16 髭と湯気と蜥蜴
【8月18日14時48分 アナドル高速道、クズルジャ・インター】
一路、コンスタンティノープルへ。
そのはずだった。
テシスレリを出てすぐに、工事による車線・速度規制があった。60キロ規制。ヴィは素直にスロットルを離した。規制区間は短く、再び加速する。
ヴィは異変を感じた。
加速が僅かに遅れた気がする。タイムラグがあった。特に理由もなく、セレクトレバーに手を乗せる。
やばいかも。グニャっという感触。レバーが完全には固定されてない。
「……ジェイ。変だわ。壊れたかも」
ジェイはヴィを見た。横顔が強張っている。
「……ミッション?ついにか……降りよう。まだ間に合う」
ついに?予感があったんならすぐ治しなさいよ!まったく……あ、でも最近乗ってたのはわたしか。車検とったばかりだから油断してたかも?あのフランクのメカニック……そういえば。
『何の整備をしていたの』
『Le contrôle.車検を取れって。もうおおかた終わってる』
『ATフルードがなかったぞ?もうちょい走ってたらブッ壊れてたな』
そして、ギギっていつもの音がした時。あのおじさんは、首をすくめてた。そういうことか。
ヴィはウインカーを上げ、すぐに現れた高速出口を降りた。クズルジャ・インター、アヤソフィアまで、406キロ。
【14時53分 アヤソフィア地下4階、タリーム道場】
ヴェシリアは祭壇の前に立っていた。白いクレリカルシャツ姿のまま、靴だけ脱いで。両脚を肩幅に開き、膝の力を抜く。息を4秒吸い、8秒かけて吐き出す――身体の重心が下がる。
怒り。憤怒。鎮めろ。感情など不要。特に怒りは……視界を曇らせ、自滅へと導く、最も忌避すべき感情。
「私は……制御、する……己を……見つめる」
自問する。
怪物は……邪魔ものは、コンシリウムを破壊したか?否。遅らせているか?否。
16年の間考え抜いたコンシリウム。24年前からの想いを込めて。
「私……は……コンシリウムを……邪魔されて……正当な怒りを……感じている……だが……この感情に流されては……コンシリウムを……さらに汚すだけ……私は……あえて、怒りを鎮める……コンシリウムを……完遂するために」
感情を、冷やすのだ。イメージ。流水……冷水……氷。凍る……感情が凍てついていく……氷の湖……青い
『ヴェシリア』
青い瞳
『お前は母さんを』
湖面に走るひび
『殺した』
「違う!」
青く凍った湖が割れる。凄まじい轟音。吹き出す湖水がすぐに凍って、氷山のように
「……ち……が……う…………」
ヴェシリアは激しく呼吸する。鼓動が胸を叩く。母さん。母さんが、私の胸を、傷口を、中から、奥から、叩き割ろうと
手を胸に置く。鎮まれ。静まるのだ……私の。私の怪物。
呼吸が整う。祭壇に近づき、カタナを掴む。
血の色。私の、母さんの血の色。血の色の鞘。柄。刀刃を抜き、その疾走する獅子のたてがみの如き小乱れの流れを見つめる。
振り向く。中段の構え。正眼……青眼。
怪物。私の中のでもない。あの翼の怪物でもない。
怪物。
青い眼の、怪物。
瞼を閉じる。その姿。忌まわしく、そして今や、醜く老いた青い眼の怪物。
父。インノケンティウス。
ヴェシリアは切先をその青い眼に向け、右足を踏み込み――左足を蹴った。全身全霊の突き。青い眼を突き貫く。
鼓動が消えた。母の鼓動が、静かに。
コンシリウム。コンシリウムを、変更する。
【15時04分 アナドル高原、カフラマンカザン】
「信じられない!奇跡ね!」
ヴィが歓声をあげた。高速を降り、だましだまし低速でロルフを走らせて、ジェイがインウェニ・ハリタで見つけたこの大きな自動車ディーラーにたどり着いたのだが、ヴィが喜んだのはたどり着いたことではなかった。
Voiture du Peuple、通称VdP。ロルフのメーカーの正規ディーラー。サービス工場もとても大きい。
「奇跡なんてない」
ジェイは醒めていた。そしてジェイが正解だった。
