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21 怪物

 地獄。

 炎の空。

 溶岩の海。

 

 空は燃えているわけではない。炎のように燃えて見えるのは、ぶ厚くたち込めた雲に、溶岩の赤い光が反射しているからだ。

 太陽のないこの世界が暗黒でないのは、この雲と溶岩のせいだった。


 ジェイエルは、地獄の入り口である黒い穴に入り、渦巻くぶ厚い雲を抜けて帰還した。


 コジャテペで顕現したあの真の姿。

 鎌のような鉤爪。

 黒い羽毛に覆われた下半身。

 烏のそれだが、巨木の幹のように太い。

 巨大な翼は、陽光を浴びずとも常に濡羽色の煌めきがあった。

 身体は褐色の岩、黒髪が逆立ち、豊かな髭と併せて獅子の立て髪のようだ。

 そしてその黒曜石の瞳は、溶岩を反射して赤黒い光を放っている。

 地上での巨体よりさらに大きく、なにより血塗れではなかった。この身体は頑健で、血管が破れるどころか浮き出さえしていない。


 身体が軽い。地上での偽りの軽さではなく、強靭な身体だからこその軽快さ。

 依代という檻から解放された、自由な身体。


 暗黒の雲の中を抜け、赤い空に現れたジェイエルの眼下に、たくさんの島々の群から少し離れている孤島。そこにジェイエルの棲家がある。依代が死んで帰還すると、いつも棲家の真上に出る。

 だが今は、我が家に寄る時間はなかった。やることがある。

 

 どこか。まずそれが問題だった。どこにいるのか。


 2年間の地上生活での癖で、ジェイエルはiPorta(スマートフォン)を探した。インウェニ・ハリタ(Googleマップ)で……そして、ふっと笑った。

 そうだ。それがいいかも知れない。

 地獄にインターネットはないが、ロクツィオ(精神ネット)がある。


 ジェイエルは顔を思い浮かべた。

 ダークブラウンの瞳。鋭い眉。強固な意志が溢れる、美しいが冷徹な顔。


『この人間の女を探している。

 まだ来たばかりのはずだが。

 名前はヴェシリア・セレン』


 ロクツィオ(イメージ)を、全地獄に発信した。


『ジェイエル! 『誰だ? 『ジェイエル

 戻ったのか?』 そいつ』 おかえり!』


 即座に反応があった。時間という概念がないこの世界では、誰もが暇を持て余し、変化を求めている。


『いい女だ。 『ジェイエル 『そいつ、

 お前の女?』 何があった』 知ってる』


『アザズェル!どこにいる?』


『ここだよ。おいで』


 ロクツィオ(風景)が来た。群島の端の小さな島。

 ジェイエルは真っ直ぐにそこへ飛んだ。


 何もない岩肌の上に、アザズェルがいた。

 もこもこした羊毛にくるまれた子羊。

 その首から先に、まだ幼い少年の、青白く痩せた上半身。

 2本のツノだけは、立派な螺旋を描いている。翼はない。

 周囲に、たくさんの石が並んでいた。アザズェルはここで、いつもひとりで、その石の羊の群れを並べて遊んでいる。


『やあ、ジェイエル!今回の肉体はどうだった?ちょっとだけ不良品だったけど』


『知ってたのか?心臓が悪いこと』


『へへ、まあね。もう壊れちゃったの?思ったより早かったな。ごめん』


 ちょっとした悪戯のつもりか。こいつはいつもこうだ。だからラファエルに……まあいい。今はかまってやる暇はない。


『ヴェシリア・セレン。どこに送られたのか、知っているんだな?』


『なになに?珍しいね?女に執着?』


『どこだ。教えろ』

 強めのロクツィオ(苛立ち)


『おっと。こわい。まって』

 

 こう見えて、アザズェルはグリゴリの中でも1番優秀な観察者だった。これまでもジェイエルは、使命のために転生するときはいつもアザズェルの観察記録を頼っていた。

 ただ、グリゴリの観察対象は地上だ。地獄で起きたことまでわかるのか。


『あのね、実はボクが知ってるわけじゃないんだけどね?スリエルから聞いたんだ。彼女とはよくおしゃべりするから。今も、ほら』


 アザズェルがジェイエルの背後を促した。振り返ると、赤い空に銀色の光がこちらに向かって来ている。少しずつ。

 スリエル。月の堕天使。死者を刑罰へ誘うもの。


『ジェイエル。戻ったのねぇ。おかえりなさい』

 

