ前にあった白い物体に頭をぶつけた。物体が揺れ、ギシギシと音がした。
「気をつけて。ゆっくり起きましょ」
出血箇所は無数にあるが、出血量は大したことなさそうだ。サフィはパヴルと若い女を素早く見比べ、女の首筋で脈をみた。生きている。
「……う……」
サフィが触れると、女の意識が戻った。
「……ジェイさま……」
「……サフィ!」
「バビュール様……良かった」
ズィヤは一瞬、自分を恥じた。戦場でもそうだった。怪我人に出くわすと、即座に的確に動く衛生兵。いつも一歩遅れる。
「生きてるか。良かった」
「痛いところがある人はいませんか?みなさんケガは――」
サフィの言葉が切れた。パヴルたちの後ろを見ていた。
酷い有り様だった。赤黒い塊り。人が、たぶん2人以上。潰されている。ベンチに挟まれて。生死を確認するまでもなかった。1人の顔面に、大きな木片が深く突き刺さって、頭は歪に変形している。男か女かもわからない。その隣は……そうなのかとわかるまで、ちょっと時間がかかった。首がない。さらにもう1人。子どもかと思ったが違った。腰から下がない。
「みんな、大丈夫か」
ズィヤは改めて、パヴルたちの無事を確かめた。
「ジェイさま!……わたし……」
若い女が泣き崩れた。パヴルが立ち上がった。
「ズィ……良かった」
「パヴル。とりあえず、ここを出――」
バチン!と頭上でなにかが弾ける音。
白と黒が同時に動いた。
ズィヤは反射的に飛び退いた。パヴルも。サフィも反対側に避けた。
だがマドレーヌは、ジェイの胸に顔を埋めていたマドレーヌは気づくのが遅れた。動けないマドレーヌと瞬時に身体を入れ替えて、ジェイはマドレーヌに覆い被さった。マスコミの骸の上で。
空が落ちてきたかのような重圧。押し潰される。
白い巨大な十字架の照明ユニットが、ジェイの翼にのしかかる。
両腕、両肩、胸、背中、腰、尻、両脚。あらゆる筋肉が膨張し、絶叫している。肘がずぶずぶと、骸を押し潰して沈む。翼が軋む。呻き声も出ない。全身の皮膚の裂け目から、血が吹き出す。額の血管が破れ、視界が真紅に染まる。血が、マドレーヌの顔に滴り落ちる。
心臓。異常に激しく胸を叩く鼓動。血の滴りはもう滴りではなく、流れ落ちている。真紅だった視界が暗く、暗褐色になる。意識。意識が遠のく。
二の腕の筋肉がピクピクと痙攣し、骨が軋む。
マドレーヌが血塗れの顔を歪ませて、掠れた声で叫ぶ。
「ジェイさま!ジェイさま!死んじゃう!」
ふっと、翼にのしかかる重圧が少しだけ軽くなった。
「ぉぉぉおおおおっっ!」
ズィヤが吠える。
ズィヤは十字架を持ち上げようとしていた。パヴルもサフィも一緒に。全員が叫んでいる。
歯を食いしばり、最後の力を振り絞ってズィヤを見た。ズィヤのヘーゼルの虹彩がジェイの黒曜石の瞳を捉えた。虹彩が絡む。
ジェイエルが、ジェイ・ロルトの肉体を超越した。シャツが張り裂け、ベルトが弾け飛んだ。皮膚の下から黒い羽毛が突き出て下半身を覆った。革靴が破裂し、鎌のような鉤爪が飛び出す。
ジェイの身体が膨れ上がって巨大化した。
白い十字架が跳ね上がる。
ジェイエル。
真の姿。
鉤爪がウォルナットのベンチの残骸を引き裂き、大理石の床を砕く。
十字架が再びのしかかるが、黒髪が逆立ち、白いポリカーボネイトの照明カバーを粉々に突き破る。両眼が赤黒いオーラを放ち、正面を見据える。巨大な濡れ羽色の翼が十字架を跳ね除ける。
異形の、半人半獣のものが、出口に向かって這い出す。残骸、遺骸を擦り潰して。
畏怖。
パヴルもサフィも、ズィヤでさえも、圧倒され、怯えて、尻餅をついて後退りした。
マドレーヌだけが、血と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、恍惚として、そのものの首にしがみついていた。
「か……閣下!あれは!」
ギュネルが悲鳴に近い絶叫をあげた。
ヴェシリアは目を見開いて、審問室を這い出て行くそれを見つめていた。
心臓が。母の心臓の鼓動がうるさい。それを感じてしまうと、他の音がかき消される。
胸に手を置き、カソックの上から傷をなぞる。
書記官が我を忘れ、情けない悲鳴をあげながら審問官室を飛び出していった。
全貌は見えない。落下した巨大な照明ユニットが邪魔だ。だが、500キロあるはずの物体を、あの怪物は弾き飛ばしたように見えた。
「閣下!……あれを、どうします……」
「どうします?あんなもの、どうしようもないですわ。我々の手に余る。ほっときなさい」
「ほ……ほっとく?しかし……」
「まあ。あなたはあの怪物を捕まえられるというの?ひねり潰されるだけですわ」
ヴェシリアはもうギュネルには構っていなかった。コンソールを操作し、モニターを切り替える。
中央審問室前のカメラ。エルギュンが映っているが、怪物も他の者も見えない。エルギュンもすぐにフレームアウトした。次にフレームインするのは……祭壇のカメラか。いない。
いや、画角に入ってきた。シムシェキ。男を背負っている。怪物の姿はない。縋りつくマドレーヌ嬢。男の血を拭きながら歩くサナル。少し遅れてエルギュン。
わたしとしたことが。見惚れてしまった。アクシデントだったとは言え、対応が遅れた。怪物を映像に残せなかった。
あの男。シムシェキに背負われている男が、あの怪物に変身した。翼のことは想定していたが、まさかその上があるとは。
想定。今回は想定外が多過ぎた。ヴェシレを遠ざけることは出来たが、ユルトゥエルが……まさか自爆するとは。コンシリウムとは大きく違う経過となった。結果は同じだからよしとするしかない。
カメラを礼拝堂出口からのものに切り替える。祭壇から出口までの50メートルの身廊を、シムシェキたちが歩いている。
「いいか。手を出すな。化け物だ。我々の手には負えん」
ギュネルが指示を出している。それでいい。あの者たちがこの大聖堂を出る時。その時が完遂の時だ。
セクンダ・ファシスの。
「"Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto."
」
栄光。父と子、そして聖霊。
スピリチュイ・サンクト。
コジャテペに集結した10万人の大合唱は続いていた。18時、太陽は西に傾いて、アンキュラのテラコッタの屋根を燃え上がらせている。
「"Sicut erat in principio, et nunc,"……」
創世から、今この時まで……
「……"et semper, et in saecula saeculorum."……」
……絶え間なく、終わりもない。
真実。




