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15 譲らない

【8月18日09時53分 ニース、コート・ダジュール空港】

「ジェイさま!もうひとつだけ!お願いを聞いて!」

 ダッソー・ファルコンのAPU(補助動力)の甲高い金属音に負けないよう、マドレーヌは叫んだ。

「絶対!明日!帰ってきて!」

 潮風がライトブロンドをなびかせ、マドレーヌの泣き顔を隠す。髪を押さえ、陽炎に揺られながら、マドレーヌは絶叫した。

()()()()()()!」

 

 ジェイはタラップの途中で立ち止まり、振り返ってマドレーヌを見た。そして微笑み、小さく頷くと、またタラップを登っていく。今回はケージを断固として拒否したアリーが、先にキャビンに飛び込んだ。


 私、世界一幸せなの。あなたがいてくれて。

 ジェイさまは頷いた。約束。必ず帰るって。

 私のジェイさま。私はあなたのもの。あなたは私のもの。

 あなたの腕。あなたの胸。あなたの翼。全部私のもの。

 私の唇。私の身体。私の心。全部あなたのもの。私たちはひとつ。

 

 明日。18歳になって、パーティーが最高潮を迎えたその瞬間に、あなたは私の横で、一番最初におめでとうって言う。私はあなたに抱きつく。そしてキスしてくれて、それから、私たちは誓う。世界に。愛を。

 

「――愛してる!」

 マドレーヌはキャビンの中に消えていくジェイの背中に叫んだ。

 ガシャン。ドアが閉まる金属の響きが、それをかき消した。


 マドレーヌの青みがかった緑色の瞳には、その光景が焼き付けられた。

 アルパイン・ブルーのダッソーの機体が、どこまでも青い空に溶け込み、降り注ぐ南仏の陽光を反射する。ハレーションに輝いて、タラップの上から振り返って見下ろす黒髪、頷く顔、かすかな微笑み、黒曜石の瞳。

 マドレーヌの心にそれは、強く深く、そして鮮やかに焼き付けられた。


 一生のお願い。

 マドレーヌ・ド・ガスパールという少女の、全てを賭けた願い。


 明日になれば、またジェイさまに会える。必ず、私のために戻ってきてくれる。絶対。約束したんだから。

 もう泣かない。悲しくなんかないから。

 明日は泣く。嬉しいから。

 私はジェイさまとひとつになる。

 

 私たちは結婚するんだ。



【10時50分 コンスタンティノープル、アヤソフィア首席審問卿執務室】

 冷たく白いLEDの光。一切の装飾を廃した無機質な部屋の壁を切り裂く、生傷のような真紅のカソック(法衣)。モニターの四分割マルチビューを眺める暗褐色の瞳。

 

 左上の、ダッソー・ファルコンのキャビンの監視カメラ。数時間前までのガスパールのだらしない寝姿に代わり、今はあの男が映っている。

 怪物。黒い翼を持ち、羽毛に覆われた下半身、大理石に喰い込む鉤爪。500キロの照明ユニットを支え、跳ね飛ばす、剛毅な筋肉の巨大な塊。

 今はただの男だ。膝にペットの小さな烏を乗せ、物憂げに空を眺めている、ただの中年の男。エセンボア空港に降り立つのは14時頃か。それまでは監視に値しない。


 ヴェシリアはダッソーの映像を切り替えた。青い空。古色の壁、柱。二千年の風雨に曝され、黄褐色に汚れた大理石。

 アンキュラ、アウグストゥス神殿。

 

 初代ローマ皇帝アウグストゥスの碑文が刻まれた、薄汚れた廃墟のような石壁の許で、4人の男が動き回っている。壁から少し離れてiPada(タブレット)iPorta(スマートフォン)を持ち、さらにiVitra(スマートグラス)を装着して忙しくしているのは、パヴル・エルギュンだ。

 

 明日、アウグストゥスの記念日に、ここでズィヤ・シムシェキにスピーチさせるのだろう。そのスピーチを革命宣言として全世界に拡散する。それを最高の形に演出し、配信する。それが、エルギュンの役目のひとつだ。ヴェシリアが与えた役目。本人たちは気づいてもいないが。

 プロジェクション・マッピング。悪くない。スピーチの内容よりも、こうした演出の方が効果は絶大だ。

 

