第10話 惑わされたセイレーン(上)
「うん。海みたいな髪。私好きよ」
風に揺れる海色の髪に、赤く染まる頬。弾む声と火傷しそうな眼差し。私は思わず目を逸らした。
同い年のセイレーンの中で、飛び抜けて美しい歌声をしている子がいた。まだ技術に拙いところはあれど、大人達も認める歌声だった。その子と比べられる事が嫌で、その子に追い付きたくて誰もいない場所で練習しようとした。
何処で歌おう。泳ぎながら私は考える。いっその事思いっきり泳いでたどり着いた先を、練習場にしようか。何処でもいいわ。ここでずっと悩んでいたって、歌の練習は始まらないのだから。
魚達よりも早く、波より早く私は泳いだ。下と上なら、上に行こう。暗いところと明るいところなら明るい所へ行こう。誰も居ない、どこかゆっくり出来る場所がいい。特に魔法使いが居ないところがいい。
まだ幼い私が見つかれば、簡単に殺されてしまうから、気を付けないと。
海面から顔を出して、周囲を伺う。遠くに船が見えたから、別のところへ。何度かそうして、私は泳ぎ続けた。最後にたどり着いたのは、岩が沢山あるところ。陸の近くだけれど、私はそこが森と呼ばれているのを知っている。
森は人があまりいないんだって、陸に上がった者たちから聞いた。人の住処が森の中では作れないから、暇潰しに森の近くの海へ行くのもいいって。
でも一応、私の体を森から隠せるくらい大きな岩で私は歌う事にした。森から私を見つけられないように。
でもその日はたくさん練習が出来なかった。ここを見つけるまでかなりの時間を使ってしまったから。色が変わった海を見ながら、私は最後の歌を歌った。
帰ろうと海に潜った私を見ていた存在には、幼い私は気付けなかった。
毎日は無理だったけど、何度も何度も岩が沢山ある場所に来ては歌った。教わったばかりの歌に何度も歌った歌。
こうすればいい、ここをこう歌ってと教えてもらったところに気を付けながら、何度も歌う。
練習した歌を披露する場ではやはり、あの子が誰よりも上手で羨ましく思って、憧れてまた練習をする。
あの子に歌い方を教わろうかと何度も考えたけど、あの子と私は性格が合わないのよね。あの子も言っていたけど私とあの子の性格は、自他ともに認めるほどに正反対。
教えを乞えば教えてくれるだろうけど、残念だけど言い方が気に食わないわ。あの子の事嫌いではないけど、教えてもらう度に嫌な気分にはなりたくない。
出てくる溜息を誤魔化すように、私は歌った。
今日はいつもと違くて、歌っている途中に森から音が聞こえた。岩から顔を出して後ろを見ると、人間が居た。
数秒見つめ合ってしまったと思う。人間に今まで出会わなかったから、人間が居る事に驚いて体が固まってしまった。その人間が近付いてきたから、私は急いで海の中へ潜ってここから離れた。
どうしよう。人間が居るなら、もうあそこでは歌えない。でも今まで居なかったのだから、今日たまたまあそこに来てしまっただけなのではと考えた。
だから明日も行って、もし居なかったらまたあそこで歌の練習をしようと私は決めた。
次の日、昨日の人間が居た。ここで練習するのは諦めた方がいいのかもしれない。残念な気持ちになって名残惜しさに、人間を観察した。
人間は私と同じくらい小さくて、たぶん私よりも凄く弱い。魔法使いではないなら私が害される事もないだろうし、ここで歌っても大丈夫なのではないかと私は思った。
この子も歌を歌っている。私よりも下手。この子も歌の練習をしているのかしら。
まだ決めちゃダメよ、私。もう少し様子を見ましょう。とりあえず暫くは人間を観察するのよ。そう決めた私は、その日から歌の練習をせずに人間を観察する事に時間を費やした。
人間の成長は著しく、短い時間で初めて来た時よりも上手になっていた。人間の歌声を聞きながら私は思った。
「……人間の観察ばかりして歌の練習しないのは違うわよね……」
私はつい、人間の歌声に合わせて歌ってしまった。観察している時に何度も聞いた、人間が一番得意らしい歌。
私の歌声に気付いていただろうに、人間はそのまま最後まで歌を歌った。でも分かるわ。誰かと一緒に歌を歌う事は楽しいものね。
どうしてこの人間はずっとここに来るのだろうかと、ふと私は疑問に思った。人間はあの日からよくここに来る。ここには岩しかないし、歌の練習なら誰も居ないから丁度いいと思うけど、ここまで来るのは大変ではないのかしら。森は歩くのが大変だって聞いたのだけれど。そういえば、人間は歌う前に何かを探しているように見えた。もしかしてこの人間は--
「--私に会いに来ているの?」
