↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/23

20 地上へ

「Mors stupebit et natura, cum resurget creatura, judicanti responsura……」

 死の驚異。全ての。

 蘇生。

 審判に応えるために。


【8月19日14時34分 ニース、パレ・ド・ラ・メディテラネ、Le3e】

 友だち。今まで、そう思える人なんていなかったけど、アリーや、アンキュラのあの人たちは特別だ。

 私の結婚式には来てくれる。絶対。だってジェイさまも、みんなの友だちだもん。

 

 私とジェイさま。ジェイさまと私。楽しみだなぁ、またみんなと会える。みんながお祝いしてくれる。幸せ。私はほんとに幸せ。


 マドレーヌの心は、シャンパンとインデラルの相乗作用により、雲の上を彷徨っていた。ほわほわと、優しく、穏やかに、マドレーヌの時間は過ぎて行く。


 無邪気で無垢。太陽が昇るのは私を照らすため。追い風が吹くのは私の背中を押すため。この世界の全てが私のためにある。

 そう信じて疑わないマドレーヌの誕生時刻まで、あと41分だった。



【同時刻 コンスタンティノープル、アヤソフィア大宮殿、玉座】

 インノケンティウス14世は、コラル・ドクルは、自分の掌を見ていた。

 世界がこの手にあった。私のこの掌の上に。それが今日、水を吸った砂の塊のようにぼろぼろと崩れ、こぼれ落ちていく。

 手の甲を見る。節くれだち、醜い皺と、青白い血管が浮き出た手。黄ばんだ爪。震えてこそいないが、老いさばらえた手。

 拳を握った。力を込めて。微かに震え始めた。

 強く、肘掛けのケルビムの頭を殴りつけた。痛みと痺れ。

 インノケンティウスは顔を顰めた。痺れを振り落とすように手を振る。

 

「……(Domina)!卿!」

 返事はない。どこにいるのか。

 玉座の足元に広がる大理石の床、玉座の背もたれに反響して、しゃがれた声が響く。

「誰か!誰かおらぬか!」

 

 殿中は静かだった。平時なら階下の礼拝堂を行き交う司祭たちの足音が聞こえた。数年前までなら、会話を聞きわけることもできた。今は何も聞こえない……いや、足音。誰かが走って来ている。

 

「――猊下。お呼びで?」

「……卿はどこにおる。あれをここに」

「恐れながら……首席審問卿はただ今、来客の応対中でございます。それより猊下、御出発のお時間でございます。そろそろヘリポートへ参りませんと……」

 インノケンティウスは目を閉じてため息をついた。

「……もう、そんな時間か……」

 アヤソフィア。ここも最後か。

「お荷物は既に積載いたしました。ヘリポートまでお供いたします。首席審問卿はそこに……あまり、お待たせなさらない方が」

 インノケンティウスは目を見開き、お供の黒服を睨みつけた。その口はなんだ。この私に対する言葉か?立ち上がって恫喝するため、両手を肘掛けにつき、腰をあげる。

 ……だが、手は痺れていた。感覚がなく、無様にも肘掛けの上で手が滑り、斜めになって尻餅をつく。黒服が眉をしかめながら添えようとした手を払いのける。

 情けないことよ。この私が。

 いや。まだだ。アヴィニョン。あそこへ行けば、まだまだ私は。


 インノケンティウスは、今度はゆっくりとした動作で玉座から立ち上がった。背筋を伸ばせばその身丈は180センチあり、長年に渡り染みついた威容がまだ残っていた。黒服の哀れみの目つきが一瞬で畏怖に変わる。

 その眼前に甲を差し出す。指輪もまだ輝きを失ってはいない。

 黒服が崩れるように膝を折り、金色の指輪に口を寄せた。インノケンティウスはその後頭部を見下ろした。まだ残光が揺らめく、青く凍った眼で。

 

 私はまだ、こうして立ち上がることができる。

 待っているがいい、シムシェキよ。私がまたこの玉座に座る日を。それまではお前の尻で暖めておけ。


 黒服に手をひかれながら、インノケンティウスは歩き出した。白金のカソック(法衣)とローブを引き摺るその足取りは、鈍いがまだ確かだった。



【14時59分 ニース、パレ・ド・ラ・メディテラネ、Le3e】

 あと16分。

 アンジーは厨房にいた。マドレーヌの誕生時刻に、またあの軽薄なデジタル司会者がマドレーヌにスピーチを求める。その前にコーヒーを飲ませなければ。マドレーヌはシャンパンを飲み過ぎている。

