4 Watch 2 Much
【2025年8月5日 Mission Elçilik Day1】
@アンキュラ噂まとめアカ
フランク領事館、ボイラー爆発てwwwバビュール出番じゃね?早く戻ってこい
#領事館の嘘
@ローマの日常
パンの列、今日は3時間。マドレーヌ嬢は優雅にデザート食べてるんだぜ。格差ってレベルじゃない。
#花よりパンを#バビュール
@Safiye_Fan_Club
サフィーエ逮捕から1週間。いまだに罪状すら不明。GTの「悔悛棟」に連れて行かれたって噂は本当? 50万人の力があれば、彼女を救い出せるはず。バビュール、聞こえてるなら何か言って!
#FreeSafiye #サフィーエを忘れない
@真実の使徒
50万人の熱狂も、お嬢様の笑顔も、すべては「偽りの静寂」。琥珀の中だけが、本当の安らぎ。ペルフェクティが言っていた。バビュールは「道」を示しただけ、歩くのは私たち自身だと。
#KadimKehribar #いにしえの琥珀
バビュール
1.政治・トレンド
花よりパンを
2.食べ物・トレンド
バビュルス
3.ローマのトレンド
マドレーヌ
4.人気の画像・トレンド
いにしえの琥珀
5.ローマのトレンド
【7時前 バビュール第二拠点】
リクルートスーツ、白いカッターシャツ、紺のネクタイ。息が詰まる。
パヴルは鏡の前で深呼吸した。こんな格好、もう2度としなくていいはずだったのに。
今日は面接だった。エーミッターとしての収入が軌道に乗ってからも派遣社員の仕事は続けていたが、それはネタ探しのためだったから、スーツを着なくちゃならない仕事は受けてなかった。スーツが嫌いだからだ。決して、似合わないからではない。
この2年間、派遣の仕事に頼らなくても、十分過ぎる収入があった。この第二拠点だって、オズギュネシュのシテと並行で維持できていたのだ。こっちの方が広いし、家賃も高い。
レンタカー屋の時と同じく、今回も派遣会社をハッキングした。今回は依頼は元々来ていたので、ただ自分を割り当てただけだ。だがその先があった。先方で面接して採用を決めるらしい。
そりゃまあ、そうだよね。レンタカー屋とはわけが違う。領事館だし。
領事館に潜入する。フランク王国の。
これはスパイ映画じゃない。もう何度も、自分自身に念を押していた。バレたら、バックれでは済まない。れっきとした犯罪だ。たぶん重犯罪。怖いから調べてないけど。
今までだってヤバいことはいくつかしてきた。病院潜入以外にも。同接50万の配信だって結果を考えたらヤバいことだし、僕なりに覚悟を決めてやったことだ。ハッキングもバレたらヤバい。でもハッキングは絶対バレない自信があったし、配信は犯罪じゃない。
父さんはハチュルで死んだけど、母さんは元気だ。月一回、乾燥あんずを一箱送ってくる。一人息子がスパイ容疑で逮捕されたら、母さんは泣くだろう。泣いて欲しくないけど。
でも、もうこれしかない。やるしかなかった。
令嬢の画像スィビルスからロルフ・カブリオレの所在を特定した時は、やっぱり僕は天才だと思った。だけど夜になってからあの駐車場に行ったら、デカくてキザな男が近づいてくるのが見えて、ビビって隠れてしまった。
いつもそうだ。口では大きなこと言うくせに。たまたま地形のおかげで、駐車場をぐるっと回って領事館に入るのが見えたから、今ロルフがどこにあるかはわかるけど。よりにもよって領事館とは。
治外法権は、ネットにもある。頼みのバビュール・ネットワークも領事館の中は覗けない。バビュルスもいないし、いたとしても特定されたらアウトだし。もちろん、外部からハッキングなんて絶対無理。
だから、僕が自分でやるしかない。パヴル・エルギュンとして。
ズィとサフィのため。そして、あの日以来、一瞬バカプリンセスに抜かれた以外はずっとトレンド一位をキープしているバビュールを応援してくれる人たちのために。
