7 de sede
【2025年8月6日13時48分 コンスタンティノープル、アヤソフィア大聖堂、隣接ヘリポート】
手縫いの本革が張られた最高級のキャプテン・シート。執務室のチェアよりも豪華なVIP専用席に、ヴェシリアは座っていた。テーブルを挟んだ向いに2人のSP。公務臨向プロトコルの随行編成だ。急な進発であることを除けば恒常的な搭乗だった。
静かに羽根を休めていたアイテリスH160は、ヴェシリアがVIP席に落ち着いてから僅か2分で1300shpのエンジン2基を始動させ、エレベーターが上昇するようにスムーズに離陸した。機内は静寂が保たれ、まるでホテルの一室のよう。必要ならコーヒーや軽食も用意されている。
ヘリは高度30メートルまで垂直上昇した。大宮殿を見下ろし、さらに高度を450メートルまで上げながらボスポラス海峡を渡ると、東南東、方位角110度に向け約350キロを一直線に飛ぶ。
特別使徒保安庁アンキュラ支局への到着予定時刻は、15時20分。
【13時49分 アンキュラ・ウルス地区】
アリーはおもしろくなかった。
"いらつきおんな"と"ぶろんどおんな"。嫌いな人間が2人揃ってロルフに乗っている。"いらつきおんな"は嫌いだけど仲間だからまだいい。でも"ぶろんどおんな"は?やっぱり仲間なんだろうか?私に悪口言ったのに。
アリーは別に、"おんな"が嫌いなわけではなかった。嫌いだと思った人間がたまたま2人とも"おんな"だっただけだ。
でも今、最大の問題はそれじゃなかった。
猫人間。アリーにとっては猫人間が攻めてきたことの方が大問題だった。たくさんの猫人間がこないだよりずっと近くまで来ている。なのに、ジェイたちは出て行こうとしている。猫人間の群れの中に。
アリーの天敵、猫は、ほとんど単独行動だ。たまに何匹か一緒にいることはあってもすることがバラバラだ。でも猫人間は違う。協力している。話し合って、ぶつかったり喧嘩したりしないようにしている。ジェイたちが出て来たらどうするんだろう?猫人間と話すんだろうか?人間語?それとも猫語?
ガスパールは恐ろしかった。
マド。愛する一人娘が悪魔の人質になるなんて。
なぜこんなことに。"あの方"の言いつけに背いたからか?"あの方"は、悪魔には構うなと仰った。それなのにモローの奴が勝手に捕まえてきたのだ。私は知らなかった。知っていたらモローの勝手など許さない。悪いのはモローだ。
モローが惨めに逃げた時、この悪魔も逃せばよかった。なぜそうしなかったのか。ばかだった。モローはDGSEの任務で悪魔を捕まえようとして失敗した。私が捕まえておけば、DGSE、引いては王国に対しての切り札として使える。そう思ったのだ。ばかだった。命令されたことだけをやっておけばよかったのに。こんなことになるはずではなかったのに。
マド。何とかマドを助けたい。でもどうしたらいいのか。
アンジーは冷静だった。
アンジーにとって何よりも重要なことは、マドレーヌの身体を護ることだった。傷ひとつつけず護らなければならない。
今マドレーヌは、悪魔に刃物を突きつけられ、裸同然の姿で連れ去られようとしている。
ここは行かせてやろう。どこに行こうと我々ならすぐに見つけられる。我々はどこにでもいるのだから。
まず父親を落ち着かせよう。今一番マドレーヌの身体にとって危険なのは、父親が感情的になって無謀な行動に出ることだ。ついでに父親は支配下に治めてしまおう。
正門が静かに開いた。ロルフの前に道が開けた。ヴィはゆっくりと車を進めた。
向いの林からたくさんのフラッシュ。バビュルスたちだけではなく、マスコミも集まっていた。ヴィはフラッシュに目をやられないよう気をつけながら、左にステアリングを切った。そしてロルフは今度こそ、フランク王国領事館の敷地を出た。
パヴルはiVitraを再び装着しアンテナマークを凝視していた。正門を抜けた瞬間、一気に全開になった。アンテナも、パヴルもだ。
「バビュールでーすッ!ごめんなさい、お待たせしました!ちょっと電波が悪くって。でももう全開」
コメント欄はもう光の帯だ。スィビラの通知も読める速度じゃなかった。ものすごい勢いで拡散されている。
「これ見て!すごいよみんな!」
パヴルが周囲を見回すと、バビュルスたちの壁が映る。文字通りの壁だ。パヴルが両手を高く振ると、拍手と大歓声が湧き起こる。
ヴィが驚いたのは群衆の数だけではなかった。門を出た時にすぐ気づいたが、人々は統制されていた。いや、されてはいない。自発的に動いていた。人々は道路にもたくさんいたが、車が一台通れる道を開けてくれていた。ヴィが左折して教会側、つまり東に向かうと、西側、ヴィたちの背後はあっという間に人で埋まった。相変わらずフラッシュは眩しい。それはまるで光の海だった。大袈裟かもしれないが、モーセになった気分だ。
人々は連呼していた。
バビュール、と。シュプレヒコールとかではない。ばらばらだった。圧倒的にバビュールだったが、前回の配信を観た者の中からは、パヴル、という声もあった。だが似ていることもあり、この喧騒の中ではもはや聞き分けることは不可能だ。
マドレーヌ、という声もかなり聞こえた。だが圧倒的にバビュールだった。
マドレーヌは震えていた。もちろん恐れではなく、興奮のあまり。こんな光景は初めてだった。エクスの凱旋門のパレードとも比較にならない。
パレード。そう、これは脱出なんかじゃない。パレードだわ!なんて素敵なパレード!