 数分後、スリエルがジェイエルの眼前に降り立った。繊月のように細く鋭い、赤い眼。笑みのように見えるが、そうではないのはよく知っている。

 小柄で、銀色の毛に覆われた細身の身体。長い髪も銀色だが、何より目立つのはその耳だ。やはり銀色の大きく細長い耳が頭上に伸び、途中で折れて、彼女はその耳で空を飛ぶ。低速で。


『ヴェシリア・セレン。知ってるけど、何の用?あの女はもう泥の底よ。さっきあたしが埋めてあげた!いっちば〜ん深いところ!楽しかったぁ!』

 

『泥の底?じゃあもう、話すのは無理?』

 

『なぁに?あの女とおしゃべりしたいの?ロクツィオ(精神波)は届くよ。ここ(地獄)でなら、罪人ともおしゃべりできる。あと、姿も見れちゃうのぉ!今回楽しかったのは、そ・こ!キャハハハハッ!』

 

 意味がわからなかったが、狂気に満ちたこの女のことだ。何か、普段とは違う趣向を凝らしたのか。

 

『連れてってくれないか?その地獄へ』

 

 赤い眼が、僅かに開いた。

 

『ふうん。随分お気に召したのね、あの女が。どうしよっかなぁ〜。あたしに、なんかいいことあるぅ?』

 

『楽しいことが好きなんだろ?おれがヴェシリアと話すのを見てればいい。楽しいかもな』

 

 スリエルは腕を組んで片手を顎に添え、じっとジェイエルを見た。こいつ(ジェイエル)はいつもは、あたし達には無関心だ。用がなければ、眼中にないって感じ。確かに、おもしろそうかも。

 

『いいわ!ついてきて!』

 

 スリエルが耳をぱたぱたと懸命に動かし、浮き上がった。丸くてふわふわの尻尾がジェイエルの顔の高さまで上がるのに、数秒かかる。遅い。

 ジェイエルは翼をひと振りすると、舞い上がり様スリエルを小脇に抱えた。

 

『キャハッ!だいた〜ん!』

 

『お〜い!あとで、ボクにも教えて!』


 アザズェルを置き去りにして、ジェイエルは地獄の赤い空を飛んだ。高速で。

 水平線は遠くに霞み、判別できない。どこまでも広がる溶岩の海。

 スリエルがロクツィオ(マップ)を送信してくる。カーナビみたいだな、と思い、同時に、すっかり地上に毒されている自分を自嘲しながら、ジェイエルは案内に従って島のひとつに舞い降りた。カーナビなら、目的地に到着しました、というメッセージが出るところだ。

 

 大きな岩山、切り立った崖。ところどころに、岩肌を突き破る氷瀑の、蒼白の壁。

 溶岩の海はもちろん高熱だ。空気も当然熱いが、その氷は微塵も液化していない。

 

 ジェイエルの腕から逃れると、スリエルはそのひとつの麓へ小走りで向かう。

 

『どうこれ!綺麗でしょう?センスある〜、あたし!』

 

 スリエルを追って近づく。それは氷ではなかった。

 炭素結晶。

 ダイヤモンドの滝だ。人間たちがこれを発見したら、彼らの虚飾の対象も様変わりすることだろう。

 その透明な壁の奥に、ヴェシリアがいた。


 緋色のカソック(法衣)のまま、こちらに正対して、四肢は大の字に広げて。カソックは胸がはだけ、純白のクレリカルシャツの中心が赤く血に染まっている。背後から黒い泥炭に圧迫され、ダイヤモンドの壁に押し付けられて、標本のように。

 目は固く閉じられていた。苦痛に耐えているのか、眉を顰めている。


『どう?素敵なディスプレイじゃない?みんなに見せてあげるの!この女はこっそり覗き見するのが趣味だったからぁ、いいざまだと思わない?あたし天才だわ!キャハハッ!』


『ヴェシリア・セレン。これが聞こえるか?』

 

 ヴェシリアが目を開けた。その瞳には、まだ光が見える。ダイヤモンドの屈折による錯覚でなければ。

 

『……ウサギの次は……鳥、ですの?ここは動物園かしら』

 

『ここは地獄だ。お前は死んだ』

 

『死んだ。わかっていますわ。そのつもりでしたので。それにしても、もう少し……情緒的な言い方をなさったら?ああ、難しすぎるわね、鳥の頭では』

 

