18 その日
【8月18日20時11分 トゥルサン・パルク・テシスレリ】
ジェイはロルフの運転席で、シートを倒してリラックスしていた。隣ではヴィが熟睡している。
トンネルで現れたやつらは、カイナシュル・インターで降りて行った。普通に。ウインカーを上げ、法定速度に減速して。後続のVdPはパッシングまでしていった。まるで、楽しかった、また遊ぼうぜ!とでも言うように。
何がしたいのか、意味がわからない。
確かなのは、おれたちを殺す気はない、ということだけか。その気ならいくらでも簡単な方法があったはずだ。
やつら。いや、ヴェシリア・セレン。彼女が全てをコントロールしている。
グリゴリの記録はロクツィオだから、書類やビデオを見るのとは違う。明確なのはイメージのみ。"狩り"の獲物の選定には十分だが、細かいことはほとんどわからない。だから地上に転生して調べる必要がある。いつものことだ。
ジェイ・ロルトを依代としてからこの2年で、その選定が間違いではないことはわかった。インノケンティウス同様、ヴェシリアも信仰心を利用して今の権力や名誉を簒奪し、さらにそれを利己的に行使している。腐敗した聖職者、そう定義して間違いではない。
インノケンティウスは、過去の獲物たちと同じだ。人間。何度繰り返しても学ばない愚かな人間。だがヴェシリアは……よくわからない。矛盾がある。初めて見る矛盾。
欲。欲への執着。それが感じられない。
そして、アンキュラを起点として起こりつつある革命。ヴェシリアの指揮する特別使徒保安庁の反応。おれへの反応。
あれほど知略にたけ、狡猾で、世界を観察でき、しかも権力の頂点にいる人間が、おれの存在に気づかないはずがない。カトリック教会に巣食う者にとって脅威の存在。だが排除しようとはしていない。なぜだ。むしろ――おれに、用があるらしい。会話でもしたいのか、それとも利用したいのか。
「……ばか男……クソガラス……」
ヴィが寝返りをうった。まだ顔が赤い。ヴェシリアが何を考えているにせよ、しばらくは動かず、ヴィのアルコールを抜くことが第一だ。さっきは本当に、もう終わったと思った。二度とあんなことはさせられない。
アリーは今、上空で周囲を警戒してくれているから、聴こえていないのは良かった。もう少し仲良くなってくれたら。この2人なら……時間がかかりそうだ。時間はもうあまりないのだが。
(みはり!)
アリーのアラーム。また来たか。
(はやいどうろにたくさん。
かこまれた。でぐちないよ。
ジェイ?どうする?ジェイ?)
(わかった。アリー、戻っておいで。ソーセージ食べる?)
どうにもしようがない。用があるなら、聞いてやるか。
アリーのおやつを出して、電動ソフトトップを閉める。LEDの白い光が数台、テシスレリに入ってきた。Rogg。VdP。また遊びに来たようだ。友だちをたくさん連れて。
ロルフを降りて待つ。もう逃げても無駄だ。リスクは冒せない。
車列は10台以上。全部黒塗り、ミニバンだけではなくセダンもある。どれも高級車ばかり。そのうち4台がロルフを囲んだ。もう数メートルさえ動けない。
駐車場は騒がしくなっていた。元々駐車していた長距離トラックやバス、一般乗用車などから人がわらわらと現れ、何事かと見物している。黒塗りRoggから大勢の黒服が降りて来て、見物人や彼らの車を誘導整理し始めた。駐車場の真ん中辺りに、スペースを作ろうとしている。驚くべきことに、ゴミ拾いを始めた黒服もいる。
ロルフの周りを包囲したRoggからは、誰も降りてこようとしない。何かを待っているみたいに。
(だいじょぶ?ジェイ)
戻ってきたアリーにソーセージをあげる。
(ロルフの中で食べて。よければトランクで)
(トランク。りょうかい
かくれる。ないしょ?)