時計を見ると、もう出かける時間だった。パヴルは黒縁眼鏡をかけ直した。
今度こそ、突撃だ。
【同時刻 フランク王国領事館、ゲストルーム】
ひとつのベッドで、一枚の薄い羽毛布団の下で、わたしとジェイは3度目の朝を迎えた。なぜこうなったのか。全部、このばか男のせいだ。
『ガス欠だ』
なんだそれ。何回思い出してもムカつく。しかもその後、衛兵たちに銃を向けられて。そういう時こそ翼を広げて、わたしを抱いて逃げてくれたら良かったのに、何もしないで。あの時翼を出したらまた倒れたかもしれないけど、どうせ死なないんでしょ。あんなに心配してたのに、ばかなのはわたしだ。
『まだついてくるの?』
まだ?どういう意味だ。ふざけんな。お父様のお墓からいきなり拐ったくせに。地獄の見学だって頼んでない。勝手に人を抱き上げて。わたしがついてきたんじゃない。あなたが勝手に連れてきたんでしょ。
そして、あのシャンデリア。
あれでわかった。こいつが命がけで守ろうとしてるのは、わたしじゃない。誰でもいいんだ。わたしのためじゃない。こいつが死にかけてたときは、わたしのせいで、なんて思って、すごく、ものすごく辛かったのに。こいつはわたしのことなんかなんとも思ってないんだ。なのにわたしは。本当にばか。
でも一番ムカつくのはこれだ。
衛兵に、あのムカつく副領事の前まで連行された時。
『マドモアゼル・ヴェシレ。ムシュウ・ロルト』
ムカつく。
『あなた達をVIPルームにご案内いたします。どうぞごゆっくりお休みください。我が家だと思って』
ムカつく。ヘラヘラしやがって。
『お食事も、お好きなものをご用意いたします』
ムカつく。そんなのに釣られるとでも?と思ってこのばか男を見たらにこにこして、
『え?タダですか?』
殴ればよかった。殴ってボコボコにして、担いで逃げればよかった。本当にムカつく。本当に本当に本当にばか。わたし。ばかなのはわたし。
ヴィはこのゲストルームのキングサイズのベッドでも、聖テレーザ教会のKelliで暮らしていた24年間と同じく毎朝5時に、右を向いて胎児の姿勢で目覚めていた。この癖は、今の状況ではありがたかった。なぜなら左を向くと、嫌でもジェイの寝姿が目に入るからだ。
こいつは寒さは感じないらしい。わたしが羽根布団を独り占めしても何も言わない。以前だったら、それは優しさと受け止められたかもしれない。今は、そんなこと欠片も思わないけど。
こいつは、寒さどころか他の感覚も感情も、何ひとつ感じないに違いない。
そのせいで、わたしは朝5時に目覚めても、すぐにはベッドから出られない。最初の朝、つまり一昨日の朝は、こいつが隣りで寝ていることをすっかり忘れて目を覚ました。思わず悲鳴をあげそうになった。
この部屋に案内された時、マダム・ヴェスパーは言った。
「……別のお部屋をご用意いたしましょうか?」
そうして欲しかった。でもそうしたくなかった。自分でも理由がわからないまま、わたしはその申し出を断った。
次の日、つまり昨日の朝は、もう目覚めてもすぐには起きられなくなっていた。ジェイが起きたのがわかってからでないとベッドから出られない。
iPortaでも見て時間をつぶそうにも、ここは電波がない。石造りの古い建物だから仕方ないのか。そうしてキングサイズのベッドの端に、落ちないギリギリまで身を寄せて、今朝もただ、ジェイが起き出すのをじっと待っている。ジェイが起きると、ヴィは急いでバスルームに飛び込み、木製の扉を閉め、鍵をかけて、やっとプライバシーを確保する。
……もう、なんなのこれ。全部、何もかも、ジェイのせいだ。ムカつく。
【8時過ぎ フランク王国領事館、応接室】
「――ムシュウ・パヴル・エルギュン。確か、フランク語に堪能という条件を付けたはずだが」
ガスパール副領事が、紙の履歴書を見ながら、眉間に皺をよせる。パヴルの履歴書には、フランク語については何も書かれていないからだ。