 ジェイエルは関心した。やはりこの女は特殊だ。

 ヴェシリアは、目を細めてジェイエルを睨んだ。

 

『鳥……まあ、あなた、もしや……あの怪物?ジェイ・ロルト?』

 

『地上で会った時はその名だったよ』

 

『まあ……どうしてここに?……あの子は?』

 

 ヴィの顔が脳裏に浮かぶ。ジェイの流した血に塗れ、ジェイと虹彩を絡めたダークブラウンの瞳。ヴェシリアの瞳と同じ色。

 

『ヴィ……妹のことが気になるか?』

 

 ヴェシリアは目を見開いた。

 

『……ご存知でしたの?いつから?』

 

 ジェイエルは首を振った。

 

『今知ったよ。似てるなとは思ってたけど』

 

『かまをかけたんですのね……私としたことが。ええ、あの子は妹……私の……』

 

『会いたいか?もう一度』

 

 ヴェシリアの顔が歪んだ。悲しみではなく、怒りで。

 

『あの子を地獄へ?そんなことは許しません。あなたにお任せするとは言いましたが、そんなことは……決し……て……ッ!』

 

 怒りが苦悶に変わる。顔も身体も、泥炭とダイヤモンドに押し潰されている。

 

『あらら。そんなに怒ると、泥に潰されちゃうよぉ?痛い?苦しい?その泥は、あなたの憤怒なの。あなたの罪。どう?自分の罪の重みは?キツい?ツラい?キャハハハハハッ!』

 

 ジェイエルは横目でスリエルを伺いながら考えた。可能だろうか?

 ダイヤモンドの壁に押し付けられ、ヴェシリアは激痛に耐えている。その苦しみが感じられるほど、険しい表情がはっきりと見える。それほど近い。

 氷瀑を、その上まで聳える岩山を見上げる。この体積の岩と泥炭の圧力は膨大だ。


 ジェイエルはダイヤモンドを蹴った。強靭な鉤爪で。僅かに削れた気がしたが、びくともしない。

 

『ええ?無理無理!そんなんで割れないからぁ!爪折れちゃうよぉ?』

 

『ヴェシリア、聞け。おまえの妹……ヴェシレは哀れな女だよ。おれに惚れてたみたいだがな。散々色目を使ってくるから遊んでやったのさ!』

 

 泥炭の圧力が増大した。ヴェシリアは潰されながら、その眼は怒りで燃えたぎった。

 

『……貴様……悪魔め……!』

 

 もう一度、さっきと同じ箇所を正確に蹴った。鉤爪の切先が、ダイヤモンドに喰い込む。

 

『おっしゃる通り!おれは悪魔だ!どうだ?今からここに連れてきてやろうか?おまえの目の前で、妹を犯してやるぞ!おまえはそこで、怒りと恥に潰されながら眺めてろ!』

 

『……ジェイエル!それ、最高ッ!やろやろ!楽しみすぎるぅッ!』

 

 漆黒の泥炭が、凄まじい圧力でヴェシリアを潰した。世界が軋む音が地鳴りのように響く。

 ジェイエルは翼のひと振りで跳躍すると、両脚の鉤爪を全力でダイヤモンドに叩き込んだ。

 ダイヤモンドの氷瀑が弾けた。泥炭の強大な圧力がジェイエルの鉤爪でできたヒビを押し割り、一気に崩壊した。ダイヤモンドが砕け散り、溶岩の赤い熱光にギラギラと輝いて散乱した。

 ヴェシリアの潰れた身体が、泥炭に混じって押し流され、吐き出された。

 ジェイエルはそれを引っ掴むと、空高く舞い上がる――呆然とするスリエルを残して。



 紅蓮の空を、ヴェシリアの潰れた身体を抱き抱えて、ジェイエルはゆっくりと滑空した。

 腕の中でヴェシリアが痙攣を始めた。身体が復活しようとしている。地獄では誰も死なない。罰を繰り返し受けるために、その身体は蘇り続ける。永遠に。

 

『……貴様……許さん!……』

 

 ヴェシリアが息を吹き返した。

 

『ごめん。酷いこと言って。あれしかないかなって』

 

『なにを……問答無用……ですわ……叩っ斬って……』

 

『ごめんなさい。ヴィには言わないで?殺される』

 

 ヴェシリアは唖然としてジェイエルを見た。困惑。だがすぐに、ジェイエルのした事を理解したようだ。頭脳明晰。

 

