3 虚飾は落ちる
【2025年8月2日午後 アンキュラ、フランク領事館】
アンジーは、ガスパール夫人のベッドのシーツを直していた。テュルキエ人メイドのベッドメイクは一見完璧に見えたが、リネンのシーツの微かなシワもアンジーには許せない。
アンジェリック・ヴェスパー家政総支配人。要するに、ガスパール家の影の女主人である。
45歳としては若くは見えるが、年相応の経験を重ねてきた風格がある。目立つのはアイメイク。スモーキー・アイと言われる黒い縁取り、中央の瞳は深い青緑で、虹彩を囲むリングがくっきりと濃い。身長は170センチほどで痩せているが、そうは思わせない存在感があった。
ガスパールの駐アンキュラ副領事が内定した時、ガスパール夫人の療養を兼ねた同行を強く進言したのは彼女だった。結果として、ガスパール家の一家総出のアンキュラ移住が実現した。
「アンジェリック」
ガスパール夫人が着替えを終えて、疲れた足取りで入ってきた。
「長旅だったわ。領事には挨拶も済ませたし、私は少し休もうと思うの」
銀のトレイで、常温の水を注いだグラスと、サンディミュンを差し出す。移植手術後、10年間欠かすことの出来なくなった薬。
「ええ奥様。ご用意はできております。お薬をどうぞ。それから、ゆっくりお休みなさいませ」
「ありがとう。あなたお勧めのアンキュラ。空気は美味しいわ。夜も暑いのかしら」
「この地方は日が沈めば涼しくなりますわ。でも館内の温度は奥様に合わせてございますので」
「本当にあなたは気がきくわね。いつもありがとう」
アンジーはうやうやしく一礼すると、ベッド正面の大きな花瓶の胡蝶蘭を少しだけ直し、寝室を出た。その足で厨房へ向かう。
途中、黒い薔薇を一輪差した花瓶を持った、テュルキエ人の女とすれ違った。会釈する。アンジーの黒いアイライナーを多用した威圧感溢れる目が、その女を一瞥した。背は180弱。ダークブラウンのショートボブ、ノーメイク。ダークブラウンの瞳は目力が強い。モローが連れてきたシスター崩れか。
当のモローも近くにいた。この男には用心しなければ。なにしろDGSEだ。領事館の衛兵長の地位にあるが、軍服は着ていない。今日は明るいグレーのスーツ、ノーネクタイ。一見ラフで不適切だが、これが許される立場ということだろう。この気取った仕草。油断できない。
「マダム……ヴェスパーですね?衛兵長のシルヴァン・ド・モロー。お見知り置きを」
「ムシュウ・ド・モロー。お噂はかねがね」
モローは、中世の騎士のような宮廷式一礼をして見せた。流れるような、優雅な動作で。
ふざけているのだろうが、今はこんな男に構っている時ではない。マドレーヌが到着する前に、ペッシュ・メルバを用意しなければ。
【フランク領事館廊下】
モロー、コードネーム"アシェ"は、足早に厨房へ向かうアンジーを目で追っていたが、すぐにヴィへと注意を戻した。
あれから6日。ジェイの容態は安定したが、依然として起き上がることもままならない。医師によると、過去に心不全発作の既往歴が疑われるらしい。任務では、あの男の生捕が最優先だ。
そしてヴィ。なんて女だ。モローにとって任務は何よりも重要だが、あの女も捨て難い。可能ならモノにしたい。もちろん任務に支障をきたすようなら、処分を厭わないが。
ジェイがとりあえずは延命したことで、ヴィは少しは落ち着いたようだ。ここでの不自由な生活も受け入れている。ジェイが回復したらすぐにでも出て行こうとするだろうが。保険をかけるか。ちょっとしたサプライズでも。
モローはヴィが、花瓶の水を換えて再びジェイの病室に戻ったのを見届けると、病室の前のSPに頷いて、領事館玄関ホールへと向かった。まもなく副領事が到着する頃だ。
【フランク領事館隔離医務室】
ジェイ。顔色も良くなって、ベッドの上でなら、食事もちゃんと食べられるようになった。黒曜石の瞳にも光がみえる。
