12 温かい石
ニース。海。エクスにもアンキュラにもない、美しい海!
海を見たことがないわけじゃない。ニースにだって、何度か来てる。
なのに……なのに、なぜ?
今まで見たどんな海より輝いているのはなぜ?海だけじゃない。空も、街も、なにもかも、世界が全部、輝いてる!
それだけじゃない。風。エクスは湿っぽくて、アンキュラは埃っぽかったけど……ここの潮風。爽やかで気持ちいい!磯の匂いも好きじゃなかったのに、今は大好き。どうして?
波の音。ザーザーいうだけじゃないんだって、初めて気がついた。からん、ころん、石の音?今まで聞こえなかった音が聴こえる。不思議。なぜ?どうして?
……なんて。ほんとはわかってる。
私は今、幸せなんだ。美しい宝石や素敵なネックレス、煌びやかなドレス。甘くて冷たいペッシュ・メルバとか。そんなものよりも、どんな贅沢した時よりも、ずっとずっと幸せ。彼と一緒だから!
断崖に張り出したベランダで、キラキラと南仏の優しいお日さまの光を反射する地中海を眺め、そよぐ潮風に黒髪をなびかせている、彼の逞しい背中。
私を命がけで守ってくれた、濡羽色の愛おしい翼を秘めたあの背中を、後ろからそっと抱きしめて、頬を寄せたい。
あの時、私の全身に降り注いだ熱い血潮を、今夜はあの鋼の筋肉の下に感じて、身も心もひとつになって。
このニースで、ジェイさまと。2人きりで――
バサバサッと、アリーがマドレーヌの眼前を掠めて横切った。羽毛をまき散らして。
「Corbeau!お待ちなさいッ!」
アンジーが箒を振り回してどたどたと追いかけていく。
……まあ、2人きりじゃないけれど。
でも、幸せ。
マドレーヌはニースで、かつてない多幸感に浸っていた。世界中の祝福を五感に浴びて。
18歳の誕生日まで、あと9日だった。
【8月10日夜 アンキュラ、シヒィエ高架下】
けたたましいクラクションが鳴り止まない。排気ガスの臭いが鼻につく。ゴォォッと、頭上から途切れなく響く車列の騒音。無機質なコンクリート剥き出しの街。
乾燥したビル風がダークブラウンの髪をかき乱す。耳障りなディーゼルの低音を響かせて、目の前をバスが横切った。また嫌な匂いがして、眉間に皺を寄せる。
ヴィはジェラル・バヤル新道の巨大な高架の下で、オレンジ色の人工的な常夜灯に照らされていた。靴磨きや宝くじ売りの露店を横目に帰路を急ぐ疲れた人々の雑踏に混じり、高架を支える鉄灰色の橋桁の冷たさを背中に感じていた。たった独りで。
いや、独りじゃない。
ヴィはスポーツサングラス型のiVitraを視線で操作し、自分の顔写真を表示した。ここに来る直前、日勤を終えたサフィが手伝ってくれた、生まれて初めてのメイク。
「厚塗りNG。最強の透けツヤ肌をガチで極めよ!トゥルントゥルンなキラキラ下地。超うすファンデでそばかすもあえての残しーの。マジ最強の女って感じ!」
サフィはメイクもプロ級だった。ま……マジ、最強の女、はサフィだ。
『K.K.、勢いすごくて。指数関数的に加速してる。ペルフェクティたちが指導する少数の集まりが少しずつ癒合して徐々に大きなグループに。ついこないだまで路地裏や雑居ビルの一室でやってた集会も、今じゃショッピングモールや文化センターです。じわじわと拡大してて、今夜の大会は過去最大らしいです』
このiVitraはパヴルくんが用意してくれた。操作も裏技まで完璧。メイクしながら、いやされながら、同時にARビジュアライザーでパヴルくんのメッセージを読む。
「まぶたのギラギラブロンズとゴールド、パッキパキでマジ神!目力エグ!まあそれは元々か。マスカラはー、絶対落ちない最強ウォータープルーフ!これマジ最強。あたしのオキニ」
サフィのおしゃべりは楽しい。鏡の中で、わたしが変わっていく。言ってることは半分もわからないけど。
パヴルくんに返信する。視線入力で。
『カルト。危険では?』