私の名前はあまり呼ばれてないけど、そんなのどうでもいい。こんなにたくさんの人が集まって、あんなにフラッシュが焚かれて。変なお面してる人もいるけど、でもみんな、この人のために集まったんだ!すごい、世界一すごい!
「やっぱりあなたは、私に相応しい方ですわ!私のジェイさま!!」
ジェイはマドレーヌを見た。
「いや、おれじゃないよ。ここにいる人たちを集めたのはパヴルだ」
「そんな、ご謙遜ですわ。奥ゆかしくて素敵ですけれども。パヴル?どなた?」
ジェイは説明しかけたがやめた。どうせパヴルには聞こえてないだろう。左手を顔の前にあげる。マドレーヌの右手ごと。それから、カッターで結束バンドを断ち切った。
「え?ジェイさま?!」
「もういらない。これも」
ジェイはカッターの刃を引っ込め、上着のポケットにしまった。
「ありがとう。君のおかげで脱出できた。もう帰っていいよ」
マドレーヌは耳が信じられなかった。帰っていいよ。そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。無礼極まりない。普通なら。
「ジェイさまーッ!」
怒るかわりに抱きついた。
「私のことをそれほどまでお気遣いくださるなんて!マドレーヌは嬉しいですわ!」
ジェイはため息をついた。
(アリー、おいで。白爆弾はなしで)
アリーが舞い降り、直前でゴーアラウンドしたが、すぐに急旋回してジェイの右肩に止まった。
ジェイはアリーを撫でた。
パヴルには後ろの会話は聞こえていなかった。ヴィにも。
ヴィは運転に集中していた。モーセのように光の海が割れているとはいえ、人々が手の届きそうな近さに並んでいるのは現実だ。モーセなら濡れるだけだが、この人たちを怪我させるわけにはいかない。24年暮らした聖テレーザ教会すら目に入らなかった。元々安全運転なヴィだが、あの事故以来さらに慎重になるのは当然だった。
ロルフは時速10キロ以下でゆるゆると進んだ。追跡車の心配はなかった。物理的に不可能だ。もしガスパールか、あるいは忠誠心か出世欲かに囚われた衛兵の誰かが徒歩で追いかけようとしても、この群衆をかき分けるのは無理に思えた。それほど密度が濃い。急ぐ必要はない。
光のパレードはやがてイペク通りのT字路に到達した。GTの検問所はもうなかった。ヴィが右にウインカーを出すと、また人々の波が揺れ動いた。右方向だけに道ができる。
「いいのね?パヴルくん?このまま行っちゃっても」
「行きましょう!今しかない!」
ヴィは慎重に右折を始めた。リアシートの2人が背もたれから降りて正しく着席した。ジェイの身長では狭過ぎ、マドレーヌでさえ膝を運転席の背中にぶつけた。
ヴィはルームミラー越しにリアシートの2人を見た。マドレーヌがジェイの左腕にしがみついている。両腕を、がっしりと絡めて。
ふん、と鼻で笑って、ヴィは再び運転に集中した。
イペク通りは領事館前の路地よりは広いが、それでも片側一車線。通常でもさして広い道路ではなかったが、エヴィ公園の草地から人々が溢れ出て来ていた。対向車線は人々で埋め尽くされ、走行車線もロルフに合わせてやっと道が開かれていく感じだ。速度はさらに落ちた。ヴィはロルフがATであることに感謝した。
「みんな!聞いてくれ!」
パヴルは世界に向けて叫んだ。
「僕たちは今から、コジャテペに行く!GTのやつらが使徒の丘と呼ぶあの丘に!着いてきてくれる?!」
大歓声があがった。パヴルの肉声が届いているわけではなく、皆手持ちのデバイスでライブを観ているのだ。
「僕たちは我慢してきた!ハチュルで家族を失くしても、パンが買えなくても頑張ってきた!」
怒号。賛同の怒号だ。
「何のためだ!聖戦?聖地?それがなんだ!教皇庁のため?神様のため?そんな神様は偽物だ!神様の奴隷になる気はない!」
パヴルは今や、涙を流していた。なぜだが自分でもわからない。興奮のあまり感情をコントロールできない。
「スヴェイシュは何のため?何のためのハチュル?やつらだ!やつらが儲けるための戦争だ!もううんざりだ!そうだよね!!」
凄まじい反応。群衆の怒りが爆発しそうだ。
「今から僕たちはコジャテペに行く!使徒の丘じゃない、僕たちのコジャテペだ!GTなんか追い出してやる!偽の聖職者どもを引き摺り下ろして……」
激しく咳き込んだ。急に大声を出したからか。
「……ごめん。とにかく――」
「……"Magnificat anima mea Dominum"……」
突然、ヴィが歌い始めた。低い小声で、だがしっかりとした旋律で。
「……"Et exultavit spiritus meus in Deo salutari meo"……」
グレゴリオ聖歌。『マグニフィカト』だった。パヴルは驚いた。なんで今、聖歌を?ヴィってそんなキャラだっけ?