でもまだ、1人では歩き回ることが出来ない。
いつまで、ここにいなければならないんだろう。わたしはいい。教会よりマシ。バスルームは大きいし、シャンプーやソープも高級品。下着なんか全部シルクだし、食事も豪勢だ。
アシェ、いやモローが、どうやったのか知らないが保安庁の監視をかい潜り、教会のヴィのKelliから私物を全部持ってきてくれた。ジェイの黒い薔薇まで。ありがたいとは思ったけど、あの男は好きになれない。クソキザフランク、内心ではそう呼んでいた。修道衣は捨てた。
ジェイも髪を少し切り、不精髭も剃って見た目は綺麗になった。だけど彼はこの無機質な病室に閉じ込められているだけじゃない。彼自身の肉体に閉じ込められているのだ。
いつから気づいていたんだろう、身体――彼は"依代"と言った――が爆弾を抱えていることに。気づいていて、わたしを抱いてアッカレの頂上まで飛んだりエキンジの"狩り"をしたんだろうか。
"狩り"は彼の使命だと言った。そのための身体なら仕方ないのかも。だけどわたしと飛んだのは?"狩り"が終わったあとだって、わたしを置いて行けばよかったのに無理をして。お父様の墓前で急に変身したのも、もしかしてわたしを何かから守るため?
ジェイはそういうことを何も教えてくれない。
ヴィはため息をつき、眠っているジェイの顔を眺めた。穏やかな寝顔。今休めるならゆっくり休んで欲しい。もう無茶なことはしないで欲しい。それを彼が許せるなら。
お医者様が言っていた。今後いかなる理由があっても、激しい運動は死に至ると思ってください。もし次が大丈夫だとしても、その次はないと思った方がいい。
ジェイがくれた黒い薔薇。まだ花弁は瑞々しく美しいが、そろそろ枯れてしまうだろう。
この人は死というものをどう考えているのか。堕天使にとって、死は存在するものなのか。
何もわからない。
【フランク領事館玄関ホール】
ガスパール副領事とマドレーヌを乗せたルノーが領事館に到着したのは、予定を20分も過ぎてからだった。マドレーヌの起こした騒動は伝わっていた。保安庁が周辺のマスコミをシャットアウトしているおかげで領事館の周りも静かだったが、領事館内は騒めいていた。
「鎮まりなさい。無礼ですよ」
アンジーが一喝し、騒めきが緊迫に変わった直後、玄関が勢いよく開け放たれた。
「Bonne soirée!」
マドレーヌが飛び込んできた。儀礼もなにもあったものではなかった。幸い領事は執務室にいるが。
マドレーヌはホールの一番奥のセンターで直立しているアンジーの元へ一直線に走り込んだ。
「ペッシュ・メルバ!アンジー、ペッシュ・メルバが食べたい!今すぐ!」
アンジーのスモーキー・アイが睨みつけていることにマドレーヌが気づいたのは、その直後だった。
「げ。怒ってる?」
「お嬢様。ご無事のお着き、嬉しゅうございます。が。お嬢様はおいくつになられますか?」
「……もうすぐ18です」
マドレーヌは俯き、足も手も全て内向きになって縮こまる。アンジーより背が高いのに、今は小さく見える。眉を八の字にして上目遣いでアンジーを見た。青い瞳に涙を溜めて。
アンジーはフッと息を吐き、目を細めた。
「全く。お嬢様らしい。さあ、お着替えください。罰として、ペッシュ・メルバはお着替えが終わるまで差し上げません」
マドレーヌの涙目は一瞬で乾いた。
「はーい!アンジー大好き!」
マドレーヌはアンジー以外の全員を無視して、螺旋階段を駆け上がって行った。嵐は過ぎ去った。
「アンジェリック。いつもすまないね」
ガスパールが整列していた執事たちとの挨拶を終えて、ようやくアンジーまでたどり着いた。
「旦那様。ご無事のお着き、なによりでございます。領事が執務室でお待ちです」
「よろしい。マドのことは任せてある。頼んだよ」
「副領事!」
モローだった。
