1 冷たい心臓
【2025年7月28日22時頃 ジェベジ墓地北東角】
微風がヴィの前髪を乱した。手櫛でかきあげながら、傍で膝をつくジェイの汗を拭った。
脂汗。変身や、わたしを抱いての飛翔が体力を消耗する、というのはわかる。さっきエキンジに地獄を見せた"狩り"も、すごく体力を奪うのかもしれない。でも、この脂汗……。
暗くて、顔色まではよくわからない。だがもうひとつ気になるのは、霊廟の天窓から脱出した時の飛翔だった。
アッカレのあの熱が感じられなかった。肌が冷たかった。そして、すぐ近くに着地して大きな墓石の影に隠れていた時。翼はもう見えないのに、頸静脈の怒張が治らない。これは――
心臓だ。
使徒職で、何度か見たことがある。心臓が弱っていると、流れ込む血液を捌ききれなくて頸静脈で溜まり、怒張する。
「……このフェンス。……越えれば。……倉庫。公園。……人気はない。……アリー、ありがとう」
この人は元々無口だけど、この喋り方は酸素不足のせいだ。
心臓が止まりかけている。
出会ってからまだ5日。この人のことは何も知らない。お酒は飲むのか、煙草は吸うのか。普段の睡眠。不健康な生活なのは間違いない。食事も満足に摂っていないのに。もしかしたら、過去に心臓病の既往歴だってあるかもしれない。聞いても答えてくれないだろうけど。
お父様。
あの日わたしは、スープにも手をつけずに食堂を出て行ったお父様を見て、異変に気づいた。気づいたのに、何もしなかった。瞑想して、そう判断した。もう少し様子を見ようと。
そしてお父様は殺された。
わたしはあの時、何もしなかったことを一生後悔する。同じことを繰り返すのは絶対に嫌だ。
ヴィはiPortaを出した。救急車を呼べばどうなるかはわかっていた。この人は助かる、今なら。でもその後は?
その後のことは、その時考えればいい。
ヴィは112をタップしようと――
「待て」
声と、突然の光。
フラッシュライトに照らされた。警備員か。
ヴィは瞬時に決断した。
iPortaを警備員の足元へ投げた。フラッシュライトの光軸がブレる。
屈んだ姿勢から、ヴィの長身が地を舐めるように低く跳んだ。そばの墓石に右手をかけ、空中で旋回する。
マキシ丈の裾がはだけ、白い脚がフラッシュライトに浮かび上がる。美しい弧を描いて。
着地の瞬間、左脚を大きく後方へ投げ出し、右膝を立てて低い姿勢のまま、墓石を離れた右手を遠心力で加速し、逆光を切り裂く。
警備員は機敏に、手刀をスウェイバックしてかわすと同時に、ヴィの回転軸となっている右脛にローキックを蹴り出す。驚異的反応速度だ。
ヴィの回転はまだ止まっていなかった。空振りした右手をそのままの勢いで後方に振り、右足で大地を蹴ると、今度は左脚を軸にドリルのようにスピンする。ワンピースの裾が花開くように華麗に広がった。
先程、ジェイが越えようと言ったフェンスが、ヴィのスピンを受け止めた。ヴィはそのレンガの段差を蹴って再び跳躍し、エキンジを沈めた掌底を繰り出して警備員の左後方に回り込む。
しかし、警備員の動きは予想を超えていた。ヴィの一撃必殺の掌底を避けるのではなく、一歩踏み込んだ。そして、まるで息の合ったダンスパートナーのようにヴィの手を取り、身体を合わせて回転しながら、ヴィが着地した時にはその身体を支えるように背後を取った。右腕がヴィの鎖骨に押し付けられ、その手にはいつのまにか、サバイバルナイフがあった。ヴィの首筋に刃を合わせて。
「アスラン道。お見事です。お御足もお美しい。|Mademoiselle」
お御足。怒りが沸点を超えかけたが、首筋に当たる鋭利な冷たさと、墓石に持たれて項垂れるジェイの姿に冷静さを取り戻す。
「Merci. Vous dansez à merveille aussi, Monsieur.(ありがとう。ダンス"も"お上手ですこと。ムシュウ)」
警備員と思っていた男は只者ではない。あの足の動き。サバット。フランク人、それも軍人だ。しかも背も高い。
