20 地上へ
「Mors stupebit et natura, cum resurget creatura, judicanti responsura……」
死の驚異。全ての。
蘇生。
審判に応えるために。
【8月19日14時34分 ニース、パレ・ド・ラ・メディテラネ、Le3e】
友だち。今まで、そう思える人なんていなかったけど、アリーや、アンキュラのあの人たちは特別だ。
私の結婚式には来てくれる。絶対。だってジェイさまも、みんなの友だちだもん。
私とジェイさま。ジェイさまと私。楽しみだなぁ、またみんなと会える。みんながお祝いしてくれる。幸せ。私はほんとに幸せ。
マドレーヌの心は、シャンパンとインデラルの相乗作用により、雲の上を彷徨っていた。ほわほわと、優しく、穏やかに、マドレーヌの時間は過ぎて行く。
無邪気で無垢。太陽が昇るのは私を照らすため。追い風が吹くのは私の背中を押すため。この世界の全てが私のためにある。
そう信じて疑わないマドレーヌの誕生時刻まで、あと41分だった。
【同時刻 コンスタンティノープル、アヤソフィア大宮殿、玉座】
インノケンティウス14世は、コラル・ドクルは、自分の掌を見ていた。
世界がこの手にあった。私のこの掌の上に。それが今日、水を吸った砂の塊のようにぼろぼろと崩れ、こぼれ落ちていく。
手の甲を見る。節くれだち、醜い皺と、青白い血管が浮き出た手。黄ばんだ爪。震えてこそいないが、老いさばらえた手。
拳を握った。力を込めて。微かに震え始めた。
強く、肘掛けのケルビムの頭を殴りつけた。痛みと痺れ。
インノケンティウスは顔を顰めた。痺れを振り落とすように手を振る。
「……卿!卿!」
返事はない。どこにいるのか。
玉座の足元に広がる大理石の床、玉座の背もたれに反響して、しゃがれた声が響く。
「誰か!誰かおらぬか!」
殿中は静かだった。平時なら階下の礼拝堂を行き交う司祭たちの足音が聞こえた。数年前までなら、会話を聞きわけることもできた。今は何も聞こえない……いや、足音。誰かが走って来ている。
「――猊下。お呼びで?」
「……卿はどこにおる。あれをここに」
「恐れながら……首席審問卿はただ今、来客の応対中でございます。それより猊下、御出発のお時間でございます。そろそろヘリポートへ参りませんと……」
インノケンティウスは目を閉じてため息をついた。
「……もう、そんな時間か……」
アヤソフィア。ここも最後か。
「お荷物は既に積載いたしました。ヘリポートまでお供いたします。首席審問卿はそこに……あまり、お待たせなさらない方が」
インノケンティウスは目を見開き、お供の黒服を睨みつけた。その口はなんだ。この私に対する言葉か?立ち上がって恫喝するため、両手を肘掛けにつき、腰をあげる。
……だが、手は痺れていた。感覚がなく、無様にも肘掛けの上で手が滑り、斜めになって尻餅をつく。黒服が眉をしかめながら添えようとした手を払いのける。
情けないことよ。この私が。
いや。まだだ。アヴィニョン。あそこへ行けば、まだまだ私は。
インノケンティウスは、今度はゆっくりとした動作で玉座から立ち上がった。背筋を伸ばせばその身丈は180センチあり、長年に渡り染みついた威容がまだ残っていた。黒服の哀れみの目つきが一瞬で畏怖に変わる。
その眼前に甲を差し出す。指輪もまだ輝きを失ってはいない。
黒服が崩れるように膝を折り、金色の指輪に口を寄せた。インノケンティウスはその後頭部を見下ろした。まだ残光が揺らめく、青く凍った眼で。
私はまだ、こうして立ち上がることができる。
待っているがいい、シムシェキよ。私がまたこの玉座に座る日を。それまではお前の尻で暖めておけ。
黒服に手をひかれながら、インノケンティウスは歩き出した。白金のカソックとローブを引き摺るその足取りは、鈍いがまだ確かだった。
【14時59分 ニース、パレ・ド・ラ・メディテラネ、Le3e】
あと16分。