「この度はご就任、誠におめでとうございます」
「モロー。他人行儀は寄せ」
モローはスッと近づき、ガスパールに耳打ちした。
「わかった。任務を遂行したまえ」
離れ際、2人が同時にアンジーを見た。ほんの一瞬だったが、アンジーはその視線を受け止めた。
「では失礼します。Bonne nuit.」
歌うような口調。モローは玄関から出ていった。
「それで」
「奥様でしたら、お疲れのご様子で。少しお休みでございます」
「そうか。長旅だったからな。では私は、領事のところへ出頭するとしよう。マドのことでお叱りを受けるかもな」
ガスパールはウインクした。直属の上司である領事がなにを言おうと、大事ではない。あの老人はただのお飾り、実務はガスパールが全て取り仕切るのだから。
マドの方がよっぽど大事だ。さっきあの子が車道に飛び出した時は、本当に心臓が止まるかと思った。無事で良かった。
マドが元気で、朗らかに笑って、幸せを感じていてくれることが、ガスパールの最大の望みだった。仕事はそのための手段に過ぎない。
去年の10月、プレトリアでのあの日のことは忘れられない。ガスパールは単身赴任だったが、マドはアフリカに行きたがり、数日間だけ遊びに来させた。それが間違いだった。夕暮れ時に領事館の庭でジャカランダの落花の絨毯に感激して、大喜びで転げ回っていたあの子の悲鳴。ヘビ!
プレトリアではパフアダーという猛毒のクサリヘビがそこら中にいる。ガスパールはパニックを起こし、領事館の医師に命令してヘビ毒血清を打たせるまでは生きた心地がしなかった。
結局あの子は噛まれていなかったが、それは結果論というものだ。用心に越したことはない。あの子の幸せのためならガスパールはどんなことでもしたし、これからもするだろう。
マドが駆け上がっていった螺旋階段の上を、ガスパールは笑みを浮かべて見上げていた。
アンジェリック・ヴェスパーは笑っていなかった。ただ見つめていた――モローが出て行った玄関を。
【アナドル文明博物館駐車場】
日は沈み、蝉もとうに鳴きやんでいた。駐車場の北端の林は、アンキュラでは珍しくはないニワウルシの木々が密生した林だ。この木には神樹、天国の木と言った別名がある。天にも届くほど高い木、という由来だった。
その内の一際高く成長した木の頂点付近の枝で、アリーは眠っていた。
ジェイが倒れてから、アリーは暇だった。
生まれてからずっと、アリーはジェイと共にいた。その2年間でジェイが動けなくなったのも初めてではなかった。そんな時はいつも、アリーは片時も離れず、近づくものがあれば威嚇したり、ジェイに鳴き声や思考で話しかけたりして元気づけた。アリーにとってジェイは、かけがえのないパートナーだった。
だが今回は違う。側に行きたくてもいけない。領事館のどの部屋にジェイがいるのかは知っていたが、窓辺に行くと人間たちに例の言葉で追い払われる。精神リンクは繋がるのでジェイの状態はわかったし、外の景色を見せてあげて元気づけることはできた。ジェイはありがとうって言ってくれた。でもそれ以上のことはできなかった。
そして、あの"いらつきおんな"がいた。ジェイの側にずっと。最初は、"いらつきおんな"がジェイを助けようとしてくれているのがわかったから、ジェイの代わりにありがとうの贈り物をした。あの'いらつきおんな"はそのせっかくの贈り物を放り投げ、いつものようにいらついていた。"いらつきおんな"は嫌いだ。
でも、ジェイの思考は伝わってきた。ジェイは"いらつきおんな"を大切に思ってる。アリーと同じくらい。ジェイにとっては仲間なんだ。ジェイはアリーの仲間だ。だからあの"いらつきおんな"も仲間。仲間は大切にしなきゃ。嫌いだけど。
ジェイが倒れたからご飯はもらえなくなったけど、それは大丈夫だった。ここに来てもう10日だ。10日も居れば、どこにいけばトカゲがいるか、トカゲ以外にもご飯が落ちている場所がどこか、全部わかる。同類の仲間もたくさんできたし。寂しくなんかない。寂しくなんかないんだ。
