5 ネクサス
【8月6日昼前 Mission Elçilik Day2】
Wiaの配送が届いた。ノートPCの箱程度の大きさ、重さも4キロくらい。伝票には、『PCアクセサリー』。
「中身を見せなさい」
マダム・ヴェスパーは、休みなのにこのためだけに起きてきた。やっぱり鉄製だ、このおばさん。
パヴルは言われた通り、その場でパッケージを開けた。梱包材に埋もれて、白い箱がある。大きく『Minor』とだけ書かれたシンプルなデザイン。取り出して、開ける。
また『Minor』とだけ書かれた厚紙が一枚。スタートアップガイドだ。もしこれをマダム・ヴェスパーが読んだとしても、バレる恐れはない。簡単なイラストだけで文字がないのだ。イラストは設置方法のみ。パヴルが騙った"フェーズドアレイ・センサー"としか見えないだろう。案の定、マダム・ヴェスパーはチラッと見ただけで、興味は本体に移った。
本体は、ただの白い四角い板にしか見えない。接続ポートが2つ、その横に針の穴ほどのLEDランプがあるはずだが、電源がオンでなければ気づかない。商品名のロゴもどこにもない。外観でこの物体が何かわかるのは、元々これが何なのかを知っている者だけだった。
シドゥネクサス・マイナー。
衛星インターネットに接続できるアンテナだ。
【前日8月5日15時頃 領事館ゲストルーム】
パヴルはゲストルームの扉の前に立っていた。この部屋はパヴルの居室でもあるのだが、彼は入室をためらっていた。
ジェイさんは今、ゲストルームの中にいる。というか、ここと食堂以外で見たことがない。ヴェシレさんという、たぶん奥さん?もそうだ。夫婦と思われる人たちが2人きりでいるはずの部屋に、気軽に入っていいのかわからない。そういうシチュエーションの経験がない。
でも入らなきゃどうにもならない。夜はここで寝るんだし。とりあえず、ノックを――
「はっ……あぅ……」
中から喘ぐ声が聞こえ、ノック寸前で固まった。今昼の15時なんですけど。どうすりゃいいんだこんなの。出直す?せっかく鉄製おばさんが寝込んで、ミッションの打ち合わせには最適なタイミングなのに。
しばらくその場に立ちすくむ。盗み聞きなんてできるわけないし……誰かに見つかったら変態だと思われるし……。
すると、いきなり扉が開いた。飛び上がりそうなくらいびっくりしたが、冷静さを装って笑顔が引きつる。
「あら。あなたなの。誰かと思った」
ヴェシレさん。汗をかいてる。服は着てる。薄着だけど。
「タリーム……トレーニングをしていましたの。どうぞ、構いませんわ」
そうだよね。昼間だしね。ほっとして部屋に入ると、ベッドの上でジェイさんがうつ伏せになっていた。腹を押さえて、苦しそうな表情。
「え?どうしたんですか?」
「なんでもありませんわ。30秒もすれば立てるようになります。突きが軽く当たってしまっただけ。わざとじゃありませんわ、わざとじゃ」
つまりわざとやったんだね。なんだこの夫婦。そういえば今朝も、なんか険悪な雰囲気だったけど。こっちはそれどころじゃないんですけど。
「……は、はは。そうですか。そりゃ良かった……いや、良くない。ちょっとジェイさんとお話がしたいんですが」
ヴェシレさんがしゅっと振り向いた。ダークブラウンの短めのウェーブが顔にかかり、軽く頭を振ると軽やかに広がる。綺麗な人なんだけどなー……怖い。目つきが。
「わたくしはお邪魔かしら?よろしくてよ。瞑想に入りますので」
そういうと、ヴェシレさんは部屋の隅に行き、あぐらを描いて座った。ザゼンってやつ?