私は岩から顔を出して人間を眺めた。人間はゆっくりと私の方を向いて、目を見開いてキュッと口を引き締めて立ち上がった。
「……ねぇ、い、一緒に! 私と一緒に歌おう!」
そうなのね。私の予想はあっていたみたい。いいよって私が返事すると人間は、アンがとても喜ぶものだから私もなんだか嬉しくって。
アンと一緒に歌う事が楽しくて楽しくて、毎日会いたいと一緒に歌いたいと思うようになった。
アンと私は一緒に歌う。知らない歌を歌い方を教え合う。私は次第にアンとずっと一緒にいたいと思うようになった。
海にアンが来てくれればいいのに。私はそう思ってしまったの。私はセイレーンの力を忘れていた訳ではない。だからいつも意識して力を抑えていたのに、私は失敗した。
「っアン!!」
海に落ちたアンが波にさらわれて、人が生きる陸から遠ざかっていく。血の気が引いていくのがわかった。私は急いでアンを海の上へ移動させて、呼吸させる。人間はなんて不便なんだろう。水の中で息ができないんなんて。
私はアンを海に攫われないようにしっかりと掴み、岩のところまで運ぶ。岩の上でアンは大きく体を動かしながら呼吸をしていた。
私はアンの背に抱き着いて離れなかった。このまま離れたらアンともう二度と会えないかもしれない、私の事が嫌いになったかもしれないと悲しい想像をして私はアンから離れることが出来なかった。
言い訳のように言葉を並べる私と、一生懸命呼吸をするアン。アンが動いたから、私は諦めてアンを解放した。
アンが私の手を握る。その手は冷たくて、とても弱々しいものだった。離れてしまわないように、両手で握りしめる。
「私、魔法使いになりたい」
「……え?」
私は理解した。何故アンがそんな事を言いだしたのか。アンの言葉に私の体は冷たいのに、胸の中が暖かくなったように感じた。
アンは、私を見ながら笑っていた。まだ私と一緒に居たいと思ってくれている事実に、私はまた涙がこぼれてしまいそうだった。
アンが帰っていくその後ろ姿を見ながら、私は思う。アンと一緒に居たいからといって、アンを海に連れていくだなんて私の勝手が過ぎると。アンは陸でしか生きられない。海の中では生きられないの。
ならば、私が陸に住めばいい。陸に上がったセイレーンは少なくない。人の足を手に入れるのはとても大変だと聞いたけれど、それでアンとここ以外でも会えるようになるなら、私はどんな苦痛でも受け入れよう。
私は次の日から、陸から帰省していたセイレーンに足を得る方法を教えて貰い、練習をした。
「ねぇ、貴女はどれくらいの期間で足を作れたの?」
私は問う。私の問いに彼女は嫌そうな顔をして答えた。
「個体によると思うけれど、私は魔力の扱いが下手だったから……人間で言う七、八年ってところかしら」
「それは長いの? 短いの?」
「人間にとっては長いかもしれないわね」
「そうなのね」
「セイミアは魔力の扱いが得意だから、私よりも早く出来るかもしれないわね。でも、とても痛いわ。痛みに耐えられなくて諦めるセイレーンは多いから。まぁ気長にやりなさいな」
「……えぇ。そうするわ」
魔力。それは大小はあれど全ての生物が持っている、生命エネルギー。魔力は海のように決まった形はないけど、体、器に合わせて形を変える。
逆を言えば、魔力の形を定めれば器はその形であると定めることが出来る。例えるなら影。右腕が無くなったとしましょう。でも地面を見ると右腕の部分に影があるならば、そこに右腕があるということになる。
何を言っているのかと私も思うけど、それ以上でもそれ以下でもない。魔力で補って無くなった右腕を作ることが出来るという事なの。
だから自分の影が人間の足に変わる様子を想像しながら、鰭の魔力を二つに分けて体を変えるの。人間の足をちゃんと想像しないとダメよ。
体を割いている訳だから、とても痛い。この痛みに耐えたセイレーンだけが、陸に上がれるの。
痛いのは人間の足を作るだけ。元の体に戻す時は痛くない。毎回痛みを感じるけれど、変える時だけだからそれさえ我慢すればいい。
そう教えてもらったけれど、やっぱり少し怖いわ。でもアンと一緒に陸で生きたいから、私は頑張るの。そう思えばこんな痛みなんて耐えられる。
私は毎日足を作る訓練をした。とても痛いし疲れるけれど、それでもアンに会いに行くことを止めなかった。アンと一緒にいたら疲れが無くなった気がして、また一緒に歌う事がアンの歌を聞く事が私の癒しであり幸せだった。
あの日から私は、話す事も歌う事もほとんどしなくなった。アンは残念そうにするけれど、アンに怪我をさせない為にはこうするしかない。私がどれだけ意識して声に宿る魔力を抑えても、限度がある。