ちょっとだけ、また撫でて欲しいだけ。
ジェイの優しい手。頭の後ろや、前や、嘴を撫でてくれる指。
アリーはジェイの指を思い出して目を覚ました。神樹の枝を蹴って降下すると、ロルフのソフトトップの裂け目から車内に潜り込んだ。そして運転席に行くと、ステアリングに頭を擦り付け始めた。
ニシコクマルガラスの嗅覚は、聴力や視力に比べると普通だった。ジェイがロルフのステアリングを握ったのは結局僅か3日だけだったし、ほとんどが短時間の運転だったから、ステアリングやシートからジェイの匂いがする、というわけではなかった。それでもアリーは、ステアリングやセレクトレバーに頭や体を擦り付け、運転席のシートで寝転がった。
ジェイは病気だ。だけどジェイは怖がってないし、ちょっといつもより長いけど、休めばまた元気になるって思ってる。心から。だから大丈夫。ジェイが元気になれば、またたくさん撫でてくれるから大丈夫。
【コンヤ通り】
モローはコンヤ通りの角から駐車場に足を踏み入れた。目標は100メートル先。目標間近の聖テレーザ教会に駐留する特別使徒保安庁の監視から逃れるのには最適だったが、そのためにわざわざ遠回りしているわけではなかった。
領事館を出てからコンヤ通りを北上し、アナファルタラル大通りからフキュメット通りへ。モローはクルチュ神父の最後の足取りをなぞってきたのだ。
途中で晩飯を済ませると、日も沈み、いい時間になった。あとはちょっとドライブでもして帰るだけだ。
モローはポケットから取り出した物を軽く投げ上げ、落ちてくるのを横からパシッとカットして掴むと手を広げてそれを見た。
VdPとマークの入った車のキー。スマートキーではなく、古い車の鍵だ。ロルフ・カブリオレの鍵。
ジェイのポケットから抜き取ってきた。
これがあれば、仮に誰かに足止めされても、その場は正当な持ち主だと言い張れる。納得しなければ領事館の身分証を見せればいい。簡単だった。
全てはヴィのためだった。あの女をモノにする。ぼくに口説かれて落ちない女はいない。ましてシスター崩れだ。男を知らない。簡単過ぎる。そしてそれが保険になるはずだ。ヴィが残ると言えば、ジェイも残るだろう。一石二鳥だ。
モローは石壁をよじ登り、アナドル文明博物館の駐車場に足を踏み入れた。
【ロルフ・カブリオレ車内】
その足音をアリーは聴き分けていた。明確にこちらに向かってくる足音。あいつだ。"いらつきおんな"と一緒にジェイを助けてくれた"きざおとこ"。仲間だろうか?
まだ、わからない。
石を投げられた時に聞いた言葉と同じことを言った"きざおとこ"。
アリーは隠れることにした。"きざおとこ"が仲間かどうか、確認するために。後部座席に飛び移り、背もたれの真ん中の布のつまみを咥えて引っ張る。ちょっと重いけど頑張って引っ張る。すると、トランクに通じる穴が開いた。アリーはトランクに入ると、今度はそのふたに開いている、以前に嘴を突き刺してできた穴に、また嘴を突っ込んで中の骨を咥えて引っ張る。重いけど頑張って引っ張る。ふたは完全には閉じなかったが、たぶん気づかないだろう。ジェイだってこのふたのことは気づいてないんだから。
モローは口笛を吹きながらロルフまで歩いた。
いい夜だ。暑過ぎず寒過ぎず。夜風が気持ちいい。ロルフの運転席の横で、ステップを踏んでターンを決める。それからおもむろにドアを開けて運転席に乗り込むと、エンジンをかける。そして電動ソフトトップを開けた。
「いいねえ」
モローは走り出した。領事館に向かって。
【フランク領事館、隔離医務室】
(ジェイ。おきて)
アリーの思考で起こされた。
映像かと思ったが何も見えない。真っ暗だ。
(アリー?どこにいるんだ?)
