14 引き潮
【8月17日19時20分 ハイマニア、テルマエ・アウグストゥス】
ズィヤとパヴルはアンキュラへの帰路、有名な温泉地に立ち寄っていた。
急ぐ理由はなかった。革命に向けて軍を掌握するための遊説は順調で、特にスヴェイシュの動画は瞬く間に全国に飛び火した。地方各地の部隊や民衆からの賛同の声が、今やシムシェキという名を、まさに雷鳴の如く轟かせていた。
今夜までにアンキュラに戻り、明日は最後の準備を整える。そして明後日19日。
古代ローマでアウグストゥスがコンスルに就任した日、その後60年近くに及ぶ長い治世を終えて永眠した同じ日に、我々は立ち上がる。まずはアンキュラだ。
「いやー、温泉っていいね!スヴェイシュとかじゃ潮風と砂で、なんか体が痒くって」
「……パヴル。お前、普段ちゃんと風呂入ってるのか?」
2人は大浴場の一角で、ズィヤは肩までつかり、パヴルは縁に座って足だけ湯船で遊ばせていた。パヴルにとっては熱過ぎる。
ハイマニアは、加水なしの源泉そのままの熱湯が、世界第2位と評されるほどの名湯だった。その温度は44℃。ズィヤにとってはちょうど良かった。
「そんなことよりさ。またやられたよ。今度はエスキシェヒルの情報将校。例によって交通事故。ヤバくね?」
「誰だ。名前は?」
「えっと……ビュレント中佐」
「……ビュレントか。よく知ってる。風見鶏だ。冷たいこと言うようだが……問題ない」
「問題ない?……まあズィがそう言うなら、そうかもだけどさ。GTってやっぱ怖いよね。コジャテペの時も、陰湿って言うか……交通事故に見せかけた暗殺でしょ?これ。ウワサだけど、ディルシズっていう運転手の組織が……あ、伍長は違うと思うけど」
ズィヤは顔を洗う。熱湯が瞼に気持ちよかった。
「ビビってるのか?バビュールらしくないぞ。大丈夫だ。やつらが消した高官たちは、俺たちにとって……扱いが難しい人間ばかりだ。セレンに、蜘蛛の糸で手招きされてる気分だよ。あの凍てつくような目つきのお嬢様に」
パヴルは汗を拭きながらズィをまじまじと見つめた。
「さすがズィ。例えが古い」
パヴルは勝ち誇るような笑みを浮かべると、先にあがると言って大浴場を出て行った。
古い、か。まあ考え過ぎかもしれないが。GT……というより、ヴェシリア・セレン。あの女は不気味過ぎる。コジャテペであっさり解放され、その後の遊説旅行でも妨害は全くない。あの怪物を恐れているのか。それとも……。
俺が審問会で嵌められた罠。狡猾だ。伍長まで計算済みだったとは思えないが、用意周到だ。やはり最も警戒すべきはあの女か。
ズィヤは湯をあがると、シャワーを浴びるため洗い場へ歩いた。その時、パヴルが出口から叫んだ。
「ズィ!ヤバい、これ見て!」
iPadaを見せたいらしい。GTが動いたのか?パヴルの様子はただ事ではない。
濡れたタオルを絞りながら大浴場を出る。パヴルのIPadaを覗き込んだ。
アイシェ・デミルが泣き喚いていた。
【19時40分 旧・聖テレーザ教会】
ヴィは混乱していた。そんな。そんなこと、わたしにはできない。
アイシェおばさんが、目の前で泣き崩れる。嗚咽しながら叫んでいる。
「もう、無理なの!私でなくなる、耐えられない!生きていけない!だから、お願いヴェシレ!」
「ソロル。アイシェはあなたに懇願しているのですよ。私がお手伝いします。ですから――」
デフネ。アイシェおばさんに付き添ってきた。信じられない。わたしの知っていたシスター・デフネじゃない。