『……どういうつもりですの……ここは地獄なのでしょう?』

 

 周囲を見回す。赤い空、燃える海。

 

『うん、そうだよ。ヴィは地上にいる。ちゃんと生きてる。無事だ。あなたも、地上に帰れる。また妹に会える』

 

『……はい?生き返ることができると?』

 

『……生き返るのは無理なんだけど……ひとつだけ方法がある』

 

 ジェイエルは地獄の空の熱い空気を大きく吸い込んで、言った。

 

『使い魔にならないか?』


『……使い魔?なんですの?それ』

 

『アリーを知ってるよね?カラスの』

 

 ジェイエルは使い魔についてのロクツィオ(説明)を送った。

 

『そういうこと……まさか。この私に、あなたのペットになれと?』

 

 ジェイエルは鼻で笑った。

 

『ペットとはちょっと違うかな。少なくともおれはアリーをペットだとは思ってない。仲間。あなたにわかりやすくいうと……アシスタントかな?』

 

 今度はヴェシリアがフッと笑った。

 

『アシスタント。都合のいい肩書き。要するに奴隷にしたいと?この私を。そんなご趣味がおありとは……妹をお任せしたのは間違いね。降ろしなさい。今すぐに』

 

『待ってくれ。よく考えて。奴隷とか、そんなんじゃないんだ。対等だ。チーム』

 

 ヴェシリアは疑わしくジェイエルを見ている。

 

『アリーは友だちだ。大切な……とても大切な、友人。人間にわかりやすく例えるなら、家族だ。アリーのためならなんでもできる。見てたんだよね?ヴィがアリーを助けてくれた時のこと』


 

 チーム、友人、家族。どれもヴェシリアにとっては価値の見出せないものだった。ヴィを除いて。

 だが、ヴェシリアは見ていた。あのカラスがどういう存在なのか確かめるためのテストを考案し、指示したのもヴェシリアだ。この悪魔はカラス1羽のために降伏しようとしていた。


『……いいでしょう。検討の余地はありますわ。でもその前に、私にはここでやりたいことがありますの。それを手伝ってくださる?チームとして』

 

『……ここで?……それは……』

 

『猊下……いえ、あなたにはちゃんとお話しますわ。チームですものね?あの男、私の父を――』



 なんだと?父?どういうことだ。つまり、ヴィもインノケンティウスの娘だと?

 

『あら。驚いていますのね?あなた方はなんでもお見通しなのかと。あの男は私たちの父。妹は知りませんし、教えるつもりもありません。父は、私たちを娘だなどと思ってもいませんし』

 

『どういうこと?あなたの家族は――』

 

『家族。そんな言葉、私たちには相応しくありませんわ。ただの血の繋がり。それをあの男は、私欲のために利用したのです』


 

 ヴェシリアは手を胸に置いた。もう、鼓動は感じられない。

 ジェイエルにロクツィオ(記憶)を送る。

 

 心臓の病。ヴィが生まれた理由。移植。

 母の愛。

 父の呪い。

 復讐。コンシリウム。


『――あとは、あなたもご存知の通りですわ。ヘリの墜落。父は酷い死に方をしました。私はそれを見ていた。アクシデント。仕方ない、と思いましたわ。この手にかけることは叶わなかった。あの時は、それで満足いたしました。妹に、私と同じ思いをさせたくなかった。父が死んで、その心配はもうなくなりましたから。でも今は。死後の世界があることを知りました。父もここに来ているのでしょう?』


  

 それはその通りだ。ジェイエルはインノケンティウスを"狩った"。インノケンティウスが地獄(ここ)で、鉛の法衣を来て歩き続けるのを見た。

 

『……だけど……もう一度殺すことはできないぞ?いや殺すことはできるか。でもすぐ生き返る』

 

『わかっておりますわ。身をもって体験いたしましたもの……無駄だ、とおっしゃりたいのね。ええ、そうね。ですけれど、話すことはできますでしょう?言いたいことがあるのです。言ってやりたいことが。思い知らせてやりたいのです』

 

 ジェイエルはヴェシリアの怒りを感じた。強い激情。憤怒。そのせいであれだけの罰を受けても、なお止むことのない怒り。

 当然かも知れない。それだけのことをされたのだ。

 そしてヴィ。なんということか。そんなことができる人間がいるのか。

 天の理。何を見ているのか。

 地獄の罰だけでは、生ぬるい。

 

