第9話 Mon étoile(上)
舗装されていない獣道を、小さな足が踏み締める。歩き続けていると波の音が聞こえてきた。惹かれる様に駆け足になって、草木にぶつかりながら道を進む。
進むたびに潮の匂いが強くなっていき、道の終わりに辿り着くと視界いっぱいに海が広がった。小さな子の頬は好調し、初めて見た本物の海に興奮を隠しきれない。
服が汚れる事も厭わずに地面に膝をつき、地面の終わり崖の下を覗いた。高さはあまり無く海に近い。海と崖の間には岩が沢山あって、岩に強い波が打ち付けている。海に近付こうと降りれそうな場所を求めて、周囲を探索した。
探索途中、頬に冷たい感触があった。頬に触れると濡れていて、顔を上げるとまた冷たい感触が。これは雨。雨が降ってしまったのだ。今日は朝から曇り。きっと今日はこのまま天候が悪くなる事だろう。小さな子は良いところを見つけたと得意げに笑い、これ以上雨が強くならない内に帰ってしまおうと全力で足を動かした。
女性狩り。言い得て妙だが、一体何処の誰がそんな事を言い出したのだろうか。女性が何年減っていき、狂った人間達は女性を見つけたら連れて行ってしまう。母を妻を娘を、姉や妹を守る為に女性だけではなくて男性も減っていく最悪な現状。増えつつあった人口は、ヤジンの祖が誕生してからまた減少の一途を辿った。
母が亡くなりたった家族の中で一人の女性だった私を守る為に、人が五十人ほどしか住んでいない田舎の親戚が住む村へ私を避難させた。祖父と歳の離れた成人済みの次兄の三人で車に乗って、ガソリンスタンド以外で止まる事なく目的地まで走り続ける。私は窓から顔を出さない様にずっと横になり、車中を確認しようとする人がいたら息を殺して荷物の中に隠れた。
五歳の私には世の事情なんて理解出来なかったけれど、家族のずっと緊迫した雰囲気に私は呑まれて家族の言う事に素直に従った。近所に住んでいた年上の女の子が連れて行かれた時、その子の家族の絶望した顔を見て連れて行かれたらもう二度と会えないのだと幼いながらに理解したから。
いつしか人通りが少なくなって自然溢れる風景に変わり、祖父と次兄にもう座ってもいいよと言われてから数時間で、親戚の家に到着した。海と山に囲まれたこの田舎に、訪れる余所者は滅多に無いらしい。
「いらっしゃい。大丈夫だった?」
「あぁ。これからよろしく頼む」
「久しぶり。会いたかった」
「久しぶり」
「初めましてだね。アンちゃん」
「初めまして」
「アン、家に入っていなさい」
「うん」
出迎えてくれた親戚と挨拶を交わして、私は先に家に入った。祖父達が荷物を車から運び出す様子を家の中から見る。到着した時は既に日が落ちていて、着替えを渡されたらシャワーだけして私はその日はそのまま寝てしまった。
長時間の車移動で疲労していた私はぐっすり眠り、起きた時には昼過ぎになっていた。朝食ならぬ昼食をとり、部屋で自分の荷物を片付けた。服をクローゼットの中に入れて、持ってきた物をいい感じに配置する。するとドアをノックする音が聞こえてきた。
入っていいよと返事するとドアが開き、親戚のおばさんが顔を覗かせた。
「荷解きは終わった? 退屈でしょうから、一緒ににお菓子作りしましょう」
「うん! 作る!」
キッチンへ行って手を洗い、エプロンを付けて作る。何を作るのかとおばさんに尋ねたらカヌレだと答えた。私がカヌレが好きだと知っているらしい。嬉しくなって笑顔になると、おばさんも優しい笑顔を浮かべた。
作り終えたカヌレを食べて、外に出ていた祖父達に作ったのだと見せびらかす。頭を撫でられて、私は祖父に抱っこされる。私は祖父の膝の上祖父は椅子に座って、一緒に食べた。父と他の兄達が居ないのは寂しいけど、私はここで楽しく過ごす事ができそうだと思った。
ここに来てから二週間間が経つと色々違う親戚の家での生活に慣れて、外に興味を抱く様になった。朝食後に昼食前に帰る様に言われたから、次兄と一緒に最初は家の周辺。ちょっとずつ行動範囲を広げていって、一人で探索できる様になると私は山の中に入った。