「――エンデューラ。教義で学びましたね?ソロル。アイシェはわかっているのです。彼女の肉体が、霊を閉じ込めようとしているのを。そうなる前に、あなたが救ってあげなさい」
エンデューラ。霊の解放。肉体の遺棄。K.K.で、最も尊いとされる行為。要するに……自殺。わたしに自殺幇助をしろと、デフネは言っている。それも、死にたがっているのはアイシェおばさんだ。デフネだってよく知っている、あのアイシェおばさん。使徒職で、2人でペアを組んで何度も訪問し、介護したあのアイシェおばさん。
アイシェおばさんの心が壊れかけているのはわかってる。息子さんが戦死して。デフネだって気遣いしてたのに。あんなに優しかったのに――
アイシェおばさん。本人が望んでいる?いえ、そんなのわからない。病気なんだ。自分が何を懇願してるのか、わかってないんだ。だから――
「ソロル。よく考えてご覧なさい。アイシェが望んでいるのです。病で狂ってしまった肉体を捨てることを」
「いえ、シ……いえ、ソロル。それはきっと、病気の――」
「あなたにわかるのですか?アイシェの苦しみが。この恐ろしい病が、アイシェにどれほどの――」
ヴィにはもう無理だった。
「シスター・デフネ・カヤ!あなたこそ、何がわかると?アイシェおばさんですよ?2人で一緒に――」
「ソロル。よくわかりますよ、アイシェの願いも、あなたの気持ちも。あなたはまだ、琥珀の光に慣れていない。知識はあっても、初めてでは仕方ありません」
「慣れていない?こんなことに慣れたくありません!あなたは慣れたと言うんですか?こんな……狂った教えに!」
デフネは穏やかに微笑む。
「わかりますよ、ソロル……いえ、ヴェシレ。アイシェのエンデューラを導くのは、あなたが適任だと思っているのです。でもまだ早過ぎるなら、私が――」
【19時56分 ハイマニア自動車専用道路、オヤカ付近】
「そんなことはさせるか」
ズィヤはレンタカーのダキアを時速125キロで走らせながら呟いた。助手席でパヴルが見ている、ヴィのiVitraのライブ音声に応えて。左手にはオヤカの街灯りが見えるのだが、ズィヤとパヴルの視界には入っていない。
幸いにも他の車は少なかった。ズィヤは制限速度を超えてなおスロットルペダルを踏みつけた。あと60キロ。間に合うのか。
「サフィとジェイさんにはメッセージは送った。電話には出ない。間に合うかな……」
「やつはニースだろう?当てにするな」
あの化け物。病院では目も合わせなかった。悪意はなさそうだが、あの力は危険だ。味方だとしても。
「サフィだって仕事中だ。ヴェシレとは?繋がってるか?」
「繋がってるけど聞こえてるかどうか……」
「呼び続けろ。今はヴェシレだけが頼りだ」
「うん……ヴェシレさん!聞こえたら……いや、ヴェシレさん!私がやりますって返事して!時間を稼いで!向かってるから!それまでなんとか!」
パヴルはそう叫ぶと沈黙する。ヴェシレ側の音声を聞くために。
『……わ、わたしが……わたしがやります!すみませんソロル。おっしゃる通りですわ』
【20時05分 旧・聖テレーザ教会礼拝堂】
エンデューラ。『いにしえの琥珀』の秘儀。教えにかこつけた自殺幇助。その手段は。
デフネは大きな、ホームセンターのレジ袋を持参していた。礼拝堂に入ると、告解室の前にそれを置いて中身を取り出す。
琥珀。ガムテープ数巻。そしてキャンプ用の木炭。
まさか。告解室をガス室にするつもり?