「やあ、バビュール。パヴルだっけ」
30秒過ぎたらしい。ジェイさんが鳩尾を押さえながら起き上がっていた。まだ顔をしかめて。
「大丈夫ですか?」
「うん。息はできる」
「あの。今ならあのおばさん寝てるんで、朝の続きを――」
「続き?あの眼鏡の?あれなら全部見たけど」
「全部?いやいや、あんな一瞬じゃ――」
「最後の動画。あの続きなら見たいな」
最後の動画?編集中のズィのか。本当に全部のファイル見たってこと?
「……いや、あれはまだ未完成で――」
「じゃあ、おれたちで完成させよう。ズィヤ・シムシェキとサフィーエ・サナルを助けて」
あれ、急に目が熱い……うん。おれたちでって。やっと……もう、独りきりじゃないんだ。
「ジェイさん。ほんとに全部見たんだ。どうやってかはわかんないけど」
ジェイはパヴルがスツールに腰を落とすのを見ていた。強烈な左フックを喰らってフラフラになり、ゴングに救われてコーナーにへたり込んだチャンピオンのようだった。84年前、カナダのニューヨークで、ジェイエルが初めて生で観た世界タイトル戦だった。
「だいぶやられたみたいだな」
「んー、まあね。なんかほっとした。今日は僕の勝ちだったけど、それまではあんまりうまくいってなかったし……僕独りだったから」
スツールに腰掛けたまま、パヴルは伸びをした。
「でももう大丈夫!じゃあこれから、僕の考えた最高のミッションを説明しよう!」
84年前、第13ラウンドで、あのチャンピオンは劇的な逆転KO勝ちをおさめた。パヴルもやり遂げるに違いない。
「名付けて、ミッション・エルチリック。ミッションの目的は、ジェイさん。あなたをここから脱出させること」
「脱出?いつでもできるけど?」
「いや、そうですよね。悪魔だし。でもね?外にはGTがうようよしてる。あなたが翼を広げて飛び出したら、速攻で捕まりません?奥さんだって――」
「奥さん?誰?」
「え?……あーいや、奥さんじゃない、と。まあなんでもいいけど。ヴェシレさんも強そうだけど――」
「うん。強いよ。おれよりずっと」
まだ鳩尾を押さえていた。
話が進まない。その時、思わぬところから助け船が出た。
「パヴルくん?ジェイの戯言にいちいち反応してたら疲れるだけよ」
振り返ると、ヴェシレさんがタオルを頭に巻きながら、バスルームから出てきたところだった。シャワーを浴びてたらしい。
「ジェイ、あなたなんか、翼で飛び出したってすぐ落っこちちゃうんだから。この子の作戦とやら、ちゃんと聞いた方がいいわ」
ほっとしたのは気が早かったかも知れない。そうパヴルは思った。
「すぐ……落っこちちゃうんですね」
「でもみんな逃げるよ?」
「もう、あなたは少し黙りなさい。いつもは無口なくせに。それで?捕まらないでここから出る方法があるの?」
わかった。この人はお姉さんだ、ジェイさんの。年は逆に見えるけど。悪魔だから見た目は……あれ?てことはヴェシレさんも悪魔か?
「……あの。すみません、その前に、お二人のご関係を教えていただけると、大変話やすくなるんですが」
お二人のご関係?!ヴィは顔が火照るのをはっきり感じた。
「わたし達は……戦友。そう!戦友です!」
「戦友。じゃあ、特殊部隊かなんかの……あーいえ、もうわかりました。これ以上は突っ込むな、ということですね」
「もうわたし達のことはいいから、その作戦を早く説明して!」
「わかりました。では」
パヴルくんはiVitraを操作し、ファイルをひとつ開くと、それを外してテーブルの上に置いた。
「Göz var, izan var(見ればわかる)」
ヴィがiVitraを手に取り、不思議そうに言った。
「この眼鏡で、作戦がわかるの?」
「うん。おれは朝見せてもらった」
なるほど。それで、部屋に戻ってから変だったのね。
ヴィはiVitraを装着した。
いきなり、ヴィの眼前に光の文字が踊り出た。
《バビュールのMission Elçilik!》
2025/08/05-07 produced by Pavlu Ergün
このミッションは、悪魔ジャーレ・ロルトをフランク王国領事館の檻から脱出させ、ズィヤ・シムシェキ少佐救出に向けて立ち上がる、英雄達のための作戦である。"Mission Impossible"
1.目的
ジャーレ・ロルトの確認と脱出(契約)
2.手段
脱出をライブ配信
公衆の目で権力の横暴を抑止
3.方法
派遣SEとして潜入
配信:シドゥネクサス・マイナー
フェーズドアレイ・センサー新設と騙す
シドゥネクサス・マイナー設置(15分)
(この時監視を避けるための囮必要?)