アリーはソフトトップの裂け目にソーセージごと潜り込んだ。リアシートのアームレストを引っ張って開け、トランクスルーに入ってまた閉めた。
(えらいぞアリー。呼ぶまでそこにいて)
(アリー。えらい。
ジェイ。しんぱい)
その時、群衆が一様に空を見ていることに気づいた。指差してる者もいる。その方角を見た。
ヘリだ。シュルシュルという音。コジャテペの屋上で聞いた、あの音。
ヴェシリアか。
「閣下が、お会いしたいとの事です」
目の前に停車していたVdPの運転席から、黒服が降りながら言った。
「閣下は大宮殿でお待ちです。あなた方をご招待いたします」
ホテルマンのような笑み。周囲が昼間のように明るくなった。ヘリの着陸用LEDが煌々と辺りを照らす。
「おれたち全員を?ヘリで?」
「ジェイ・ロルト様。ヴェシレ・クルチュ様。それと……カラス様。お車は私が責任を持ってお運びいたします」
「あなたは……さっき、トンネルで?」
「はい。あなたのドライビングは素晴らしい。後ろからずっと拝見させていただいておりました。私どもは特別な訓練を受けておりますが、あなたほどのドライバーはなかなかおりません」
ジェイは素直に喜んだ。笑顔で応える。
「ありがとう。あなた方も上手だ」
笑みが広がった。
「光栄です」
(アリー。大丈夫だ。出ておいで)
助手席側に周り、ドアを開ける。ヴィは依然爆睡中だ。抱き上げる。
風がいきなり強くなった。ヘリが降りて来たのだ。ヴィの髪が暴れ、顔を覆う。それをかき上げて、ヴィが目を覚ました。
「……ん……眩しい……」
「寝てていいよ!」
風の音にかき消されないよう、大声で叫ぶ。
ヴィはぼけっとジェイを見た。
「……はい。おやすみなさい」
また寝てしまった。
アリーが出てこない。ヘリを警戒している。
(あれに。のるの?
のらない。とぶ。
にどと。ぜったい
だまされないよ?)
風が止んだ。ヘリが着陸し、ローターを停止させた。ドアが開き、電動ステップが展開した。
「じゃあ、ロルフは頼んだ。キーはついてる」
ジェイはヴィを抱いたまま、ヘリの方へ歩き出す。
「あ、すみません……カラス様は?」
「待ってて」
スタスタとヘリへ。電動ステップを上がり、中を覗き込む。冷たいLEDとは違う、温かみのある柔らかい照明と、豪華な本革のキャプテン・シートが4つ。黒服が1人、直立不動で会釈する。
「お邪魔します!機長は?」
「いらっしゃいませ。私です」
「あの……カラスなんですが。ケージに入れなきゃダメですか?」
「……規則では……いや、わかりました。どうぞ。暴れませんよね?」
(アリー!おいで。かごに入らなくてもいいって!)
ソフトトップの裂け目から、アリーは頭だけ出してヘリを見ていた。銀色の瞳がLEDを反射して、少し揺らめいている。真剣に検討中だ。
前回、飛行機のときは騙された。二度と騙されないと誓った。でも、ジェイと離ればなれは嫌だ。
アリーは覚悟を決めた。そしてロルフから
飛び出した。
その先では、停止したはずのローターが、慣性によってゆっくり、静かに、しかし凶暴な鋭さで回転している。
アリーはその危険を本能的に察知したが、引き返しはしなかった。地上4メートルで回転する死神の大鎌。安全圏は地上3メートル。
目標は決まっている。問題ない。
アリーはローターに気を取られる事なく、まっしぐらに飛んだ。
ジェイの肩めがけて。
【8月19日02時30分 エセンボア空港ホリデイ・イン】
機長はベッドから出ると、まずカーテンを開けた。目覚めて最初に空を見る。パイロットとしての長年の習慣。
アンキュラの空は漆黒だった。iPortaでMETAR/TAFをチェックする。雲はない。眼下の空港の眩い明るさのせいか、人の光が天の星を隠している。
10階から、これから飛ぶ西の空、その下の地上の闇を見渡す。いや、闇ではない。空港はともかく、そこから光の線が南へ続いている。D-140が渋滞している。こんな時間に?