村の人々が使う山道から離れた場所で、私は獣道を見つけた。私に進まないと言う選択肢は無く、意気揚々と進んでいった。長い道だったけれど途中から潮の匂いがしてきて、海の近くなのだと分かり歩きから走りに変えて道を進む。視界を遮る草木が無くなると、私の視界の先に海が広がった。
海に近かったから海に降りようと思ったけど、小雨が降り始めたから諦めて家に帰った。私は雨が止んだらまた来ようと決めて、高鳴る気持ちを何とか抑えた。
「気をつけるんだよ」
「はーい!」
ここに来て半年。もうあの小さな崖に行く道を歩くのは慣れたもので、ほぼ毎日遊びに行く。おばさん達も連れて行ったり、そこで次兄と時々遊んだりした。同年代の子供はこの村には居ないから、私はほとんど一人で遊んでいる。最近は人魚姫に憧れて、歌を歌っている。
人魚姫は歌が上手だから上手に歌える様に練習をするけど、ちょっと難しい。今日はもう帰ろうと立ち上がり、帰り道を歩く。すると海の方から歌が聞こえてきた。私がいる場所から遠いみたいで、歌声は小さくて最初は気のせいかと思った。でも耳を澄ますと歌声が聞こえたから、近くで聴きたくて歌声の方向へ走った。
近付く度に歌声がどんどん大きくなっていったから、歌声を止めてしまわないようにゆっくりと歩く。歌声からすぐ近くの木の後ろに隠れて、頭だけ出して様子を伺う。歌声はまだ聞こえるのに、ここから見える範囲には誰も居ない。どうやら歌声は岩の後ろから聞こえてきているらしい。
でも岩がある所は海だ。下まで降りた人が居るのかと私は疑問に抱いたが、歌声が止まるまで木の後ろに隠れ続けた。私と同じくらいの子供の様な歌声だが、とても美しい歌声だった。ずっと聞いていたかったけど、これ以上は暗くなって心配をかけてしまうと思った時に、歌声が止んだ。
ゆっくりと木の後ろから顔を出して、岩を注視する。すると岩の後ろに何かが動いて見えた。意を決して木の後ろから出て岩に近寄った。きらり。傾いた日の光に反射して何かが光った。それを見てつい走ってしまった私は、見た。
波に消えていく、映画で見た人魚姫と似た尾鰭を。
「わぁー! 歌っていたのは人魚だったんだ! 人魚は本当にいたんだ!!」
人魚を見れて大興奮な私は、家まで全力疾走して帰って早々みんなに話した。みんなは一瞬難しい顔をした後、それはよかったねと言ってくれたがもうあの崖には遊びにいっては行けないと言った。何故と私が問うと、危ないからとみんなは言うの。
次の日も私があの崖へ行こうとするから、他の場所へ行こうと連れて行かれて暫くはあの崖に行かなかった。一人で家の周辺以外を外で遊ぶ事が出来なくなった私は、考えた。あの崖に興味ないふりをすれば、また一人で遊べる様になるのではないかと。それでバレないように、あの崖に行こうと決めた。
人魚が居なくなっていないといいけどと思いながら、私はやりきった。一年かかってしまったが、私また一人で外を遊ぶ事が許された。だからといってすぐにあの崖へ遊びに行けばバレてしまうかもしれないし、そうしたらもう二度と一人で外を遊んだらダメだと言われるかもしれない。
私は早る気持ちを頑張って抑えて、さらに数ヶ月待った。私がすっかりあの崖を忘れていると思っているみんなに、バレない様に慎重に家を離れる。目的地は別の所だよと言わんばかりの顔をしながら、あの崖に続く獣道を目指す。最後に来た時よりも草が伸びた獣道を前に、他に人がいないか周辺を見渡す。
私の足は止められない。獣道に一歩踏み入れると同時に、私は走っていた。
走る私の耳に、あの時よりも成長した歌声が届いた。上手で綺麗で美しい歌声。道を抜けて私は走った勢いそのまま、歌声の近くに飛び出していた。見えてきたモノに私は、ポカンと間抜けな顔をしてたと思う。
小さな星々の様なキラキラな髪飾りを付けた、日に照らされ輝く濡れたオルセーユ色の髪。私を見て驚いたのか、見開かれたカラメル色の目がよく見えた。海の中に住む人魚だからか血色感は良くなかったし、服は着てなかったけど装飾品を体にいくつか付けていて可愛かった。歌声の持ち主は、私と同じくらいの小さな人魚の女の子だった。