「あーその歌、知ってますわ!」
マドレーヌが反応した。
「……♪"Quia respexit humilitatem ancillae"(だって、こんなわたしを見て……)」
マドレーヌは"ancillae"という音が気に入っていた。ラテン語なんて意味わかんないけど、なんか楽しい!
「……"Quia fecit mihi magna qui potens est"……」
ヴィとマドレーヌは期せずしてハーモニーを奏でた。パヴルのiVitraが、その歌声を拾って全世界に届けた。何人かが、自分のデバイスから流れるその歌を口ずさみ始めた。教皇庁に支配されたこの国で生まれ育ち、幼い頃から聖歌を耳にしてきた人々が、ある者は正確に、ある者は鼻歌で。
「……"Deposuit potentes de sede, et exaltavit humiles."」
権力者を引き摺り下ろし。
ヴィはもう小声ではない。高らかに歌っていた。
「"Esurientes implevit bonis, et divites dimisit inanes."」
飢えを満たして、やつらを放り出せ。
僕たちの歌だ。
パヴルは確信した。これだ。この歌が、みんなを落ち着かせ、同時に燃え上がらせてくれる。
「みんな!聞こえる?みんなで歌おう!」
パヴルは一拍置いた。決めるんだ。
「革命の歌だ!」
【14時01分 マルマラ海上空】
「……"Deposuit potentes de sede"……」
アイテリスH160のキャビンに、ヴェシレの清らかな歌声が響いていた。
権力者を引き摺り下ろす。ヴェシレがそう歌っている。笑顔で。
バビュールのライブが始まった時からヴェシリアはiPadaでエーミットを観ていたが、そこに映ったものはほぼ、ヴェシリアの想定内だった。これもコンシリウム通り。パヴル・エルギュンを泳がせたのはこのためだったし、愚かな民衆が扇動されて革命の火蓋が切られるのも予定通りだ。
そう思った次の瞬間、エルギュンが車内を見回してカメラがそれを捉えた。
ヴェシレ。なぜそこにいる。そして、マドレーヌ・ド・ガスパール。
ジャーレ・ロルトとニシコクマルガラスも映ったが、それはいい。エルギュンがこの異形のものを協力者に選ぶのも、上方修正したコンシリウム通りだからだ。これがセクンダ・ファシスの始まりだった。
だがなぜ。なぜヴェシレも一緒なのだ。
ヴェシレを、24年の間ゆりかごだった聖テレーザ教会から隣のフランク領事館に移したのは、この革命の嵐から遠ざけるためだった。それまでの清貧な生活から、フランク王国という物欲に塗れた俗社会へ。ヴェシレはその贅沢に最初は圧倒され、やがて享受するはずだった。クルチュを失った悲しみから逃れるために。
まさか、ジャーレ・ロルトか。あの翼を生やす謎の男を愛したというのだろうか。あんな浮浪者然とした中年男を。
愛。それはヴェシリアにとって唯一、計算できない変数だった。ヴェシリアが愛を知らないからだ。
もちろん知識としては知っている。だがヴェシリアを愛した唯1人の人は――母は、その命をヴェシリアへの愛ゆえに失った。ヴェシリアはそれ以来、誰一人、愛したことはない。
「どうして、ヴェシレと会ってはいけないのですか?」
17の時、ヴェシリアは父に尋ねた。父が、ヴェシレに誕生日プレゼントを贈ったと話したからだ。ヴェシレが預けられている聖テレーザ教会の、クルチュという神父にお金を送ったのだという。ヴェシリアも妹に誕生日プレゼントをあげたかった。おめでとうって言ってみたかった。なのに。
「必要がないからだ。ヴェシレはお前のスペアだ。スペアに用があるのは、お前の身体が壊れた時だけだからな」
あの時はまだ、父の言うことは絶対だった。父がこの世の理だった。そう父に教え込まれていた。
「お前の命は母さんを殺して繋いだ命だ。お前の身体が大切だから母さんは死んだ。だからお前にまた何かあったら、お前の罪は償えない。罪を償うためには情など邪魔になるだけだ。だからヴェシレとは会ってはいけないのだ。わかるな?」