 

 カフェ・オ・レ。あの子が大好きな、私が淹れたカフェ・オ・レ。

 最高のカフェ・オ・レを淹れてあげよう。

 

 ふたつのポットにお湯を入れる。余熱するためだ。マドレーヌのカップにも。

 スマトラ・マンデリンのフランク・ローストを正確に24グラム、フランクプレスで中粗挽きにする。

 成分無調整の3.6%ミルクをミルクパンで65℃に管理。

 ゆっくり。静かに。時間をかけて。

 テラスから、とりとめもない談笑のざわめきが聞こえる。



【同時刻 コンスタンティノープル、アウラ・アウグストゥス、アヤソフィア・テラス】

 音。鋭利な金属音。ビュッと風が斬られる。

 屋上に照りつける太陽を反射して、ギラリと、銀色の刀刃が空を割く。

 その死の氷鉄の先に、ヴィがいる。


 ヴェシリアは直前まで、ヴィとジェイにiPada(タブレット)の動画を解説付きで見せていた。

 アウグストゥス神殿でのズィヤの革命宣言。スヴェイシュや各地方都市のローマ軍団。海外のマスコミが伝える革命のブレイキング・ニュース。そして、昨日のアナドル高速道でのヴィの曲芸。

 

「ヴェシレ。あなたは注意力も動体視力も素晴らしいわ。あなたの課題は、筋力の使い方ね。筋力を動かすのではなく、筋力に委ねるのです」

 アリーを救出した時の動画。それから、150キロで走行中の車間の乗り移り。

「ヴェシレ。あなたの判断力は、その未熟な体術を補って余りある。彼を護る、そう決めたのね……愛を知ったのですね、昨夜」



 ヴェシリアを睨んでいたヴィの顔が歪んだ。

 顔が燃え上がったかと思った。ぼっと音が聞こえた気がした。一瞬で耳たぶまで紅潮したのは確かだ。


  

「うふふ……お可愛いこと」

 可愛い妹。

「私は愛など認めません。しかし、それがあなたの力となるなら、構いませんわ」

 私の妹。

 

 アスラン道などでなく、血の繋がりを教えてあげられたら。私はあなたの姉だと、ひと言でも言えたら。だがそれは、私の心を無駄に癒やすだけに過ぎない。この子にとっては助けになるどころか、負担になるだけだ。

 このままでよい。24年、そうしてきたのだから。

 そして、ヴェシリアの右手がカタナの柄に飛んだ。



 背中の筋肉が疼く間もなく爆発した。シャツが吹き飛び、漆黒の翼がヴィに覆い被さる。同時に暴力的速度で、ジェイはヴィを抱きしめる。

 ガラスと金属が瞬時に砕ける音。ジェイの翼は、叩きつけられた氷鉄を粉砕した。


「……魅惑的ですわ」

 ヴィを翼の中に抱き留めたまま振り向いたジェイの前で、ヴェシリアは柄だけになったカタナを投げ捨てた。血塗れの顔で、ジェイを見据えて。

 

 粉砕したカタナの破片が、ヴェシリアの全身に襲いかかっていた。ほとんどがカソックに遮られて床に落ちたが、剥き出しだった顔には無数の破片が突き刺さり、掠めていた。鮮血がヴェシリアの顔を伝い落ちる。目だけはiVitra(スマートグラス)が護っていた。微細なクラックは入ったが、貫通はしていない。

 

 その透明なシールドの奥で、ヴェシリアのダークブラウンの瞳は笑っていた。

 ジェイはその瞳を捉えたが、iVitraの傷が邪魔して、虹彩を絡めることはできない。

「なにをする」

「ごめんあそばせ。一度この目で見てみたかったのです。あなたの真の姿を」

「翼だけだ」

「そのようね。あの怪物は?」

「あの姿にはなれない。残念でした」

 ヴェシリアはフッと笑った。

「なれない?ならない、ではなくて?」

「なれない。怪物が必要なら他を当たってくれ」



 ヴィにも、翼の外の会話は聞こえていた。

 怪物。サフィやパヴルくんが言ってたやつか。真の姿。この人の。

 今、ジェイの身体は普通だ。翼だけ。鼓動は静かで正常。胸も腕も、筋肉は膨張していない。暗くて見えないけど、感じる……暖かい。

 すぐに翼が消えた。ジェイの腕の中で、ヴィはヴェシリアに面と向かっていた。血だらけ?何があったの?