『わかった。手伝おう。チームの初仕事だ』


 

 ヴェシリアはゆっくりと頷いた。

 そうね。チームね。



 インノケンティウスは歩き続けていた。

 豪奢な白金色のカソックとローブ。首には紫金のストーラ。鉛なのは裏張りだけで、表の布はオスミウムという、世界で最も重い金属の糸で編まれていた。その負荷は、転んだだけで脱臼や骨折、ちょっとバランスを崩しただけでも激しい打撲症を生じるほど過酷だった。

 ただ重いというだけではない。オスミウムは高温の空気中では容易に酸化し、四酸化オスミウムという腐食性ガスを発生する。皮膚はただれ、眼には燃えるような激痛、吸えば呼吸困難。地獄の気温で簡単に気化する。毒ガスを纏い、それでも歩き続けなければならない。

 

 その歩く地面は、溶岩の海に点在する小さな島で、罪人1人ずつひとつの島が割り当てられ、岩場もあれば狭い砂浜もある。

 インノケンティウスの島は砂浜が多かったが、これは岩場よりもずっと過酷だった。重過ぎるので一歩ごとに足が砂に埋まり、海水ではなく溶岩が染み出て足を焼く。裸足の。

 しかし最悪なのは、重さでもガスでも焼ける足でもなかった。最悪なのは、三重冠と教皇の金の指輪だ。

 オスミウムの冠と指輪が皮膚を焼き、喰い込む。教皇の象徴が。

 

 小さな島の外周を、苦痛にまみれながらただ歩く。ガスで爛れた眼に微かに見えるのは、溶岩の海のみ。ひたすらぐるぐると、変化のない空間を、ただただ歩き続ける。

 監視はいない。だが歩くのをやめられない。他人ではなく自身に強制されて、ただ歩き続ける。永遠に。

 それがこの地獄の罰だった。



 それがどうした。

 インノケンティウスの身体は苦痛に苛まれていたが、彼の精神はその苦痛を持ってしても崩れなかった。ヘリでは確かに、妄執に囚われた。悪魔が見せたこの地獄は、私にも抗えないものがあるのだと初めて思わせた。だがどうだ。実際にここに来ても、私は正気を保っておる。狂ってなどおらぬ。

 

 ここでは老いの苦しみがない。視力も聞こえづらい耳も必要ない。神経痛など今や蚊に刺されるようなものだ。何より永遠の命がある。(Domina)。待っておれ。私が還る日を。

 

 無限の時間。ひたすら無我に歩き続ける。この経験は私の受難となる。いつか必ずここを抜け出し、卿を従え、またあの玉座に座ってやるのだ。この一歩。また一歩。一歩ごとに、私は近づく。復活に――


『猊下』

 

 その声は、インノケンティウスの耳を通さず、脳髄に直接響いた。振り向いてバランスを崩し、砂の上に手をついて、溶岩が掌を焼いた。肩が何十度目かの脱臼をし、手首の骨が折れた。

 だがその霞む眼が見たものに、インノケンティウスは痛みを忘れた。

 

『卿……なぜ。なぜだ。なぜそなたがここに。お前は私の後を継ぎ、我が王国を――』


『猊下……あのヘリの事故で、私も死んだのです』


 ヴェシリアがカソックの胸元を開いた。そこはまだ血染めだった。


『お母様の心臓も、とうとう止まってしまいましたわ?あいにくと。残念ですわね?』


 インノケンティウスは両手を溶岩に焼かれたまま動かなかった。黒い煙と肉が焼ける臭いが立ち昇る。


『……なんと……愚かな。そなたの罪は……償いはどうした……そなたは生きなければ……生きることが償いなのだ!私の……私の王国を……どうしてくれる!』 

 

『あらあら。思った通り。まだそんなことを。王国はここですわ。その苦痛、その苦しみがあなたのしもべ。他には何もありません』


『……いいや……違うぞ』


 インノケンティウスは体を起こし、骨だけになった両手を引き抜いて立ち上がった。


『……スペアが……まだスペアがある……卿よ。そなたには失望した。もうよい。下がれ』

 

『もう強がりはおよしなさいな。みっともない。あなたは死んだのです。もうあの子にも手出しは出来ない。ここは地獄。ここからは逃げられませんわ』

 

 インノケンティウスはよろけながら立ち上がった。

 

『有象無象の凡人ならな。だがこの私は違う。たとえ何年かかろうと、必ず――』

 