パヴルは今、領事館三階の応接室の、大きな本革のソファに腰を沈めていた。背筋を伸ばしてきちっとしてる印象を与えたいのに、ソファのクッションが深すぎる。
マホガニーの重厚なローテーブルを挟んで、副領事ともう1人、中年女性がパヴルを睨んでいた。いや、もしかしたら睨んではいないのかも知れないが、目の周りが黒く縁取られた変なメイクのせいで、睨まれてるとしか思えない。
「ええ、確かに求人条件には、フランク語堪能とありました。僕以外に、フランク語ペラペラのエンジニアはいますよ?二流で良ければ」
パヴルはテュルキエ語で言った。
「ほう。それはつまり、自分は一流だと言いたいわけかね?」
「言うだけじゃつまんないでしょ?Göz var, izan var(見ればわかる)。フランク語だと、Ça crève les yeux(それは明白)。Qui habet oculos, videat(目があるなら見よ)、これはラテン語。英語だと――」
「もういい。知識をひけらかす奴は好かん。君は――」
「待って待って。今のは全部、僕の知識じゃありません」
「は?どういう意味かね」
パヴルは黒縁眼鏡を外し、逆向きに副領事に差し出した。
「これのおかげなんです。iVitra」
「……アイ……びとら?」
中年女性が、副領事に代わってiVitraを手に取った。
「スマートグラスというものです、閣下」
レンズを覗いたり、天井のLEDに透かしたりする。
「ムシュウ・エルギュン。これをあなたが作ったと?」
パヴルは降参したようなポーズで言う。
「まさか!それはアンキュラでも普通にお店に並んでますよ?出たのはまだ最近ですが、すぐにiPortaに取って代わるかも?僕はちょこっと改良しただけです。OSを」
「OS。つまり、Windowsですか?」
パヴルはこの瞬間、このミッションの成功を確信した。こいつらIT音痴だ。いや待て。罠という可能性もある。ズィなら慎重になるはずだ。
「はい。えー、そうですね。窓。知識の窓です、これは。つまり、僕ならここのシステムがどんなに古臭くてオンボロでも、3日で最新のセキュリティに作り変えることができます」
副領事の顔色が変わった。
「なんだと?君は我が王国の――」
「閣下。ここはわたくしに」
中年女性はiVitraをパヴルに返して、言った。
「3日。そうおっしゃいましたね。いいでしょう。エルギュン。あなたのその自信を買いましょう。ただし。」
中年女性はパヴルの目をじっと見つめた。数秒。
「あなた1人ではなく、わたくしとご一緒に。わたくしが、あなたを直に監督いたします。よろしいですね?」
パヴルは唾を飲んだ。ヤバい。このおばさんの迫力。恐い。
「わたくしはアンジェリック・ヴェスパー。マジョルドームを拝命しております。領事館内のことは、全てわたくしが取り仕切っております。ですが」
また恐い目で見つめられる。
「わたくしは、あなたご自慢の最新技術のことも、それにに頼って増長する若者のこともよく知りません。ですのでこの機会に、拝見させていただきますわ。このわたくしの目で――」
暗い緑色の瞳が光った。
「――たっぷり、と」
パヴルはもう帰りたくなった。恐い。無理。バレる。恐くて目を閉じた。
『――あたしも仕事がんばります!いつまでも応援してます』
青いパトライト、フラッシュ、それを跳ね返す紫色の瞳。サフィ。
こんなおばさんなんかに、負けるもんか。僕はプロだ。ズィやサフィみたいに、立ち向かうんだ。
パヴルは目を開けた。
「ぜひ。"Watch(見てろよ)"」
【8時半 領事館ゲストルーム】
「ヴェシレ、ムシュウ・ロルト。エルギュンです。今日からここで寝食を共にします」
パヴルは、ムシュウ・ロルトと紹介される前から、彼だとわかった。今は不精髭もなく、どちらかと言えば免許証のビジネスマンに近い。髪はボサボサだが、きっと寝起きなんだろう。だがこの女の人は誰だろう?ベッドはひとつ。そういうことだろうか?