 エルギュンにはこれ以外にも重要な役割がある。ヴェシリアは右上の映像に視線を移した。

 ダークモードのようなローマ全土の地図。無数の光のラインが縦横無尽に走っている。ネットワーク・トポロジー(通信網)。アンキュラから膨大なパケットが送信されている様子が、小さな輝点の動きで可視化されている。コンスタンティノープルやスヴェイシュ、それぞれの到達先がグリーンに変わる。ネット世界の時限爆弾。エルギュンがネットを支配するためのバックドアが、次々とセットされていく。


 ヴェシリアの口角が僅かに上がった。エルギュンは想定以上に優秀だ。

 コンシリウム(計画)テルティア・ファシス(第三段階)は、順調に進行中。



【11時25分 アンキュラ、イブン・シーナ病院一般病室】

 3つのベッドに、VVちゃんとアイシェさん、デフネさん。この病室の担当はあたしに一任された。革命騒ぎが終わるまで、あたしは特別勤務。


 んー。ほんとは特別勤務はあんま気乗りしない。患者さんは他にもたくさんいるし、もっと心配な病状や、気にかけてあげなきゃなんない人も多い。この3人はぶっちゃけ、ただ気絶してただけだかんね。でもまあ、しゃあないか。パブちゃんとズィヤさんの頼みだし。


「サフィ……ごめんね。なんか邪魔でしょ。わたしたち」

 げ。ドクシンジュツ?真ん中のベッドで、VVちゃんが情けなさそうな顔してる。アイシェさんも。デフネさんはぼーっと窓の外を見てる。

「まーた。そんなん言われたら看護師失格じゃんあたし。全然気にしなくておk。アイシェさんも、ね?」

 VVちゃんは今すぐでも退院できる。アイシェさんは……精神科かな。認知症ケアしなきゃ……。ご家族もいないから、大変なのはこれからだ。でもうちの病院ならだいじょぶそ、かな。

 問題はデフネさん。中毒症状は一番軽いけど、普通ならタイホだよね。まあ今は警察もそれどころじゃないから、あたしたちが言わなきゃなにもなしだけど。どうしたらいいんだろ。


 サフィは思案した。コンマ数秒だけ。そして電光石火で答えを出した。

 今は看護師としての職務に徹する。警察だのなんだの、めんどくさ。



【11時55分 アヤソフィア首席審問卿執務室】

 ヴェシリアの四分割マルチビューの左下は、アンキュラ東部のママク、ローマ軍第4軍団(アンキュラ方面軍)司令部司令室の監視カメラだった。

 シムシェキは中央の司令席を立ち上がったところだ。昼食に行くために。


 自信に満ち溢れ、余裕ある笑顔。

 シムシェキによる第4軍団の掌握は完全に終了した。この短期間で、一滴の血も流さずに。素晴らしいカリスマ。

 アンキュラは明日、シムシェキに拝礼する。エルギュンに鼓舞されて、スヴェイシュでも他の都市でも同じことが起こる。

 そしてここ(アヤソフィア)へやってくる。


 ヴェシリアは右下の映像を、全画面に拡大した。

「順調ですわ。あなたの方は?」

「は、閣下。ご指示通りの通達は完了いたしました。周知徹底しております」

 ギュネルが無表情に応える。

「明日、我々アンキュラ支局は、シムシェキ一派がアナファルタラル警察署に入り次第包囲。シムシェキが出てきたら軽度に抵抗したあと撤収。敗北を装います」

「よろしい。撤収したら支局員全員でこちらにいらっしゃいな。ご褒美をあげますわ」

「……全員、で。支局は――」

「前にもお話しましたわね?支局はおろか――」

 ヴェシリアは目を細めた。

「――特別使徒保安庁は、26日をもって解散。よろしくて?」

「承知いたしました。私は――」

「あら心配?それには及びませんわ。あなたはよくやってくれました。事後も相応の処遇をいたしますから、どうぞお楽しみに」

 強制終了。

 ギュネルは心配ない。最後まで、役目を全うする。


 コンシリウムの進捗は完璧だ。あの2人――妹と、怪物を除けば。


 コジャテペで現れた怪物。あの時、コンシリウムは瓦解しかけた。私が、妹への情に流されたがために。

 