「――そういたしますわ」

 父と私。怪物は他にはいない。

 ヴェシレ。そのままでいい。

 また会えた。話ができた。満ち足りた。

 これでいい。眼球が熱い。


 ヴェシリアは駆け出した。

 妹と、怪物ではない男を置き去りにして。

 怪物に向かって。

 


【15時09分 ニース、パレ・ド・ラ・メディテラネ、Le3e】

 プランジャーをすぅっと押し下げ、コーヒーが完成した。余熱していた2つのポットを空にし、コーヒーとミルクをそれぞれに注ぐ。最後の仕上げをして、ポットとカップを銀色のディッシュに載せると、慣れた動作でディッシュを持ち上げる。

 厨房の時計は、15時12分。いよいよだ。マドレーヌのスピーチ。



【同時刻 コンスタンティノープル、アヤソフィア隣接ヘリポート】

 インノケンティウスは、黒服の手を借りながら慎重に、アイテリスH160の電動ステップを踏んで機内に入った。

「……卿はどこか」

 同行する2名のSPが、機外でイヤホンに手をやりながら確認する。

「まもなく……首席審問卿は、まもなくいらっしゃるはずで――」

 

 その時、アウラ・アウグストゥスのエントランスから、燃えるような緋色が走り出して来た。SPが叫ぶ。

「いらっしゃいました!首席――」

 SPが絶句した。

「お待たせしました、猊下」

「……卿?な……なにがあった。血が――」

「ご心配なく。擦り傷ですわ」

 ヴェシリアは機内に首だけ突っ込み、コクピットに叫んだ。

「エンジン始動。すぐに離陸できるよう待機」

 言い終わらぬうちに、機外を振り返る。


 そこには、既に1人目のSP側面に走り込んで来たヴィがいた。外側からSPの左肘を抱え込むようにロックする。ヴィの右脚がSPの足元に踏み込まれる。そこを支点に、ヴィは半時計回りにスピン。そして――

 キィィィン!という高い金属音が、ヴィの回転音かのように響いた。

 H160の第1エンジンが始動。タービンが高い金属的な音を立てて回り始めた。

 SPの身体がヴィのスピンに巻き込まれ、宙に浮いたその瞬間。ヴィが腕を離すと、SPが「発射」された。数メートル吹っ飛び、背中からコンクリートに叩きつけられる。


 ヘリの金属音が音量を上げた。第2エンジン始動。ローターがゆっくり回転を始めた。それに呼応するかの如く、ヴィはスピンしたままコマのように2人目のSPに襲いかかる。

 ヴィの両腕がヘリのローターのように広がる。旋風。その左手刀が空間を切り裂き、SPの鎖骨のすぐ上、腕神経叢を直撃。2人目のSPも一瞬で崩れ落ちた。


「離陸!」

 開いたままのドアから、ヴェシリアの叫び声。ヴィが振り向いたその時、アイテリスH160が地上を離れた。

 ヴィは躊躇うことなく、開いたドアに向けて跳躍した。

 ドア口に立つヴェシリアの、血の跡が残る頬が弛み……ゆっくり、笑みを浮かべた。そして、ヴィを迎え入れるようにその両手が広がる。



 ヴェシレ……あなたはここに来たいというの?私の腕の中に?ヴェシレ。妹。私の妹。私の……私の?なに?私の――

 愛?

「卿!」

 背後から怪物が叫ぶ。


 妹よ。ヴェシレ。


 ヴィの右手が、ドアの縁を掴もうとしていた。 

 ヴェシリアはダンスに誘うように、優しく左手を伸ばした。あと少し近づけば、抱き合えそうな距離。


 愛などない。

 私にあるのは、呪いのみ。

 

 そっとヴィの上腕に手を添え、煽ぐように優しく押した。


 空中で新たなモーメントを与えられたヴィの身体はスピンし、その伸ばした手は虚しく空を泳いだ。ヘリが上昇し、豪風が吹き降ろしてヴィの身体を抑え付けた。


 落下。



【15時15分 ニース、パレ・ド・ラ・メディテラネ、Le3e】

『皆様!おしゃべりはそこまで!ご注目ください!……時刻は……今!15時15分!マドレーヌ嬢、18回目のハッピー!バーァァァースデイ!!』

 拍手喝采が最高潮に達した。テラスの照明が暗転し、スポットライトが落ちる。

 マドレーヌのために。



 マドレーヌは慌ててカフェ・オ・レを飲み干した。

 熱っ!……でも、私。今、18歳になった。18年前の今、私のためにこの世界が生まれた!立たなきゃ。立って、スピーチ。発表しなきゃ、世界に!私を待っててくれた、この世界に!私とジェイさまの――