「Très bien. 素晴らしい発音だ。ところでぼくは、あなたの恋人を助けることもできるんですが、いかがいたしますか、Mademoiselle?」
そう言って、フランク人はフラッシュライトをヴィの顔の前で一度振り、ヴィの視線を誘導しながらゆっくりとベルトに挿すと、ベルトに装着されたパッケージを指差した。
「これはTRVです。よろしければ――」
ヴィは真っ赤になっていた。耳まで。
「だ、だれのことかしら!彼はいとこです、いとこ!」
フランク人はその灰色の目を細めて微笑んだ。それからヴィを解放し、ジェイの許に屈み込むと、ペンライトを出してジェイの瞳孔の収縮をチェックする。
「……あなた何者?軍医ですの?」
「残念ながらぼくはただの公務員です。フランク王国領事館に勤めております。この後、動かしても大丈夫だとわかったら領事館にお連れしましょう。あそこには本物の医師もいる」
フランク人は喋りながら手は止めず、ペンライトをしまうとTRVから黒いパッチを取り出し、ジェイの裸の胸に貼り付けた。心臓の真上だ。
「ふむ……」
今度はiPortaを見ている。胸に張り付けたパッチと連動しているようだ。さらに、怒張した頸静脈に触れる。医者じゃないと言っていたが、プロの手際だった。
「急性心不全。あと10分ですね。このままだと」
ヴィの顔から、今度は血の気が引いた。
な……なんと言ったの?10分?あと?
「気を確かに、Mademoiselle.あなたまで倒れたら、彼を救えません。これを」
銀色の円筒を差し出す。
「底の……そう、それを捻って。彼の口に」
しゅうううっと、エアーの音。化学式酸素マスクだ。
「そう。それで5分伸びた。あとは」
フランク人は、太いペンのようなものを手に取った。これはヴィにも見覚えがある。エピペンのようなものか。
「あの……それは、急変した時まで取っておくべきでは?お医者さまのところまで、どのくらいかかるか――」
フランク人はヴィを無視して、ペン先の針をジェイの大腿に突き刺した。
「先に回転数を上げないと。エンジンにいくら空気を送り込んでも、燃焼されなければ意味がない」
ヴィは酸素マスクの下のジェイの唇を見ていた。薄い唇。ほんのりと、赤みが戻ってきている。
「よし、心拍数も落ち着いてきた。さあ、急いで」
だがヴィは、すぐには動けなかった。これだけ色々なことがあった1日の終わりに、とどめを刺すようなジェイの急変。心身ともにボロボロだった。ジェイが隣にいる時は大丈夫だったのに。今日1日、ずっとわたしを支えてくれていたのに。
突然アリーが舞い降りてきて、へたり込んだヴィの膝の上に何かを放り出した。それはスリットの隙間からのぞいたヴィの太ももに落ちた。冷たい。
手に取った。そして、反射的に飛び退いた。
トカゲ。その半身。
アリーは小首を傾げ、小声で優しく鳴いた。
「なんだ?このCorbeau!」
男の発した言葉は、昼に石を投げられた時に聞いた言葉だ。アリーは逃げた。
ヴィにはアリーの行動の意味がわからなかったが、へたり込んでいた脚には感覚が戻っていた。
「ただのクソガラスですわ。参りましょう」
ヴィは落ち着きを取り戻した。フランク人と2人がかりでジェイを立ち上がらせ、両脇を支えてフェンスを越える。
こうしてようやく、ヴィはジェベジ墓地から脱出した。
なんて日。お父様の柩に土をかけることすら出来なかった。もう一度、ここに戻ってこれるだろうか。無理な気がする。
フェンスの外に、黒塗りのSUVがあった。アスラン道の紋章を思わせる獅子のマーク。プジョーだ。青地に白文字、CC。領事館公用車のナンバー。聖テレーザ教会の隣が領事館だから、よく見かけた。フランク領事館勤務というのは本当らしい。
フランク人はリアドアを開け、まず3席ある後部座席の助手席後ろのシートを倒した。そこにジェイを座らせる。
「あなたは真ん中に。走行中彼の身体を揺らさないようしっかり押さえて」
ヴィは黙って従った。もしこのフランク人が敵なら、とっくに拘束されるか殺されるかしているはずだ。戦闘能力は互角以上、ジェイは死にかけている。少なくとも今のところ、この人はジェイを助けようとしている。理由は不明だが。