アンジーは厨房にいた。マドレーヌの誕生時刻に、またあの軽薄なデジタル司会者がマドレーヌにスピーチを求める。その前にコーヒーを飲ませなければ。マドレーヌはシャンパンを飲み過ぎている。
カフェ・オ・レ。あの子が大好きな、私が淹れたカフェ・オ・レ。
最高のカフェ・オ・レを淹れてあげよう。
ふたつのポットにお湯を入れる。余熱するためだ。マドレーヌのカップにも。
スマトラ・マンデリンのフランク・ローストを正確に24グラム、フランクプレスで中粗挽きにする。
成分無調整の3.6%ミルクをミルクパンで65℃に管理。
ゆっくり。静かに。時間をかけて。
テラスから、とりとめもない談笑のざわめきが聞こえる。
【同時刻 コンスタンティノープル、アウラ・アウグストゥス、アヤソフィア・テラス】
音。鋭利な金属音。ビュッと風が斬られる。
屋上に照りつける太陽を反射して、ギラリと、銀色の刀刃が空を割く。
その死の氷鉄の先に、ヴィがいる。
ヴェシリアは直前まで、ヴィとジェイにiPadaの動画を解説付きで見せていた。
アウグストゥス神殿でのズィヤの革命宣言。スヴェイシュや各地方都市のローマ軍団。海外のマスコミが伝える革命のブレイキング・ニュース。そして、昨日のアナドル高速道でのヴィの曲芸。
「ヴェシレ。あなたは注意力も動体視力も素晴らしいわ。あなたの課題は、筋力の使い方ね。筋力を動かすのではなく、筋力に委ねるのです」
アリーを救出した時の動画。それから、150キロで走行中の車間の乗り移り。
「ヴェシレ。あなたの判断力は、その未熟な体術を補って余りある。彼を護る、そう決めたのね……愛を知ったのですね、昨夜」
ヴェシリアを睨んでいたヴィの顔が歪んだ。
顔が燃え上がったかと思った。ぼっと音が聞こえた気がした。一瞬で耳たぶまで紅潮したのは確かだ。
「うふふ……お可愛いこと」
可愛い妹。
「私は愛など認めません。しかし、それがあなたの力となるなら、構いませんわ」
私の妹。
アスラン道などでなく、血の繋がりを教えてあげられたら。私はあなたの姉だと、ひと言でも言えたら。だがそれは、私の心を無駄に癒やすだけに過ぎない。この子にとっては助けになるどころか、負担になるだけだ。
このままでよい。24年、そうしてきたのだから。
そして、ヴェシリアの右手がカタナの柄に飛んだ。
背中の筋肉が疼く間もなく爆発した。シャツが吹き飛び、漆黒の翼がヴィに覆い被さる。同時に暴力的速度で、ジェイはヴィを抱きしめる。
ガラスと金属が瞬時に砕ける音。ジェイの翼は、叩きつけられた氷鉄を粉砕した。
「……魅惑的ですわ」
ヴィを翼の中に抱き留めたまま振り向いたジェイの前で、ヴェシリアは柄だけになったカタナを投げ捨てた。血塗れの顔で、ジェイを見据えて。
粉砕したカタナの破片が、ヴェシリアの全身に襲いかかっていた。ほとんどがカソックに遮られて床に落ちたが、剥き出しだった顔には無数の破片が突き刺さり、掠めていた。鮮血がヴェシリアの顔を伝い落ちる。目だけはiVitraが護っていた。微細なクラックは入ったが、貫通はしていない。
その透明なシールドの奥で、ヴェシリアのダークブラウンの瞳は笑っていた。
ジェイはその瞳を捉えたが、iVitraの傷が邪魔して、虹彩を絡めることはできない。
「なにをする」
「ごめんあそばせ。一度この目で見てみたかったのです。あなたの真の姿を」
「翼だけだ」
「そのようね。あの怪物は?」
「あの姿にはなれない。残念でした」
ヴェシリアはフッと笑った。
「なれない?ならない、ではなくて?」
「なれない。怪物が必要なら他を当たってくれ」
ヴィにも、翼の外の会話は聞こえていた。
怪物。サフィやパヴルくんが言ってたやつか。真の姿。この人の。
今、ジェイの身体は普通だ。翼だけ。鼓動は静かで正常。胸も腕も、筋肉は膨張していない。暗くて見えないけど、感じる……暖かい。
すぐに翼が消えた。ジェイの腕の中で、ヴィはヴェシリアに面と向かっていた。血だらけ?何があったの?