 マドレーヌは立ち上がろうとした。

 ふらつく。手をテーブルにつく。

 揺らめきながら、立ち上がる。

 笑顔。弾けるような笑顔。

 テラスが、セレブたちが静まり返る。マドレーヌの声を聞くために。

 目が潤んで、景色が揺らいだ。

 口を開く。

 しゃべらなきゃ。

 世界に。

 

 ジェイさま。


 マドレーヌの体内で、血液が重力により下半身へ落下した。脳が血液を要求し、気圧受容体が心拍数を上げて血管を絞った。

 53分前に痛み止めだと思って服用したインデラル、プロプラノロールは、今や心筋の圧受容体と強固に結びついていた。アドレナリンを受けつけず、心筋は動こうとしなかった。血圧が急激に降下し、周囲の音が消えた。

 

 ぐらりと揺れるマドレーヌの体内では、さらに別の薬物が活動を開始していた。数秒前に飲み干したカフェ・オ・レに混入されていたSAIMRポリバレント抗毒血清、10ヶ月前にプレトリアでパフアダーに噛まれたと誤認した際に打たれたものと同じものが、審美スクリーニングによって露出、損傷した毛細血管から侵入し、カフェ・オ・レの熱によって速やかに吸収され、マドレーヌの全身の細胞を刺激した。免疫が過剰反応を起こし、全身の血管が拡張した。プロプラノロールによってアドレナリンを阻害された心臓は、心拍数を下げていった。


 ざわめき。マドレーヌには聞こえない。

テーブルに突っ伏す。

 悲鳴。マドレーヌには、もう聞こえない。アンジーが飛びつく。マドレーヌの名を叫ぶ。

 マドレーヌには、もう何も聞こえない。



「救急!医療チーム!!」

 アンジーは絶叫した。演技ではない。本心から絶叫した。ここから。ここからが一刻の猶予もない。

 救うのだ。

 この身体(ボディ)を。



【同時刻 コンスタンティノープル、アヤソフィア、ヘリポート】

 落ちる。

 ヴィが落下した時、高度はまだ3メートルだった。安全な着地が可能な高度。だが、ヘリのダウンウォッシュが、落下速度を加速していた。

 この速度。下はコンクリート。少なくとも骨折は免れない。


 黒い影。翼。


 コンクリートに叩きつけられようとしていたヴィの身体が、ふわりと浮いた。

 ジェイが走り込んで来ながら翼を広げ、ヴィを受け止めた。

 

(ジェイ!)「ジェイ!」

 

 アリーが肩に止まろうとする。

 

(アリーだめだ。離れてて)

 

(ジェイ!)

  

