プロローグ
『妹よ
何故だ
何故俯く』
空を見上げた。
濡羽色の翼。
誰よりも優雅な舞。
俯いた。
太くて赤錆びた蛇腹。
私は舞えない。
こんなちっぽけな、虫みたいな翅。
重たくて醜い、蛇の肢体。
私は醜い。
両腕で、白い胸を抱きしめ、俯いたまま野原を這って、木陰を探す。
彼に見られたくない、こんな身体。
誰にも見られたくない、こんな醜悪な姿。
隠れたい。
消えてしまいたい。
草や葉が風に揺れ、ざわざわと私を笑っている。
私は這って、草むらを押し潰し、泥に擦られながら木陰を探す。
それしかできないから。
大きな樫の木の根元で身体を丸める。
蛇腹がとぐろを巻いて折り重なり、鱗が軋む。
背中で、小さな翅が震える。
飛べるわけもないのに。
木漏れ日が差す空を見上げた。
ここなら私のことは見えないはずだから。
影が降りてくる。
影が大きくなる。
来ないで。
私は隠れたい。
お願い。
見られたくない。
彼は気づかない。
私になど気づかない。
枝が揺れた。風じゃない。
彼が降りたから。
羽毛に覆われた美しい脚で。
三日月のような爪で、枝を掴んで。
黒い羽根がひらひらと、赤いとぐろの上に落ちてきた。
光の中でくるくる回って、虹色にきらめいて。
「やあ!休んでるのかい?」
陽気な声。
ビクッとして見上げると、金色に縁取られた枝葉の向こうに、私を見つめる黒い瞳。
一点の曇りもなく、蔑みや憐れみもない。
凛として逆立った黒髪にも光の縁取り。
そしてどこまでも青く高い空。
言葉を失う美しさ。
全て私にないものばかり。
私は直視できない。
眩しくて。
恥ずかしくて。
「今日もいい空だ!」
無邪気な声。
彼は翼を広げると、またどこかへ飛んでいってしまった。
羽ばたきと風と、黒い羽根を残して。
何か言えばよかった。
ロクツィオを送ればよかった。
ロクツィオは得意なのに。
何も送れなかった。
『嬉しいわ。あなたに
瞳で射すくめられて』
とか、簡単な言葉でもよかったのに。
私はばか。
そして醜い。
ため息をついて、樫の木陰でうずくまる。
黒い羽根。
力強くて、滑らかで、軽やかで。
それを、そっと裸の胸に抱く。
空の香りがする。
天の野原に夕暮れはない。
だけど空の色は変わっていく。
青から紫、桃色から、琥珀へ。
美しい、いにしえの琥珀。
その移ろいの中を、黒い影が舞う。
弧を描き、遊ぶような軌跡。
誰よりも自由に、楽しそうな飛翔。
ジェイエル。
『アヴィエル!
立て!
アヴィエーールッ!』
サマエルの乱れたロクツィオが、全ての天使たちに届く。
炎の回廊。
ルシフェルが蝙蝠の翼手を雄々しく広げ、剣を突き上げて鼓舞する。漆黒の腕、瞳だけが金色に光を放つ。
ミカエルの輝ける大軍に包囲され、全方位に逃げ場はない。右、左、前後、上空。眼下では、燃え盛る炎の中、赤い蛇が背中を翅ごと踏みつけられ、もがいている。
濡羽色の翼が急降下し、蛇を貫ぬこうとする剣を腕ごと切り飛ばす。
『ジェイエル!』
ロクツィオを送る余裕もない。アヴィエルは剣を杖に、傷ついた身体を起こし、尾で敵兵を跳ね飛ばしてジェイエルを見上げる。
『アヴィエル!
ジェイエル!』
サマエルが鷲のように舞い降りる。鉄灰色の髪束の、目のない蛇が黒い口を開いて牙を剥き、鎌首をもたげる。
『何故来た、アヴィエル!
来るなと言ったはずだ!
おまえは足手纏いだと!』
ロクツィオ。
その怒りを、一閃の光が貫く。
光の矢。
サマエルは翼で矢を受ける。
灼熱が鷲の翼を焼く。
『兄さん! 『そこか。 『させるか!
翼が!』 サマエル』 ミカエル!』
ミカエルが、空の彼方で6枚の翼を輝かせ、両手を頭上に振りかぶる。頭上に、眩い光が収束していく。ミカエルのみが授かった神の力。
ジェイエルの鉤爪が燃える床を蹴り、飛び立つ。
放たれた光が一直線にジェイエルを襲う。
光の柱。
漆黒の体がジェイエルの前に翼手を広げる。
そして激突。白と黒の衝突。
ルシフェルのみが授かった、光を飲み込む玄衣の翼手。光の柱は吸い込まれるように消えた。
『ミ
カ
エ
ル』
金の明星の瞳が、神の如き天軍の将を恫喝する。
その時。
炎の回廊に黒点が現れ、それが急速に拡大する。
暗黒が渦を巻き、空間を捻じ曲げる。
暴風。