「――そういたしますわ」
父と私。怪物は他にはいない。
ヴェシレ。そのままでいい。
また会えた。話ができた。満ち足りた。
これでいい。眼球が熱い。
ヴェシリアは駆け出した。
妹と、怪物ではない男を置き去りにして。
怪物に向かって。
【15時09分 ニース、パレ・ド・ラ・メディテラネ、Le3e】
プランジャーをすぅっと押し下げ、コーヒーが完成した。余熱していた2つのポットを空にし、コーヒーとミルクをそれぞれに注ぐ。最後の仕上げをして、ポットとカップを銀色のディッシュに載せると、慣れた動作でディッシュを持ち上げる。
厨房の時計は、15時12分。いよいよだ。マドレーヌのスピーチ。
【同時刻 コンスタンティノープル、アヤソフィア隣接ヘリポート】
インノケンティウスは、黒服の手を借りながら慎重に、アイテリスH160の電動ステップを踏んで機内に入った。
「……卿はどこか」
同行する2名のSPが、機外でイヤホンに手をやりながら確認する。
「まもなく……首席審問卿は、まもなくいらっしゃるはずで――」
その時、アウラ・アウグストゥスのエントランスから、燃えるような緋色が走り出して来た。SPが叫ぶ。
「いらっしゃいました!首席――」
SPが絶句した。
「お待たせしました、猊下」
「……卿?な……なにがあった。血が――」
「ご心配なく。擦り傷ですわ」
ヴェシリアは機内に首だけ突っ込み、コクピットに叫んだ。
「エンジン始動。すぐに離陸できるよう待機」
言い終わらぬうちに、機外を振り返る。
そこには、既に1人目のSP側面に走り込んで来たヴィがいた。外側からSPの左肘を抱え込むようにロックする。ヴィの右脚がSPの足元に踏み込まれる。そこを支点に、ヴィは半時計回りにスピン。そして――
キィィィン!という高い金属音が、ヴィの回転音かのように響いた。
H160の第1エンジンが始動。タービンが高い金属的な音を立てて回り始めた。
SPの身体がヴィのスピンに巻き込まれ、宙に浮いたその瞬間。ヴィが腕を離すと、SPが「発射」された。数メートル吹っ飛び、背中からコンクリートに叩きつけられる。
ヘリの金属音が音量を上げた。第2エンジン始動。ローターがゆっくり回転を始めた。それに呼応するかの如く、ヴィはスピンしたままコマのように2人目のSPに襲いかかる。
ヴィの両腕がヘリのローターのように広がる。旋風。その左手刀が空間を切り裂き、SPの鎖骨のすぐ上、腕神経叢を直撃。2人目のSPも一瞬で崩れ落ちた。
「離陸!」
開いたままのドアから、ヴェシリアの叫び声。ヴィが振り向いたその時、アイテリスH160が地上を離れた。
ヴィは躊躇うことなく、開いたドアに向けて跳躍した。
ドア口に立つヴェシリアの、血の跡が残る頬が弛み……ゆっくり、笑みを浮かべた。そして、ヴィを迎え入れるようにその両手が広がる。
ヴェシレ……あなたはここに来たいというの?私の腕の中に?ヴェシレ。妹。私の妹。私の……私の?なに?私の――
愛?