「あなたも離れるんだ」

 ヴィを突き放し、羽ばたく。

「だめ!いかせない!」

 ヴィの腕がジェイの腰に巻き付く。

「離せ!逃げら――」

「死なせない!ひとりではいかせない!」

 ヘリを見上げた。垂直に上昇していく。今逃したら終わりだ。ジェイは全力で羽ばたいた。ヴィが腰にしがみつく。

 加速。上空から叩きつけるダウンウォッシュに抗い、その暴風めがけて上昇する。


「ジェイ!だめ!心臓が!」

 ジェイの熱。膨張する上半身はもう太い血管が浮き出ている。

「やめて!お願い、やめて!」

 心臓が、肺が燃える。爆発しそうだ。全身が燃えるように熱い。

 だが、逃すわけにはいかない。もうわかった。依代の限界。これが最後なのだ。どちらでも同じだ。ならば逃がさない。


 ジェイは物理法則など無視して加速した。かすむ空に、ヘリがぐんぐん大きく迫る。スライドドアが閉まる。あと僅か。

 届く。ジェイの指が、ドアの隙間に挟まれた。右腕が、右肩が、さらに膨張した。

 激痛。心臓だ。風の音が消える。空が暗い。

 挟まれた3本の指。その力だけで、ヘリのドアが吹き飛んだ。

 激痛。胸が中から食い破られている。歪む視界。

 歯を食いしばり、ヴィをヘリの中に投げ込んだ。そして、ジェイ自身も身体を捩じ込む。

 翼が消えた。


「……貴様……なぜだ。なぜ、い……ヴェシレまで」

「……使命だからだ」

 ヴェシリアの瞳を探す。だめだ。まだiVitraが邪魔だ。インノケンティウス。急げ。心臓が止まる前に。

 インノケンティウスは本革のキャプテンシートで、動けずにいた。シートベルトのせいだけではなく、驚愕し、硬直していた。青い眼が虚に揺らめく。


 再び翼が現れる。静かに、赤黒いオーラとともに。ジェイはインノケンティウスの正面から、彼の瞳を、青い虹彩を凝視する。そして――絡ませる。

「コラル・ドクル。()()

 翼がインノケンティウスを包んだ。キャプテンシートごと。


「な……なにを……なにをしている……」

「"狩り"よ……」

 ヴィが、ヴェシリアの正面に立った。そして左手刀で、iVitraを弾き飛ばした。

「次はあなたよ。でもわたしが止める」


 翼が消えた。

「え?……もう、終わったの?」

 インノケンティウスは、翼に包まれる前と、何も変わっていないように見えた。


 

「……く……」

 苦しい。息をするのがやっとだ。鼓動はもう、連続音のようだ。全身の毛細血管から血が滲み出している。だがやるのだ。

「……悔い……改めろ」

 そして、対面のシートに倒れ込んだ。

 

「ジェイ!」

 ヴィがすがりつく。顔を触ろうとして、血ですべる。真っ赤だ。充血と、染み出て流れ落ちる血。

「ど……どうなったの……」

 ヴェシリアの顔は、もう血は乾いていた。血の跡で汚れた顔。

「来ないで!もうこの人は――」

「……だめだ……まだ……来い」

 

 ジェイが立ち上がる。まだ心臓は動いている。また翼が広がる。弱々しく。

「来るんだ……救ってやる」

「お願いもうやめて……だめ」

 ヴィは泣き叫びたかった。ジェイを止めたかった。だけど……だけど、だめなんだ。もう。

 翼が広がる。赤黒い陽炎。ヴェシリアは呆然と立ち尽くす。ヴィの嗚咽が、破壊されたドアから吹き込む強風にかき消される。

「……やめて――」

  

「――やめろ!」

 男の声。突然ヘリが傾いた。立っていた3人がドアとは反対側に投げ出される。インノケンティウスは――いなかった。

 


【15時27分 ニース、パレ・ド・ラ・メディテラネ、Le3e隣接医療スイート】

「心停止。胸骨圧迫。エピ1ミリ」

 バイタルモニターの無情な電子連続音が鳴り続けている。声こそ冷静だが、医療チームは必死だった。即座にマドレーヌにまたがり、胸部圧迫を始める。アドレナリン注射が打たれる。

「……マド……マド……許してくれ……頼む……」

 ガスパールの嗚咽。

「50秒」

 アンジーは時計を凝視していた。

 

 突然、照明が消えた。

「おい!停電か?!」

 医療機器は通電していた。正常に。部屋の照明だけが消えた。

アンジーは天を見上げて祈っていた。 

 ……どうかお願いです……お願いします……真の神よ。

 アンジーは祈っていた。心の底から。


 照明が戻った。

「80秒」

 電子音が途切れる。そして――

「――波形、出ました」

「よし。アドレナリンが効いたな。がんばれ!」

「頚動脈触知」

「100秒」

ロスク(自己心拍再開)