何度も話してしまえば、またアンを海に引き摺り混んでしまう。私はもう声だけもアンへの想いを乗せてしまう。歌声なんてもっとダメよ。
でもアンと歌う事が好きだったから、時々小さい声で歌うの。これならまだアンは惑わされる様子もなく、大丈夫だったから。
ある日アンが、手作りのアクセサリーをくれた。可愛くて嬉しかったから、早速着けてみたらアンが凄く嬉しそうに笑ったの。頬を染めて、とても可愛らしかったわ。
アクセサリーは嬉しかった。アンからの贈り物で、しかもアンが私を想って作った物だったから。それに受け取った私を見るアンの表情が、いつも私を見る時とは違ったから。いろんなアンが見れて、私とても嬉しいの。
食べ物をくれた時も、人間の生活を教えてくれた時も、アンが私と居ない時も私を想ってくれている事実に、胸がいっぱいだった。
私から贈れる物は少ない。けれどアンに会う前に綺麗な貝殻や石を見つけてはアンに贈っていた。なのにアンったら、それらを使ってアクセサリーを作って私に贈ってくるのよ。
困ったけれどやっぱり嬉しくて、どれも私の宝物になった。
アンの好きなものを教えて。アンは普段どんな生活をしているの。アンの事を教えて。
アンは趣味が合うと言っていたけれど、アンの好きな食べ物もアンの好きな歌も、私は好きになるわ。だってアンが好きだから。アンが好き物はどうしても私の目には、素敵に見える。好きになってしまう。
だから教えて、アン。アンの全てが知りたいの。
今日もアンの歌声を聞いて、時々一緒に歌う。毎日会えればいいのに、こんな日々がずっと続いてくれればいいのにと私はいつも思っていた。
人間とセイレーンの寿命は違う。人間は短命種だからどう足掻いても、アンはあと数十年で死んでしまう。
でも大丈夫。アンが死ぬなら私も死ぬわ。本当は数百年だってずっと一緒に居たい。契約や眷属にしてしまえばアンは長生き出来るけど、それはやめておくわ。だってアンは人間だもの。人間なのだから人間として死なせてあげたいのよ。
この世に本当に神がいるならば、私は神を殺したいと思う。
アンの兄がアンからの手紙を持ってきた時、私はそう思ったわ。
「アンから、歌声を奪うつもり……?」
私は怒りという感情を理解出来なかった。今まで怒りを抱いた事が無かったから。でもこの時私が抱いた感情が、怒りだということはすぐに分かったわ。体が海底火山の付近の温度のように、一気に熱くなったから。
アンが前に持ってきた小説の一節に似たような表現があったことを覚えている。人間は凄いわね。こうも感情を適切に言葉で表現できるだなんて。私は怒りながらも人間の表現力に感嘆した。
アンの怪我が治るまで、アンの兄が言うには数ヶ月かかるらしい。数ヶ月ってどれくらいなの? 太陽が何回空の上に来たら、アンに会えるの?
分からなかったからアンの兄に聞いたら、教えてくれたわ。一ヶ月は四週間。一週間は七日あるから、七回空に太陽が登る。四週間なら二十八回。でもこの一ヶ月も月によって数が変わる。アンは首以外も怪我をしていて、骨が折れてしまっているらしいから、最低でも二ヶ月は来れないらしい。
アンに会えないのは残念だけれど、怪我は大変だわ。海の中で血を流したら、魚達からも狙われてしまう。これでうっかり魔法使いと出くわしてしまったら、逃げきれず殺されてしまうことでしょう。
アンの兄と別れて、私は海の中で黄昏れる。
「アンに会いたい……」
アンがここに来れないなら、私が会いに行けるようになればいいんだわ。早く足を作れるようになりましょう。そうと決まれば、私は住処に戻り足を作る事に集中した。
意気込んだところで、うまくいくわけではないの。数ヶ月経ったけど、私は結局足は作れなかった。アンはまだ来れないみたいだし、私の気分は憂鬱だった。
アンが来た。私は嬉しくて笑顔を浮かべたけど、アンの表情は暗かった。
掠れた声、残った傷跡。痛かったでしょう。怖かったでしょう。辛かっでしょう。なのに、アン。貴女は歌えない事に悔しがるのね。可愛い子。
アンに笑顔を戻すために私は、アンの両手を握ってアンに契約を持ちかけた。後ろに引かれた手を逃がさぬように、私は強く握る。
「--“お願いよアン。私と契約しましょう”」
魔力を込めて、私は声を出した。
アンはいいよって言ってくれた。私は笑う。美しさを意識して。
アン。私のアン。私も歌う事はすきよ。それにアンと一緒に歌う事が好き。アンの歌声を聞くことが好き。アンの話し声を聞く事も好き。アンの笑顔が好き。アンの事が大好き。
アンが話せなくってもいい。歌えなくてもいい。でもアンが悲しそうな顔をするのは嫌。だから受け入れてね。
私の隣で、いつものように笑顔を浮かべて。歌を歌って。