数秒見合うとハッとした表情をした彼女が、バシャンっと音を立てて目の前から消えた。海に戻ってしまったらしい。慌てて駆け寄ったが彼女はもう居なくなっていた。私が飛び出したからだと後悔と歌声が聞けない事に残念な気持ちになって、しばらく地面に座り込んで項垂れていた。
数分そうしていたけど折角ここに来たのだからと、私は歌の練習を始める。家でも沢山歌って、歌が好きらしいおばさんと一緒に歌う練習を今までしてきたから、初めてここで歌った時よりも私の歌は上手くなっている。彼女の様に、私だって歌が上手くなったのだ。
それから毎日ではないけど崖に行き歌を歌った。彼女が来ていたらいいのにと期待を胸に抱いて、私は今日も獣道を歩いた。強い風が私の髪を揺らす。彼女は今日も居なかった。肩を落として崖に腰掛け、波の音を聞きながら歌う。
歌の途中、声が重なった。彼女の歌声だ。私は歌う事を止めて彼女を見たくなったが、一緒に歌ってくれることが嬉しくてただ真っ直ぐ海を見ながら歌う。何故一緒に歌えるのかと思ったけど、私が気付かなかっただけで、彼女は近くに来ていたのかもしれない。私は同じ歌をずっと歌っていたから、だから彼女は覚えてしまったのだろう。
歌の終わりを迎えると、当然だけど歌声が止む。また歌えば一緒に歌ってくれるかもしれないと思ったけど、彼女をもう一度見たいという思いが強まってしまい、私は岩の方を見た。
ぱちっ。目が合った。彼女がジーッと岩から顔を出して私を見ている。お友達になれるかな。お友達になればまた一緒に歌ってくれるかもしれない。そう思った私は、意を決して彼女に話しかけた。
「……ねぇ、い、一緒に! 私と一緒に歌おう!」
「……!!……いい、よ」
「本当!! やったー! 私はアン! アンよ! 貴女の名前は?」
「私はセイミア」
「セイミア? 可愛いね!」
「……ありがとう」
セイミアはゆっくりと岩の後ろから出てきて、崖に近い岩の上にのぼった。セイミアの全身が見える。本当に人魚だった。
「うわぁーあ!」
つい出してしまった大きくなってしまった私の声に、ビクッと体を揺らしたセイミアに私は慌てて話しかける。
「可愛いと! 可愛いと思ったの!!」
「!……私も、アンの事可愛いと思うわ……」
「え! 本当!? 嬉しい!! へへへ」
「うん。海みたいな髪。私好きよ」
「へへへー」
可愛いセイミアに可愛いと褒められて、私の頬は緩んでしまう。いろいろ聞きたいことはあるけれど、名前を聞いたし一緒に歌ってくれるって言うから、もう私とセイミアはお友達だよね。明日だって会えるよね。聞きたいことは今後聞こうと決めた私は、歌を歌う。
セイミアも一緒に歌ってくれて、とても嬉しかった。歌い終わったらお互いの知っている歌を教えたり、歌の練習をした。
時間が経って、青空が夕空に変わった。ずっと歌っていたから少し声が出しづらくなった。今日はここまでにして、私は帰る事にした。
「今日はありがとう、セイミア。楽しかった! 私もう帰るね」
「うん。アンと一生に歌うの、とても楽しかったわ」
「私もよ! また一緒に歌おう! 明日も来るから」
「うん。私も明日ここに来るわ。アンを待ってる」
「またね、セイミア!」
「またね、アン」
腕を伸ばしてぶんぶん振る私と違って、セイミアは控えめに手を振った。ふにゃあと笑うセイミアが可愛くって、そんなセイミアと明日も会える嬉しさで笑みが止まらない私は、スキップしながら帰った。
家に着く前に顔を引き締めて何もなかった様に振る舞ったつもりだったけど、どうやらみんなにはバレバレだったらしい。詳しいことは聞かれなかったけど、良いことがあったんだねと言われた。私は満面の笑みで肯定した。
次の日もその次の日もさらにその次の日も、あの崖に行きセイミアと歌った。気が付けばもう一年も経っていた。ずっと歌って練習していたから、私とセイミアの歌が上達している。特にセイミア歌声は、それはもう美しかった。歌声に惹かれて私は四六時中、セイミアの事を考えてしまっていた。
そんなある日、私は知った。