『カルトもピンキリです。キリスト教も古代ローマの初期の頃はカルトでした。K.K.は今のところ、とても平和的』
『それがどうして革命に必要?』
『僕たちの革命の目的は、教皇庁です。やつらが不当に支配し、私利私欲を貪ってるからこの国はおかしくなった。ズィもそう思ってる』
「VV、自眉超最強!絶対負けないって激強マインド、これはこのまま活かさないとね!」
『だから教皇庁を正すってこと?不正を暴くとか?』
『それだけじゃダメなとこまで来てると思います。もう何百年も、教皇が変わってもなにも変わらない。だからぶっ潰す。それしかない』
ぶっ潰す、か。それが革命か。それしかないのだろうか。
「あとはリップ。ローズピンクだね!マットな。どおどお?ヌードカラー。どお?」
『だけどそれは、ローマから信仰を奪うってことです。信仰って社会のインフラみたいなもんでしょ?僕は無宗教だけど、信仰がなきゃ生きていけない人は多い。ヴェシレさんならよく知ってるはず』
だからカトリックの代わりにK.K.を。それでいいのだろうか。
「じゃーん!でっきあっがりィ!もー完璧じゃん?VV最強!推せる!!ネイルもしちゃう?」
サフィのメイクは、わたしの決意を応援してくれる。ネイルは遠慮した。
K.K.のことはまだわからない。だからわたしが確かめるんだ。うまくできれば、誰も戦ったりしないで、血を流すこともなく、全てがよくなる……かもしれない。
ジェイにも無理させないで済む。かもしれない。
シヒィエ地区。イブン・シーナ病院の南西の、アンキュラのスラム。
この辺りがスラム化したのは、アンキュラの長い歴史の中では比較的最近のことだ。以前は、アンキュラ警察本部や最高裁判所があったから治安も良かった。わたしもよく使徒職で来た。
アナファルタラル警察署が出来て、急にスラム化が進んだ。最高裁判所も5月に移転しちゃって、パルテノンみたいな建物は放置されている。
その正面の白亜の階段で今夜、『|いにしえの琥珀《Kadim Kehribar》』、通称K.K.の大会が開催される。
シムシェキ少佐がわたしに依頼した任務とは、この大会への潜入だ。
「――ヴェシレさん、聴こえる?」
発案者はパヴルくん。責任持って誘導してくれるらしい。
「――聴こえたら、イエスを視線タップして?オーケー。じゃあ今から、あなたはコードネームVだから。よろしく。この接続は切らないで」
パヴルくん、テンションが高い。声は冷静だけど、楽しんでるみたい。
まあいいか。寂しくないし。
【8月13日 ニース】
「アリー!いくわよ!……はいっ!」
マドレーヌは熟れたイチジクの実を空高く投げた。アリーはインターセプト・コースを正確に計算し、時速45キロで水平に飛ぶと、放物線の頂点でイチジクを捉えた。
「やったーっ!アリー天才!」
マドレーヌは手を叩いてはしゃぎ、プライベート・ビーチの砂浜でぴょんぴょん跳ねた。
この数日で、マドレーヌはアリーを見事に手なづけた。主に食事で釣ったのだが、これはジェイにすればとても珍しいことだった。アリーが他の人間の手から物を食べるのを見るのは初めてだった。
アリーにはアリーなりの理由があった。主な理由は、抗議だ。
2年前にこの地上に産まれてから、アリーは一度も、ケージというものに入ったことがなかった。もちろん必要がなかったし、強制されることもなかった。アリーは常に自由だった。
だが3日前、ジェイがマドレーヌとともに、アンキュラのエセンボア空港でガスパール家のプライベート・ジェットに乗り込む際、一緒に行くためにはケージに入ることが必要となり、強制されたのだ。
(これに?わたしが?
ありえないなんで?
じょーだんじゃない)
(ごめんアリー。飛行機に乗るために、これに入らないとダメなんだ)
(なんで?わたしとべる。
ジェイより。たくさん。
ひこうき?いらないよ?)