(ここ。いまいく)
(いまいく?どこへ?)
(ジェイへ)
頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになった。さっぱりわからない。
(????。おもしろい)
よくわからないがアリーは機嫌が良さそうだ。だがふと気づく。エンジンの音。風の音。この音は聞き覚えがある。
短く、キッとブレーキ音。そして、ギギッ。
ロルフだ。セレクトレバーを動かすと、時々あの音がする。
(アリー????)
いくらアリーが天才烏でも、身体構造的に運転は不可能なはずだ。しかも真っ暗。
(???。???
???。???
???。???)
アリーはイメージで遊んでいる。これは素晴らしいことだ。ロクツィオの初歩。視力で見える映像ではなく、脳内で自分で作ったイメージを送信する。天の語らい。やはりアリーは天才だ。
だが運転は絶対無理。
またブレーキ音がした。続いて、モーターの駆動音。ロルフがちょっと放置していた間に自然にハイブリッド化したのでない限り、たぶん門の音だ。領事館の。
ジェイはベッドの上で、腹筋のみで上体を起こした。医師は重症と言っていたが、そうではないのは自分で良くわかっていた。変身や飛翔、依代の肉体が変化する時は、確かに疲れる。立て続けに肉体を使えば、かなり消耗する。今回はいつもよりだいぶ疲れた。だがそれだけなのだ。休めば治る。
胸とか手首とかに、リードとパッチが付いている。
ジェイ・ロルトの心臓が弱いのも最初から知っていた。この依代の死因は、心筋を動かす神経の電気信号が一時的に止まったからだ。理由は知らないが、そのせいで心臓が止まり、ジェイ・ロルトは死んだ。2分だけ。2分以内にジェイエルが転生し、電気信号も元に戻った。心筋のダメージはほんの少しだけだ。その少しのダメージが命に関わる、当然だ。人間は誰だっていつか死ぬ。この依代が特別死にやすいわけじゃない。ちょっと疲れやすいだけ。
ここのベッドは気持ちいいし、飯も美味い。せっかくなので少し休むことにしただけだった。
「……ジェイ?ちょっと!なにしてるの?」
隣のベッドで寝ていたヴィが目を覚ました。
「ああ、ごめん。寝てて」
「……は?」
「もう治ったから。ちょっと行ってくる」
リードを引っ張って外した。パッチも剥がそうとしていると、アラームが鳴り出した。
「はあ?どういうこと!」
ヴィが怒っている。元気になったのに。
ベッドから出て、ドアノブを回す。回らない。施錠されている。ノックしながら言う。
「おーい。誰かいませんか?」
ドアの外で足音、ガチャガチャと金属音。そしてドアが開いた。
「やあ。ありがとうございます」
呆然とジェイを見ているSPと看護師に礼を言い、ジェイは飄々と病室を出て行った。
「……ちょっと待てッ!」
叫んだのはヴィだ。怒り心頭。この5日間はなんだったのか。わたしがしてきたことは?わたしの想いは?全部なんだったの?心臓は大丈夫なの?
【フランク領事館 正面玄関車寄せ】
モローは上機嫌でロルフを停車した。フルオープンで見る星空は最高だ。あの女を落とすシチュエーションも完璧。
上着の内ポケットから、小振りな白薔薇を一輪取り出す。花言葉は純潔と尊敬。あの女のプライドをくすぐるのに最適のチョイスだ。そう言えば黒い薔薇とは。知性の欠片もない野蛮人ども。おかげで経費も最低限で済むし、陳腐な白薔薇が引き立つというものだ。そこは感謝してやろう。車代すら浮いた。
モローは車を降りてドアを閉めると、玄関を開け放って領事館へ入っていった。行く先はもちろん、ジェイが寝込んでヴィが付きっきりで看病している隔離病室。
アリーはロルフのトランクで、モローの足音が遠ざかるのをじっと待っていた。ダッシュで戻って来ても間に合わない距離まで離れたことを確信すると、アームレストに頭からぶつかって押し開け、外に出た。そして、領事館の玄関ホールを奥へと進む"きざおとこ"のさらに奥から響く、この世で最も安心する足音を聞きつけて舞い上がった。
(ジェイ!きたよ!)