起動と同時にカウントダウン開始
195分(モバイルバッテリー持続時間)
脱出&ライブ配信開始!
パヴルはドキドキしながら、リアクションを待っていた。完璧!とか、天才!とか。
「……あの。どうですかね?質問……とか」
ジェイさんが身を乗り出して言った。
「İlişだけど、あれ――」
「いやいやいや!この作戦についてです!てかなんでイリシュ知ってるの?!」
「ん?眼鏡で見たよ、朝。だから力を貸しますって――」
「見た?いつの間に――」
ヴェシレさんが口を挟んだ。ジェイを睨みながら。
「ごめんなさい、この人ったらほんとに。すごいわね!これ。わたし、こういうのあまり詳しくなくて。でも、この作戦がすごくよく考えられてるっていうのはわかる。パヴルくん、頭いいのね。聞きたいことはたくさんあるんだけど……」
「なんでも聞いてください」
ヴェシレさんはまだジェイさんを睨んでいた。
「この人。悪魔なんかじゃないの」
「え?でも――」
「違うの。翼は黒くて、目は真っ赤で。でも違うの。時々……いや、いつもか。ばかで、デリカシーなくて。ムカつくことばっかりで。でも……」
ジェイさんは無表情でヴェシレさんの顔に手を伸ばした。そっと。これが映画なら、優しく頬に手を添えて、気のきいたセリフを言うシーンだ。でも違うみたいだ。
ヴェシレさんはiVitraを外し、ジェイさんが差し伸べた手に渡した。ジェイさんは迷わず受け取った。
ほらね。もうわかっちゃった、わたし。この人にはそういう感情はない。わたしがどうこうじゃなくて、そういう感情が元々備わってない。
でもそれでいいのかも。さっきは咄嗟に口から出た言葉だけど、あれが正解。そう、わたしたちは戦友。それ以上でも以下でもないんだ。
「この人は悪魔じゃない。天使でもない。だから堕天使。そういうことにしたの」
「堕天使……つまりそれは――」
ヴィは首を横に振る。
「ううん?堕天使っていうのはわたしが勝手にそう呼んでるだけ。まあ確かなのは、人間じゃないってことだけね。あなたを助けてくれるし、力になってくれる。支えて……」
ダークブラウンの瞳が潤んだ。でも我慢する。
「――支えてくれる。頼りになるよ、きっと」
「……支えて、ですか……他には?」
ひどい質問なのはわかってる。だけど悪魔じゃないなら、なにができるんだ?