(すごく遠くまで行くから。アリーはおれよりたくさん飛べるけど、もっと遠いんだ。少しだけ、この中に入って。すぐ出してあげるから)
(すごく?とおい?
ろるふでいけば?
ろるふのなかなら
がまんできるよ?)
ジェイは考えた。うまく説得できそうにない。もうすぐ離陸だ。仕方ない。
(アリー。たくさん飛ぶのは大変だから、今のうちにご飯あげるよ。ほら)
ジェイはケージの隙間から、朝食に出た生ハムを入れた。アリーは何も警戒せず、生ハムに釣られてケージに入った。ジェイが扉を閉めた。アリーは驚き、激怒した。
ガスパール家のプライベート・ジェットは、ダッソー・ファルコンだった。巡航高度まで上がったあとはアリーを自由にしていいと機長も言っていた。ジェイはケージの扉を開けた。
だがアリーは激怒していた。ケージに閉じ込められたからというだけではなかった。
ジェイが騙した。許せなかった。
アリーの怒りを鎮めたのは、以外にもマドレーヌだった。
「あなた、アリーっていうのね」
突然、"ぶろんどおんな"に話しかけられた。
「私にいけないことしたでしょ。イタズラっ子。でももう許してあげる。籠の中、嫌だもんね?」
"ぶろんどおんな"がケージの中に手を入れてきた。アリーは思わずケージの奥に下がった。捕まえる気か。捕まえて串焼きにするって、前に言ってた。
ケージは狭いし、翼を広げることもできない。アリーは後退り、却ってケージの角に追いやられて身動きがとれなくなった。
串焼きだけはごめんだ。アリーは嘴でマドレーヌの手を突いた。血が出た。
「Corbeau!お嬢様、いけません、早く――」
「大丈夫ですわ、アンジー?痛くないから」
「お嬢様?」
マドレーヌは人差し指一本だけを、ケージの隅で自由を失ったアリーに、そーっと近づけた。
「アリー。大丈夫。怖がらないで?」
そしてその指の背で、静かに、優しくアリーを撫でた。
アリーはびっくりした。ジェイ以外の人間に撫でられるのは初めてだったし、その指の柔らかさと、肌のきめ細かさがとても気持ちよかった。ジェイの指はゴツゴツして固い。
「アリー……籠の中、私も大嫌い。気持ちがわかるの。仲良くしない?私たち。お友達になりたい」
アリーは撫でられて気持ちよくなりながら考えた。"ぶろんどおんな" は嫌いだったけど、悪いやつじゃなさそうだ。嫌いはやめよう。少し仲良くしてみてもいいかも。ジェイは嫌いになる。少しの間だけ。抗議だ。騙したから。
マドレーヌはこの日、買い物中に衝動買いしたライトブルーの水着を着ていた。Marysia の新作。波打ち際のようなカットが特徴のビキニで、比較的露出度の低いサンタモニカボトム。アンジーも文句を言わなかった。
マドレーヌのエクス育ちの肌は、白く、すき透るようだった。長いライトブロンド、青みがかったグリーンの瞳。水着はとても似合っていた。そこにアリーが近づくと、砂浜や地中海の青さを背景に、まるで水彩画のように淡く可憐だった。
裸足の足に、砂と、細かくて丸いニース特有のガレという小石の感触。気持ちいい。歩くとかわいい音がする。そのまま、水辺まで歩いていく。
冷たい!嬉しい。冷たいのが嬉しい。波が足首から脛に撥ねる。引いていくと、踝がくすぐったい。
潮風に促されて振り返る。ジェイさまはどこ?
「ジェイさま!」
いた。アンジーと一緒に私を見てる?
手を振る。私を見て!楽しいの。嬉しいの。幸せなの!