(アリー?どこだ?)
アリーはジェイめがけてまっしぐらに飛んだ。"きざおとこ"の頭上を掠める角度で。
(アリー⁉︎気をつ――)
ジェイの目前で、それは起こった。
モローは、先ず前方に注意を奪われた。ジェイが立って、歩いて、こちらに向かってくる。
それから、背後から迫る羽音に反応した。反射的に、バックハンドで攻撃を防ごうとした。
(ジェイ!うれしい!)
アリーの銀色の瞳には、ジェイしか映っていなかった。5日ぶり。アリーには永遠にも感じられた5日。だが"きざおとこ"がアリーの邪魔をしようと手を上げた。アリーはその攻撃を避けるため、プルアップした。そこに、築98年の歴史を誇る領事館で、新築当時から玄関ホールを照らしてきた豪勢なシャンデリアがあった。
アリーは翼を垂直までロールし、ナイフエッジでシャンデリアを掠めた。シャンデリアはガラスの触れ合う絢爛な音と共に大きく揺れ始めた。
手を振り上げた後に屈んでいたモローに、天井の漆喰がパラパラと降りかかった。そして、ガラスの音と、ギイッ、ギイッという音。モローは天井を見上げた。
シャンデリアが揺れ、クリスタルのストランドがシャラシャラと鳴っている。光が万華鏡のように幻想的にばら撒かれる。天井の漆喰とともに。
アリーは天井すれすれで旋回し、シャンデリアを見た。シャンデリアが落ちそうだ。私のせい?責任を感じて、揺れを止めるためシャンデリアを支えるつもりで接近した。
「やめろ!」
モローが叫ぶとほぼ同時に、アリーの脚が軽くシャンデリアに触れた。シャンデリアと天井を繋いでいたフックのひとつが外れ、傾いた衝撃に残りのフックも耐えられず、巨大なシャンデリアは落下した。モローめがけて。
ジェイの翼が爆発的に展開した。黒い巨大な翼が壁にぶつかり、石壁にヒビが走って領事館が揺れた。同時に、顔も身体も変身した。針を突き刺したような痛みが心臓を襲ったが、ジェイはその痛みを無視し、シャンデリアの真下のモロー目指して飛翔した。シャンデリアが翼を直撃し、凄まじい音をたてた。
モローはその仕事柄、反射的に身を伏せたが、プロとして目を閉じはしなかった。そして全てを見た。
黒い禍々しい翼。血が燃えたように邪光を放つ眼。黒いツノ。そのモノが襲いかかって来た。
反射でグロックを抜こうとして取り落とす。ありえなかったが、モローはそのことにさえ気づかなかった。モローはパニックを起こした。尻餅をつく。立ちあがろうとして転ぶ。足腰がおぼつかない。それに背を向けて、四つん這いで逃げようとする。
喰われる。逃げろ。悪魔から逃げるんだ!