 いや……そうではない。

 アイシェ・デミル()を配置することでヴェシレは排除できた。審問会は台本通りに進んでいた。

 |ダウェル・ユルトゥエル《声》の暗殺銃に関する証言でズィヤ・シムシェキを窮地に追い込み、そこでマスコミ(目と耳)が騒ぎを起こし取り囲み、シムシェキをマスコミ()で隠して脱走させ、ガスパールに動員させたK.K.信徒たちを加えた大群衆の眼前に導く。受難を乗り越えた英雄として。

 そうなるはずだった。

 

 ユルトゥエルの自爆。想定外のアクシデント。

 あの爆発でエルギュンを失わずに済んだのは幸運だったという他ない。怪物がエルギュンを護り、その怪物を背負って血に塗れたシムシェキの姿は想定以上の劇的な演出効果を生んだ。英雄どころか救世主とまで言われている。

 コンシリウム、セクンダ・ファシス(第二段階)は結果的に目的を完遂した。怪物のおかげで。

 あの時は。



【14時01分 アンキュラ、エセンボア空港】

 フライトは順調だった。ダッソー・ファルコンは定刻通りエセンボア空港のプライベート・ジェット専用のGAエプロンに駐機した。エンジン音が低くなり、すぐに消えた。

 

 コクピットから機長が顔を出す。

「着きました。定刻通り」

「ありがとう。快適でした」

 ジェイは軽く会釈し、座席を立った。

「お待ちを。マドレーヌ様からのご指示があります。えー……」

 機長はiPortaをタップし、メッセージを読み上げる。

「アンキュラ滞在はひと晩のみ。明日早朝5時離陸、またコート・ダ・ジュールへ……()()、だそうです。よろしいですね?」

 フッと、鼻で笑う。それを機長は、了解と解釈した。

「もうひとつ。……ヴィヴィ様と一緒に、とのことです。お迎えにいらしてます」

 機長は言いながら、背後のレバーを操作した。ドアが開き、アンキュラの乾いた空気が入ってくる。タラップが降りる。

 ロルフがあった。紺色の。真っ赤なソフトトップの。


 アリーがジェイを追い越して飛び出し、真っ直ぐロルフのソフトトップに突撃した。領事館でジェイがカッターで切り裂いた、アリー専用エプロンめがけて。

 ヴィが立っていた。ロルフのボディに腰をあずけて。

 組んでいた腕をほどき、黒いサングラスを外す。風に乱れるダークブラウンの髪をかきあげながら。



 まったく。わざわざこのわたしがお迎えに来てやったというのに、こいつと来たら。「ただいま」とか、「大丈夫だった?」とか、言うことあるでしょうに。ムカつく。

せめて、「やあ」くらい言えないのか。


 病院で、お昼を食べ終わった直後だった。サフィがフランク領事館からのメッセージを持ってきた。

 ジェイをエセンボア空港まで迎えに行け。ロルフは登録済み。14時着。

 ばかじゃないの?わたしは入院して――

「行くしかないじゃんVVちゃん!はい退院。邪魔だから。早く行けー!」

 サフィが言った。ニヤニヤしながら。ムカつく。

 

 追い出されるなら仕方ない。そうよ、これは仕方なくよ。そうだ、入院しちゃったから、お世話になったお医者様に挨拶してからじゃないと。すっぴんは失礼よね?お医者様に挨拶するんだから。そのため。ええ、そのために、サフィに頼んでまたメイクもしてもらわなくちゃ。

 サフィは大はしゃぎ。ムカつく。この前より塗り過ぎじゃない?大丈夫?

「カンペキ!ぶちかませ!VVちゃん!」

 ……ぶちかませ?なにを。

 

 それから領事館に寄って、IDやらロルフの空港パスのステッカーやらもらって、オザル街道を110キロ、制限速度はちゃんと守って、でも今まで出したことないスピードでぶっ飛ばしてきたんだから。なにかひと言くらい言いなさいよ。ムカつく。

「派手だね。メイク」


 ヴィはブチ切れた。スロットルに八つ当たりし、ロルフは140キロでオザル街道を爆走した。

「飛ばすね」

 誰のせい!横目でちらっとジェイを見る。アリーを膝に乗せて、iPortaを見てる。本当にムカつく。なんでわたしはこんな……こんなやつと一緒にいるの?わけわかんない――

「もうすぐジャンクションがある。そこを右。高速に乗ろう」

「……は?なにいってるの?遠回り――」

 だがもうジャンクションはすぐだった。ヴィはとりあえずウインカーを出し、右車線に入る。考えるヒマがない。高速のゲートでフラッシュが光った。HGS(自動料金システム)だ。

