第9話 共同兵器研究室
第6章 雷の設計図
ユイが〈トリアド〉の提案書を書き上げてから、一か月が過ぎていた。
限定運用試験の承認は下りた。
三体を一単位として運用し、個体ごとの戦闘能力ではなく、作戦完遂率と帰還率を同時に引き上げる。ユイが記録から拾い上げた仮説は、数字と図表と承認印に囲まれて、別の誰かの机の上を渡り歩いている。
それでも、帰還個体数:1という数字だけは、書類の中に沈んだまま消えなかった。
朝食の皿を並べるユイの手順は、いつもと変わらない。
カップを置く位置も、マルコが勝手に使う端末を避けて置く角度も同じだった。共同居住区の窓際には、薄い朝の光が差し込んでいる。セレーネの人工天候は、今日も丁寧に穏やかだった。
ただ、返事が半拍だけ遅い。
「ユイ」
「ん?」
呼びかけると、彼女は顔を上げた。
笑っている。
いつもの笑い方だった。明るく、少しだけこちらをからかうような、場の温度を上げるための表情。
「いや」
ハルキは、言いかけた言葉を飲み込んだ。
大丈夫か、と聞くことは簡単だった。
だが、その問いはたぶん、正しい形をしていない。
一か月が経った。
沈黙は消えた。日常も戻った。
ただ、数字だけが残っている。
「何よ、変な顔して」
「変な顔はしてない」
「してる。なんか、分析端末みたいな顔」
「人間の顔に対する表現としては、かなり悪い」
ユイは小さく笑った。
ハルキも、それ以上踏み込まなかった。
テーブルの向こうで、マルコがカップを持ったまま欠伸を噛み殺している。
「朝から空気が重いな。誰か重力設定いじったか?」
「マルコが昨日、端末を机に置いたまま寝たからじゃない?」
「オレの端末は空気を重くしない。せいぜい、周辺機器の寿命を縮めるだけだ」
「それはそれで駄目だろ」
ハルキが言うと、マルコは肩をすくめた。
軽口は軽口のままだった。
けれど、マルコもあの記録を笑い飛ばすことはなかった。
リディアの過去を、誰も正面から口にしていない。
優しさではない。
まだ、言葉にするための形がないだけだった。
居住区の端末が、短く鳴った。
来訪通知。
表示された名前を見て、ユイが先に言った。
「アルシアさんだ」
扉が開く。
アルシア・ルーメンは、いつもどおり整った姿勢で会釈した。
「おはようございます。皆さん、朝食中に失礼いたします」
「おはようございます、アルシアさん」
ハルキは立ち上がった。
アルシアの手には薄い端末板がある。紙ではない。だが、彼女が持つと、なぜか書類の束に見える。
「本日は、ハルキさんの行動制限変更についてご説明に参りました」
行動制限。
この共同居住区では、珍しくない言葉だった。
保護。
観測。
暫定登録。
行動範囲。
セレーネの言葉は丁寧で、滑らかで、どこか冷たい。
自由を与える時でさえ、まず制限の形で語られる。
「変更というのは」
「ハルキさんの行動制限は、研究協力に必要な範囲で拡張されます」
拡張。
制限が広がる。
奇妙な言い方だった。
「研究協力、ですか」
「はい。共同兵器研究室における、客員研究協力者としての限定権限が付与されます」
マルコの手が止まった。
ユイも、カップを持ったまま瞬きをした。
ハルキは、端末板に表示された文字列を見た。
共同兵器研究室。
兵器。
その語だけが、朝食の空気に合っていなかった。
「共同研究室、というのは……どことどこの共同なんですか」
「セレーネ高次科学庁と、アルマダ・ルナリス兵装開発部門です」
「アルマダ・ルナリス……軍の部署ですか」
「はい」
「オレんところ?」
マルコが軽く眉を上げた。
「厳密には、マルコさんの所属部門が協力機関として指定されています」
「なるほど。オレの知らないところで、オレの仕事が増えてるわけだ」
「研究協力者としては、適切な処理です」
「その“適切”って言葉、便利すぎないか」
マルコは口では文句を言ったが、声に本気の拒否はなかった。
技術の話になると、彼はよくそういう顔をする。
眠そうで、軽い。
だが、奥だけが冷えていく。
「私だけ仲間外れ?」
ユイが、少しわざとらしく手を上げた。
アルシアは、端末板を確認する。
「いいえ。ユイさんは、結果を出しすぎました」
「……嫌な言い方」
「戦術分析部門が、ユイさんの異動に対して異議を申し立てております」
ユイの表情が止まった。
「主任め……」
「高く評価されている、という意味です」
「評価って、便利な拘束具なんだね」
「ご不便があれば、異議申し立てに対する異議申し立てを提出できます」
「それ、たぶん終わらないやつ」
ユイは笑った。
だが、その笑いは、今朝でいちばん自然だった。
ハルキはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
この社会では、価値があるものほど丁寧に囲われる。
ユイの異動に対する異議申し立ても、たぶんその一つなのだろう。
「研究室への移動は、本日午前中です」
アルシアが続けた。
「本件は、科学庁長官承認済みです。詳細な承認理由は、現在の閲覧権限では開示されません」
長官承認済み。
素直に喜ぶべきか、より丁寧に管理される側へ移されたと見るべきか。
ハルキには、まだ判断がつかなかった。
「研究内容は」
「初期説明は現地で行われます。概要のみ申し上げます」
アルシアは端末板の表示を切り替えた。
「高出力個体用近接兵装の実用性検証。および、対アラミタマ戦闘におけるコア破壊能力の向上」
アラミタマ。
コア。
ハルキの脳裏に、あの記録が戻る。
白灰色の球状コア。
六本の脚。
青い単眼。
脚を断たれても、別の躯体でまた開く眼。
関節は壊せる。
外装は割れる。
だが、群れは止まらない。
中枢を沈黙させなければ、戦場そのものが終わらない。
「リディアの記録を使うんですか」
「使用記録には、対象名は記載されません」
アルシアは丁寧に答えた。
「分類上は、高出力個体です」
名前を消せば、個人は分類になる。
分類にすれば、扱いやすくなる。
それがセレーネのやり方なのだと、ハルキは少しずつ理解していた。
「行きます」
ハルキは言った。
マルコがカップを置く。
「オレもか」
「マルコさんは、既に参加者として登録されています」
「確認じゃなくて通達だった」
「はい」
「そこで素直にうなずくなよ、アルシアちゃん」
アルシアは、少しだけ首を傾げた。
「通達文の形式としては、適切です」
「やっぱその言葉、便利すぎる」
ユイが笑った。
ハルキは、その笑いを聞きながら、端末板の研究命題に視線を戻した。
高出力個体用近接兵装。
アラミタマ・コア破壊能力。
そこに、リディアの名はない。
だが、誰のための兵装なのかは、全員が理解していた。
アルマダ・ルナリス共同兵器研究室は、共同居住区から二つの管理区画を越えた先にあった。
移動経路は清潔だった。
壁は白く、床は曇りのない灰色で、曲がるべき場所にだけ淡い光が走る。
綺麗すぎる場所だった。
美しさよりも、管理のしやすさが先に立つ。
アルシアが先導する。
その後ろに、ハルキとマルコ。
ユイは途中の分岐で別れた。
「夕方には戻るから」
ユイはそう言った。
「戻らなかったら、主任と数字に負けたと思って」
「笑えないな」
「本人はけっこう笑ってるんだけどね」
彼女は手を振り、別の管理区画へ入っていった。
その背中は軽く見えた。
軽く見せているのだと、ハルキは思った。
*
研究室に入る前、マルコはロッカーから一着の白衣を取り出した。
白衣、と呼ぶには少し暗い。
灰色だった。
清潔な白と銀で統一された研究区画の中で、その色だけがわずかに浮いて見える。
「マルコ技術協力員、その白衣は標準色ではありません」
近くの研究員が言った。
マルコは灰色の白衣に袖を通しながら、面倒そうに片眉を上げた。
「科学は白でも黒でもよくねぇ。灰色がちょうどいいんだよ」
「服装基準の話です」
「思想の話にしとけ。その方が通りがいい」
ハルキは、そのやり取りを見ていた。
共同居住区で軽口を叩いている時とは違う。
白衣の色はふざけているようで、本人の目だけは仕事をする者のものに変わっていた。
共同兵器研究室の扉は、厚かった。
圧力隔壁のような構造があり、内側の空気が違うことを、入る前から示している。
認証光がアルシアの掌をなぞった。
扉が開く。
中は、広い。
壁面には大型端末が並び、中央には複数の固定架台が設置されていた。白と銀の設備の中に、黒い遮蔽槽が沈んでいる。床面には赤い誘導線が細く走り、特定の区画だけが低い警告光を帯びていた。
研究室というより、武力の沈黙を保管する場所に見えた。
ここは、地球奪還のための兵器を作る場所だった。
正面端末に、研究命題が表示されている。
研究命題:
高出力個体用近接兵装の実用性検証。
主目的:
アラミタマ・コア破壊能力の向上。
文字列は短い。
短いからこそ、余計な感情がない。
ハルキは画面を見た。
記録映像が呼び出される。
地球の荒れた街。
白灰色の球状コア。
六本脚の機動体。
青い単眼。
止まったはずの個体から切り離されたコアが、別の機体に回収される。
脚部は砕けていた。
関節も落ちていた。
それでも、青い単眼だけが、まだこちらを見ていた。
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