アリーが急降下してきたかと思うと、波頭すれすれでダイブ・リカバリーを見せた。海水が撥ね、微かな飛沫がマドレーヌにかかった。マドレーヌは困ったような、でも弾けるような笑顔を見せた。
海と空の狭間で、水しぶきを浴びて、ブロンドの髪をふり乱してはしゃぐ、少女というには大人びて、でもどこかあどけない、太陽よりも輝く笑顔。
一生の間の、ほんの一瞬だけ訪れた奇跡のようなその美しさは、ジェイの心の奥にいつまでも一枚のスナップ写真として残った。そのことをマドレーヌが知ることができたら、どんなに歓喜しただろう。
18歳の誕生日まで、あと6日だった。
@アンバーサイレンス
シムシェキ少佐の願う革命が本当に実現するなら、それは我々にとっても勝利です。偽の神は倒れ、我々の琥珀が、真の輝きをもたらすのです――本日のペルフェクティのお言葉です。
#いにしえの琥珀#真の神#KadimKehribar
@スヴェイシュの獅子
稲妻と虎がついに来てくれた!やるぞやるぞやるぞー!みんなで帰ろう!
@いにしえの光
琥珀の光が増しています。時が来たのです。
#いにしえの琥珀#真の神#KadimKehribar
@ローマ速報チャンネル
TVも新聞ももうダメだね。こんだけのことになってるのに、ひと言も触れなくなったじゃん。圧かかってんだろうけど、それが終わりの始まりだってわかんないのかね。
@風の吹く音
そういえばフランクのプライベート・ジェット、いつのまにかいなくなったよ。カナダも。もうバレバレじゃん
@本とコーヒー
本日、また新しいペルフェクティのためのコンソラメントゥムが行われます。興味ある方はどうぞご見学を。
#いにしえの琥珀#真の神#KadimKehribar
【8月16日 アンキュラ、旧・聖エズラ教会】
デフネ・カヤはペルフェクティとなった時、その名を捨てた。『いにしえの琥珀』のペルフェクティには俗世の名前は不用だった。今日これから彼女がコンソラメントゥムを施す新たなペルフェクティも、その名を捨てるだろう。以後はただソロルと呼ばれる。
アンキュラではこの数日でペルフェクティが激増していた。もちろん望めば誰でもなれるというものではなかったが、組織だった運営を良しとしないK.K.においては、一般信者に教義を説くペルフェクティの数を増やすことは肝要だった。教育のため、あえて便利な道具はなんでも利用した。教義の詰まったiPadaなどだ。これらを用意するための資金は、匿名のスポンサーからの寄付で賄っていた。
もちろん有望なペルフェクティ候補もいた。シムシェキ少佐が進める革命の機運に乗じて、カトリック教会を離脱する神父やシスターは、デフネを筆頭にどんどん増えていた。彼らには教育は必要なかった。K.K.の教義はイエスの教えそのものだ。カトリックとの違いは、イエスの教えを利用する組織、十字架や聖像などの偶像、煌びやかな法衣や聖堂や教会の否定だった。ひいては物質、そして肉体の否定である。
私たちはイエスを敬うのではない。イエスの教えによって、この物質や肉体に支配されている偽の神の世界から、己の魂を救うのだ。
この世に生を受けてから60年間デフネ・カヤという名称で生きてきたペルフェクティは、そう固く信じていた。
「屋根の十字架だけどさ。いいの?」
パヴルくんがiVitraの鉉を通して囁く。
ヴィは視線入力キーボードを表示して、メッセージで返した。
『気にしないみたg。無意味なんだって。十字架も、それをわざわざ撤去する労力やお金も』
ヴィは今、つい先日まで聖エズラ教会として親しまれていた古い建物を訪ねていた。
「なるほど。デッドコピーの削除になんかリソースを割かない、と。合理的だね」
パヴルくんの感想は、とてもIT技術者らしい。わたしは素直には受け取れなかった。24年間、十字架の下で暮らしてきたんだから。
わたしの周りで、世界はすごいスピードで変わっていく。このiVitraなんかその最たる例だ。まだ使い始めて3日目だけど、便利過ぎてもうiPortaさえ触らなくなってしまった。電池の減りは早いけど。視線入力も、慣れたら指よりずっと楽。たまにミスタッチはする。
でも……わかっててもできないこともある。iPortaは触らないけど、通知は見る。もしかしてメッセージ来てたりしないかなって。来るわけないんだけど。