「僕は真剣なんだ。本気で、国家権力を敵に回して、ズィとサフィを助けたい。力を貸してくれるなら、その力ってなんなのか、教えてください」
「わかった」
それだけ言うと、ジェイは立ち上がり、いきなり翼を出した。全開ではなく、両手を広げたくらいの長さで。それでも翼の端がヴィとパヴルを掠めた。
「ちょっと!こんなところで!」
ヴィが翼を払いのけながら叫んだ。羽根が一枚抜けて、ヒラリと舞う。ヴィはその羽根を掴んだ。と思うと、羽根はヴィの手の中で、砂のように崩れてしまった。
「翼をしまうと、抜けた羽根も消える」
ジェイさんはもう翼をしまっていた。
パヴルは呆然とした。翼。確かに翼だ。黒くて、デカい鴉のような翼。魔法みたいに現れ、そして消えた。オカルト話は本当だった。
「……うん。それは確かに……逃げたくなるかもね。でもあまり飛べない?」
「この依代は弱いから」
依代。ファンタジー小説でしか見ない言葉だ。
「本当はもっと大きいの。わたしを抱いて飛べるくらい。でもすごく体力を使うし、この人心臓の病気があって」
心臓の病気。病気持ちの悪魔。いや悪魔じゃなかった、堕天使。もうわけわかんなくなってきた。
「なるほど……心臓。まあそこはいいや。それだけ?」
「カラスと話ができるわ」
ヴィが窓を指差した。いつのまにか、アリーが窓の外に止まっている。
「……へえ、そりゃすごいね。カラスと。……で……まさか、それだけ?」
ヴィは困ったようにジェイを見る。
「あと……これは上手く説明できないな。わたしは見たけど……」
「ロクツィオだ」
ボソっとジェイが言った。
「ろく、なんです?」
「ロクツィオ。天使の言葉だ。そうだな……人間にもわかるように例えるなら……テレパシーかな?ちょっと違うけど」
「そうね……テレパシーというか……見せるの。地獄を」
「地獄を見せるのは、"狩り"の時だけだ。ロクツィオは……言葉や景色だけじゃない。イメージ。映像じゃなくて、印象とか……概念?全部かな。説明するのは難しい」
「地獄を見せる。比喩じゃなくて?僕にも見せて?」
ジェイは黙った。目を閉じて、考える。そして口を開いた。
「ダメだ」
「なんで?それも、心臓に悪いの?」
「そうじゃない。加減が難しいんだ。ロクツィオが強すぎると、人間は壊れてしまう」
ジェイはヴィを見た。
「あなたに見せたのは、またちょっと違うんだ。大丈夫。あなたは壊れない。ごめん、うまく説明できない」
「ロクツィオ……まだよくわからない。具体的に、なにができるってこと?」
「……そうだな。人間相手の場合、やり方はこうだ。まず見つめ合う。相手の虹彩の細部まで見る。虹彩を絡める、とおれはいってる」
なるほど。それでさっき、İlişに興味を示した、と。
「――そして、指示する。見ろ。とか。失明しろ、と言うと、本当に失明する」
「え?失明する?つまり、視力を奪うってこと?」
「目が見えなくなったと思い込むんだ。相手は。物理的にじゃないよ。だから元にも戻せる」
「マジ?!それすごいよ!1対1だけ?同時にたくさん目潰しとかできない?」
「やったことはない。見つめ合わなきゃならないから、たぶん無理」
「あーそうか。てことは暗闇とかでも無理か。虹彩を細部まで見なきゃなんないんだもんね。でも使えるよそれ!」
「……あまり使いたくない。人間相手だと本当に難しくて。おれもずいぶん長くやってるんだけど。壊したくないし」
うーむ。戦力として計算していいかわからない。壊したくない、か。
「まるでおもちゃかなんかみたいに言いますね。でも直せるなら――」
「そんなんじゃないのよ」
ヴェシレさんが睨んでいた。
「わたしは見たわ。彼がエキンジにしたこと」
「エキンジって……あのエキンジですか!?クルチュ神父を殺した?」
ダークブラウンの瞳が凍りついた。
「そのエキンジよ。そしてわたしは、クルチュ神父の娘。ジェイはわたしに見せてくれた。エキンジが壊れるのを。精神崩壊。ジェイがエキンジに見せたもので、精神が壊れた。全部見た」