「さあ、ソロル。これを」
デフネが琥珀を差し出す。受け取るために近づいて、さらに恐ろしいことに気づいた。
木炭の袋。封が切られ、中身が減っている。ガムテープのひとつは、残り少ない。
初めてではない。
「……わたしが、やりますね」
少しでも時間を稼ごう。パヴルくん達が間に合うように。
「いえ。あなたには為すべき職分があります。その琥珀で。アイシェの霊を導くのです。雑用は私に任せなさい。それと」
デフネの目が、すーっと細くなる。
「あなた、目は悪くなかったわね?その……眼鏡は外しなさい。その様な虚飾は琥珀の光を歪ませます」
【20時08分 アンキュラ高速道路、ハイマニア・インター】
「まずい……」
ヴェシレさんがiVitraを外し、礼拝堂のベンチに置いた。告解室が映るアングルなのはさすがだけど……こっちからの声はもう届かない。
「パヴル、配信の方は?やっぱりダメか?」
「うん……ごめん」
またバビュルスに集まってもらえば、儀式を止められる。そう気づいたまでは良かったが、接続しようとして思い出した。ハイスピードで移動中は、アップロードができない。エーミッターとしては致命的だ。
「お前のせいじゃない。謝るな。飛ばすぞ」
ゲートを抜けると、ズィはアクセル全開、一気に加速した。エンジン音が高まり、身体がシートに押し付けられる。
ズィはハイビームにして先行車に警告しながら、どんどんスピードを上げる。正直、怖い。
パヴルはドアの上のグリップを握りしめて、iPadaの映像を見つめた。それしかできることがなかった。
【20時14分 旧・聖テレーザ教会、礼拝堂】
「……主よ、私を祝福してください。私を、善き終わりへと導いてください……」
アイシェおばさんがわたしの前に跪き、跪拝の祈りを呟く。デフネのガムテープの、耳障りな音を背後に。わたしは応えなければならない。
「神が……あなたを祝福し……」
祝福。死を。自殺を。そんなことをする神なんて。偽物はどっち?
「……あなたは、その肉体が……デミウルゴスの檻であることを……」
肉体が檻。サフィが言ってた。化け物の身体だって受け入れると。ジェイ。悪魔のようなあの身体。肉体。あれも檻?
「……私は、よくわかっています……この肉体が、悪魔の罠だと。どうか私をこの罠から救い、神の御許へ……」
悪魔の罠。神の御許。
デフネが祭壇から香炉を持ってくる。ガチャガチャと香炉が鳴る。命を奪う道具。
琥珀。小さいが、ずっしりと重い。赤みのある黄色い光が、蝋燭の灯りを吸い込んでゆらめく。わたしはそれを、アイシェおばさんの頭に載せる。震えている。手を離すと落ちてしまうだろう。床に落としたら割れるだろうか?
デフネは香炉に木炭を入れている。背を向けて。
ヴィは琥珀を頭上高く振り上げると、大理石の床に思い切り叩きつけた。ガラスが砕けるような音ともに、琥珀が四散した。アイシェおばさんが短い悲鳴をあげ、デフネが振り向いた。
「ご、ごめんなさい。落としてしまって――」
デフネは静かに近づいてくると、屈んで破片を拾い始めた。
「いいえ、いいのですよ。これは香炉に焚べます。ちょうど良かったわ」
【20時27分 アンキュラ高速道路、ゴールバシュ・ジャンクション】
「ダメか。いいアイディアだったのに……」
コンヤ通りに接続する入り組んだジャンクションを右に左に、ダキアはスキール音を鳴らしながら疾走する。もちろんスピードは落ちているが、パヴルには逆に感じる。顔がひきつる。
「どうした」
「……ごめん、いいから、後で……!は、話す」
【同時刻 ニース、モン・ボロン】
ベランダから聴こえる潮騒、ガラの鳴る音。見渡せば『天使の湾』が一望出来るはずの寝室で、マドレーヌはベッドに寝転がり、iPortaを睨んでいた。
ジェイさまのiPorta。さっきから、着信やメッセージがたくさん来る。パヴル。あの坊主頭のオタク。
『SOS。緊急事態。帰ってきて』
嫌だ。ジェイさまはもう私のもの。私のジェイさま。
ジェイさまはきっと、このメッセージを見たらすぐ帰ろうとする。そんなの。ひどすぎる。
明日はパーティーの下見。明後日は誕生日パーティー。パパも飛んでくる。セレブゲストもたくさん来る。私の……私たちのためにみんな来てくれる。私とジェイさまのために。
私だけじゃない、ジェイさまもパーティーの主賓だ。なのに帰るなんて絶対ダメ。ジェイさまは……帰ったら、もう戻ってこない気がする。そんなの、絶対いや。
……でも。ジェイさまも嫌かも?私がワガママ言ったら、嫌いになる?