十字架もそれと同じだ。時々、胸元を探してしまう。
「あーごめんV。ちょっと落ちるね。ズィのスピーチ始まる。Vもヒマだったら見て。原稿書いたの僕だから」
うんわかった、と入力した。
「ヴェシレ。こちらにいらして」
デフネ、いやペルフェクティに呼ばれた。急いで送信してiVitraの電源を落とし、ポケットにしまう。
「ペルフェクティ。素晴らしい集会になりそうですね。こんなにたくさんのクレデンテスがお集まりに――」
「みなさん、あなたのために集まってくださったのよ。これを着けて」
差し出されたのはコイフだった。20日ぶりにコイフを被る。
「いらっしゃい」
ペルフェクティに導かれて、わたしはかつて礼拝堂と呼ばれた広間の中央に歩み出た。ペルフェクティとわたしの周りを、クレデンテスたちが囲む。そして、被ったばかりのコイフを脱ぎ、床に落とした。
「跪きなさい」
ペルフェクティの御前で、背筋を伸ばしたまま両膝をつき、首を真っ直ぐ保ったまま顔を伏せる。頭頂に、重く冷たい石を載せられる。琥珀。
「ヴェシレ。あなたが長い間、聖なるものと思って身につけてきたものは、真理を隠す偽りの布に過ぎない。あなたは、父と子と、"霊"への信仰に、己を捧げる決意ができましたか?」
ヴィは答えた。
「|わたしはいま、ここにおります《Ecce ego》」
「……Panem nostrum supersubstantialem da nobis hodie.」
supersubstantialem(物質を超越するもの)。霊の糧。肉体の空腹を満たすのではなく、魂の飢えを凌ぐもの。
神に、誰かに望まれてではなく、自ら、己の魂の望み。
肉体という檻からの解放。
頭の上に置かれた琥珀を落とさぬよう、体幹を維持するのは楽ではない。それを支え助けるように、周りからたさんの手が伸びて、肩や腕、背中、首、そして琥珀そのものに添えられる。按手。わたしは独りではない。
「Unitas Spiritus(霊が集いました)」
ペルフェクティの言葉とともに、ヴィは繋がりの温もりを感じていた。いにしえの琥珀の温もりを。
【同時刻 エジプト、スヴェイシュ運河マスム港】
「神は望んでおられる。インノケンティウスはTVで叫びました」
ズィは叫んではいない。静かに、醒めた口調で語る。目を閉じて、俯いて。
「もう11年も前だ。私たちは若かった。神の望みはともかく、ローマの人々、同胞、愛する家族を守るために私たちは戦うのだと、そう信じていました。そして戦った。フィリスティンで、イエロソリマで」
顔を上げる。
「破壊。掠奪。殺戮。私たちの敵は悪魔だ、悪魔を殲滅するのは罪ではないと。そうインノケンティウスは言った。神のために戦って死んでいくのは、教えに殉ずる尊いことなのだと……間違いでした」
ズィは目を見開き、顔の前で拳を震わせる。
「私たちは間違いを犯した。戦う相手を間違えたのです。戦ったことが間違いなのではなく。私たちが倒すべき悪魔は、フィリスティンにはいなかった。イエロソリマにも。そして、ここ、スヴェイシュにもいません。悪魔は――」
拳を北の方角に突き出し、人差し指を伸ばした。
「あそこにいる!私たちを誑かした悪魔は、あそこにいるのです!アヤソフィアの大宮殿に!」
マスム港の埠頭に吹きこむ北風が、兵士たちの軍服を叩く音が聞こえた。歓声は上がらず、兵士たちはただ静かに、演台のズィを見つめていた。
パヴルは唇を噛んだ。アドリブ。悪魔。ズィは僕の原稿を逸脱した。アヤソフィア。大宮殿。まだ早――
その時、整然とした靴音と、重い金属音が響いた。訓練された動作。
兵士たちが銃を捧げ持ち、背筋を正した。そして、演台に向けて敬礼した。
想定を超えた連鎖反応。もう止められない。ズィのカリスマ。
パヴルも敬礼した。慣れない手つきで。
【同時刻 ニース、サン=ローラン=デュ=ヴァール】
北風をライトブロンドにはらませ、マドレーヌは夜の海を疾走する。波はなく、穏やかな海面。右手の親指でスロットルを全開に。さらにスピードを上げて、ジェットスキーが地中海を切る。
「ジェイさま!私の方が速い!」
夜の海は暗い。けど全然怖くない。何も怖くない。彼と一緒だから!