開けっ放しの玄関の向こうに、安全な外の世界が見えた。バタバタと立ち上がり、走ろうとしてまた転んだ。そこに、裸足の、淡いピンクの小さな貝殻のような爪があった。
マドレーヌは突然の爆音に飛び起きた。就寝時間を過ぎてベッドに入ったが、昼の興奮がまだ瞼を閉じさせず、眠れそうにないなと思った矢先だった。その瞳は今や好奇心で破裂しそうなほど輝いていた。スリッパも履かずに白いクラシックなナイトドレスのまま寝室を飛び出し、吹き抜けの2階の廊下から、玄関ホールを見降ろした。
「アンジー!すごいよ見てっ!」
隣の寝室から一歩遅れて飛び出て来たアンジーを一瞬だけ振り返ると、白いコッカースパニエルのような勢いで、アンジーの静止の声より速く、螺旋階段を駆け降りた。そして転んだモローの前でようやく立ち止まる。
モローにとって、それは障害物以外の何物でもなかった。柱に縋るようにマドレーヌの身体を掴んで立ち上がり、次にその身体を横なぐりに突き飛ばした。
「邪魔なんだよどけッ!」
それから一目散に駆け出したが、その逃走が成功したかどうかは、この時をもってどうでもよくなった。マドレーヌを突き飛ばした瞬間に、モローは社会的に自爆した。
モローにとっては、それもどうでもよかった。逃げろ。ここから、少しでも遠くへ。それ以外の全てのこと、任務も立場も全て忘れて、モローは夜のアンキュラに消えた。闇雲に。
「……助けてあげたのに」
ジェイが呟いた。
ヴィは後方で立ち尽くして一部始終を見ていたが、ジェイのその呟きに、感情が爆発した。
「……ふざけるなッ!あなたバカなの?!また血だらけよ!」
ジェイは振り向いた。眼はもう燃えていなかった。翼を軽く振ると、クリスタルの破片がきらめきながら落ちた。アリーが舞い降り、ジェイの肩に止まった。ジェイの筋肉は収縮を始めていた。何ヶ所か皮膚が裂け、血が滲んでいた。
翼が静かに消えていく。ジェイは玄関へ歩き出した。
「待ちなさいよッ!まだ話は終わってない!」
ヴィは大股でクリスタルの破片や、モローが落として忘れていったグロックや白い薔薇の花を踏みつけながら、血だらけのジェイの背中を追った。領事館のメイドたちが脅え竦んで身を寄せ合う中をかき分けて。
ジェイは、ロルフ・カブリオレに乗り込んだ。久しぶりの愛車に、笑みが浮かぶ。キーは挿しっぱなしだった。エンジンはいつものように、一発で始動する。
「待てってばッ!」
ヴィが助走をつけて跳躍し、助手席に飛び乗った。
「人の話をちゃんと聞けッ!」
「……まだついてくるの?じゃあシートベルト」
ロルフ・カブリオレは走り出した――ギギッとギアを鳴らして。
マドレーヌの青い瞳は潤んでいた。
モローに突き飛ばされたからではなかった。アンジーとガスパールが支えたので転びもしなかった。裸足でクリスタルの欠片を踏んだので足裏は少し切ったが、痛みを感じなかった。
「……なんて美しいの」
マドレーヌの瞳を潤ませたのは、濡羽色の翼、黒い王冠のように逆立った髪、そしてルビーのように輝く瞳だった。
アンジーもマドレーヌと同じものを見た。アンジーも驚いた。見るのは初めてだった。
あれか。あの方がおっしゃっていたのは。あの方はこうもおっしゃった。あれが現れても構うな。まだその時ではない。
それより今重要なのは、マドレーヌの身体だ。
「お嬢様。足を」
アンジーはマドレーヌの傷を確かめた。ほんのかすり傷だ。良かった。
この身体は、なによりも大切なのだから。
ガスパールは、アンジーがマドレーヌの傷の治療を始めたのを見て、安堵した。
マドのことは、アンジェリックに任せておけば安心だ。それにしてもモローめ。マドに手をかけるとは。やつは終わりだ。まだ始まってもいないのに、なんたるざまだ。やはり必要なかった。
あの方のおっしゃった通りだ。
「衛兵!」
ガスパールは警備の衛兵たちを集めた。
「あの車を」
ガスパールが指差した先に、ロルフ・カブリオレがまだ停まっていた。
「……どうして、停まったの?」
ヴィはますます混乱していた。
ロルフはギアを鳴らして少し動いただけだった。車寄せで、ほんの1メートル動いただけ。エンジンが停止したのだ。
ジェイはイグニッションを回したが、セルが虚しく回るだけ。諦めて、ヴィを見た。
「……ガス欠だ」