マドレーヌはiPortaを放り出し、枕に顔を埋める。
どうしちゃったの、私?こんなこと思うの、生まれて初めて。嫌われたくない。ジェイさまにだけは、絶対に嫌われたくない。
マドレーヌはまたiPortaを掴み、メッセージを睨んだ。
『帰還せよ。ヴェシレさんがヤバい。大至急』
ヴィヴィ。私とジェイさまのことを認めてくれた。優しいお友達。ジェイさまの次に大切なお友達。私とジェイさまが祝福される時、一番側にいて欲しいひと。
マドレーヌは起き上がると、薄い、真珠のような光沢のシルクのスリップドレスのまま部屋を出ようとして、急いでガウンを羽織った。iPortaを鷲掴みにして。
ジェイさまが帰っちゃうのは嫌だ。でも、嫌われるのはもっと嫌。ヴィヴィに返してあげる。ちょっとだけ。
マドレーヌはガウンをはためかさながら寝室を飛び出した。ジェイの部屋は隣だ。ノックもせずに扉を開け放つ。
いない。
廊下に戻り、走った。肩からガウンがずり落ちる。リビングへ。ここにもいない。
もしかして。ジェイさまはもう知っていて、私に内緒で……あの翼で。
涙が溢れた。嫌だ。翼。私の大好きな、あの濡羽色。私を何度も助けてくれたあの天使の翼で、私を置いていくなんて絶対いや!
テラス。屋上。まだ間に合うかも。お願い。
【20時44分 旧・聖テレーザ教会礼拝堂】
香炉に、蝋燭の火が燃え移る。
告解室は銀色のガムテープであちこちを目張りされ、木造りの趣きなど感じられない、無機質な小部屋と化していた。司祭が出入りする扉は完全に密閉され、表の扉は開け放たれている。そして中には、ぽつんと鈍色の香炉が置かれ、白い煙を吐き出していた。木炭の煙は無色透明。この白い死の色は、琥珀が溶ける煙だ。目に見えないはずの一酸化炭素に、死の色が。甘い誘いの香りともに。
「さあ、光兆があがりました。その朽ちゆく殻を脱ぎ捨てる時です」
手にガムテープを持って、デフネが微笑む。
だめだ。もう時間を稼ぐ手立てはない。
アスラン道でデフネを気絶させることはできる。だけど、アイシェは?アイシェはこれを望んでいる。死を。しかも彼女にとっては、その方が幸せなのかも知れない。
自分でなくなる。わたしは、過去を、自分が歩み、築いてきた記憶を失って、それでも生きていたいだろうか?愛する者を忘れて?
お父様。ジェイ。忘れたくない。
黒い薔薇。ジェイがくれた黒い薔薇。
メメント・モリ。死を忘れない。それがお父様への、わたしの想い。ジェイが気づかせてくれた想い。
ジェイ。わたしはあなたを閉じ込める。あなたの肉体を朽ちさせはしない。
わたしがあなたを守る。お父様の思い出を守る。
死は、解放なんかじゃない。
ヴィは意を決して、デフネに向き直った。首筋を注視し、頸動脈洞を探す。アスランティブ。そこに優しく親指を当てて、ほんの僅か力を加えれば、デフネは失神する。少しの間、眠らせるだけ。アスラン・ペッド。
だがその時。ヴィの集中を乱す音。
玄関の扉が開いた。
【同時刻 旧・聖テレーザ教会正門前】
ダキアが激しい減速Gに揺さぶられた。悲鳴にも似たブレーキ音。ズィとパヴルの胸に、シートベルトが喰い込む。
「な……なにこれ」
パヴルが見たのは、開け放たれた教会の玄関に群がる人々。
バビュルスではない。群衆による渋滞を懸念し、ズィが配信を却下した。なら、この人たちは?