「……後で請求くるんだから。あなた払いなさいよ!」

 ジェイは返事をせず、iPortaを見続けている。ヴィは制限速度の130キロを超えないように、少しスロットルを緩めた。10%超過までなら捕まらないのは知っていたが、ヴィは常に安全運転を心掛けている。さっきは思わずキレたが。

「……なんか言ってよ。なんでこっち?」

「今説明しても大丈夫?運転中に。危なくない?」


 ムカつくことしか言えないのか。

「いいから!早く言え!」

「……アンキュラにはもう行かない。コンスタンティノープルへ行く」



【同時刻 コンスタンティノープル、アヤソフィア首席審問卿執務室】

 軽いランチを済ませ、タリーム(修練)を行い、14時からはまたモニターに向かい、ヴェシリアは左上の映像を切り替えた。エセンボア空港、GAエプロンの監視カメラ。

 ガスパールのダッソー・ファルコンが駐機し、ドアが開いて、あの男がタラップを降りてくる。その先で迎えるのは——

 (ヴェシレ)。おまえが怪物を迎えに。

 ロルフ。あの車は古過ぎてITデバイスがない。だがこういうこともあろうかと、GPSタグが忍ばせてある。


 右下にアンキュラ一帯の地図を表示し、GPS位置モニターを開く。キーボードを叩き、ロルフのGPSのみ検索。地図に青い三角が現れる。すぐに動き出し、D-140(オザル街道)を南下し始めた。アンキュラには20数分で着く。


 昨夜の教会での一幕は、監視カメラで見ていた。あの教会にはもう20年近く前から複数のカメラがある。あの子を監視し、何かあれば保護できるように。保安庁に入ってから引き継いだそれは、父が設置したものだった。


「お前のためだからな?ヴェシリア」

 氷のような青い瞳が、私を捕捉する。

「お前の身体に何かあったら、この子が助けてくれる。大切なスペアだ。だがこの子が怪我や病気をしたら、スペアとして役に立たなくなるからな。だからこうやって監視しているのだ」

 

 違う。ヴェシレ()だって1人の人間だ。私のために生きているわけじゃない。

「……父さん。ヴェシレがケガや病気をしたら、私の身体を――」

 青い氷が軋む。

「馬鹿を言うな、ヴェシリア。お前の罪を忘れたのか。お前は生きなければならないのだ。生きて償わなければならないのだぞ」

「そんなの!そんなの変です、父さん!私、やっと気づいて――」

「ヴェシリア」

 青い、冷たい氷。吸い込まれる。私の瞳。心まで。心まで凍りつき、動けない。

「お前の身体はお前だけのものではない。そのことを忘れるな。償いができなくなるぞ?母さんを殺したことを忘れるな」


 母さん。

 胸に手を置く。母さんの鼓動。私のものではない、鼓動。母さんの、愛。

 父さんが、愛を呪いに変えた。


 視界がモニターの変化を捉えた。GPSの青い三角が、想定ルートを外れて西へ。


 アンキュラ環状線。アンキュラの外周を走る高速道路。そのまま進めば、その先は――


 ここコンスタンティノープルか。



【14時33分 アナドル高速道、ススズ・ジャンクション】

「――つまり、その2人を"狩り"に行くのね」

 教皇インノケンティウス14世と、首席審問卿ヴェシリア・セレン。ローマのツートップ。ローマどころか、カトリックという世界宗教を支配してると言っても過言じゃない。その2人がジェイの最終ターゲット。エキンジに見せたような、人間が狂ってしまう、壊れてしまう地獄を、世界の頂点に立つ2人に見せに行く。壊しに行く。

 

 教皇はともかく、ヴェシリア・セレン。コジャテペで見たひとだ。あの時、ジェイがなぜ"知っていた"のかわかった。そのためにこの人は地上に……やってきた。

 その2人が最後。少なくともあと2回、ジェイは心臓のことなどおかまいなしに、翼を出したり、バケモノになったり、ロクツィオ(地獄)を見せたりする。心臓も……わたしのことも、おかまいなしに。