「お客様。申し訳ありませんが、こちらのお車は……その、古過ぎて。うちでは修理は――」
「そんな。ちょっと見ていただくだけでも、ダメですか?ほら、すぐ直るかもだし――」
「おいねえちゃん」
サービスカウンターに向かって訴えていたヴィの背中に、野太い声がかかった。
ねえちゃん?キッとして振り向く。
髭面の中年の男。ツナギを着ているからメカニックなんだろうけど、そのツナギが汚れ過ぎだ。
ヴィは無視して再びカウンターに懇願しようとした。だが後ろでジェイの声。
「ほんとに?それはすごい!」
「おう。ついてきな」
どこへ?また勝手に……。
振り向くともう姿が見えない。2人とも。
ヴィは慌ててカウンターの女性に礼を言うと、ジェイを探してキョロキョロした。
いた。外でさっきの髭面男と話してる。髭面男がロルフに乗ろうとしている。
「ちょっと!」
シートが。わたしが座るシート。
走って外に出た。
「よおねえちゃん。こりゃアレだ、アレがいってんな。とっかえりゃいい。ウチにある」
「……治る、という意味ですか?それは嬉しいんですけど、うち、とは?」
「あ?ウチはウチだバーカ」
なにこいつ。
「すぐ隣だ。こいつを押せ」
……押せ?意味がわからない。だがすぐわかった。ジェイがロルフを後ろから押し始めたから。
髭面男は巨漢で、見た感じ100キロ以上。3人の中で一番重そう。その巨漢が運転席に座り、ジェイとわたしがロルフを押す……いいけど。いいんだけど。
「はっはっー!ほらもっと速く!」
髭面男は隣と言ったが、VdPの敷地はバカみたいに広い。しかも途中から、ほんの少しだけ登り勾配……ジェイが隣で、顔を歪ませながら全力でロルフを押す。わたしも仕方なく歯を食いしばる。なんでこんなことに。
ずぼっと、ソフトトップの裂け目から、アリーが顔を突き出した。銀色の瞳でわたしを見つめてからちょこっと首を傾げて何か言うと、引っ込んだ。
ばかにされてるとしか思えなかった。
「おら押せ!もうちょい!タマついてんのか!」
……こいつ。殺したい。
必死でロルフを押した。わたしもジェイも汗だく。濡れた髪が顔にうるさい。かき上げたいけど手を離したらジェイが潰されそう。アスラン道は筋力は重要じゃないから、わたしはか弱いんですけど――
スッと、楽になった。坂を登り切り、逆に下りになったのだ。ロルフが自重でスルスルと動き出す。
「よーし!ご苦労!」
髭面男は器用にステアリングを動かし、一発で狭いガレージにロルフを入れた。地下ピットの真上に、ピタリと停める。
ドアがゆっくり開く。狭くて横の機械にぶつかりそうだが、ごつい手がドアをガードしてる。下品で粗野で口は悪いけど、プロだ。いい仕事を――
「なんだ汗だくじゃねえか!エロいぜねえちゃん!」
ヴィはなんとか暴力を思いとどまり、膝に手をつき前屈みで髪をかき上げ、髭面男を睨むだけにした。息が切れた。
「いいねえ!さて……直しといてやるから、おまえらは風呂でも入ってこいや。すぐ裏にいいテルマエがあるからよ。くせえし、オレの仕事場を汗まみれにされたくねえからな」
ジェイが顔を上げた。笑顔で。
「風呂?タダ?」
……こいつだけは殴る。後で。
髭のメカニックが言った「すぐ裏」は、歩いて10分くらいの町外れにあった。道路は行き止まり。周りには何もない。走っていたはずだった高速が見える。それ以外は殺風景な荒地。
ジェイたちがたどり着いたのは、全体が長距離トラックのサービスステーションとなっているカフラマンカザンという小さな町だった。
大型トラックやトレーラーが溢れる機械の町。そこからぽつんと離れて、機能以外の一切が考慮されていない町の建物とは全く趣を異にする、古い石造りのテルマエがある。ここだけ、2000年前にタイムスリップしたかのような風景。ジェイには懐かしかった。
全く戸惑うことなく中に入っていくジェイの後を、ヴィが追いかける。
「待ってよ、もう。あなたここ知ってるの?」
「ん?初めて来たけど。テルマエは昔から知ってる。久しぶりだ」
昔。久しぶり。どのくらい昔?