ヴィにとっては、この丸刈りと黒縁眼鏡の若者が誰かは問題ではなかった。問題なのは、自分のプライバシー空間がさらに小さくなるということだった。寝食を共にします?なぜこんなことに。
ジェイエルは、この男の瞳を覚えていた。以前、バビュールの動画を見たことがあり、虹彩を記憶していた。虹彩は彼らの個体識別手段だから、ただの習慣だ。虎の仮面を被っていようがいまいが、瞳さえ視認できればいい。
だがこの場では、それを顔に出さないだけの分別もあった。
エーミットで顔を隠していた男が、素顔を晒してここにいる。なにかある。
「ムシュウ・ロルト。2分以内に身だしなみを整えないと、朝食に間に合いませんよ?」
アンジーが真っ黒な目で睨んでいた。虹彩は綺麗な緑なのにもったいない、そうジェイは思ったが、口には出さず洗面所へ急いだ。今のジェイにとって、朝食は最優先事項だった。
【9時前 領事館食堂】
「マドモアゼル・ヴェシレ。例の軍人の審問会、来週に決まったそうですよ」
ガスパールが、カフェオレを注ぎながらヴィを見る。ヴィはなんのことなのかわからない。
「ほら、あなたのお父上の葬儀で暴れた、あの軍人ですよ。サンセック少尉」
シムシェキ少佐だ。パヴルは怒鳴りつけたかった。ズィをバカにするな。でも今はミッションの方が大事だ。ズィのためにも。
「――セレン首席審問卿。あの女性は素晴らしいですな。ヴェシリア、でしたか。おや、あなたとよく似たお名前だ、マドモアゼル・ヴェシレ」
「パパ。お仕事のお話はいやよ?ヴィヴィも困ってるじゃない。ねえ?ジェイさま?」
ヴィにとっては、副領事のつまらない無駄話よりも、この甘ったれた小娘の方がよほど気に障った。ジェイの隣で、腕を絡めて、頭をベタベタくっつけて。フランクでは、朝食のマナーも教えてもらえないのか。あとヴィヴィってなに。
「――ジェイさま?今日は、翼を見せてくださる?触ってみたい!」
パヴルはカフェオレを吹き出しそうになり、必死でこらえた。口の端から一条垂れる。よだれみたいに。
翼?今そう言った、確かに。聞き間違いか?それか、何かの比喩だろうか?マダム・ヴェスパーがまた睨んでる。慌てて口を拭く。
「黒くて大きな翼。ねえ、見せてくださるでしょ?ジェイさま」
「お嬢様。いい加減になさいまし」
ヴィが音を立てて椅子を引き、立ち上がった。
「わたくし、失礼いたしますわ。気分が優れませんので」
そしてジェイを睨んだ。
「あなたは。ごゆっくりなさいませ。わたくしのことなど。お気になさらず。」
「ヴィヴィ?大丈夫?」
「お嬢様。お食事はお済みですね?さあみなさん、次のご予定がおありでしょう」
なごやかな朝食の時間は終わりだ、さっさと持ち場へ戻れ。パヴルにはそう聞こえた。
だが、すごい朝食だった。クロワッサンではなく、情報で満腹だ。ズィの審問会。黒くて大きい翼。バカプリンセス。使えそう。
そのバカプリンセスのお尻を叩くように、マダム・ヴェスパーが食堂を出ていく。ガスパールは着替えに行った。チャンスだ。
「ロルトさん。ジェイさん――」
ジェイさんはまだ食事を続けていた。
「バビュール。このクロワッサン、美味いよ?」
「バ……」
クロワッサンどころじゃない。
「な、なんで?僕のこと知ってるの?」
「?。君はバビュールだろ?前にエーミットで見た」
「あの配信を見たの?!僕がマスクを脱いだやつ。じゃ……あ、いや、そんな話はいいや。翼のこと、ほんと?」
ジェイさんが眉を顰めた。
「君もか。触りたいのか?」
「いやいやいや!違うから!」
「じゃあなに?翼はあるよ。もう隠す意味もない」
「あなたが悪魔なら、助けて欲しいんだ!ズィ、ズィヤ・シムシェキ少佐を助けて!」
ジェイさんは最後のクロワッサンを咥えた。
「誰?」
はあ?……誰?誰とは?なんで知らないんだ、動画見たって、いや待て、ズィの動画はまだあげてない、ズィを知らない、説明しなきゃ、どこから、時間がない、おばさんが戻ってくる、早く説明しなきゃ、どうやって……これしかない。