「波形正常。戻りました!」

「よしっ!自発呼吸確認」

「120秒」

 バイタルモニターは、規則的リズムで正常を告げていた。医師が小さく息を吐いた。

「ステロイド。……アナフィラキシーだ」

「……マド……マド……」

 床に膝をついて嗚咽を続けるガスパールに、医師が声をかけた。

「お父さん?もう大丈夫ですよ。お嬢さんはアレルギーは?」

「私がお答えします」

 アンジーが返事をした。声が震えないよう、意識しなければならなかった。

「乳母でした。アレルギーはありません。ただ……」

「なんです?」

「昨年10月、ヘビ毒の血清を」

 医師は大きく頷いた。

「それだ。倒れる前に飲食は?」

「シャンパンと……カフェ・オ・レですね」

「薬は?」

「痛み止めを」

「何という薬かわかりますか?」

 アンジーはポケットからPTPシートを取り出し、医師に渡した。手の震えにも気をつけて。

「ロキソニンですね。たぶんこれかな」

 医師はアンジーを伺うような目で見た。

「……あなたは、大丈夫ですか?お顔の色が――」

「……大丈夫です。ありがとうございます」

「ショックだったでしょう……もう大丈夫です。アドレナリンが一発で効きましたし。救急車もすぐくる」

「はい。ありがとうございます……」

 アドレナリン。あれはアドレナリンではない。事前にすり替えたのだ、グルカゴンに。

 大丈夫か。まだだ。まだ、わからない。

 ……本当に、大丈夫なのか。



【同時刻 コンスタンティノープル上空】

 インノケンティウスは、キャビンにはいなかった。


 地獄。

 それがどうした。私がそんなものを恐れたりするものか。確かに見た。あの鉛の法衣。押し潰されたのに、また立ち上がる。なぜかは知らん。ただ歩き続ける。

 だからなんだというのだ。地獄が恐くて教皇が務まるものか。

 

 帰るのだ、アヤソフィアに。私の居場所はあそこしかない。あの……椅子しか。

 玉座。そう、神の腰掛け。飛べる。私の、空飛ぶ玉座。

 こんなおもちゃより、ずっと速く遠くへ飛ぶのだ。

 いや、私はどこにもいかん。

 アヤソフィア。帰るのだ。


 インノケンティウスはキャビンとコクピットを遮る遮音カーテンを引き開けた。

「……げ、猊下?」

「帰るぞ」

「……は?」


 なんだこいつ。どけ。私の椅子だ。


 機体が僅かに揺れた。インノケンティウスは掴まるものを探した。ちょうどいい手摺りがある。


 インノケンティウスは頭上のセンターコンソールを見上げ、目立つ赤いハンドルを掴んだ。両手で。

 機長が絶叫した。

「――やめろ!」

 

 カットオフ・レバーが引かれ、アイテリスH160の2基のエンジンへの燃料供給が同時に遮断された。

 アイテリスはこの時、アタテュルク空港上空50メートルで着陸体制に入っていた。アヤソフィアを離陸してから10分。本来ならとっくに着陸しているはずだったが、キャビンドア消失により高高度を飛べず、低速で低空飛行を続けてきて、やっと目的地に辿り着いた。インノケンティウスとヴェシリアは、ここからプライベート・ジェットでアヴィニョンへ向かう予定だった。

 それは今や不可能だった。


 エンジンが停止した機内は不気味な静寂に包まれたが、それは一瞬だった。

『ROTOR LOW ROTOR LOW ROTOR LOW……』

 男性のコンピュータ音声の警告音が轟く。機長が何か叫んでいる。ガクンと機首が下がった。


 

 出来ることはひとつしかない。

 ジェイがそう考えた時にはもう翼が広がり始めていた。瞬時にではなく、少しずつ。ジェイ・ロルトの肉体が、もう限界なのだ。

 

 機体が急激にドアのない右側に傾いた。ジェイ、ヴィ、ヴェシリアが機外に投げ出された時、既にジェイの両腕は2人を抱き抱えていた。

 羽ばたく。全力で。

 まだ完全ではない翼で。高度は40メートルで、重力が勝っている。

 羽ばたく。全身全霊で。

 こめかみの血管が破れ、血飛沫が吹き出す。

「いや!ジェイ!離して!あなただけなら――」

「離せ!私は――」

 離さない。本能が許さない。

 頸静脈も頚動脈も、今にも破裂しそうに膨らんだ。


  

 アイテリスでは、機長が死にものぐるいで機をコントロールしようとしていた。フレア(引き上げ)。機首があがる。そして――

 後部から墜落した。

 凄まじい激突音、機体を滑走路に擦り潰す音。インノケンティウスが燃料遮断レバーを引いたため、出火はしない。

 

 そのインノケンティウスは、墜落の衝撃で機内を飛び、腕、肩、脚、背中、人体のあらゆる箇所を強打した。肉は裂け、骨が粉砕された。血が飛び散った。

 それでもまだ生きていた。生きていたが、インノケンティウスにとってはそれが、ジェイが見せた地獄より恐ろしかった。

 この世界の全ての物体に襲いかかられていると感じた次の瞬間、彼は機体から放り出された。そしてそのまま顔面から滑走路に突っ込んだ。

 

 インノケンティウスが欲した世界。掌で掴んでいた地球。

 今彼は、そこに最後の接吻を。

 