「卿!」
背後から怪物が叫ぶ。
妹よ。ヴェシレ。
ヴィの右手が、ドアの縁を掴もうとしていた。
ヴェシリアはダンスに誘うように、優しく左手を伸ばした。あと少し近づけば、抱き合えそうな距離。
愛などない。
私にあるのは、呪いのみ。
そっとヴィの上腕に手を添え、煽ぐように優しく押した。
空中で新たなモーメントを与えられたヴィの身体はスピンし、その伸ばした手は虚しく空を泳いだ。ヘリが上昇し、豪風が吹き降ろしてヴィの身体を抑え付けた。
落下。
【15時15分 ニース、パレ・ド・ラ・メディテラネ、Le3e】
『皆様!おしゃべりはそこまで!ご注目ください!……時刻は……今!15時15分!マドレーヌ嬢、18回目のハッピー!バーァァァースデイ!!』
拍手喝采が最高潮に達した。テラスの照明が暗転し、スポットライトが落ちる。
マドレーヌのために。
マドレーヌは慌ててカフェ・オ・レを飲み干した。
熱っ!……でも、私。今、18歳になった。18年前の今、私のためにこの世界が生まれた!立たなきゃ。立って、スピーチ。発表しなきゃ、世界に!私を待っててくれた、この世界に!私とジェイさまの――
マドレーヌは立ち上がろうとした。
ふらつく。手をテーブルにつく。
揺らめきながら、立ち上がる。
笑顔。弾けるような笑顔。
テラスが、セレブたちが静まり返る。マドレーヌの声を聞くために。
目が潤んで、景色が揺らいだ。
口を開く。
しゃべらなきゃ。
世界に。
ジェイさま。
マドレーヌの体内で、血液が重力により下半身へ落下した。脳が血液を要求し、気圧受容体が心拍数を上げて血管を絞った。
53分前に痛み止めだと思って服用したインデラル、プロプラノロールは、今や心筋の圧受容体と強固に結びついていた。アドレナリンを受けつけず、心筋は動こうとしなかった。血圧が急激に降下し、周囲の音が消えた。
ぐらりと揺れるマドレーヌの体内では、さらに別の薬物が活動を開始していた。数秒前に飲み干したカフェ・オ・レに混入されていたSAIMRポリバレント抗毒血清、10ヶ月前にプレトリアでパフアダーに噛まれたと誤認した際に打たれたものと同じものが、審美スクリーニングによって露出、損傷した毛細血管から侵入し、カフェ・オ・レの熱によって速やかに吸収され、マドレーヌの全身の細胞を刺激した。免疫が過剰反応を起こし、全身の血管が拡張した。プロプラノロールによってアドレナリンを阻害された心臓は、心拍数を下げていった。
ざわめき。マドレーヌには聞こえない。
テーブルに突っ伏す。
悲鳴。マドレーヌには、もう聞こえない。アンジーが飛びつく。マドレーヌの名を叫ぶ。
マドレーヌには、もう何も聞こえない。
「救急!医療チーム!!」
アンジーは絶叫した。演技ではない。本心から絶叫した。ここから。ここからが一刻の猶予もない。
救うのだ。
この身体を。
【同時刻 コンスタンティノープル、アヤソフィア、ヘリポート】
落ちる。
ヴィが落下した時、高度はまだ3メートルだった。安全な着地が可能な高度。だが、ヘリのダウンウォッシュが、落下速度を加速していた。
この速度。下はコンクリート。少なくとも骨折は免れない。
黒い影。翼。
コンクリートに叩きつけられようとしていたヴィの身体が、ふわりと浮いた。
ジェイが走り込んで来ながら翼を広げ、ヴィを受け止めた。
(ジェイ!)「ジェイ!」
アリーが肩に止まろうとする。
(アリーだめだ。離れてて)
(ジェイ!)