『まあ。さすがは猊下ですわね。お見それいたしましたわ。でも……どうやってここから地上へ?いくら猊下でも、不可能ですわ』

 

 インノケンティウスはふらつきながら、唾棄した。

 

『不可能などない!この私に限って、不可能など……時間は無限にあるのだ。ここで考えを巡らせ、いつか必ず手段を見出して見せるとも。そのためにひたすら歩き続けてやるぞ。一歩ずつ――』

 

『ねえねえ!そんなに地上に帰りたい?あたしが手伝ってあげよっかぁ?』

 

 ヴェシリアの背後から、スリエルが顔を出した。

 

『……ウサギか。お前は私をここに連れてきた悪魔ではないか。無礼であるぞ!』

 

 スリエルはピョン!と跳ねると、インノケンティウスの眼前に着地した。

 

『えーっ!そんなことゆう?地上に帰りたくないのぉ?抜け道あるのになぁ……』


『……抜け道だと?……そうか……浅はかだな、卿よ。そなたの奸計、見え透いておるわ!地上に帰れる道があるなら、なぜそなたが行かぬ?私を陥れようと——』


『猊下……いえ、お父様。おわかりになりませんの?私は……ここにいたいのです。もう、償いなんて嫌!嫌なのです!私は……もう……』


 インノケンティウスはフッと息を吐き、首を振った。


『やはりな……そなたでは、私の後は継げぬ。ウサギ!話を聞こう』

 

『偉そうだねぇ。いいけどさぁ。あんたジジイのくせに、すごいねぇ。あたし、罪人があたしの罰で苦しんでるのを見たいのに、あんたは全然だからつまんない!だから地上に生き返らせてあげてもいいよぉ?ただし、あたしの使い魔としてだけど?』

 


 使い魔。インノケンティウスはそれが何かを知っていた。なぜ知っているのだ?記憶にある……この悪魔の奴隷か。よかろう。たとえ奴隷になろうとも、捲地反天、簒奪して見せる。地上に戻れさえすれば。

 インノケンティウスは笑みを浮かべてヴェシリアを見た。

 

『ふっ……ウサギよ、ではそなたの使い魔になってやろう。この私を使えるものなら、使ってみろ!』

 

 

 スリエルがヴェシリアを見た。ヴェシリアの顔にも、微笑みが浮かんでいた――冷徹な、計画の進捗を確信した微笑みが。

 スリエルは首筋をまさぐり、銀色の獣毛を摘むとインノケンティウスの鼻先にそれを突き出した。

 

『じゃあやるね。キャハッ!』

 

 スリエルが獣毛を指で弾いた。

 次の瞬間、インノケンティウスの姿が忽然と消えた。


『……済んだのですか?』

 

 ヴェシリアがスリエルに聞いた。

 

『済んだよ?あのジジイはあいつが望んだ通り、あたしの使い魔になった。地上に転生したよ。全部、あんたのロクツィオ(指示)通りにしゃべったし。これでいいんだよねぇ?』

 

『確認できまして?』

 

『か、確認?!う〜ん、消えたんだから大丈夫だと思うけどぉ……そうだ!アザズェルに見せてもらおう!』

 

 ヴェシリアはジェイエルを見上げた。



 ジェイエルは上空にいた。

 ヴェシリアの計画を聞いた時は、うまく行かないだろうと思っていた。スリエルが協力してくれるはずがない。その理由がない。

 

 ヴェシリアは最初、インノケンティウスをジェイエルの使い魔にしろと言ったのだが、ジェイエルは拒否した。インノケンティウスにとってそれが最大の屈辱であり、唯一無二の罰であることは理解したが、ジェイエルにとって使い魔は大切な仲間だ。インノケンティウスがそんな誘いに簡単に応じるとも思えなかった。使い魔となるためには、本人が望まなければならない。

 

 だがヴェシリアは計画を完遂した。またしても。スリエルの協力を取り付け、インノケンティウスを使い魔として転生させたのだ。

 

『あなた。私たちを、アザズェルという方のところへ』

 

 ジェイエルは降下し、ヴェシリアとスリエルを抱き抱えると、アザズェルの島へ飛んだ。

 ヴェシリアの指示通りに。



『このおばさんが、ジェイエルの彼女なの?』

 

 ヴェシリアは無視して、スリエルに命じた。

 

『確認なさいな』

 