 激突。頭蓋が砕けて首が折れ――インノケンティウスは死んだ。



 ヴェシリアはその全てを見た。

 ジェイの翼は浮力を得るまでに広がり、空気をはらんで、かろうじて高度30メートルを維持していた。


 終わった。

 コンシリウムは完遂した。

 復讐。全て終わった。

 満足だ。

 

 真下に、アイテリスH160の残骸。横転し、銀色のローターが折れ曲がり、突き立っている。

 

 自分を抱き抱えているジェイの、膨張し、血だらけの上腕に触れる。

「ジェイ・ロルト」

 ジェイがヴェシリアを見る。

「お任せしますわ」

 言いながら、ジェイの三頭筋の僅かな窪みに、親指を押し付ける。

 ジェイの腕がビクンと跳ね――ヴェシリアは解放された。


 落ちて行く。

 驚愕しているジェイ・ロルト。

 縋りついて泣くヴェシレ。

 

 私の妹。

 私の、愛よ。

 

 青空を背景に抱き合う2人を、瞳に焼き付ける。 

 そして背を向ける。身体を捻り、下を向く。緋色のカソックの合わせを両手で掴み、引き裂くように前を開けた。

 純白のクレリカルシャツの下、手術痕に手を当てる。

 

 母さん。

 終わったわ。


 ヴェシリアは胸を張って、銀色の鋭利な剣を迎え入れた。

 正確に、母の心臓を貫かせ。

 微笑みを浮かべて。



 ヴィは全部見ていた。

 そうか。そうすればいいんだ、わたしも。そうすれば……この人だけなら、助かるかも。

 ヴィはヴェシリアがしたように、ジェイの上腕にそっと触れた。

 ジェイ。わたしはあなたを死なせない。たとえ――

「……ヴィ」

 ……呼ばれた。ヴィって……初めて、名前を――

 顔を上げる。そこに、ジェイの黒曜石の瞳。虹彩が、光を帯びて……赤黒い光(ロクツィオ)

「しがみつけ」


 ヴィの両腕が勝手に動き、ジェイの血塗れの首を強く抱きしめた。胸を合わせ、両脚も、ジェイの大腿に絡まった。

 ジェイ?なにをしたの?わたしの身体が、勝手に――全力で、ジェイの身体にしがみつく。

 ジェイの瞳から眼が離せなかった。虹彩が絡まって。解けない。

 でも。

 その眼が、閉じていく。

「……ジェイっ!ジェイ!ジェイ!ジェイッ!!」



 力が抜けていく。瞼さえ、開ける力さえ残っていない。

 羽ばたきが止まる。

 地上が、おれを引き寄せる。

 ヴェシリアに奪われた左腕と同じく、ヴィを抱いていた右腕も、力無く垂れ下がる。

 もう何も聞こえない。

 風の音も。ヴィの声も。

 もう……何も見えない。

 意識。もう――


 翼が閉じる。消えなかった。静かに閉じて、ヴィを包む。

 落ちる。

 落ちていく。

 地獄ではなく。

 地上へ。


 大地に触れる寸前、ジェイの身体が反転し、背中からコンクリートに接触した。

 黒い翼に包まれたまま。

 翼はまだ、濡羽色に煌めいていた。

 虹色の輝きを撒き散らしながら、コンクリートの上を転がって。

 

 静止した。


 翼が消えた。

 ヴィは陽光の中、ジェイにしがみついたまま。翼と、ジェイの身体に護られて。


「――ジェイ!ジェイ!ジェイ!」

 わかっていた。ジェイの瞼が降りた時、胸に感じていたジェイの鼓動が消えたのを。

 ……でも、いやだ。

 わたしは、この人を。この人を、この肉体に。

 閉じ込めるんだ。


 心臓を動かす。胸部圧迫。

 死なせない。

「ジェイ。言ったでしょ?死んだら殺すって」

 心臓を動かす。

 死なせない。

「殺してやる。死んだら、殺してやる」

 心臓を。


 死なせない。

「殺してやるから。だから……お願い……」 

 

 

"Quid sum miser tunc dicturus? quem patronum rogaturus, cum vix justus sit securus?"

 わたしはその時、何をいうだろう?

 あなたに守ってほしい

 やっとわかった。あなたは……信じてる?

  

"Quaerens me, sedisti lassus : redemisti Crucem passus : tantus labor non sit cassus."