「声をかけ続けて。眠らせてはいけません」
プジョーを走らせながら、フランク人はルームミラーを調整してヴィに指示する。
「この時間なら空いてる。10分で着きます」
「……ジェイ。寝ちゃダメですって。しっかりしてね」
急に目頭が熱くなる。もう涙は枯れたと思ってたのに。
「あなたはバカね。死にかけるなんて」
堕天使のくせに、と言いかけて言葉を飲み込む。ルームミラー越しにフランク人が見ている。
「運転に集中なさったら。この人はわたしが」
ミラーの中で、灰色の目が細まった。
「では失礼して、電話します」
ステアリングのボタンを操作し、相手が出るとフランク語で通話を始めた。
「Ici Acier. Code rouge. On arrive dans 10 minutes.」
Acier。鋼鉄?……名前?それともコードネームか。
領事館の医療スタッフに、ジェイの容態を伝えている。
「―― J'ai administré un cocktail adrénaline-vasodilatateur.」
カクテル?アドレナリンと血管拡張剤。医師じゃないなら、やはり軍では?それか……政府組織。
「話しかけ続けて。意識を失うと死にますよ」
灰色の瞳がミラーから睨んでいた。
時刻はまもなく23時だった。激動の1日が、静かなハイブリッドSUVの中で終わろうとしている。いや、まだだ。
「――あなたのカブリオレ。幌を直さなくっちゃね。雨が降ったら大変」
ヴィはジェイに話し続けていた。プジョーは、昨日ヴィとジェイがロルフの傍らで再会したイペク通りを、モーターの駆動音だけで静かに進む。
前方が、異様な光で照らされていた。投光器。見慣れたはずの石壁や草地に、暴力的に光を投げつけている。検問。
その光景が、電動カーテンで遮られた。
「お任せあれ。あなたは彼に集中して」
アシェと名乗った男が、軽い口調で言う。プジョーを止めると、黒ずくめの男が運転席に近寄ってきた。ウインドウが下がる。発電機の唸りが耳に障る。
「Bon travail(お勤めご苦労様)」
驚くほど朗らかに、身分証を見せる。
「お待ちを。後ろのカーテンを開けてください」
「プライバシーです。外交問題を厭わないとおっしゃるなら、構いませんが?」
ヴィからは運転席の様子は見えないが、アシェがウインクしたに違いないと思った。微かに、冷たい光が香った。投光器ではなく、アシェから。スモークウインドウ越しに、黒ずくめの男がたじろいだのがわかる。軽口を叩いているのに、ヴィにまで伝わる威圧感。
プジョーは何事もなかったかのように、T字路を曲がって路地に入った。
聖テレーザ教会の、閉ざされた鉄門の前をゆっくり通り過ぎる。夢の中にいるようだった。悪夢の中。
隣の、フランク王国領事館の正門に近づくと、門がスーッと開く。重々しい鉄門ではなく、ガレージのスライドドアのように軽く。
「理想の国へようこそ、Mademoiselle et Monsieur.」
理想の国。そうだといいんだけど。
【23時14分 コンスタンティノープル、アヤソフィア大聖堂、首席審問卿執務室】
デスクトップのモニターの中で、プジョーを招き入れたフランク領事館の門がするすると閉じた。
ヴェシリアは別のファイルを開いた。
クルチュ神父。その日、混乱の中でジェベジ墓地の土の下に安息したヴィの養父。
「義父様……24年間、本当にご苦労様。あなたの娘は、無事新しい籠に移せましたわ。どうぞ安らかに」
そして、そのファイルをゴミ箱に捨てた。
あの"従兄弟"のことはいずれ身元がわかるだろう。このまま死んでしまうなら、それでも構わないが。浮浪者よりフランク紳士の方が、わたくしの妹にはふさわしいもの。
モニターには再び領事館の監視カメラ映像が映っていたが、ヴェシリアは見ていなかった。小柄なカラスが、カメラの直前を横切ったのを。その一瞬、銀色の瞳がカメラを見たことも。
ヴェシリアはまだ気づいていなかった。
彼女のコンシリウムに生じた、最初の綻びに。