今日は平日のはずだ。確か、アウグストゥス記念日だったか。祝日ではない。
まあいい。空は渋滞とは無縁だ。早くニースに……フランクに帰りたい。ローマは好きじゃない。
機長は自分がローマを嫌っていることを初めて自覚して驚いた。なぜだろう。今朝は嫌な感じがする。
シャワーを浴び、制服に着替えて部屋を出る頃には、"嫌な感じ"はさらに高まっていた。NOTAMに異変があった。僅かな異変。今朝のフライトに影響があるわけではなさそうだが。
ホリデイ・インから空港までは送迎がある。シャトルバスの乗客が多い。こんな時間に。ホリデイ・インは空港の東側で、西側の渋滞とは無縁のはずだが、交通量が多い。タクシーより、軍用車が。
まさか今日なのか。政変が起こりそうな機運はSNSなどで見ていたが……早朝に空港を目指す渋滞、乗客たち。軍用車。アンキュラからの脱出か。
それから2時間後、機長は高度9,000メートル上空で、ダッソー・ファルコンのコクピットにいた。キャビンは空のまま。
定刻の5時まで待てなかった。軍による空港閉鎖、機体の強制接収。クーデター。
フランクに帰れば家族がいる。マドレーヌお嬢様のわがままより、自分の安全の方が百倍重要なのは、機長にとって当然のことだった。
@今日の朝ごはん!
朝市、大変なことになってるんだけど?!お店ひとつも開いてない。道路に人がたくさん。またみんな虎のお面つけてる。なんなの?
@カリスマタクシー
今朝は仕事にならん。幹線道路全滅。軍隊が交通整理してるんだけど、黄色いスカーフとかリボンとかみんなつけてる。何の意味?
#アナファルタラル大通り#コンヤ通り
@バビュルスNo.99
ちょwwwタラトパシャ大通り信号全部青www初めて見た。あと、交差点に兵隊たくさんいるけど、虎マスク!wwwwww
#バビュール#虎の眼#シムシェキ少佐
@こわれたこはく
6日の時は黄色と赤だったのに今朝はもう黄色一色だね。K.K.もただの流行りだったか。これからはやっぱサフィーエちゃんかな!?
#バビュール#サフィーエちゃん
【08時45分 ニース、モン・ボロン】
ありえない。私の誕生日なのに。
「……マド。仕方ないんだよ。パパも困っているんだ。あの機長……あんな臆病なやつだったとは……」
「パパ。パパのせいじゃないわ。この……虎ネコ?大嫌い。私の誕生日なのに、私より目立って」
ジェイさまのせいでもない。ジェイさまかわいそう。きっと、ジェイさまは私に会いたくて、一生懸命空港に走ったはずだ。早起きして。私のために。なのに、このバカネコのせいで、ダッソーに乗れなかった。
「そうだな。優しい子だ、マド。今日……どうだ、マド。ジェイ君は間に合わないかも知れないが、今日はおまえの最……最高の1日にしよう。デザンジュを予約してある。さあ、出掛ける準備を」
パパ?もう目が潤んでる。親バカなんだから。
「はいパパ。すぐ着替えてきますわ。アンジー!」
アンジェリック・ヴェスパーはマドレーヌに返事をしながら、ガスパールを睨んだ。
この期に及んで、まだこの男は。まあいい。今日は祝福の1日だ。遂に成就するのだから。我々の……あの方の望みが。
マドレーヌは白いリネンのミニドレスにした。
パパが買ってきてくれた、ディオールのディオリヴィエラのカプセルコレクション。南仏リゾート限定の最新作。パパのセンスはともかくとして、大事なのは最新ってこと。まだ私以外、誰も着ていない。今日私は生まれ変わるんだから。少女から……おとな、へ。
「とってもお似合い。ほら、ご覧ください」
アンジーが大きめの鏡を手に持って、姿見の私に、ドレスの大きく開いた背中を見せてくれる。うん、かわいいしセクシー。大人っぽい!ジェイ様に見せたいなぁ。帰ってきたら、特別に見せちゃおうかな?いつもは一度着たドレスはポイだけど。
この刺繍もなかなかかわいいじゃん?ちょうちょ?
