エピローグ
【2025年8月19日16時31分 コンスタンティノープル、アタテュルク空港】
「殺してやる。殺してやる。殺してやる……」
アリーは上空で、その恐ろしい声を聞きつけた。
やっぱり"こわいおんな"だ。わかった。"こわいおんな"がジェイを。許さない。
アリーは急降下した。アタテュルク空港の滑走路で、アイテリスH160の残骸のそばで横たわるジェイにまたがり、胸を押し続けているヴィの後頭部めがけて。
「……お願い……お願い……ジェイ……」
突然、辺りがふいに暗くなった。陽光が陰っただけじゃなく、一瞬真っ暗に。そして――
「……お願い、ジェイ……ジェイ……」
(……アリー!やめろ!)
(ジェイ!!)
アリーはフレアした。鉤爪がヴィの髪を掠めるギリギリで。一瞬空中で静止し、それからジェイの顔のすぐそばに着地する。明るさが戻った。
ヴィは驚いてアリーを見た。
「アリー……あなたも、ジェイが……」
また涙が溢れて、止まらない。
「……ジェイ……ジェイ……」
アリーがチョンと跳ねて、ジェイの頬に嘴を擦り付ける。
目が開いた。ゆっくりと。
「……え?」
唇が動いた。微かに。
ヴィは、しがみついた。
【21時28分 ニース、聖マリア総合病院ICU】
光……白い光。
……天井も白い……眩しい。
自然の光ではない、無機質な光。
前は、蝋燭の炎の、揺らめく暖かい光だった。この光は冷たい。
喉。異物で塞がれている。これはなんだ。呼吸……自然の呼吸ではない。機械の音。機械の空気か。それが無理矢理入ってくる。喉の異物……太い管。太い管を通して。
手……動かない。身体が……ああ、縛られているのか。
「――様!お嬢様!」
……アンジェリック・ヴェスパー。いたか。
アンジーは溢れ出す感情に抗えず、叫んでいた。
「お嬢様!お嬢様!ご無事で……ああ、感謝いたします……真の神よ……」
涙がとめどなく溢れた。やったのか。やり遂げたのか。私に、出来たのだろうか。こんな……こんな奇跡を。神よ。真の神よ。
ICUベッドに横たわる彼女の瞼が開き、その青みがかった緑の瞳が今再び、私を見つめて……潤んで、まるで地中海のような、深く豊かな瞳。今日この日まで見慣れたあの瞳。今は、悠久の時を過ごしてきた、この神秘の瞳。
手が動いている。ベッドに固定されて、もがくように。
「……お待ちください、今、私が」
アンジーは抑制帯のマジックテープをバリバリと剥がした。右手が自由になる。その手が、人口呼吸器の挿管チューブが固定されているホルダーをまさぐる。
「……は、はい、ただ今……お医者様を……」
アンジーがナースコールを探そうとする僅かな間に、またバリバリとマジックテープを剥がす音。そして自由になった両手が、チューブホルダーを掴んだ。
「――お嬢様?」
その両手が、いきなりチューブを引き抜いた。強引に、力任せに。頬に貼り付けられた粘着テープが皮膚ごと引き剥がされ、血が滲んだ。後頭部まで回されていた布製のバンドが裂け、ちぎれた。マウスピースが、そして真っ赤な血を滴らせた挿管チューブが吐き出された。
激しく咳き込み、血反吐を吐く。その血を腕で乱暴に拭いながら、マドレーヌは上体を起こした。ベンチレーターのアラームの刺々しい電子音が鳴り響く。続いて、バイタルモニターからも。不協和音がICUを蹂躙する。
マドレーヌはやかましそうに眉をしかめ、ベッドから降りる。
「お嬢様!まだ……」
アンジーが止めようとして手を伸ばすが、マドレーヌは一瞥でその動きを制する。18年間で一度も見たことのない、鋭利な眼光。
看護師が駆け込んで来た。
「ちょっとなにを――」
マドレーヌの腕が一閃した。看護師が弾け飛ぶ。