自分が父に洗脳されていることにヴェシリアが気づいたのは、審問官として独り立ちしてからだった。それから16年、彼女は父への憎しみと、そして復讐への渇望を糧に生きてきた。
コンシリウム。そのために16年間熟考と準備を積み重ねてきた、ヴェシリアの生きた証だ。そこに……そこに、ヴェシレはいるべきではない。
とりあえず今日、あそこからヴェシレを引き離さなければならない。
ヴェシリアは少しの間考え、そしてメッセージを打ち始めた。ギュネル宛に。
『明日の審問会を繰り上げる。本日16時』
急過ぎるのは承知の上。ギュネルならやれる。これでヴェシレは排除可能だ。だが同時に、コンシリウム全体も前倒しになる。
「……♪"Quia respexit humilitatem ancillae"」
マドレーヌ・ド・ガスパール。この知性の足りない小娘の存在も、ある意味計算を狂わせる。
ヴェシリアは続いて電話をかけた。
「セレンです。……ええ、今知りました。このたびは大変な御心労、お察しいたします……ええ、本当に。ガスパール副領事」
【14時09分 アンキュラ、フランク王国領事館、副領事執務室】
ガスパールはiPortaを置くと、深いため息をついた。安堵?いや、自分でもわからない。
セレン首席審問卿。ローマを牛耳る特別使徒保安庁のトップが自ら、マドの救出に尽力すると言ってくれた。心の底からありがたいと思った。彼女のことはよく知っている。頭脳明晰で優秀。ローマでは教皇猊下に次ぐナンバーツーと噂される女。36歳だったか。その若さで超大国のナンバーツー。やり手だ。信頼できる。そして――貸しがある。
セレンに初めて会ったのは先月だったか。エクスで、転勤のための準備もおおかた片付いた頃だった。突然の訪問で驚いたが、個人的な渡仏だという。あるシスターの保護を頼まれた。関係は言わなかったし、私もあえて訊ねるような不粋な真似はしなかった。それが社交というものだ。まあよく似ていたし、名前もヴェシリアとヴェシレ。恐らく公に出来ない親族か何かだろう。
生臭い匂いがした。ガスパールはその匂いに敏感だった。だからこそ、今の地位があるのだ。
ガスパールは快諾した。もちろんその時もその後も、代償を求めたりはしなかった。そういうものはこちらから求めるものではない。相手に懇願させるのだ。頼むからこの金を受け取ってくれ。頼むから力にならせてくれ、と。
セレンは今回、懇願したわけではない。だが、恩着せがましい言い方でもなかった。当然だ。私に借りがあるのだから。
マドのことは死ぬほど心配だ。だが、政治家の娘に生まれたのだ。こういうこともある。
セレンは言っていた。この騒ぎは革命の火種になるやもしれません。お国にご迷惑では?と。迷惑どころかこっちはそれを望んでいるのだが、そんなことを悟らせはしない。王国の力を使う時ではない。
K.K.だ。今こそ、やつらにも借りを返してもらおう。
ガスパールは再びiPortaを手に取り、あちこちに電話をかけ始めた。
【14時12分 ニカイア湖上空】
アイテリスH160はマルマラ海を渡り、アナドル高原に入った。眼下前方には、マルマラ海より少しだけ濃い青、少しだけ緑がかったテュルキッシュ・ブルーの水面が見える。
ニカイア湖。『ニカイア公会議』の地。キリスト教の基礎となる教義が確立した場所。現代ローマの基礎となった地と言えるかもしれない。
そのニカイア湖上空450メートルを、さらに高度を上げながら巡航速度時速225キロで飛ぶアイテリスH160の静かなキャビンから、ヴェシリアはアナドル高原を眺めていた。
ガスパール。やはりあの男も……いや、おそらく個人ではなく国だろう。王国もそうなることを望んでいる。そのための『いにしえの琥珀』なのだろう。それも利用させてもらうとしよう。
今は青と緑が美しい大地。だが彼方のアンキュラでは、蛇たちがとぐろを巻いている。
互いの尻尾に噛みつき、血を流しながら。
iPortaが振動した。ギュネルからの返信。
『本日16時、承知いたしました。目と耳と籠は対応させました。……声も間に合わせます。お任せを』