「――最後に入ったのは……ポンペイだったかな」
……ポンペイって、あのポンペイ?昔過ぎ。深くつっこんでも無駄な気がする。
中には誰もいない。いきなりタオルが置かれた脱衣所があって、その奥から湯気と熱気。外に別の、女性用入り口があるのかな。
ヴィは一旦外に出て、建物の周りを一周した。|"Ahenum"《ボイラー室》と|"Posticum"《勝手口》はあったが、やっぱり玄関はひとつだ。
まさか……混浴ってこと?
「入らないの?」
玄関からジェイが顔を出した。もう……ぜ、全裸?アスラン道で鍛錬した反射神経で瞬時に半転する。
「わッ……わたしは、後で、いいから」
トラックが一台、近くまで来て止まった。ウインドウが降りる
「あー今からですか?じゃあ俺たちはここで待ちますね。お先にどうぞ!」
助手席から男が言った。
まずい。やっぱり混浴だ。あの人たちを待たせるのは申し訳ない……そうよ。申し訳ないわ。だから、今……ジェイと、い、一緒に、お風呂入らないと、ダメよね?
ヴィは意を決して、脱衣所に入った。
黒いパンツスーツを脱ぐ。下着も。お風呂に入るんだから仕方ない。当然よ。タオル……薄い。透けそう……ゴワゴワしてるし。もちろん綺麗だけど。2枚重ねて……はダメよね?仕方ない。これしかないんだから。そう、仕方ない。
恐る恐る、奥の湯気の中へ進む。
こんだけ湯気があれば、見えない。良かった――
「なんだ。来たの?」
目の前にいるんですけど。腰には、タオル巻いてるけど。
可能な限り距離を置いて、腰掛ける。といっても狭いので、湯気を通してもはっきりと、ジェイの身体と顔が見えた。顔を伏せる。でも、なぜか上目使いで見てしまう。
ジェイはわたしのことなんか全く気にもせず、両腕も両脚も大きく横に広げて、頭を壁に倒して目を閉じてる。気持ちよさそうに。
ばか男。わたしもばか。ばからしくなってきた。
浴場といっても、湯舟はない。大理石に囲まれた狭い部屋。壁に括り付けの腰掛けベンチ。床の真ん中から立ち登る蒸気。それだけ。
いえ……それだけじゃなくて。
髪をかき上げて汗を拭う。確かに、気持ちいいかも。肌から、汗になって全部流れてく。サウナね、これ。
なんでだろう。さっきまであんなに恥ずかしかったのに。もう気にならなくなった。
す……いえ、ただの無神経ばか男と、2人きりで、裸でいるのに。不思議だ。
「カフラマン」
……え?
「カフラマンカザン。この町の名前。あの運転手も、カフラマンだったな」
フラッシュバック。
白いパネル。ディーゼルエンジンの音。ブレーキランプ。クラクション。|Stabat Mater《悲しみの聖母》。熱い太陽。光。腕時計。
螺旋階段。虹色の煌めき。腕時計。
『やあ、ヴィ』
優しい声。大きくて丸い、黒い瞳。
お父様。
カフラマン。顔は見たことない。名前だけ。あのトラックの運転手。お父様を故意に轢き殺した。ぶつかり、一度停まって、急発進して、加速して、走り去った。
お父様の背中を踏み潰して、乗り越えて。わたしの目の前で。
あれ以来かつてないほど鮮明に、あの瞬間の光景が、湯気に映し出された。
なんでだろう。もう、怖くない。悲しいけど、怖くはない。
湯気がたゆたい、その向こうにジェイの、黒曜石の瞳があった。ただ黒く、少しだけ白く光ってる。
「……黒い薔薇」
声が出た。
「まだ聞いてなかったわ。黒い薔薇のこと」
「……あれか。大した意味はないよ。ごめん」
「いいけど」
「……メメント・モリ」
「え?」
「忘れないで欲しかった。お父さんを。死を」
「……死を?」
「お父さんは……神父。ただの神父。おれみたいな力もない。なのに、1人で。たった1人で。すごい勇気だ。すごい人だ。死んで忘れられるのは惜しい」
……なんだこいつ。そんなこと。わかってるから。ばか。ばか男。でも。
「うん。忘れない。だからか……わかった。……ありがと」
ヴィは腰をあげ、浴室を出た。出口で、振り返らず言った。
「すぐこないでよ。服着るまでそこにいなさい」
返事を待たずに、ヴィは浴室を出た。
「スッキリした顔しやがって、2人とも。狭くなかったか?」
髭面下品男がウエスでオイル塗れの手を拭きながら、ニヤニヤしてる。そのウエスで口も拭けば?