今日はたくさん買い物をして、また浜辺で日が暮れるまではしゃぎ、テラスでディナーを済ませたあと、アンジーはパーティーの準備で街に行った。うるさいお目付けがいなくなった。アリーはどこかの木の上で休んでる。なら、ハメを外さなきゃ!
マドレーヌはジェイを強引に引っ張って、ジェットスキーをレンタルした。コート・ダジュール空港に降りた時から、チャンスを狙っていたのだ。
ジェットスキーは初めてだけど、スノーモービルは得意。パパが連れてってくれたシャモニーでたくさん乗った。インストラクターのお兄さんに天才!って言われちゃったもん!
はじける水の音。風が騒ぐ。スピード。最高!
マドレーヌは闇と海とを引き裂いて疾走した。浜が、港が、空港の灯りが飛んでいく。少し高い波。ジャンプする。躍動感。
空中で傾いだ。斜めに波間に突っ込む。月明かりもない、真っ暗な海に。ジェットスキーはハイサイドを起こし、転倒した。
手首のストラップに繋がっていたキーが抜け、エンジンが停止し波間に浮かんだジェットスキーに、マドレーヌの姿はなかった。
落ちた。冷たいと思う前に、海水が口から、鼻から流れ込む。その塩辛さも苦さも、感じられなかった。ライフジャケットに支えられた白い肢体が、黒い海を漂っていた。
コンクリートのように硬い海面に叩きつけられ、全身が痛い。その痛みが、かろうじてマドレーヌの意識を保っていた。だが背中を強打し、さらに流れ込む海水に、息ができない。
ニースの街灯りが霞む。その暗い空に、マドレーヌは見た。空を舞う影。大きな翼を。
天使。私の守護天使。
マドレーヌがジェットスキーから放り出され、海面に叩きつけられるのを見た瞬間、ジェイは翼が広がるのを感じた。反射的に。背中が疼き、無意識にそれは起こる。いつもだ。
人間の命の危機に直面する、それを目撃すると、条件反射でこうなる。そして、この依代の肉体が死にさらされる。理不尽だがどうにもならない。
だが今回は何かが違う。胸の苦しさや痛みがなかった。負荷を感じない。
ジェイは飛んだ。アリーのように、軽やかに。ニースの街灯りを背後に、その翼の濡羽色を、虹のように煌めかせて。
羽ばたきの音。波の音。力強く抱き上げられ、身体が宙に。しがみつきたかった。でも身体が動かない。全身から力が抜けていく。音が消えた。鼓動を残して。私の鼓動。彼の鼓動。
次に感じたのは、胸にかかる力。胸を押す、ぶ厚い掌。背中に、小石と砂の感触。
唇。ふさがれた。息。熱い息が吹き込まれる。熱い。身体中を駆け巡る熱。唇が離れる。離さないで。ずっと。胸に手が。私の身体。溶ける。くずれてしまいそう。そして……求めていた唇。熱い吐息。
喉から海水が激しく吐き出され、マドレーヌは呼吸を取り戻した。全身が痺れる。酸欠のせいだけではなかった。
ジェイさま。また命を助けてくれた。キスをされた。初めて。
死にかけたことなど忘れた。死んでもいいと思った。このまま、絶頂の中で死んでも、何一つ悔やむことなどなかった。
マドレーヌは想いを遂げて、ジェイの裸の胸に身体を預けた。頬に鼓動を感じる。潮風。さざなみの音。ガレの温み。薔薇色の肌。生きている証し。好き。大好き。
18歳の誕生日まで、あと3日だった。