ヴェシレさんは見たものを詳しく話してくれた。地獄。永遠に終わらない罰。
「……そ……それが、ロクツィオ?」
その詳細も怖かったが、結果はさらに恐ろしい。
壊す。人間を、殺すではなく壊す。肉体ではなく、精神を。それがロクツィオ。
この2年間、パヴルが動画のネタとして追いかけていた、神父の自殺や発狂事件。エキンジだけじゃない。パヴルが知ってるだけでも5、6人。それをやったのが、今目の前にいる堕天使……いや、やっぱり悪魔じゃないか。そんなことが出来るのは、悪魔だけだ。
パヴルは自分の手を見た。指先が震えてる。指だけじゃない、膝も。
鉄製おばさんなんか目じゃない。GTさえ。
本物の、悪魔。
ヴィはジェイを恐れてはいなかった。
エキンジは受けた罰に相応しい罪を犯した。あの地獄を見た後でも、わたしはそう思ってる。でも、そう思える罪を犯した人間なんてこの領事館にはいない。少なくともわたしが知ってる限りでは。ジェイもそう思ってるんだ。だから何もしないでここにいる。その力を使えば、こんなとこから逃げるのなんて簡単なのに。
この人は悪魔じゃない。
ジェイは自問した。いつものように。これまで何万回もそうしてきたように。
おれはこの力を恐れているだろうか?
それは、未だにわからない。
【8月6日12時59分 Mission Elçilik Day2】
シドゥネクサス・マイナーのWiaパッケージを手に、パヴルは領事館の屋上にいた。独りで。
昨日、ジェイさんとヴェシレさんと3人で、夜中まで話し合い、練り直したミッション。作戦開始時刻まで、あと1分を切っていた。
始めたら、もう後戻りはできない。
帰還不可能点。
雲一つない快晴。その青は、フランクの三色旗の青とは比べ物にならない青だった。深いが柔らかみなど全くない、硬い青。サファイアの輝き。だが、指で突いたら音をたてて割れ、砕けそうな青。
屋上の北西端、階段室の塔屋の上。パヴルはそこにあぐらをかき、空を見上げていた。サファイアに刻まれた傷のように、南に向かって横切る小さな黒い影。アリーだ。
パヴルが片手で太陽を遮りながらアリーを目で追うと、アリーは真南の空で急降下する。その先にある小高い丘は近くの大きなビルよりもさらに高く、そして丘の頂上には、やつらが天を掴もうと伸ばした手の、四本の指。
コジャテペの使徒の丘。大聖堂の四本の銀の十字架。
特別使徒保安庁アンキュラ支局。
その丘に向かってパヴルは左手を突き出し、親指を立てた。ちょうど十字架の高さと親指の長さがピッタリだった。使徒の丘が隠れる。
「待ってて、ズィ」
パヴルの呟きは蝉しぐれにかき消された。Wiaパッケージを開く。太陽はほぼ真上にあり、容赦なく光と熱をぶちまけている。気温はまだ31℃だった。
【13時01分 アンキュラ、ウルス地区上空】
アリーはスプリットSの軌道で180度方向転換すると、フランク領事館へと航路をとった。正門がするすると開き、アルペンブルーのルノー・ラファールが入っていく。ガスパール父娘が公務の昼食会から帰館したところだった。
アリーは滑空しながら僅かに右にドリフトし、領事館の向かいのアナドル文明博物館駐車場の神樹の天辺に止まった。
その銀色の瞳に領事館の玄関前が映る。ルノーが停車した車寄せでアンジーがマドレーヌを出迎えている。
【同時刻 領事館ゲストルーム】
キングサイズベッドの真ん中にジェイが横たわっていた。目を閉じて、しかし寝てはいない。
「帰ってきた。マドレーヌ。ヴェスパーが出迎え」
「パヴルくんには聞こえないわよ」
そういうヴィの声もジェイには聞こえていない。聴力をアリーの映像に集中させているからだ。
ヴィはゲストルームの入り口の扉の内側に立つ。万一誰かがノックもなしに扉を開けようとしても壁になれる位置に。
ジェイはアリーに思考を送った。
(今だアリー、頑張って)
【13時02分 アンキュラ、ウルス地区上空】
ジェイの合図で、アリーは神樹の枝を蹴った。フルスロットルで領事館の玄関めがけて。目標はライトブロンド。
「Corbeau!」