マドレーヌは姿見に映る自分の胸に手を置いた。白い刺繍のレリーフの下に、ドキドキする鼓動を感じて。
【同時刻 コンスタンティノープル、アヤソフィア大宮殿ヴェシリア私室】
鏡に映る、白いクレリカルシャツの刺繍の輪郭。十字架の檻。その下に閉じ込められた手術痕を、ヴェシリアは細く鋭い指先でなぞった。今朝も静かな、規則正しいリズムで生きることを強制する、母の心臓。
今日。アンキュラは世界に叫ぶ。自由か、怒りか。シムシェキはおそらく、怒りを叫ぶ。
私にとってアンキュラは、通過点のひとつに過ぎない。彼らにとっては出発点。
ヴェシリアはクローゼットからカソックを選んだ。明るい、オレンジがかった緋色のカソック。金糸の刺繍は、袖口が炎のようなデザインで、燃え上がる怒りをイメージさせる。
私の怒りは、コントロールできている。怒りは私のエネルギー、原動力なのだ。父への怒り。それが今の私の血肉となった。
昨日半日かけて、あの男をテストした。身体能力。精神力。知能。
私が用意した状況下では、怪物には変身しなかった。ヴェシレを車内に引き寄せたあの腕力は驚異的だが、審問会で見せた巨体にはならなかった。TPOはわきまえているらしい。そして、私の急な招待にも応じた。冷静な判断力。物事を俯瞰で見ることが出来る客観性。
そして……愛なのだろうか。
テストは合格だ。Iudicium《最終判定》終了。
Convictio の時だ。
【09時12分 コンスタンティノープル、アウラ・アウグストゥス(迎賓館)、アヤ・スイート】
「スイートルーム?!……2人で?!」
サフィはそう言ったかと思うと、椅子ごと後ろにひっくり返った。
「ええっ!?サフィ!ちょっと!大丈夫?」
ヴィはiVitraで、サフィとビデオチャット中だった。1時間ほど前に頭痛と胸焼けの只中で目を覚まし、自分がいる場所が理解できなかった。
ジェイは姿がなく、キングサイズのベッドの左側はデュべもシーツも乱れている。
またか。フランク領事館のゲストルームを思い出す。まあ今朝は、ジェイの方が先に起きたみたいだし、わたしは――
ベッドから出るためにデュべをめくって、固まった。
は……裸?!
瞬時にデュべを引っ被る。
……どどど、どういうこと?
厳密に言えば全裸ではない。パンツはちゃんと履いてるし、なんかシルクのガウンみたいのも右半分だけ着てる。これを着てると言えるなら、だけど。いつものように右向きで起きたから、たぶんベッドに入った時はちゃんと着てて、寝返りで半分脱げたんだ。でも――
ブラもない。つまり……。
わたし。なにがおきた。なにかされた?どういうこと?!