「……エンデューラ……エンデューラ……」
暗色の衣服を纏った集団。K.K.の信徒たち。十数人の狂信者の群れ。みな、同じ言葉を繰り返している。暗い礼拝堂の、蝋燭と香炉の灯りに向かい、じわじわと詰め寄りながら。そこには、微笑むデフネ。震えて跪くアイシェ。そして――
ヴィはもう躊躇わなかった。大理石を蹴り、ひと跳びでデフネの背後を奪う。同時に、アスラン・ペッド。
デフネが一瞬で崩れ落ちる。ヴィはデフネの後頭部を支えてその身体を優しく横たえると、また跳んだ。アイシェの背後。群がるクレデンテスたちの正面に。そして翼のように両腕を広げ、絶叫する。
「わたしは悪魔だ!この女を攫う!邪魔する者は――」
クレデンテスたちは固まった。そしてパニック。
ズィヤは驚愕した。恐ろしい叫びが轟き、人々の群れが逆流してくる。群れはズィヤとパヴルに目もくれず、蜘蛛の子を散らすように去った。
そのあとに。
パヴルには、それは降臨に見えた。蝋燭の灯りは決して明るくはない。だがその真ん中に、長身の、両腕を翼のように広げて仁王立ちする姿。
「……天使だ」
ヴィは両腕を降ろした。少しだけ、ふらついた。そして、膝から落ちた。
誰?大きなひと。支えられた。その後ろから……パヴルくんだ。間に合った。
「ひとをバケモノみたいに言うな。オタク」
フッと笑うと、ヴィは気を失った。
【23時59分 ニース、モン・ボロン】
マドレーヌのベッドに仰向けで、ジェイは鼻で笑った。この状況を。
21時ごろ、いつものようにテラスにいた。東の縁。もう暗い空を見ながら、アンキュラのことを考えていた。
「ジェイさまぁ!」
マドレーヌがぶつかるほどの勢いで、背中に抱きついてきた。寸前で振り返り、胸にマドレーヌを抱き止めた。
「?」
涙を溢れさせ、いや号泣して、でもマドレーヌは嬉しそうに微笑んでいた。
「……ジェイさま。これ」
iPorta。受け取ろうとするが、マドレーヌは離さない。また泣き顔になって、それを隠すようにマドレーヌはやっと離れた。iPortaを残して。
メッセージの通知を読む。
ヴィ、アイシェ・デミル、エンデューラ。
パヴルとズィヤ・シムシェキが駆けつけて、ヴィは無事。軽度の一酸化炭素中毒で入院。
「……ありがとう。帰らなきゃ」
ぼそっと呟いた。
「……明日朝。パパが来ますわ。ダッソーで。ジェイさま……それに乗って、アンキュラに行って。ヴィヴィを助けてあげて」
「ありがとう。助かる」
「私のお願いなら、パパはなんでも聞いてくれるから。……そのかわり、ジェイさまにもひとつだけお願いがありますの。聞いてくださる?」
「ああ」
「今夜は……私と一緒にいて。明日、ヴィヴィを助けてあげて」
それでは2つだ。ジェイは思ったが、口に出さないだけの分別はあった。頷く。
マドレーヌが再び、胸に飛び込んできた。
受け止めながら見た西の海は、もう日が沈み暗かった。
マドレーヌの「今夜は一緒にいて」は、朝まで、という意味だった。ディナーでシャンパンをおかわりし、リビングでのたわいもない会話のあと、この寝室に引っ張って来られ、扉を後ろ手に施錠して、ガウンを脱ぎ、ジェイをベッドに押し倒した。顔を真っ赤に染めて。
それから……隣りに寝転がり、ジェイの腕に頭を預け……寝てしまった。頬を染めたまま。アルコールのせいもあるが、安心したのだろう。
ジェイも安心していた。天で生まれた者たちには、性欲など微塵もない。必要がない。繁殖しないのだから。だが知識としては、理解している。
ジェイは瞼を閉じ、アンキュラの状況に思いを馳せた。
K.K.はこのまま沈静化するだろう。パヴルが動画を上げる。もう誰も、K.K.の教えなど信じない。そして……革命は19日、火蓋を切る。
左腕を見る。マドレーヌ。穏やかな表情で眠っている。目元には涙の跡が残るが、とても幸せそうに。
ここが引き際だ。これ以上は、この子を苦しませるだけだ。
人間が流す涙。いろいろな感情。悲しみの涙はあまり見たくない。
マドレーヌは生きている。生を謳歌している。そしてまだ若い。
iPortaの時計を見る。
00:00。日付が変わった。8月18日。
マドレーヌの17歳は、あと1日。