ガスパールが叫んだ。アリーはマドレーヌの頭を掠め飛ぶ。マドレーヌの悲鳴。アリーはマドレーヌのバーガンディのドレスに、自家製の白いペイント弾を正確に着弾させた。アンジーが駆け寄る。これで10分は稼いだ。
【13時06分 領事館屋上】
アクティベーションを終えると、シドゥネクサス・マイナーがカチリと音をたてた。小さなLEDランプが初めて点灯し、ゆっくりと点滅を繰り返す。
『Searching……』
パヴルはiVitraに集中していた。赤い表示が出た。シドゥネクサスが衛星を探している。
周りに手摺も何もない地上19メートルの高所。iVitraの中のデジタルな世界だけが落ち着ける場所だった。パヴルの目は赤い表示とiVitraの時計をせわしなく往復する。デジタル時計が13:06から13:07へ。長い。赤い表示の下のパラボラアンテナのアニメーションがうるさい。
【同時刻 領事館玄関ホール】
マドレーヌが喚き散らしながら館内へ入る。アンジーが寄り添い、ガスパールが慌てて後を追う。その喧騒の隙にアリーは素早く玄関ホールに侵入し、速やかに15メートルの吹き抜けを上昇する。目指すは天井の3メートル四方くらいの四角い穴。その穴の縁の10センチ程の張り出しにアリーは留まった。真上から赤青黄色、色とりどりの光。ステンドグラスの天窓。
【同時刻 領事館ゲストルーム】
(いいぞアリー。そこで待機して)
(たいき。にじのなか)
ジェイの脳内に虹色の光が溢れた。アリーが映像にロクツィオを重ねている。すごい上達ぶりだ。
シャルルマーニュのステンドグラス。赤いマント、金色の王冠、青い背景は空か。空が透けているのではなく、ガラスが青く着色されている。シャルルマーニュの顔は実物と比べて随分マンガチックに見えた。こんなにでかい目じゃなかったが。
ジェイはアリーの映像を切り、ベッドから起きると扉へ歩く。
「アリーは配置についた。パヴルは?」
ヴィはiPortaを見ている。
「まだね。もう少しかかるんじゃない?」
【13時09分 領事館屋上】
『……Searching……Poor Connection……』
まだか。シドゥネクサスは安定した衛星リンクを見つけられず、赤い表示を繰り返している。パヴルは一度iVitraを外し、汗を拭った。暑い。太陽と、足元のタールの熱気。蝉しぐれが遠くなる。
だめだ。また同じ。ネットなら、デジタルの世界なら、全て想定内のことばかりなのに。いつも僕はリアルではダメ人間だ。僕がだめなせいでサフィは捕まり、ズィは審問会にかけられる。僕のせいで。
風が頬をはたいた。よろけて手をタールの床についた。革手袋越しにタールが沈んだ。
パヴル・エルギュン、しっかりするんだ。おまえは虎だ、虎になるんだ。
iVitraをかけた。途端に赤い表示が緑に切り替わった。
『Online』
オンライン。オールグリーン。やった。繋がった。サファイアの障壁を突き破り、星と繋がった。
カウントダウン、スタート。デッドリミットまで3時間15分。195分。11,700秒。
パヴルはスィビラを開いた。
時刻は13時11分。気温は31.7℃。
【13時11分 領事館ゲストルーム】
「電波がきた!」
ヴィが小声で叫んだ。
ジェイはアリーに一瞬だけアクセスし、玄関ホールを見る。人影なし。
「じゃあ行こうか」
ドアに手をかけた。
「待って」
ヴィの手がジェイを止める。耳を扉につけて。
「誰か出てくる」
【13時12分 領事館マドレーヌ私室】
マドレーヌは脱いだドレスを蹴っ飛ばした。若いメイドがおろおろとそれを拾って、部屋を出た。バーガンディの布地に視界を遮られながら。
「お嬢様。はしたない」
「頭にくるわ、あのCorbeau!」
メイドが閉め忘れた扉から、マドレーヌの金切り声が領事館を震わせる。
「次に見つけたら、捕まえてBrochetteにして!」
【同時刻 領事館ゲストルーム】
マドレーヌの罵声は扉越しにハッキリ聞こえた。アリーも聞いたはずだ。
(またか。やってみたら?