パヴルの頭脳が目まぐるしく回転し、iVitraを操作する。視線入力がもどかしい。ズィの証拠、GTのファイル、ズィが託してくれた証拠。パヴルは超人的な速度で視線を動かし、GTのファイルを開いて、全てオートで見られるよう設定すると、iVitraを無理矢理ジェイに装着した。
「?」
「いいから見て!」
「なにをしているのです、エルギュン」
だめだ。おばさん戻ってくるの早過ぎ。終わった。
だがその時、ジェイがすっと立ち上がった。iVitraをしたままで。クロワッサンを飲み込みながら。
「マダム・ヴェスパー。どうです?似合いますか?」
iVitraをくいっと指で押し上げる。
「……は?」
パヴルとアンジーが同時に口を開けた。ポカンと。
「いや、彼の眼鏡がカッコよかったものだから、ちょっと試しにお借りしたんです。似合いませんか?」
くいっくいっと、iVitraを動かす。
「そ……そうでしたか。まあ、お似合いかもしれませんわね。ですが」
アンジーは瞬く間に気を取り直した。
「ムシュウ・ロルト。エルギュンは仕事があるのです。その……眼鏡を、返してやっていただけますか?」
「ああ!申し訳ない。お仕事の邪魔をする気はなかったんです。エルギュンさん。ありがとうございました」
iVitraを返すと、ジェイは続けて言った。
「力を貸しますよ、おれでよければ」
【10時過ぎ 領事館ゲストルーム】
ヴィはキングサイズのベッドに腰かけ、頬杖をついて考えていた。
朝食から戻ってから、ジェイの態度がおかしい。
ジェイはゲストルームに戻ると、わたしには一瞥もくれずにバスルームに直行し、トイレではなく、シャワーを浴び始めた。ゆっくり、時間をかけて。しかも、シャワーの音が止まったと思ったら、どうやら湯舟に浸かっているようだ。なぜ突然?ガス欠から今日まで、毎日シャワーだけだったのに。
ジェイは首までお湯に浸かり、両手で顔を洗った。またしばらくは風呂に入れなくなりそうだ。ここはもう出て行くんだし。
目を閉じ、さっきのファイルを脳裏でもう一度再生する。天や地獄でグリゴリの映像を見ていた時が懐かしかった。グリゴリよりは不便だが、バビュールの見せてくれたファイルは情報が多くて的確だった。
ズィヤ・シムシェキ。軍人。第一回イェニ・ハチュルで活躍。11年前に帰還。妻の死。殉教者事業。たくさんの写真。赤ん坊のズィヤ、子どものズィヤ、少年、青年、入隊、結婚。
クルチュ。エキンジ。カフラマン、ウラシュ。メッセージログ。聖テレーザ協会の周辺地図。狙撃、暗殺の指示。
特別使徒保安庁。カアン・ギュネル。
それから、バビュールの作りかけの動画。
ズィヤの決意。覚悟。そして逮捕。
バビュール、いやパヴル・エルギュンの想い。サフィーエ・サナル。バビュルス。50万人の仲間。
ひとつだけ、断片的なヴィジョンが、あの時からジェイエルを悩ませていた。あの日、クルチュの葬儀ミサで、その時はまだ名前を知らなかった男、今はズィヤ・シムシェキだとわかった男の虹彩が伝えてきたヴィジョン。
あの続きはもちろん覚えている。あれで、この世界は大きく変化したのだ。だが、なぜ。なぜズィヤの虹彩があのことを知って
(いやそんなはずはないあれはもう二千年前だ人間はそんなに生きられない)
今は、答えの出ないことに使える時間はない。
ジェイは湯舟を出た。
【13時過ぎ 領事館屋上】
パヴルは領事館の屋上にいた。
朝食後、マダム・ヴェスパーはパヴルを引き摺り回した。領事館の隅々まで。一階から最上階の四階まで、エレベーターがあるのに使わず、狭い階段室を何度も昇降した。とても効率的とは言えない。たぶんわざとだろう……新入りイジメか?だがマダム・ヴェスパーもつきっきりなので、意図はわからない。体力テスト?