私はセイミアを映画で見た人魚だと思っていたけど、実際は違った。セイミアはセイレーン。美しい歌声で人を惑わし海に引き摺り込む、海の怪物。人を惑わす力はセイレーンの声に宿る力。歌が上手くなくても会話するだけで、人を惑わす事が出来る。でも歌が上手くなくてもいいその力を、十分に発揮するには歌が上手くなくてはいけない。
セイミアの歌声は力を十二分に発揮できるほど、美しくなってしまっていた。
セイミアには私を惑わすつもりなんて無かったと思う。けど崖の上と下、最初と比べれば近いけれど縮まらない距離。セイミアは私に近付きたくて、無意識に私を惑わせた。いつもより水嵩が増している海、元々海に近かった小さな崖から落ちたら、私は瞬きの間に海の中に入ってしまう。
ジャッバーンッ。正気に戻った時にはもう海の中で、パニックになった私は冷静さを失い腕と足を出鱈目に動かした。沢山の海水を飲み息が出来なくて意識が遠のいた時、泣きそうな顔をしたセイミアが見えた。
背中にセイミアの腕が回され、体が浮上する。海面から顔を出た私は、ゴホッゴホッと激しく咳き込んだ。セイミアによって岩場まで運ばれた私は、海の中で体力を使ったからぐったりと岩の上に横向きで寝そべった。そんな私をセイミアの腕が捕まえていて、離れそうにない。
ぎゅうっとセイミアの腕に力が込められた。苦しい。力を緩めてと言える体力が私にはまだ戻ってなくて、私は後ろからセイミアに大人しく抱きしめられていた。濡れた体が冷えて震えているのか、セイミアが震えてるその震えが私までも震わせているのか、それとも両方なのか分からないけど私は震えていていた。
「ごめんなさい……私……ごめんなさい、アン」
私の肩に顔を埋めたセイミアが、私に謝る。
「私セイレーンだから、今までアンが、大丈夫だったから……」
あと少しで八歳になる私はまだまだ知らない事の方が多いけど、理解出来た。次兄がこっそりと何故崖に行ってはいけない理由を、そしてこの地方に住むセイレーンについて教えてもらったから。
セイミアの手を握って私は、口を開いた。
「私、魔法使いになりたい」
「……え?」
「魔法使いになれば、セイレーンの歌声に惑わされなくなるでしょう」
「確かに……魔法使いは魔法を使うから、無効化出来るって聞いたけど……」
「今からでも、なれるかなー?」
「どうだろう、魔法使いってどうやったらなれるんだろう……」
私は仰向けになって、セイミアを見る。セイミアは、私が仰向けになったから、上半身を起こし私を見下ろしている。体力が戻ってきた私は立ち上がり、崖を登った。
「気をつけてね」
「すぐに上に着くから大丈夫!」
全身びしょ濡れだから、みんなに誤魔化すのが大変だ。でもこの崖ではない他の場所に、海に入れる所がある。そこは何度もみんなと行った事があるから、そこで足を滑らせたと言う事にしよう。風邪ひいたらいけないし、今日は帰る事にする。
無事に小さな崖を登りきって、不安そうに私を見上げるセイミアを見下ろす。
「今日はここまで! 気にしないでねセイミア。私大丈夫だから! 風邪引く前に帰る。またね!」
「うん……またね!」
珍しく声を張ったセイミアに、笑顔で手を振って私は帰った。家に帰ってみんなに考えといた理由を話すと、ちょっと怒られた。でもそれ以上に心配をされて、私は少し良心が痛んだ。お風呂に入って体を温めたら、ちょっと早めの夕食を食べた。
魔法使いではないただの人間の私は、きっと今後もセイミアとの歌を聞き続ければ、いつかまた同じ事になってしまう。どうしたらいいんだろう、私には何の解決策も思い浮かばなかった。
あれからセイミアは、私の前で歌ってくれなくなったし、あまり話してくれなくなった。私の事が好きだから、また無意識に力を使ってしまうかもしれないと思うからと言って。
セイレーンの力は声に宿る。だから仕方がないと思うけど、セイミアの歌声が好きだった私は悲しい気持ちになった。
セイミアが私の為を思ってそうするなら、私はセイミアの意志を尊重しよう。これで会えなくなるのは嫌だから、私の歌を聞きたいと言うセイミアの願いに応えて、私は今日もセイミアの為に歌う。またいつか、一緒に歌える日を願って。