 前方に看板が見えた。ススズ・ジャンクション。先を走る車はない。このまま走り続けたら、もう2度と……帰ることはできない。ジェイは死んでしまう。


「あと15分くらい走ると、休憩できる場所がある。そこで一度止まろう」

 ジェイは相変わらずiPortaを見ている。たぶんインウェニ・ハリタ(Googleマップ)かなにかを見てるんだろう。ロルフにはナビがない。

 一度止まろう?考え直すためじゃない。この人は躊躇なんかしてない。わたしのためだ。わたしを降ろそうという気か。

「わかった」


 速度を落とし、ジャンクションの緩やかなカーブを曲がった。

 ヴィはスロットル・ペダルを踏みつけた。

 強く。



【同時刻 アヤソフィア首席審問卿執務室】

 ヴェシリアは拳をデスクに叩きつけた。

 激しく。

 キーボードが跳ね、モニターが僅かに揺れた。

 

 曲がった。北へ。アンキュラを出て、コンスタンティノープルへ。


 鼓動がうるさい。ここ数年、聞いたことがないほどに。怒り。憤怒。激情。母の悲鳴。


 なぜ……なぜ、私の思い通りにならない。私のコンシリウムの……邪魔を。それも、ヴェシレ()とともに。

 怪物め。ジェイ・ロルト。許さない。私の……16年……いや、24年間の……歳月と、想いを……邪魔する、と。そんなことは……。


 ()()()()()()()



【14時47分 アナドル高速道、アクンジュ・テシスレリ】

 ヴィはテシスレリ(サービスエリア)に入ると、まずガソリンスタンドにロルフを停めた。エンジンを切る。一瞬の静寂は、すぐに店員の声に邪魔される。

「いらっしゃい」

 シートベルトを外し、ウインドウを開けながら、給油口を開けるレバーを押す。

「満タンお願いします」

 店員が笑顔を見せ、給油機を操作しに行く。

 

「わたしを置いて行く気なら、無理よ」

 ヴィはキーを抜き、握りしめた。

「わたし、わかったの。昨夜。死は解放じゃないって。あなたにとってはそうかも知れないけど」

 ガチャガチャと、店員が給油口にノズルを差し込む。ポンプの音が大きくなり、ロルフにガソリンを注ぎ込む。

「いい。わたしはあなたを、その身体に……閉じ込める。逃がさない。覚えてる?アッカレ」


 太陽はまだ高く、真上から照りつけていた。ヴィの瞳は黒いサングラスに隠れている。

 ジェイは頷いた。

「アッカレで、わたし言ったわ。あなたを信じるって。でもそれだけじゃ嫌。わたしはあなたの隣を歩く。そして目の前で誰かを助けなきゃいけなくなったら、わたしが助ける。あなたより先に。わたしの方が速いんだから」

 カタッと音がして、ポンプが止まった。店員はノズルを抜くと給油口を閉め、ノズルをラックに戻した。

 ヴィはロルフを降り、レシートを受け取って支払いをしに行った。


  

 ジェイは、ヴィが一方的に叩きつけた言葉を頭の中で反芻した。

 この身体に……依代に、閉じ込める。逃がさない。おれの隣を歩き、おれより速く動く。

 彼女なら可能だろう。やるだろう。

 だが何のために。

 

 死。人間にとって、死は解放ではないだろう。死は終わりだ。肉体の終わり。彼女らの魂も、そのほとんどはそこで終わる。あの世などない。天にも地獄にも、人間の居場所はない。意識は残っていても、それは別物だ。

 だがおれたちは違う。それが良いことだとは思わないが。


 ヴィが支払いを済ませて戻ってきた。ペットボトルを2本持って。

「ねえ。その……"狩り"。急ぐの?」

「いや。そういうわけじゃない」

 ペットボトルを受け取る。ミネラルウォーターだ。キャップをねじ切り、飲んだ。冷たかった。

「急ぐわけじゃないけど……ほら」

 ジェイは親指で自分の胸を突いた。

「あら。あなたも少しは気にしてるのね。大丈夫。|その時《"狩り"》まで、わたしが守ってあげる。のんびり行こ」


 

 ヴィもミネラルウォーターを飲んだ。美味しい。喉を流れる冷水の感触。生きてる感じ。

 エンジンをかけ、セレクトレバーをDに。ギギッと、いつもの音がする。

「ジェイ。覚えておいて」

 ブレーキからスロットル・ペダルに右足を踏み変えて、ステアリングをまわしながら前を見て、ヴィは言った。 

「勝手に死なないで」

 本線に戻り、加速する。


「死んだら、わたしが殺すからね」

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