「あなたも離れるんだ」
ヴィを突き放し、羽ばたく。
「だめ!いかせない!」
ヴィの腕がジェイの腰に巻き付く。
「離せ!逃げら――」
「死なせない!ひとりではいかせない!」
ヘリを見上げた。垂直に上昇していく。今逃したら終わりだ。ジェイは全力で羽ばたいた。ヴィが腰にしがみつく。
加速。上空から叩きつけるダウンウォッシュに抗い、その暴風めがけて上昇する。
「ジェイ!だめ!心臓が!」
ジェイの熱。膨張する上半身はもう太い血管が浮き出ている。
「やめて!お願い、やめて!」
心臓が、肺が燃える。爆発しそうだ。全身が燃えるように熱い。
だが、逃すわけにはいかない。もうわかった。依代の限界。これが最後なのだ。どちらでも同じだ。ならば逃がさない。
ジェイは物理法則など無視して加速した。かすむ空に、ヘリがぐんぐん大きく迫る。スライドドアが閉まる。あと僅か。
届く。ジェイの指が、ドアの隙間に挟まれた。右腕が、右肩が、さらに膨張した。
激痛。心臓だ。風の音が消える。空が暗い。
挟まれた3本の指。その力だけで、ヘリのドアが吹き飛んだ。
激痛。胸が中から食い破られている。歪む視界。
歯を食いしばり、ヴィをヘリの中に投げ込んだ。そして、ジェイ自身も身体を捩じ込む。
翼が消えた。
「……貴様……なぜだ。なぜ、い……ヴェシレまで」
「……使命だからだ」
ヴェシリアの瞳を探す。だめだ。まだiVitraが邪魔だ。インノケンティウス。急げ。心臓が止まる前に。
インノケンティウスは本革のキャプテンシートで、動けずにいた。シートベルトのせいだけではなく、驚愕し、硬直していた。青い眼が虚に揺らめく。
再び翼が現れる。静かに、赤黒いオーラとともに。ジェイはインノケンティウスの正面から、彼の瞳を、青い虹彩を凝視する。そして――絡ませる。
「コラル・ドクル。見ろ」
翼がインノケンティウスを包んだ。キャプテンシートごと。
「な……なにを……なにをしている……」
「"狩り"よ……」
ヴィが、ヴェシリアの正面に立った。そして左手刀で、iVitraを弾き飛ばした。
「次はあなたよ。でもわたしが止める」
翼が消えた。
「え?……もう、終わったの?」
インノケンティウスは、翼に包まれる前と、何も変わっていないように見えた。
「……く……」
苦しい。息をするのがやっとだ。鼓動はもう、連続音のようだ。全身の毛細血管から血が滲み出している。だがやるのだ。
「……悔い……改めろ」
そして、対面のシートに倒れ込んだ。
「ジェイ!」
ヴィがすがりつく。顔を触ろうとして、血ですべる。真っ赤だ。充血と、染み出て流れ落ちる血。
「ど……どうなったの……」
ヴェシリアの顔は、もう血は乾いていた。血の跡で汚れた顔。
「来ないで!もうこの人は――」
「……だめだ……まだ……来い」
ジェイが立ち上がる。まだ心臓は動いている。また翼が広がる。弱々しく。
「来るんだ……救ってやる」
「お願いもうやめて……だめ」
ヴィは泣き叫びたかった。ジェイを止めたかった。だけど……だけど、だめなんだ。もう。
翼が広がる。赤黒い陽炎。ヴェシリアは呆然と立ち尽くす。ヴィの嗚咽が、破壊されたドアから吹き込む強風にかき消される。
「……やめて――」
「――やめろ!」
男の声。突然ヘリが傾いた。立っていた3人がドアとは反対側に投げ出される。インノケンティウスは――いなかった。
【15時27分 ニース、パレ・ド・ラ・メディテラネ、Le3e隣接医療スイート】
「心停止。胸骨圧迫。エピ1ミリ」
バイタルモニターの無情な電子連続音が鳴り続けている。声こそ冷静だが、医療チームは必死だった。即座にマドレーヌにまたがり、胸部圧迫を始める。アドレナリン注射が打たれる。
「……マド……マド……許してくれ……頼む……」
ガスパールの嗚咽。
「50秒」
アンジーは時計を凝視していた。
突然、照明が消えた。
「おい!停電か?!」
医療機器は通電していた。正常に。部屋の照明だけが消えた。
アンジーは天を見上げて祈っていた。
……どうかお願いです……お願いします……真の神よ。
アンジーは祈っていた。心の底から。
照明が戻った。
「80秒」
電子音が途切れる。そして――
「――波形、出ました」
「よし。アドレナリンが効いたな。がんばれ!」