わたし。つかまらない。
せっと。しろばくだん。)
(アリー。白爆弾はとっておいて)
「大丈夫。マドレーヌたちはまだ着替え中らしい。行こう」
ジェイは扉を少しだけ開けて外を確認する。ヴィもジェイの下から顔を覗かせる。
「そうね。行こう」
2人は回廊に出た。ジェイはタキシード、ヴィは黒のパンツスーツだ。十字架はつけていない。背筋を伸ばして堂々と回廊を歩く。バーガンディを抱えたメイドに続いて。
「――お嬢様。こちらをお召しに――」
マドレーヌの私室の前を通り過ぎる。室内で姿見の前で背を向けているマドレーヌと、その足元に膝をついているアンジーを横目に。
「裸だ」
ジェイがぼそっと言ったが、ヴィは肘で突くだけに留めた。無関心に視界が捉えた物を口にしただけに過ぎないことはもうわかっていた。
【同時刻 領事館マドレーヌ私室】
「キャミソールとショートパンツでいいでしょ?今日はもうどこにも行かない!」
マドレーヌはヌーブラを少し直しながらアンジーに言った。
「はいはいわかりました。さあ早くこちらを」
ショートパンツにマドレーヌの足を通し、腰まで引き上げる。
マドレーヌはされるがまま、だが視線は鏡に映る自身の半裸ではなく、姿見の隅を注視していた。青い瞳に、好奇心の輝きが光った。
【13時13分 領事館屋上】
@Babür_official [✓]
バビュール、バビュッと噛みつきます!このあとライブ!領事館を虎の眼で!エーミット
#バビュール#バビュルス#FreeSafiye#花よりパンを
@ローマの日常
は?なにこれ?どういうこと?
#バビュール#花よりパンを#フランク領事館
|
@Safiye_Fan_Club
待ってた!領事館に行けばいいってこと?!
#バビュール#FreeSafiye #サフィーエを忘れない#フランク領事館
|
@野生の虎
よっしゃああっ!仮面は準備できてるぜ!教会はリハーサル、今日が本番!お祭りだあ!
#バビュール#バビュルス#虎の眼#フランク領事館
みんな、待っててくれた。
最後に、シドゥネクサス・マイナーをグッと押さえつけた。小さなスタンドがタールに沈み込む。しっかり固定されている。
パヴルは階段室の塔屋から飛び降りた。階段室の鉄の扉を開けてもう一度コジャテペを見てから、階段室に入る。太陽から隠れられたのが気持ちよかった。僅か十数分いただけなのに、顔が火照っている。
iVitraの自動輝度調整は外の太陽の眩しさに対応して最大輝度になっていた。目の前でフラッシュが焚かれたような眩しさに、パヴルはiVitraを外した。どうせ鉄筋コンクリートに包まれた階段室の中では、シドゥネクサスのWi-Fiは届かない。
暑かった。けど昨日よりはマシかな。鉄製おばさんみたいに倒れるわけにはいかない。ここまでミッションは完璧だ。このまま突っ走れ!