 探す

 疲れ果てて休むあなた

 重荷を共に贖ってくれた

 それが無駄なはずなんかない 



 アリーは全速力で飛んでいた。ジェイの意識を探して。

 さっきまで、はっきり伝わってきたのに。だんだん、ぼやけて。ジェイ。今はもう。

 離れたくなかった。ジェイのそばにいたかった。いつも一緒だったから。ずっと一緒だから。

 

 ニシコクマルガラスの限られた脳容量では、アリーがアリーエ・ムトルだった頃の記憶を残すことは不可能だった。だがアリーはおぼろげに覚えていた。アリーエだったことではなく、なにかひどい、いやなことをされたこと。ひとりぼっちだったこと。恐い、ものすごく恐いところにいたこと。

 

 そして、ジェイのこと。

 ジェイが助けてくれた。ジェイのおかげ。ジェイがいなかったらアリーもいない。

 いつも一緒。


 今はもういない。どこにいるかわからない。そんなのいやだ。絶対にいや。絶対に見つける。


 ニシコクマルガラスの最高速度は時速60キロに達するが、その速度で飛べるのは短い時間だけだ。普通なら。だがアリーは飛んだ。必死に、小さな翼を羽ばたかせて。一生懸命、ジェイを探すため。ジェイのそばにいるため。

 

(ジェイ。どこ?   (ジェイ。どこ?

 いくから。いま。   すぐあいたい

 へんじしてほしい)  へんじして)

 

(ジェイ。どこ?   (ジェイ。どこ?

 へんじして。     へんじして。

 いますぐいく。)   はやく。すぐ。)


 アリーはたくさんロクツィオ(お願い)を送った。ジェイを見つけられないなら、ジェイに見つけてもらう。最初の時みたいに。


(アリー!)

 

(ジェイ!)

 

(うれしいジェイジェイうれしいうれしい

 いたいたジェイいたうれしいジェイどこ

 ジェイどこうれしいジェイいまどこ?)


 見つけた。ジェイ。空に。

 嬉しさのあまり、アリーはすぐには気づかなかった。いつもと違うことに。いつものジェイじゃないことに。

 あれはジェイだ。でも違う。大きなジェイ。アリーと同じ足。思い出した!

 

 恐いところでひとりぼっちだった時。恐くて、震えてた時。あの大きなジェイが、助けてくれた。翼から羽根をくれた。綺麗な、大きな羽根。


 アリーはジェイエルの肩に停まろうとした。でもだめだ。変。

 

(アリー。元気で。気をつけて)

 

(ジェイ?)

 

(さよならだ。アリー。元気で)

 

(どこいくの?

 アリーもいく。

 いつもいっしょ)

 

(だめなんだ。アリーはいけない)

 

(なんで?いけるよ

 ジェイといっしょ

 どこでもいける)

 

(わたしがまんする。

 おり。ひこうき。

 だいじょうぶ。)


(アリー。あれを見て)

 

 指差した方を見た。灰色の地面。"こわいおんな"がいる。いつものジェイが寝てる。動かない。

 

("こわいおんな"

 ジェイ、ねてる)

 

(そう。でももう、恐くないから。優しいから。助けてくれたろ?また助けてくれる。これからもずっとだ。だからアリーも助けてあげて)

 

(くそがらす。  (ジェイがいい。

 そういった。   たすけてくれる

 きらいだよ)   ジェイだいすき)


(アリー。おれも大好きだ。ありがとう。たくさん助けてくれて。元気で。気をつけて)


 ジェイエルの足元に、小さな黒い点が現れた。どんどん大きくなる。大きな、黒い穴。渦。

 

(ジェイ?

 あな


 ジェイエルが穴に落ちる。

 

(まって。

 ついてく。

 いっしょに)


 アリーはジェイエルを追って、その黒い穴に飛び込もうとした。だが、その前に穴は消えてしまい、アリーはただ、何もない空を飛ぶだけだった。

 穴がもうない。

 ジェイもいない。

 何もない。


(ジェイ?どこ?

 わたしもいく。

 どこ?いっしょ)

 

 返事はない。

 

(ジェイ?ジェイ?どこ?ジェイ?

 でてきて?かくれんぼ?ジェイ?

 ジェイ?ジェイ?ジェイ?どこ?)


 アリーは探した。ジェイを呼んだ。何回も、何回も何回も何回も。


 アリーは飛び続けた。

 ジェイを探して。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。