「頚動脈触知」
「100秒」
「ロスク」
「波形正常。戻りました!」
「よしっ!自発呼吸確認」
「120秒」
バイタルモニターは、規則的リズムで正常を告げていた。医師が小さく息を吐いた。
「ステロイド。……アナフィラキシーだ」
「……マド……マド……」
床に膝をついて嗚咽を続けるガスパールに、医師が声をかけた。
「お父さん?もう大丈夫ですよ。お嬢さんはアレルギーは?」
「私がお答えします」
アンジーが返事をした。声が震えないよう、意識しなければならなかった。
「乳母でした。アレルギーはありません。ただ……」
「なんです?」
「昨年10月、ヘビ毒の血清を」
医師は大きく頷いた。
「それだ。倒れる前に飲食は?」
「シャンパンと……カフェ・オ・レですね」
「薬は?」
「痛み止めを」
「何という薬かわかりますか?」
アンジーはポケットからPTPシートを取り出し、医師に渡した。手の震えにも気をつけて。
「ロキソニンですね。たぶんこれかな」
医師はアンジーを伺うような目で見た。
「……あなたは、大丈夫ですか?お顔の色が――」
「……大丈夫です。ありがとうございます」
「ショックだったでしょう……もう大丈夫です。アドレナリンが一発で効きましたし。救急車もすぐくる」
「はい。ありがとうございます……」
アドレナリン。あれはアドレナリンではない。事前にすり替えたのだ、グルカゴンに。
大丈夫か。まだだ。まだ、わからない。
……本当に、大丈夫なのか。
【同時刻 コンスタンティノープル上空】
インノケンティウスは、キャビンにはいなかった。
地獄。
それがどうした。私がそんなものを恐れたりするものか。確かに見た。あの鉛の法衣。押し潰されたのに、また立ち上がる。なぜかは知らん。ただ歩き続ける。
だからなんだというのだ。地獄が恐くて教皇が務まるものか。
帰るのだ、アヤソフィアに。私の居場所はあそこしかない。あの……椅子しか。
玉座。そう、神の腰掛け。飛べる。私の、空飛ぶ玉座。
こんなおもちゃより、ずっと速く遠くへ飛ぶのだ。
いや、私はどこにもいかん。
アヤソフィア。帰るのだ。
インノケンティウスはキャビンとコクピットを遮る遮音カーテンを引き開けた。
「……げ、猊下?」
「帰るぞ」
「……は?」
なんだこいつ。どけ。私の椅子だ。
機体が僅かに揺れた。インノケンティウスは掴まるものを探した。ちょうどいい手摺りがある。
インノケンティウスは頭上のセンターコンソールを見上げ、目立つ赤いハンドルを掴んだ。両手で。
機長が絶叫した。
「――やめろ!」
カットオフ・レバーが引かれ、アイテリスH160の2基のエンジンへの燃料供給が同時に遮断された。
アイテリスはこの時、アタテュルク空港上空50メートルで着陸体制に入っていた。アヤソフィアを離陸してから10分。本来ならとっくに着陸しているはずだったが、キャビンドア消失により高高度を飛べず、低速で低空飛行を続けてきて、やっと目的地に辿り着いた。インノケンティウスとヴェシリアは、ここからプライベート・ジェットでアヴィニョンへ向かう予定だった。
それは今や不可能だった。
エンジンが停止した機内は不気味な静寂に包まれたが、それは一瞬だった。
『ROTOR LOW ROTOR LOW ROTOR LOW……』
男性のコンピュータ音声の警告音が轟く。機長が何か叫んでいる。ガクンと機首が下がった。
出来ることはひとつしかない。
ジェイがそう考えた時にはもう翼が広がり始めていた。瞬時にではなく、少しずつ。ジェイ・ロルトの肉体が、もう限界なのだ。
機体が急激にドアのない右側に傾いた。ジェイ、ヴィ、ヴェシリアが機外に投げ出された時、既にジェイの両腕は2人を抱き抱えていた。
羽ばたく。全力で。
まだ完全ではない翼で。高度は40メートルで、重力が勝っている。
羽ばたく。全身全霊で。
こめかみの血管が破れ、血飛沫が吹き出す。
「いや!ジェイ!離して!あなただけなら――」
「離せ!私は――」
離さない。本能が許さない。
頸静脈も頚動脈も、今にも破裂しそうに膨らんだ。
アイテリスでは、機長が死にものぐるいで機をコントロールしようとしていた。フレア。機首があがる。そして――
後部から墜落した。