パヴルは階段を降りていった。ジェイたちと合流するために。
【13時15分 アンキュラ、フランク領事館二階回廊】
アンジー、仕事に戻りますって。今日休みじゃなかったっけ?まあ助かっちゃうけど。それにしてもジェイさまとヴィヴィ。あの格好は間違いない。スパイね!
もう、ワクドキ!ほんっっっっとに、アンキュラ最高!こんな冒険できるなんて。スパイの悪魔。おもしろすぎ!
さて。スパイのみなさんはどこにいったかな?
マドレーヌは私室を出た。そおっと、忍足で。
【同時刻 領事館北階段室1階】
「どうしたの?」
ヴィは振り返った。急にジェイが立ち止まり、目を閉じている。
「……ヴェスパーがこっちに来るかも。マドレーヌも部屋を出た」
「マドレーヌはどこへ?」
「……ゆっくり歩いてる。螺旋階段へ」
パヴルくんのミッションでは、わたしたちは一度一階に降りる。誰かに会っても行先をごまかしやすいから。それから北西角の階段室で、2階に上がる。パヴルくんと合流して、渡り廊下で別棟へ。そこにロルフがある。脱出。
階段室までは誰にも会わなかったし、順調だ。どうする。ここでヴェスパーを待ち伏せか、このまま進んでマドレーヌと鉢合わせるか。
マドレーヌの方が御し易い。
「行こう、ジェイ。パヴルくんが待ってる」
【13時16分 領事館屋上】
気温は32.2℃に上昇していた。
階段室の塔屋、黒いタールの天端の片隅に、シドゥネクサス・マイナーは固定されていた。直射日光が降り注ぐ白いケースの内部で、5分前には38℃だったプロセッサの温度は、84.6℃まで上昇していた。冷却ファンが最大速度まで回転数をあげ、13時13分に消費電力は110W、平時の24倍となった。2分後にバッテリーの電解液温度が上昇、電圧は急激に低下を始めた。
13時16分、バッテリー維持時間は残り20分となり、設定していたタイムリミットのうちの3時間が一瞬で失われた。
同時に、シドゥネクサス本体のプロセッサ温度は85.1℃となり、設定された限界温度を超えた。半導体チップを基盤に接続していた数ミクロンのハンダに亀裂が入り、熱膨張により歪んだ基盤から半導体チップが引き剥がされた。
シドゥネクサス・マイナーは、物理的に、不可逆に損壊した。
この時点でMission Elçilikは崩壊したが、領事館内の人間も堕天使も烏も、誰にもそれを知る術はなかった。
【13時17分 領事館階段室2階】
「"It’s good to see you."(会えて良かった)」
パヴルが英語で何か言ったが、ヴィはなぜ急に英語なのかわからなかったし、ジェイは無関心だった。
ジェイはまた一瞬だけアリーの映像を確認した。
「行こう。万事順調」
ジェイは階段室を出ようとする。
「待って。パヴルくん、電波が消えたんだけど」
「うん、大丈夫。ここは鉄筋コンクリートだからシドゥネクサスのWi-Fiも届かないんだ。想定内。この鉄の扉の外はバリバリさ」
パヴルはジェイに続いて階段室から出ながら、iVitraを装着した。赤い表示。
『……Device Overheating……Battery Critical……』
「……あれ?……あれ?」
『No Hardware Found』
シドゥネクサス・マイナーが死んでる。なんで?!……オーバーヒート。バッテリー。
「……そんな……」
パヴルが揺れた。ぐらりと。
「ジェイ!倒れる!パヴルくん!」
ヴィの悲鳴に近い叫びに、ジェイは即座に応じた。パヴルを支える。
「大丈夫?暑さにやられたの?」
パヴルの目は虚だったが、かろうじて声は出た。
「……暑さに……やられた……僕じゃない。シドゥネクサス」
なんてこった。昨日はアンキュラの太陽に感謝したのに、今日は敵。しかも致死攻撃。考えてもなかった。やっぱり……僕はダメ人間。
パヴルは失神した。