 どうなっているのか。ヴェシリアは魔法でも使えるのか?今やあのスリエルを従えている。

 

『アザズェル、あたし使い魔作ったの。この人に……頼まれて。地上を見せて?』

 

『使い魔?スリエルが?……初めてだよね?しかも……人間に頼まれて?』

 

『いいからぁ、早く』

 

 アザズェルは目を閉じ、そして3人にロクツィオ(地上の記録)を送信した。


 ウサギ。スリエルではなく、地上のノウサギ。その首筋が、クローズアップされる。

 ウサギの体毛。地肌。そこに蠢く、微小な節足動物。ウサギツメダニ。


「よろしい」

 ヴェシリアは声に出して言った。

 その顔に浮かんでいた冷徹な微笑みは、嘲笑に、そして高笑いに変わった。

「……素晴らしいですわ!今度こそ、コンシリウムは完遂した!……ダニ。あの怪物が、ダニになった。私の思い通りに!知性もプライドも何もない矮小な存在に!全てを……全てを奪い尽くしてやった!」

 狂気とも思える笑い声だった。

「完璧ですわ!ダニ!寿命は20日くらいでしたかしら?もうあの男の知恵も記憶も残ってはいない!私は……私は!やり遂げた!」


  

 ジェイエルは寒気を覚えた。この溶岩の海が燃え盛る地獄で。スリエルは羨望の、アザズェルは好奇の眼差しでヴェシリアを見ている。

 

『さて……』

 

 笑いがおさまると、ヴェシリアはまたロクツィオ(語らい)に戻った。

 

『あなたはどうなさるおつもり?まだ私に、使い魔になれとおっしゃるの?』

 

 問われる前から、答えは明白だった。

 

『断るんだろ?あなたが応じるわけはなかった。おれが間違ってた』

 

『そのようですわね。私の死はコンシリウム完遂の必須要件、計画通り。そして』

 

 ヴェシリアは再び声に出し、ジェイエルを見据えた。ダークブラウンの瞳に、赤黒い地獄の炎を宿して。

私たち(人間)にとって、死は絶対。そして永遠のものなのです。あなたがどう思おうと」

 

『あなたのお心遣いには感謝いたしましてよ?おかげで最高の仕上げを思いつきましたし。ご苦労様』

 

『ねぇ、ヴェシリア!次はなにする?』

 

『そうね。しばらくはここで、あなた達にいろいろ教えていただきたいわ。ここ(地獄)のことを。節足動物の観察ももう少し続けたいですわね。アザズェルさん、よろしくて?』

 

『いいね!それ!ひまだったし。おもしろそう!』

 

 スリエルもアザズェルも、地獄のヒエラルキーでは頂点に近い存在のはずだった。身体能力が劣るとか、見た目が弱々しいとかはここでは無意味。死が存在しない世界では、強い意志、そして知性が力なのだ。 

 ヴェシリアは、ここに来てからまだ1時間たらずで、堕天使を2人も手懐けてしまった。いや、3人か。


 ヴェシリアがジェイエルを見た。怪訝そうに。

 

『あら?あなた、まだいらしたの?ここでのご用はお済みでしょう。あちらで、役目を果たしなさいな』

 

 役目。

 

『ジェイエル、これあげる。』

 

 アザズェルが、羊の石をひとつ、投げてよこした。

 

『ラファエルの石。不良品のお詫び。役にたつはずさ』

 

 ただの石ころだ。なんの変哲もない小石。だが握りしめると、上空に黒い穴が出現した。吸い上げられる。

 

 ヴェシリアからロクツィオ(概念)が来た。

 

『お別れね。最後にひとつだけ、約束してくださらない?』

 

『ああ』

 

『あの子……妹を。

 幸せに生きながらえるよう、

 見守ってやってくださいな。

 ……よろしくて?』

 

 ヴィのイメージ。

 強いヴィ。怒っているヴィ。

 恥ずかしがるヴィ。泣いているヴィ。

 笑ってるヴィ。

 ヴェシリアに手を引かれ、楽しそうに走っているヴィ。


『約束する』

 

 ヴェシリアが微笑んだ。その頭上を、ジェイエルの身体が加速して吸い上げられていく。


 ダイヤモンドの氷瀑で、おれは何をしたのか。 

 黒い渦に飲み込まれる直前、ジェイエルは溶岩の海と炎の空を見渡した。

 

 次に帰って来た時、ここ(地獄)は変わっているだろう。

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