とにかく、昼になる前に疲れ切っていたが、昼食は簡素なものだった。サンドイッチとカフェオレだけ。副領事と令嬢が公務で昼食会かなにかに出掛けたので、適当に済ませているのかもしれない。
そして今、パヴルは屋上で、マダム・ヴェスパーと対峙していた。アンキュラの太陽が照りつける、灼熱の屋上で。
「暑いですね……」
それは、この鉄で出来ているのではと思われたマダム・ヴェスパーが見せた、初めての人間らしさだった。階段室では息を切らすこともなかったのに、この屋上で夏のアンキュラの陽射しと、屋上の黒いタールから立ち昇る熱気に挟まれた時、まるでそのタールのように溶け始めた。無理もないかもしれない。パヴルは行ったことはないが、フランク王国の首都エクスの気候は調べてあった。
エクスは、アンキュラから見るとかなり北だ。正確には西北だが、11度も緯度の差がある。気候は全く違う。真夏でもせいぜい25℃。35℃を超えることもあるアンキュラは、きっと耐えられない暑さだろう。
「そうですか?ここじゃ夏はずっとこんなですよ」
マダム・ヴェスパーを観察する。初めて優位に立った気がする。
「この暑さが、デジタル機器にとっては大敵なんですよね。サーマルノイズの増幅、ダークカレントの増大、ヒートヘイズエフェクト、ブルーミング現象」
エクスィエンヌにとっても大敵だろう。目が虚だ。畳み掛ける。
「サーマル・スロットリングが起きると映像が飛ぶし、エレクトロ・マイクレーションの加速によって――」
ふらふらし始めた。
「……もういい、エルギュン。ここはわたくしには暑過ぎます。降りますよ」
「いや、待って待って。ほら、こっち来て」
パヴルは北側の端に小走りで向かう。タールがスニーカーの底に粘つく。振り返らなくても、マダム・ヴェスパーがついて来てないのがわかる。
「マダム・ヴェスパー?いいんですか?僕につきっきりで監視するんじゃ?」
「……いや……十分です。ここはもう……」
日陰を求めて、階段室の中に入ってしまった。まあ今日のところは、これくらいにしといてやるか。パヴルも階段室に戻る。
マダム・ヴェスパーは、階段に腰掛けていた。
「大丈夫ですか?熱中症かも?」
「……大丈夫です。ちょっと暑気に当てられただけです」
手で顔を扇ぎながら立ち上がった。再び鉄製に戻りつつある。
「それで?屋上では何か改善すべきところは見つかったのですか?」
「ええ。てか、ここを真っ先にやるべきですね。カメラが役に立ってない。熱対策された最新のに変えないと。あと北側は壁に2台だけでしょ?あれじゃ下しか映らない。ドローンって知ってます?屋上北側にもう一台新設しなきゃ、死角だらけだ。でもまあ、暑いのが苦手なら、後回しにしますか?涼しくなるのは……ひと月後かな?」
「いや、そうはいきません。最新のカメラ。それはすぐ手配できますか?」
「もちろんです。てかカメラじゃないんですが。フェーズドアレイ・センサー。熱や動きを感知します。昼も夜も関係ない。実は用意はしてあったんですよ。アンキュラの古い設備はたいてい、同じ問題抱えてるんで。だけど今日は面接だけだと思ってて、持ってきてないんですよね……」
「わかりました。それは配送で届けられる物ですか?」
「はい。できますとも。最新のは小型なので。僕のツテなら明日午前中には届きます」
iVitraを指差す。
「――これで手配しなきゃなんないけど。いいですか?」
「いいでしょう。下の、副領事執務室ならインターネットもできます」
勝った。この屋上さえ制すれば、このミッションは成功したも同然だ。鉄製おばさんも暑さでバグってる。楽勝だ。いや待て。僕の悪いクセだ。ズィなら厳しい顔で、油断するなと言うだろう。サフィならにこにこしながら、やり遂げるまで気を緩めないだろう。
2人は執務室に行き、マダム・ヴェスパーがソファで休んでいるうちに、パヴルはiVitraでWiaにアクセスし、バビュール第二拠点に配送中の荷物の配達先を領事館に変更し、さらに受取人を本人限定に設定した。明日午前配達予定。荷物が到着してもパヴル以外は受け取れない。中身を確認されても、最新のセキュリティ機材にしか見えないはずだ。
エクスから来たフランク人が暑さに弱いはずだというのは予想通りだった。マダム・ヴェスパーがあれほど弱るとは予想以上だったが。ざまあみ――
パヴルは勝ち誇った目でマダム・ヴェスパーを見た。ソファから立ちあがろうとしていた。そして――いきなり倒れた。
アンジーはエクスにいた。教会。雨。いや、雪だ。光。突然の光。光の中のシルエット。声。優しい声。美しい光。美しい影。そして――
「――パー!マダ――」
男の声。光。雪。影。
声。女の声。
「――Ambre――Ancien――」
男の声。
「――マダム・ヴェスパー!」
部屋。眼鏡。黒縁。エルギュン。
「大丈夫ですか!」
「……エルギュン。どうしました……」
「いやいやいや!どうしましたじゃなくて!大丈夫てすか?」
アンジーは床に寝ていた。頭が痛い。
「突然倒れたんですよ?やっぱり熱中症ですよ!大丈夫ですか?」
熱中症。倒れただと?私が?