凄まじい激突音、機体を滑走路に擦り潰す音。インノケンティウスが燃料遮断レバーを引いたため、出火はしない。
そのインノケンティウスは、墜落の衝撃で機内を飛び、腕、肩、脚、背中、人体のあらゆる箇所を強打した。肉は裂け、骨が粉砕された。血が飛び散った。
それでもまだ生きていた。生きていたが、インノケンティウスにとってはそれが、ジェイが見せた地獄より恐ろしかった。
この世界の全ての物体に襲いかかられていると感じた次の瞬間、彼は機体から放り出された。そしてそのまま顔面から滑走路に突っ込んだ。
インノケンティウスが欲した世界。掌で掴んでいた地球。
今彼は、そこに最後の接吻を。
激突。頭蓋が砕けて首が折れ――インノケンティウスは死んだ。
ヴェシリアはその全てを見た。
ジェイの翼は浮力を得るまでに広がり、空気をはらんで、かろうじて高度30メートルを維持していた。
終わった。
コンシリウムは完遂した。
復讐。全て終わった。
満足だ。
真下に、アイテリスH160の残骸。横転し、銀色のローターが折れ曲がり、突き立っている。
自分を抱き抱えているジェイの、膨張し、血だらけの上腕に触れる。
「ジェイ・ロルト」
ジェイがヴェシリアを見る。
「お任せしますわ」
言いながら、ジェイの三頭筋の僅かな窪みに、親指を押し付ける。
ジェイの腕がビクンと跳ね――ヴェシリアは解放された。
落ちて行く。
驚愕しているジェイ・ロルト。
縋りついて泣くヴェシレ。
私の妹。
私の、愛よ。
青空を背景に抱き合う2人を、瞳に焼き付ける。
そして背を向ける。身体を捻り、下を向く。緋色のカソックの合わせを両手で掴み、引き裂くように前を開けた。
純白のクレリカルシャツの下、手術痕に手を当てる。
母さん。
終わったわ。
ヴェシリアは胸を張って、銀色の鋭利な剣を迎え入れた。
正確に、母の心臓を貫かせ。
微笑みを浮かべて。
ヴィは全部見ていた。
そうか。そうすればいいんだ、わたしも。そうすれば……この人だけなら、助かるかも。
ヴィはヴェシリアがしたように、ジェイの上腕にそっと触れた。
ジェイ。わたしはあなたを死なせない。たとえ――
「……ヴィ」
……呼ばれた。ヴィって……初めて、名前を――
顔を上げる。そこに、ジェイの黒曜石の瞳。虹彩が、光を帯びて……赤黒い光。
「しがみつけ」
ヴィの両腕が勝手に動き、ジェイの血塗れの首を強く抱きしめた。胸を合わせ、両脚も、ジェイの大腿に絡まった。
ジェイ?なにをしたの?わたしの身体が、勝手に――全力で、ジェイの身体にしがみつく。
ジェイの瞳から眼が離せなかった。虹彩が絡まって。解けない。
でも。
その眼が、閉じていく。
「……ジェイっ!ジェイ!ジェイ!ジェイッ!!」
力が抜けていく。瞼さえ、開ける力さえ残っていない。
羽ばたきが止まる。
地上が、おれを引き寄せる。
ヴェシリアに奪われた左腕と同じく、ヴィを抱いていた右腕も、力無く垂れ下がる。
もう何も聞こえない。
風の音も。ヴィの声も。
もう……何も見えない。
意識。もう――
翼が閉じる。消えなかった。静かに閉じて、ヴィを包む。
落ちる。
落ちていく。
地獄ではなく。
地上へ。
大地に触れる寸前、ジェイの身体が反転し、背中からコンクリートに接触した。
黒い翼に包まれたまま。
翼はまだ、濡羽色に煌めいていた。
虹色の輝きを撒き散らしながら、コンクリートの上を転がって。
静止した。
翼が消えた。
ヴィは陽光の中、ジェイにしがみついたまま。翼と、ジェイの身体に護られて。
「――ジェイ!ジェイ!ジェイ!」
わかっていた。ジェイの瞼が降りた時、胸に感じていたジェイの鼓動が消えたのを。
……でも、いやだ。
わたしは、この人を。この人を、この肉体に。
閉じ込めるんだ。
心臓を動かす。胸部圧迫。
死なせない。
「ジェイ。言ったでしょ?死んだら殺すって」
心臓を動かす。
死なせない。
「殺してやる。死んだら、殺してやる」
心臓を。
死なせない。
「殺してやるから。だから……お願い……」
"Quid sum miser tunc dicturus? quem patronum rogaturus, cum vix justus sit securus?"
わたしはその時、何をいうだろう?
あなたに守ってほしい
やっとわかった。あなたは……信じてる?