「お……お嬢様……お顔が……」
頬や唇から血が滲んでいた。だがその傷は、見る間に癒えて、消えてしまう。
紫色だった唇が、可憐なローズピンクに。それが開き、聞き慣れた可愛らしい声が言った。
「行くぞ。ここは不快だ」
病院の水色のスモックで、マドレーヌはゆっくり、しっかりと歩き出した。一歩一歩を確かめる、いや、味わうような足取りで。その踏みしめる歩みが、アンジーを落ち着かせた。
アンジーは冷静さを取り戻し、マドレーヌの衣服が入った私物袋を掴んで後を追った。ICUを出ると、小走りでマドレーヌの先に立つ。
病院のスタッフが2人の行手を阻むが、既にアンジーはいつもの威圧感を放っていた。黒く鋭いスモーキー・アイが、道を開く。
スタッフたちが呆然と見守る中、2人は堂々と、周囲を圧しながら、正面玄関に向かう。
自動ドアが開いた時、マドレーヌは一瞬たじろいだ。物珍しげに見回す。一旦自動ドアが閉まり、ガラスにマドレーヌの姿が浮かんだ。それをしげしげと観察しようとするが、またドアがスライドすると、少しだけ驚いた表情を見せる。
外に出た。車寄せで客待ちをしていたタクシーのドアを、アンジーが開ける。
マドレーヌはすぐに乗り込もうとはせず、立ち止まると、大きく深呼吸した。
目を閉じ、空気を味わう。
「不味い。臭い。不快だ」
「も、申し訳ございません!ひとまず、こちらへ……」
「Litière(御輿)はどこだ?」
「こ、こちらへ……」
スモック姿のマドレーヌをタクシーに促す。マドレーヌは渋面のまま、それでも身を屈めて乗り込んだ。
「低い。狭い……不快だ。なにもかも」
南仏の空はもう暗く、濃いコバルトブルーに染まっていた。アンジーの指示に従い、タクシーはカリフォルニア通りからマドレーヌ大通りに左折し、マドレーヌ高地へ登って行く。
僅か2日前、ジェイの運転するルノー・カラベルで、爽やかな風にライトブロンドをなびかせ、歓声をあげながら走った道だが、マドレーヌは思い出に浸るような素ぶりは微塵も見せず、ただ流れていく景色を背景にウインドウに映る顔を観察していた。
「なんと美しい顔だ……若くて、生気に溢れている。瑞々しい。素晴らしい。早く全身を確かめたい。この肉体を」
言いながら、胸をまさぐる。
ルームミラー越しの運転手の、好奇の視線がマドレーヌを覗く。
「前を見ていなさい。次の二又を右へ」
アンジーがきつく嗜める。
タクシーはマドレーヌ大通りを外れ、狭い坂の小道を登り始める。
「ここで」
マドレーヌはタクシーを降りると、アンジーが促すクリーム色の建物を見上げた。
ふん、と鼻を鳴らす。
「も……申し訳ございません。この辺りでは、ここがマグダラの――」
「かまわん。早く身体が見たい」
2人は聖マリー・マドレーヌ教会の中庭を歩き、アンジーが鍵を開けて礼拝堂へ入る。小さな、狭い礼拝堂の奥の祭壇の前に、アンジーが用意して置いた、簡素な姿見が立てかけられている。
「灯りを……」
アンジーが蛍光灯のスイッチを探す間に、マドレーヌはスモックを脱ぎ捨て、全裸で姿見に歩み寄った。
蛍光灯が瞬き、その白い肢体が鏡の中で立ち尽くした。
「……美しい……なんと素晴らしい……この……脚。クッ……クフフッ……脚だ。私に、脚が……」
マドレーヌ・ド・ガスパール、今日この日に18歳になったばかりの美しく可憐な少女だった女は、その幼さが残る顔を歪ませた。
女の脳裏に、あの醜く、太い、赤錆びた鱗に覆われた大蛇の腹が浮かんだ。それを鏡に映る、美しく、細く、透き通るように白くて長い脚線美がかき消す。
アンジーが、万感の想いを込めて、厳かに言った。
「無事のお着き、心からお喜び申し上げます……アヴィエル様」
(第二部 完)