「いいねぇ若いのは。だがこいつはもう年だ」
髭面男はウエスで、口ではなくロルフのフェンダーの汚れを拭った。
「――俺もこいつと同じやつに乗ってたんだよ。若い頃な。カブリオレ。いい車だった……」
遠い目。
「――金はいらねえ。俺からのお祝いだ。大事にしてやれ。こいつも、相方もな。幸せになりな!」
……なにか勘違いしている男を後に、ロルフは再び走り出した。
【15時40分 カフラマンカザン〜カララル上空】
アリーは、ロルフが修理に入りジェイたちがテルマエに行く時に、ソフトトップから飛び出した。お腹がすいたから。
飛行機で生ハムを食べたけど、そのあとずっとロルフで走ってたからお昼ご飯を食べてない。ロルフが速く走っていると、飛び出すのは簡単だけど追いつけなくなる。だから今のうちだ。修理とお風呂。1時間くらい?文字通り羽を伸ばそう。アリーはアンキュラ郊外、ミュルデド平原の広大な空に舞い上がった。
都会と違って、町の灰色は少ししかない。平原から山に向かって、やはり灰色の"速い道路"が真っ直ぐ走り、山の方では少しうねうねしてる。町はつまらない。山に行ってみよう。トカゲやノネズミがいるかもしれない。
アリーはまっすぐ、"速い道路"の上を飛んだ。車はあまりいない。でも山に近づくにつれ、だんだん増えてくる。大きい車。トラックとか。だんだんスピードが遅くなってる。
ひとつ目の山を越える辺り。後でジェイに教えなきゃ。工事中。速くない。"速い道路"なのに。工事の大きな車。機械の首。黒い車。たくさん。
アリーは高度を下げ、"速い道路"の脇の、太い木の枝に降りた。
索敵。地上に、鮮やかなエメラルドグリーンの宝石を見つけた。ミドリカナヘビ。アリーの翼長の半分くらいの大物だ。とても敏捷で、手強い獲物。
アリーの、野生の捕食者としての本能が、倒しがいのある強敵の出現に研ぎ澄まされる。
冷徹な捕食者の銀の瞳が、トカゲの行動を数秒、観察する。木の根元の陽だまりで、獲物は動きを止めた。行動予測、襲撃プラン確定。
ふわっと枝を離れ、無音で自由落下。鋭利な鉤爪が、トカゲの背中を正確に捕らえた。
死の一撃。ハンマーのように、嘴を輝石のような首筋に振りおろす。
アリーは太い木の根元で、食事を始めた。
"速い道路"で、人間たちが歩き、話している。
「――急げ――」
「――そうだ。そこから――」
「――ぶつけてもいい――」
「――閣下の命令――」
ジェイに教えなきゃ。"みはり"がいる。
ロクツィオ。ここからでも届くか。
アリーはトカゲをついばみながら、ロクツィオでジェイを探した。
アリーは天才だった――烏としては。
獲物を解体しながらロクツィオを使うと、烏の小さな脳容量の情報処理能力のほとんどを占有される。そのため、その他の神経活動がおろそかになる。ジェイがアリーの映像を見ながらだと運転できないのと同じに。
だから、アリーは気づくことが出来なかった。
背後の風が遮られたこと、草を踏む微かな音、そして息を殺して近づく影に。