"Quaerens me, sedisti lassus : redemisti Crucem passus : tantus labor non sit cassus."
探す
疲れ果てて休むあなた
重荷を共に贖ってくれた
それが無駄なはずなんかない
アリーは全速力で飛んでいた。ジェイの意識を探して。
さっきまで、はっきり伝わってきたのに。だんだん、ぼやけて。ジェイ。今はもう。
離れたくなかった。ジェイのそばにいたかった。いつも一緒だったから。ずっと一緒だから。
ニシコクマルガラスの限られた脳容量では、アリーがアリーエ・ムトルだった頃の記憶を残すことは不可能だった。だがアリーはおぼろげに覚えていた。アリーエだったことではなく、なにかひどい、いやなことをされたこと。ひとりぼっちだったこと。恐い、ものすごく恐いところにいたこと。
そして、ジェイのこと。
ジェイが助けてくれた。ジェイのおかげ。ジェイがいなかったらアリーもいない。
いつも一緒。
今はもういない。どこにいるかわからない。そんなのいやだ。絶対にいや。絶対に見つける。
ニシコクマルガラスの最高速度は時速60キロに達するが、その速度で飛べるのは短い時間だけだ。普通なら。だがアリーは飛んだ。必死に、小さな翼を羽ばたかせて。一生懸命、ジェイを探すため。ジェイのそばにいるため。
(ジェイ。どこ? (ジェイ。どこ?
いくから。いま。 すぐあいたい
へんじしてほしい) へんじして)
(ジェイ。どこ? (ジェイ。どこ?
へんじして。 へんじして。
いますぐいく。) はやく。すぐ。)
アリーはたくさんロクツィオを送った。ジェイを見つけられないなら、ジェイに見つけてもらう。最初の時みたいに。
(アリー!)
(ジェイ!)
(うれしいジェイジェイうれしいうれしい
いたいたジェイいたうれしいジェイどこ
ジェイどこうれしいジェイいまどこ?)
見つけた。ジェイ。空に。
嬉しさのあまり、アリーはすぐには気づかなかった。いつもと違うことに。いつものジェイじゃないことに。
あれはジェイだ。でも違う。大きなジェイ。アリーと同じ足。思い出した!
恐いところでひとりぼっちだった時。恐くて、震えてた時。あの大きなジェイが、助けてくれた。翼から羽根をくれた。綺麗な、大きな羽根。
アリーはジェイエルの肩に停まろうとした。でもだめだ。変。
(アリー。元気で。気をつけて)
(ジェイ?)
(さよならだ。アリー。元気で)
(どこいくの?
アリーもいく。
いつもいっしょ)
(だめなんだ。アリーはいけない)
(なんで?いけるよ
ジェイといっしょ
どこでもいける)
(わたしがまんする。
おり。ひこうき。
だいじょうぶ。)
(アリー。あれを見て)
指差した方を見た。灰色の地面。"こわいおんな"がいる。いつものジェイが寝てる。動かない。
("こわいおんな"
ジェイ、ねてる)
(そう。でももう、恐くないから。優しいから。助けてくれたろ?また助けてくれる。これからもずっとだ。だからアリーも助けてあげて)
(くそがらす。 (ジェイがいい。
そういった。 たすけてくれる
きらいだよ) ジェイだいすき)
(アリー。おれも大好きだ。ありがとう。たくさん助けてくれて。元気で。気をつけて)
ジェイエルの足元に、小さな黒い点が現れた。どんどん大きくなる。大きな、黒い穴。渦。
(ジェイ?
あな
ジェイエルが穴に落ちる。
(まって。
ついてく。
いっしょに)
アリーはジェイエルを追って、その黒い穴に飛び込もうとした。だが、その前に穴は消えてしまい、アリーはただ、何もない空を飛ぶだけだった。
穴がもうない。
ジェイもいない。
何もない。
(ジェイ?どこ?
わたしもいく。
どこ?いっしょ)
返事はない。
(ジェイ?ジェイ?どこ?ジェイ?
でてきて?かくれんぼ?ジェイ?
ジェイ?ジェイ?ジェイ?どこ?)
アリーは探した。ジェイを呼んだ。何回も、何回も何回も何回も。
アリーは飛び続けた。
ジェイを探して。