「――ああ。やっと起きた?」
頭からデュべを被っていたので姿は見えない、見たくない。でもジェイだ。
「服。そこに置いてあるから」
それから、遠ざかる足音、ドアが開いて閉まる音。顔から火が出るというのはこれか。
それからダッシュでシャワーを浴びて、髪を乾かすより先に服を着て。そして、誰かに聞いて欲しくて、サフィにメッセージを送って。サフィは寝てたみたいだけど、快くビデオチャットを繋いでくれて。ここはどこ?と意味不明のわたしの戯言も真剣に聞いてくれて、どこかその辺にパンフレットとかない?と的確なアドバイスもくれて。で、部屋のことを言ったら突然ひっくり返った。もうわけわかんないことだらけ。
「――サフィ!どうしたの?!」
サフィはむくっと起き上がった。
「ご……ごめんちゃい。あまりに……供給が……村が全焼した」
「ええっ?どこの?あなたのふるさとの村が?」
サフィはぼーっとヴィを見て、それからハッとしたように顔つきが変わった。
「あああ、いや、違くて……忘れて。今のは全部」
全部忘れたいのはこっちなんだけど。
「……あの。サフィ?聞いてくれる?その……部屋もすごいかもだけど、もっと信じられないことがあって……」
ヴィが起床時の着衣状況を話すと、サフィはまたぶっ倒れた。
【同時刻 アヤ・スイート、アヤソフィア・ビュー・テラス】
アヤソフィア大聖堂。あの地震以来、来ていない。1500年ぶりか。依代として死んだ場所に再訪したのは、アッカレに続いて2度目だ。
ユリアという名のディアコニッサに転生し、ペラギウスを"狩る"はずだったのに、地震で崩落したドームの下敷きになって死んだ。ひどい失敗だった。
昨夜、ヘリから見たアヤソフィアは、もちろん綺麗に再建されていた。ヘリはアヤソフィアの敷地に隣接したヘリポートに降りた。
ヘリポート。ヘリが着陸体制に入って上空から眼下を見下ろした時、最も衝撃を受けたのは、再建された大宮殿の威容ではなかった。アヤソフィアとそこを隔てている高く分厚い城壁は、あの頃はちゃちな石の垣根だった。ユリアも他のディアコニッサたちも、みんなその石垣根を乗り越えて大聖堂に通っていた……今はコンクリートに塗り固められてしまった、居住区から。
40人以上がここで暮らしていた。食事や洗濯、生活がここにあった。子どものいるディアコニッサもいて、休みの日は、ユリアは子どもたちに囲まれて、束の間幸せだった。子どもたちの笑い声、ディアコニッサたちの笑顔。全て、灰色のコンクリートの下に埋められている。
今は、アヤソフィアにはおそらく地下道か何かで行き来するのか。セキュリティも当時とは変わっているはずだ。人間の門番やごついかんぬきではなく、生体認証や監視カメラ、電子ロック。ヴェシリアに招待されたのでなければ、潜入はほぼ不可能だ。
まだヴェシリアとは会っていない。大聖堂の中にも入っていない。ヘリポートから真っ直ぐこの迎賓館に案内され、今夜はゆっくりお休みくださいと言われて豪華なスイートに直行した。ヴィのためにもそれで良かったが。
ヴィ。さっきの様子……。人間の羞恥心。渇欲。天で生まれた者には存在しない感情。厄介な感情。恥を理解するのが難しい。欲がないのに、乾きを癒すことなどできない。こればかりは何度直面しても、うまく対応できない。マドレーヌに対しても、冷た過ぎたかも知れない。
ヴェシリア。あの女は、他の人間とは違う。迎賓館のこのスイート。あの女がここに決めたに違いない。
アウラ・アウグストゥス。今でこそ最高級リゾートホテルのような美しい建物だが、築かれた当時は監獄だった。百年ほど前、ローマ最後の皇帝のために作られた監獄。このスイートは、帝位を追われた男が権力も自由も奪われ、その象徴だったアヤソフィアを眺めながら死んだ独房だ。手を伸ばせば届きそうな近さで、もう届かない栄光を見せつけられながら死んでいった。真逆だが、"狩り"に似ている。
どうしてか、共感できるものを感じる。それが何なのか。今日これから、彼女と話すことでわかるものなのか。
話してみなければわからない。
【10時39分 ニース、パレ・ド・ラ・メディテラネ】
タクシーが、コングレ通りの角を斜めに、ホテルの正面に滑り込んだ。ドアを開け放ち、マドレーヌが飛び出す。
ライトブロンドの長い髪は、固いが豊かなシニヨンにまとめられ、耳から顎、そして長くほっそりとした首筋があらわだ。そのうなじは大人の艶を香らせ、南仏の日差しに輝いていた。白い蝶の刺繍のミニドレスのまま、そのアンバランスな雰囲気は、まさに少女から大人の女への途上にある瑞々しい若さに弾けていた。
白亜のパルテノン、ガラス張りのアーチ型のエントランス。歴史と現代が融合した壮観なファサード。中央の回転ドアに、ハイアット・リージェンシーのロゴとマークがプライドを主張している。そこに現れた悪戯好きな妖精に、人々は目を奪われた。
パレ!私がおとなになるのにふさわしい場所ね。ここでジェイさまと……パーティーには間に合わないかもだけど、夜には。
たくさんの人。みんなわたしを見てる。もっと見て!子どもの私は、これが最後なんだから!