「あーびっくりした!とりあえず、起きれそうですか?ソファ、ソファにいけますか?」
エルギュンに支えられ、ソファに横になる。なんということだ。この私が倒れた。
「ひとまず、そこで寝ててください。人を呼びます。いいですね?」
エルギュンはデスクの電話を取る。だがどこに電話すべきかわからないらしい。
「……内線。医務室?医務室と……もしもし?あーよかった繋がった。大至急、えっと……」
「副領事執務室です。ここは」
「あーすみません!副領事執務室?でマダムが……マダム・ヴェスパーが倒れちゃって。ええ……意識は、あります。今は……はい。熱中症だと思います。はい……お願いします!」
アンジーは起きようとした。だが頭が痛い。再び横になる。
「あー寝てて!お医者さん今来ますから。安静にって言われました」
「すみません。大丈夫です」
「いやいや。安静って言われたから!寝ててって!」
「私は……ここで、倒れた?」
どかどかと足音がして、ドアが開いた。医者が来た。車椅子と看護師も。診察の後、アンジーは車椅子に乗せられ、医務室に運ばれて、熱疲労と診断された。脱水と疲労、急激な温度変化。一晩は絶対安静。それで、明日朝には動けるようになるはず、らしい。
公務から帰館した副領事とマドレーヌが大騒ぎし、エルギュンは仕事に戻っていった。マドレーヌは私のせいだとひとしきり泣き喚いた後、看護師になだめられて部屋に帰った。副領事が残った。
「アンジェリック。驚いたよ。君が倒れるとは」
「申し訳ありません、旦那様。わたくしとした事が」
「絶対安静だ、休みなさい。君は働き過ぎだ。これを機に、明日も休養にあてなさい。命令だ」
「いえ、旦那様。今は大事な時ですし――」
副領事は慈愛の笑みを浮かべた。
「いいから。1日くらいゆっくり休みなさい。大事な時だからこそ。今日はとても上手くいった。安心しなさい。マドもよくやってくれた、孤児院で。マスコミも称賛するだろう」
「それは……よろしゅうごさいました……琥珀の方は?」
「そちらも抜かりはない。"あの方"もお喜びだろう。まだ寝ていなさい」
ガスパールは医務室を出ると、執務室に戻った。
アンジェリックが倒れるとはな。鬼の霍乱というやつか。あの女は痩せ過ぎだ。まあ心配はあるまい。
ガスパールは上着をかけ、内ポケットから私用iPortaを取り出して電話する。
「……私だ。送金は?……そうか。よろしい。くれぐれも内密にな。……そうだ、それでいい。何があろうと、私の名もフランクのフの字も出すなよ。慎重にな」
電話を切ると、ガスパールはハンターグリーンの厚手のシルクのタイを緩めながら、先程アンジェリックが休んでいたソファに腰をおろした。
匿名の大口スポンサー。ここでの私の裏の顔はそれでいい。焚き木をたくさん焚べてやろう。エクスのブナの木で燃え上がる、ローマの革命の炎。美しい炎に焼かれて、燃え尽きるがいい。