マドレーヌはミニドレスの裾をひらひらさせながら、回転ドアをもどかしげに抜けると、ホテルに吸い込まれていった。ガスパールが続く。
アンジーはタクシーのトランクから、たくさんのショッパーを両手いっぱいにぶら下げて後を追った。ガスパールが買い与えた、ジュエリーやドレス、ブランドバッグ。
あの方はたぶん、こんなものには興味はないだろう。それとも、必要だろうか?マドレーヌであり続けるために。
アンジーはマドレーヌがエレベーターに乗ったのを見届けると、荷物を預けにフロントに寄った。
「医療機器の搬入は完了しましたか?」
ホテルのフロントマンは怪訝な顔で首を傾げた。
「は?すみません、うちはホテルで――」
「――ヴェスパー様!お待ちしておりました……お嬢様もお着きで?」
奥から、タキシードを隙なく着こなした髭の男が飛び出してきた。パーティーの打ち合わせで応対したレセプション・マネージャーだ。
「ムシュウとマドモアゼルは先にスイートに上がられました。医療機器は?」
「はい、全て抜かりなく準備できております!プールサイドテラスの奥のスイートを、救急医療室としてご用意いたしました。チームもまもなく到着予定で――」
「ありがとうございます。異例のことかとは思いますが、よろしくお願いしますね」
「はい!なにしろアンキュラが大変なことに――」
アンジーにとって、アンキュラやローマがどうなろうと知ったことではなかった。医療チームさえ完備できたのなら、それでいい。事が起きてからSAMUを呼んでいたのでは、確実性に欠ける。
「マドモアゼルにとって、生涯最高のパーティーとなって欲しいのです。アクシデントがあってはならない」
「もちろんでございます!当ホテル一同、精一杯――」
アンジーは会釈すると、マドレーヌの待つスイートに向かうため、エレベーターに乗った。次は歯医者か。
プールサイドテラスでは、既にオードブルなどが並び始めていた。準備は順調に進んでいる。
「あーっ!アンジー!」
マドレーヌが駆け寄ってきた。
「ねぇ〜、歯、絶対やらなきゃダメ?」
「ダメです。お嬢様、今日はこれから、たくさんのゲストがいらっしゃるんですよ?きちんと――」
「もぉ〜。わかってるけどぉ。痛い?」
アンジーは口元を緩めた。
「そのくらい、大人なら我慢できます。歯を美しく魅せるのはレディなら当然ですよ?との……ジェイ様に嫌われてもいいのですか?」「ずる〜い。わかった。やってくる」
マドレーヌが嫌がったのは、歯の審美スクリーニングだ。今日のようなパーティーの主役を務める女性なら、誰でもやっていること。そしてアンジーにとっては、非常に重要なことだった。マドレーヌについて、奥のスイートに入る。レセプション・マネージャーの言った通り、既にバイタルモニターなどが運び込まれ、設置されていた。今は、歯科医と歯科衛生士が準備している。
「よろしくお願いします」
アンジーは歯科医に深々と頭を下げた。
これまでアンジーは、マドレーヌの身体に傷をつけない、そのことに全精力を注いできた。もちろん100%は不可能だ。ましてマドレーヌのような子どもなら。だがその心労も、この時までだ。
やっと終わる。
マドレーヌが18歳になる時間まで、あと4時間36分だった。




